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[旧佐賀市][開成校区]は55件登録されています。
旧佐賀市 開成校区
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権現神社(権現さん)
開成二丁目の権現社の創建の年は定かではないが、ご神体に安永8年(1779)創建の記録があるところから推察すれば、享保12年創建の記録がある開成三丁目のお地蔵さんより以前の享保年間初期(1716)の頃に新村の創始者達により新村の鬼門の守神として祀られたものと推察される。 昔、村内の若者たちが軍隊入営や太平洋戦争に出征する時には、村民総出で社前で盃を酌み交わし武運長久を祈り、社前より日の丸の小旗を振り軍歌を歌いながら鍋島駅まで見送りしていた。 また、凱旋、退営の場合も村民と共に社前に額づき無事の帰還を報告していた。その後戦争が激しくなり、凱旋する者もなく終戦での報告会はなくなった。 また、境内の北の堀端には直径1m以上、高さ約40mの松の大木があり、その天辺に太平洋戦争期間中、日の丸の旗が掲げられ、出征兵士の武運長久を祈って、はためいていた。 当時は、見渡す限りの水田地帯で、遠くから日の丸の旗を見ることができ、鍋島駅からの出征の時には、遠く汽車の窓から見て涙したことが思い出される。 昭和20年の終戦を期に日の丸の旗は降ろされ、また、松も昭和23年の台風と松食い虫により枯れてしまった。戦後の混乱期とはいえ何か手当てが無かったかと、悔やまれてならない。 また、各家では鬼門(家の北東)の方に家の中央さんやお稲荷さん等の石仏を厄除けに祀る風習があった。近年は昔のような信仰心も薄れ、祀ることが大変で粗末に成るので、権現社の境内が神域ということで、大松の根元辺りに預けてお祀りしてあった。また、自分の屋敷内の大きな樹木を切る時には、その樹木の代わりに小さい木を境内に献木として植えて、自分の家の切る木の霊を慰めていた。
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石水禅寺
金峰山石水禅寺は曹洞宗のお寺である。 現在の石水寺は檀信徒の浄財によって、昭和62年11月に改築された。その折に元禄時代(1688〜1703年)の墓が発掘され、この地に墓所があったことが判明した。 また、古文書によれば当時、川上村(大和町)の豪族松本氏が庵を寄進し、開基したと記されている。今回の調査をきっかけに当時の過去帳が発見され、松本氏が亡くなったのが、延寶年間(1673年頃)ということが判明した。 よって、寺の起源は、その頃の開基であることが明らかになった。寺は開基より石水庵として無住職の時代が長く続いており、古い美術品は残っていないが、本尊は金箔塗りで60cmの観世音菩薩である。年代はよくわからないが、数百年は経っているものと推測される。 また、本堂西側には「お大師堂」があり、佐賀県第6番札所として、両彼岸にはお遍路さんによる供養があり、大変御利益があるそうである。そして、檀信徒のみならず、一般の人々の参詣も多い。4月8日には「花まつり」が行われ、甘茶が振舞われ、この日は近所の人で賑わう。その他古い石造物として、石灯篭、水盤、地蔵尊、馬頭観世音などが石造物として残存している。
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日子神社(権現さん)
歴代の佐賀藩主は、豊前(福岡県田川郡)にある英彦山権現を信仰していた。藩主は英彦山権現の信仰を広げ、幕末になると佐賀藩では他領の神社や寺院への参拝を禁止したが、伊勢大神宮や英彦山参詣は例外として許された。 従って、八戸溝の人々は、英彦山や伊勢大神宮詣でをするようになり、八戸溝に氏神として「日子神社」を建立したものと思われる。「日子」と言うのは「英彦」の俗字(あて字)であり、英彦山権現のことであり、祭神「日子」は天照大御神の子、「天忍穂耳命」のことであると言われている。五穀豊穣の神であり、特に農民に信仰が厚かったようである。日子神社の当時の神殿の面影は現在見られないが、祭神の石祀の両扉には佐賀藩の家紋が刻まれている。それは、歴代の藩主が英彦山権現の信仰布教に力を入れた現われと思われる。 石祀には建立年代が明治35年となっているが、境内西側の正面鳥居の建立は、安政5年(1858)となっており、石祀銘文の年代以前の藩政時代に建てられたように思われる。境内には、古い石祀が数基あり、日子神社とのかかわりがあると思われてならない。 古老の話によると、「昭和の初めの幼い頃は、日子神社社殿のお堂の上でよく遊んだし、第55連隊のラッパ手は、雨が降ると雨宿りをしていた」と語っている。その後、老朽化に伴い、昭和61年現在の銅葺きの社殿が、浄財によって再建されている。 また、日中戦争や太平洋戦争で出征するときは、武運長久の祈願と壮行式が八戸溝町民によって行われた。
