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[旧佐賀市][開成校区]は55件登録されています。
旧佐賀市 開成校区
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三夜待
毎月の23日を中心に開かれる地区の親睦会のことである。普通三夜待の神は女神だから男がまつり、六夜待は男神だから女がまつるといわれる。三夜待の石碑の前に酒肴をささげ、おさがりを戴いて四方山話に花を咲かせた。旧新村に限らず、三夜さんや三夜待ち等と言って、佐賀地方の風習行事で、何処でも行われていた。 先ず、年齢、職業等比較的環境の似かよった人々で仲間を作り、月に1回程度輪番制で、当番の家に集まり、会食後、夜遅くまで語り合って楽しんでいた。又、三夜待仲間と言って、旅行や色々の行事及び憂い事、お祝い、病気等全ての喜怒哀楽を共にする仲間として三夜待が有った。 現在は周囲は団地化され、職業も境遇も違う人々で、自然と昔ながらの三夜待グループも解散になり、数グループが残っている程度で、現在は形を変えた仲間作りとして、職業年齢などに関係なく、気の会う人たちで三夜待の名前で会食等を行っている。
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道祖神祭
3月・12月の第2日曜日に、江頭地区の東土井・荒巻では年2回、各家順番で神社参拝後、当番の家でお祭りをする。
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水の神祭り
江頭地区では、5月に各戸まちまちだが堀辺の洗い場(たなじ)にお供えをして、特にかわそう(河童)にとられないように祈る。 家によっては、竹の子を料理の中に加える。それは、河童がこの家の人はこんなに硬いものを食っているのかと恐れて近づかないようにという思いをこめている。現在は行われていない。
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淀姫神社へお礼参り(八朔お籠り)
江頭地区では、淀姫神社へ御礼参り(別名 水神楽詣)をし、御神楽を奉納、御神酒開きをすることが毎年の慣例になっている。 これは、淀姫神社の御神徳により農業用水に対するお礼と秋のみのりを得た喜びを感謝する行事である。 この時、神扉を開き、金の御幣を拝する。この特典があるのは、元亀元年(1570)8月、大友軍が佐賀に攻め寄せてきたとき、鍋島の軍勢が夜襲を敢行する事になり勝楽寺に陣揃いをした。このとき、江頭の百姓が当寺に馳せつけて竹を伐り、竹槍を作り、奮って従軍した。いよいよ夜襲となり大勝利を得た。(今川の合戦)このとき、鍋島直茂公から江頭の土民に対し何か望みがあるなら遣わそうというありがたい御下命があった。すると、淀姫神社の金の御幣を拝したい旨をおこたえ申し上げた。それからは、この特典がつづいたという。
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追悼会
追悼会は、毎年10月1日に江頭地区の行事として、1年間に他界した人を宗派に関係なく長寿庵(禅寺)で行われていたが、現在は江頭公民分館で長寿庵の住職を召いて、行われている。
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権現祭
江頭地区西八田では12月25日に3つの地蔵さん祭りがあり、藁で的を作って弓を射る行事があっていたが、現在は行われていない。
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村御祈祷
旧新村では、毎年5月に御祈祷といって一家の戸主(世帯主)が権現社の神前に集り、神主さんを呼んで、村民の無病息災・五穀豊穣を祈念した。その祈りを込めたお札を村の四方の入口に立て、外部より病魔や災難が村内に進入しないように願った。 その後自治会長宅に集まり、お神酒開きがあり、村勘定(現在の総会)が行われていた。 昭和50年頃より自治会がマンモス化して昔の様には、対応できなくなったので、役員の代参に変わり、昔の村勘定の行事は自治会の総会にかわり、現在は自治会が分割独立したので、五自治会(開成2〜6丁目自治会)の三役と有志の方で祈願祭が行われ、総会は独立した単位自治会で別々に行われている。
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村祭り
むらまつりは、旧新村(開成2〜6丁目)には二つ有って、一つは供日といって藩政時代の新庄郷の氏神さんの新庄神社のお祭りで、11月3日に行われる。 旧新村の祭りとは新村の権現さんの祭りで、新村独自のもので、新村の起源頃から始められていたように思われる。 藩政時代は戸数も少なく、12月15日に新村の住民全部が1箇所に集まり行われていた。 この祭りの実施要領は大正時代は、祭り田と言われる水田を輪番に耕作して其の収入で、本ツーゥ寄りツーゥの名前の2戸で実施されていた。しかし、昭和になり戸数が増えて1ヶ所では対応が出来なくなったので、南組が堤熊次氏の土