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日子神社の肥前鳥居
形式は肥前鳥居である。 肥前鳥居は肥前を中心として江戸初期に大部分が建立されている。また、藩主や領主層、寺などから寄進されたのが多く、銘文等立派なものが多く、鍋島町内の各所にも多く見られる。 ○ 銘文 安政5年(1858)丙辰十一月吉日氏子中 額束:玄妙山
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日子神社の大神宮塔
日子神社境内の北側に2塔設置してある。2塔共に「天照皇大神宮」の銘が刻まれている。 東側の塔は、建立年代は、「元禄」の文字しか読み取れない。年代は、1600年代に建てられ、下の部分に、施主15名の氏名が刻まれているが、土中に埋まり読み取ることが難しい。 西側の塔は、さらに年代が古く、天照皇大神宮の銘がやっと読み取れる程で、施主名も10数名刻まれているが風化して読めない。 県内では、伊勢皇大神宮を信仰する伊勢講が盛んに催されるようになり、講仲間では、資金を積み立て講金を路銀にあて、講仲間の数だけ神札を受け、帰村して配付した。また、路傍の田で新しい稲の品種を見かけたら持ち主から種籾をもらい受け、上方の文化と共に全国に普及していった。 境内にある大神宮塔は、代表で参詣に行った記念塔として建立したものである。 伊勢詣りは別名「おかげ詣り」と呼ばれ、60年毎に爆発的に流行した。これは、当時の封建政治に抑圧された庶民の対抗的な集団行為ともとらえられた。
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日子神社の薬師如来・阿弥陀如来・十一面千手観音
日子神社の薬師如来・阿弥陀如来・十一面千手観音が日子神社の南隣に安置されたのは、昭和53年3月のことである。その後、昭和61年3月に銅板ぶきの屋根に改築され、北隣りの日子神と同じ屋根の下に祀られている。 八戸溝町内を初め、町区外にも熱心な信仰者がおられ、善男善女の参拝者が絶えない。 また、薬師如来は、万病を治し、人の寿命を延ばし医薬をつかさどる仏様と言われている。
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日子神社の正一位松ノ森稲荷神社
朱塗りの社殿と鳥居は木造建立で、石祀がないため年代、建立者は不詳である。 拝殿の中には布に包んだ神霊と白狐の像が祀られている。年代は相当古く参拝者が毎日絶えない。木造のため、昭和53年4月信者一同によって鳥居などが改築されている。 銘文 額束:正一位松ノ森稲荷大明神 稲荷神の民間信仰は全国的であり、本来は稲の神様のことである。いわゆる「稲荷」とは、「稲生(いななり)」からきたという説である。そして、穀物の神で食物を司る神のことである。その神の原点は、インドの神ダキニシンが、本地仏と信じられ、仏教を守護する善神として受け入れられた。(もとは悪神)ダキニシンが乗っているのが白狐で、日本では俗言として、狐を神秘的な霊力を有する神聖な動物と言う信仰があった。これが、稲荷と白狐の結びつきと思われる。 稲荷神の民間信仰は全国的であり、今まで災いを除き福を授ける開運の神として江戸時代の頃から今日まで個人の自宅に祀られている。 また、狐にまつわる面白い話がある。稲荷社の正殿には狐像を安置してあり、狐が大好きな油揚とか、生魚、生卵を供える風習がある。油揚に包んだ鮨を稲荷鮨とかお稲荷さんと呼んでいるのも面白い。 境内には2塔の稲荷社(森山稲荷、石森 正一位稲荷大明神 勝軍)と整形水盤が奉納されている。
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金刀比羅大権現社(友貞邸の南東の隅)
ご霊神は、四国の金刀比羅社の分霊を祀ってある。ご祭神は海運の守護神である。友貞一夫氏の談によれば、「父などが、八戸溝の地を離れて、海軍に出征する際の武運祈願のために建立された。」と語っておられる。 現在は、近所の人をはじめ、昔からの熱心な信者のお参りが後を絶たず、家運、家内安全の神としても崇敬されている権現社である。建立年代は大正か、昭和の初期か定かではない。また、昭和57年信者の浄財により社殿は改築されている。 銘文は、金刀比羅大権現社。
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若宮社
地元の古老の話では、「昔流行病で多くの子どもが亡くなり、また、水死事故も相次いだことから、地域の人は現在地に神仏を祀ることにした」といわれている。 昔は、べんじゃさん(弁才天)と言っていて、河川を神格化した女神で、弁天の祠が水辺に多くあるのは河川の神であったことに由来している。 また、天神さんも祀られており、お祭は、毎年12月の第2日曜日に行われる。 その他境内には、肥前鳥居「若宮社」があり、慶應4年(1868)西八田村中とあり、当初江頭公民分館前にあったのを大正14〜15年頃に現在地に移されている。 また、石塔としては、「猿田彦太神」安政7年(1860)、「馬頭観世音菩薩」明治14年 (1881)3月吉日 、「北星妙見菩薩」明治30年(1897)3月吉祥日が設置されている。 木仏としては「妙見菩薩」があり、妙見菩薩は、国土を守護し、災いを消し、敵をしりぞけ、福寿を増す仏とされている。
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江頭山長寿庵
開山は、川上の水上山萬寿寺9世、勅賜天享宗儀禅師(竜造寺康家公5男)で、現在、臨済宗で 大本山南禅寺に属している。
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お観音さん前の樋門
開成二丁目にある幹線排水路の井樋は、お観音さん前にあり、新村川と立体で交差している。立体に交差している所は沖田の長堀の井樋と2ヶ所で、この井樋は昔排水路の底が高くて冬の渇水期は水の流れが無く、主に洪水時の予備排水路として使用されていた。
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鍋島役場跡記念碑
明治22年の市町村制に伴って村制施行の庁舎が必要となり、大正2年に当地に建設された。昭和29年佐賀市と合併するまで、35年間、同敷地内に農会(後産業組合後農協)、養蚕組合など鍋島村の重要施設が有った。合併後は支所、出張所、連絡所などを経て、取り壊され土地は民間に払下げとなり、現在角地に記念碑が設置されている。
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北部バイパス(国道34号線)
国道34号線の交通緩和のため北部バイパスが計画され、昭和46年12月に兵庫町より三日月町間が、昭和49年4月に牛津までが全面開通した。 また、西部環状線が計画され、昭和51年完成した。昭和46年7月に都市計画の線引き(市街化区域と市街化調整区域の線引き)がなされ、そのために新村地区(開成2〜6丁目)は急速に発展した。
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西部環状線(国道208号)
昭和51年7月に西部環状線として北部バイパスまで開通し、平面交差で交っていたが、翌、昭和52年12月佐賀医科大学開校の為、市道医大道路として拡幅、開通となり、北部バイパスと立体交差する事に成った。それに先駆けて西部環状線以東及び北部バイパス以南が市街化区域の指定となり急速な発展をとげた。
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六の角の井樋(アルタ東)
お観音さん前の井樋の上流、ショッピングセンターアルタの東に在る井樋で、上流は戦前、植木川の傍まで伸びていた。この井樋は野越し井樋になっていて、底井樋は常に閉められ野越し部分で水の調整がなされる。成富兵庫茂安の考案と思われるが佐賀には、こんな樋門が姿形を変えて、あちらこちらに見ることが出来る。
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長堀の井樋
開成6丁目の中央の新村川と立体交差している井樋である。新村川が人工河川である証拠でもある。昔は掘の幅も広く草等無く新村の幹線排水路として大事に管理されて来た井樋と水路である。この井樋を締めれば、上流の旧新村の地域内の堀の水は下流には全然流れない。5月頃田植が近づけば、井樋は締められ、井樋番がきめられていて、洪水となれば速やかに開放される。
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お地蔵さん(地蔵尊)
旧新村の地蔵尊の由来は定かではないが、元禄年間(1688〜1704)、中御門天皇の享保12年(1727年)に、この地の先住人達が佐賀の城下町に通じる道端に、家族の無病息災を願って、地蔵尊を建立し、祀ったのが起因と考えられる。 その後、明治12年に当地の住民の善意でお堂が建立され、明治25年2月に弘法太師像が合祀され、その時に天井絵馬が奉納された。 それ以来、佐賀、新四国13番札所として、春秋の彼岸には百数十人の善男善女のお遍路さんの巡礼があり誠に大盛況であった。 その後、お堂の痛みも激しく、天井絵馬も剥げ落ち老朽化したので、昭和42年5月に地区住民の善意により改築がなされた。平成9年3月、佐賀市都市計画道路建設の為、前場所より150m南の旧新村公民館跡地に移転新築され、前回の改築の時に天井絵馬は廃止されていたが、今回は明治の建立に習い、住民の善意の寄進により天井絵馬が復元された。 当地蔵尊は、由来記に述べられているとおり、藩政時代の昔から、村、内外をとわず一般の信者の参拝も多く何時も花や線香の絶えた事がなかった。夏祭り(ぎおん)は、旧暦の6月24日に町内の高等科の生徒(現中学1,2年)主催で権現さんと同じ要領で行われていた。 村内の婦人達や太子講の方々の善意でお遍路さんの御接待が行われていたが、現在は老人会や奉賛会の方々等の協賛で、お彼岸の日に本願院の和尚さんを迎え、家内安全と無病息災を祈願して盛大な法要が行われている。
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お観音さん(馬頭観音)
お観音さんは、お地蔵さんのお遍路道にあり、お地蔵さんと向き合ってお祀りされている。本尊は馬頭観音で、創建は記録が無く、定かではないが、お地蔵さんと同じ頃に新村の創始者達が農耕に大事な農耕馬の安全と共に家内安全を祈った。お遍路さんの巡礼が訪れたときは、婦人の方でお遍路さんの接待が行われていたが、今はなくなってしまった。
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お弁財さん
お弁財さんは通称弁ジャーさんの名称で親しまれ、沖田地区の東に祀られている。 創建は特に記録はなく、定かでないが、他のお宮と同じ時期に同じ様な趣旨で祀られたものと思われる。 12月15日に権現さんの村祭りの日の夜に、旧新村の全部の戸主を迎え、弁ジャーさん祭りが祭田の収益金で盛大に行われていたが、祭田が住宅供給公社の建設区域内に在ったことから、売却することになり、祭田の売却後は弁ジャーさん祭はなくなった。 夏祭り(祗園)は旧暦の6月27日に夏祭りの最後を飾り、青年団主催で行われた。当日は芝居の舞台が作られて、浪花節や田舎狂言など2晩続けて行われ、地区内から沢山のお花があった。今は故人になられた先輩の青年団員のお戯けたお花のご披露等、懐かしく思い出される。昔は何も娯楽の無い時代で、今思えば、懐かしく思い出される。
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八戸溝の中央尊
中央さんの信仰は、肥前の盲法師が広めたものといわれ、地神陀羅尼王子経の経典で説くところの荒神が大地の中央にあって、四季の土用をつかさどるという思想に基づくものと言われている。中央さんの石祀は、屋敷神として民家の敷地の乾(いぬい)の方、つまり北西か北東(うしとら)の隅に祀られている。 銘文は、中央社、中央、中央尊などがある.
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八戸溝の馬頭観世音
昭和15年10月1日現在の調査では、八戸溝の世帯数は66戸、人口324人で、ほとんど農家であった。馬は家族の一員で農耕用馬、競走馬などで、大切に飼われていた。馬の安全を祈り、農耕馬の守り神として路傍などに祀られた。また、馬が死ぬと供養のために個人の手によって宅地内に祀られていた。 また、馬頭明王とも言われ、仏が怒りの姿で人々を救い上げるということで、恐ろしい形相の姿が多い。江戸時代中期以降から民間信仰が厚くなったとも言われる。 森氏宅馬頭観世音 (銘文)馬頭觀世音 建立 明治十九年戌七月吉日 建立者 不明
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八戸溝の庚申神塔
石水寺禅寺の山門の南で参道路傍に2塔並んでいる。庚申神とは、「かのえさる」道教と仏教の青面金剛、帝釈天の信仰とが混合したもので、庚申(かのえのさる)の夜、一晩眠らずに神を祀る庚申会(講)があり、この庚申講信者仲間で建てられたものと思われる。銘文だけがやっとわかり、氏名などは風化して読取れないほど年代は古い。 また、講と信仰の結びつきは古く、二十三夜講、二十六夜講(普通、三夜待講、六夜待講)、庚申講、伊勢講、念仏講など盛んに行われた。そして、近世末期から明治、大正にかけて建立した石塔が各地に多く残っている。
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青年会場
青年クラブや青年宿とも言ったが、現在の八戸溝公民分館の前身で、現在地の八戸溝公民館の場所に大正末期から昭和の初期にかけて、当時としてはモダンな黒レンガ造りで建築されたと聞いている。鍋島町史によれば、明治40年頃より各町区にあった青年会場で、小学校の教員を招いて夜学が行われた。小学校教育の補習をこころみ、公民教育、農業教育、体育が主眼であった。 そして、大正6年には正式な鍋島農業補習学校(後の実業青年学校)として発足し、昭和23年に閉校した。現在の70歳以上の男性は、寝具を持ち寄り昼間の疲れも忘れて、一夜を語り合うのが楽しみな集会所であったといわれている。
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佐賀県立ろう学校
ろう学校は、大正13年(1923)10月23日に私立佐賀盲唖学校となったのがはじまりで、大正14年1月13日、佐賀市水ヶ江町124番地に民家を借り受け仮校舎として発足している。 以前は盲唖教授所別に佐賀盲学院等と称して盲唖者の教育を施していた。この発達には佐賀市長故野口能敬氏や中原勇蔵氏という方々が活躍してその礎を築かれている。 その沿革概要を述べると 大正14年2月24日 内田喜平・大塚竹次の名で文部省に許可申請 大正14年6月10日 文部省から認可 昭和6年3月1日 佐賀県立代用指定 昭和8年4月 聾唖中等部も授業開始 昭和9年4月 佐賀県立盲唖学校と改称 昭和16年4月 職業科設置 昭和20年8月 空襲で校舎全焼 昭和22年4月 新学制施行で佐賀県立盲唖学校を佐賀県立盲学校と佐賀県立聾学校とに分離。小6・中3・高3の6・3・3制となる 昭和23年4月 義務教育施行 昭和39年11月 佐賀市鍋島町に移転新築。29,598平方メートルを買収、起工。 昭和41年10月 新校舎へ引越し完了 昭和49年10月 創立50周年記念式典挙行 ろう学校は、水ヶ江戦災で高木町(※現・呉服元町)願正寺・上芦町の民家・大和町の春日山道場・多布施川沿いの旧日東航機青年寮跡などに校舎を転々として、のち盲・ろう分離し、私共鍋島町に施設を移し、校舎はもちろん体育館・職業教育の特別教室・寄宿舎・浴場・調理室・食堂等々又運動場も広く、理想的な施設が完備され、特に戦後は、福祉国家建設思想が高揚され、憲法にいう人権尊重と教育の機会均等が実現され、涙ぐましい教育活動は感謝と尊敬の外ない。
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鍋島駅
鍋島町における経済活動も次第に盛んになった段階で、地元はもとより近郷の市町村においても駅の設置を希望する声が高まったので、当時の鍋島村長中島猪六氏が中心となり、当町出身の在京有力者や三好勝一県議の協力を得て運動が進められる中、肥前山口から諫早に至る長崎本線敷設工事の状況視察に来佐した、時の鉄道大臣小川平吉氏に陳情したことが決め手となって、昭和5年2月から工事が始められた。 盛り土には機関庫の石炭ガラを利用し、労力は地元江頭の人があたり、人夫賃は1日・1円80銭であった。工事が農繁期と重なったために若干の軋轢もあったが、障碍を乗り越えて工事は完成し、同年7月7日から鍋島駅として一般運輸の営業が開始された。喜んだ村民は、江里の「浮立」をはじめ、各地区から「踊り」や「にわか」を繰り出して、7月10日に盛大な祝賀行事を行い祝福した。駅の開設によって地元民の受けた恩典は計り知れないものがあり、昭和28年の大水害の折は、駅の倉庫が牛馬の避難場所となり、水死を免れたようなこともあった。
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佐賀鍋島郵便局
鍋島駅が開設された翌年の昭和6年4月1日、鍋島駅前通りの北突き当たりに駅と向かい合って、為替・貯金・郵便・保険・年金を取り扱う局長以下3名の無集配特定郵便局として鍋島郵便局が開局され、初代局長には中島熊太郎氏が就任した。 昭和16年3月11日には電報(配達を含む)電話の終日取り扱いを行うなど業務を拡張し、定員は4名(他に請負の配達員1名)に増加した。時世の推移に伴い、昭和42年4月30日には電報配達業務を廃止して定員を元にもどした。昭和53年12月25日局舎を全面改築して床面積を80㎡にふやし、同日付で局名を佐賀鍋島郵便局に改められた。昭和32年11月15日からは、父の後を継いで中島久雄氏が局長に就任し、業績は向上、発展の一途を辿っている。
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六地蔵
奉彫刻地蔵菩薩6体(総高約1.5m)は、 江頭山長寿庵南入り口に設置されている。 ○湖光妙○禅定尼 萬治二巳亥歳(1659) 十一月廿八日 同じ南入り口には石塔1基(総高約1.0m)もある。 岡丸霊神 延宝三年(1675) 十月十八日 また、北入り口には、奉彫刻地蔵菩薩6体(総高約2.1m)が設置されている。 なお、地蔵菩薩は宝珠・笠・仏体(6体)・中台・竿の5部からなっている。北・南入り口の菩薩6体は、共に笠は平面が六角形で、波形の勾配、仏体は立像で蓮台上に立っている。 しかし、どれも造立銘が判然としない。
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石造地蔵菩薩
地蔵菩薩の正面下に「三界萬霊」と、横に「明治六巳丑年四月吉日」刻まれている。 地蔵菩薩は童顔で、帽子を嫌い子どもを守る菩薩と言われている。 同じ地蔵が、八戸溝・角目・東新庄に各1基あったとのことで、このことは佐賀城敷地の計画の1つだったという逸話が残っている。 毎年7月24日には、隣組の子どもと母親が古賀氏宅に菓子等を持ち寄り食事をしながら、歌や踊りを楽しむ祭りを行っていたが、現在は休止中である。
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江頭城趾
戦国の昔、佐賀の豪族今川伊予守胤秋は、小城の千葉家と寛正、文正、応仁の頃争っていた。そして胤秋の家臣江頭摂津守の城が鍋島村江頭の大西にあった。応仁元年(1467)6月千葉介教胤を討つため小城境に出陣し、今川にて決戦し、大将今川胤秋はじめ、家人江頭摂津守、同又太郎など佐嘉の重なる武将はみな討死した。のち居城は龍造寺の手に帰し、今では跡形もない。胤秋は法名を日今と号し、東新庄日音寺に葬られた。同寺は今はないが、胤秋の母日音女の建立したもので、日音は千葉胤基の息女に当たる。
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鬼火祭(ホンゲンギョウ)
1月7日朝早く餅を焼いて食べる。昔、清涼殿で青竹をたき餅を焼いた。これは全国的な行事となり、鬼火たき、鬼(悪魔)退治の意味がある。ホンゲンギョウは鬼火焚きとかドンドン焼きとかさまざまな名前で呼ばれている厄払いの行事で、各地で行われていた様で、どの地方の行事も趣旨は同じようである。 旧新村地区(開成2〜6丁目)では昔からホンゲンギョウと言って1月7日の早朝に当時は隣家との距離もあり早朝なので人の通りも無いので家の前の道路で実施していた。 前日に竹と笹や稲わらでホンゲンギョーを作り1月7日の早朝に、パチパチと勢いよく燃やして、前年のお守り・お札や門松等一緒に燃やして厄払いを行った後、7日正月の七草粥や昔はラッキーセブン等と言う言葉はなかったが、何故か7の縁起を担ぎ、厄払いの行事が行われ、各家々で箕の上に祀った年徳さんの餅や各家に供えた餅を7軒のホンゲンギョーで焼き7草かゆ等作って無病息災を祈り厄払いをしていた。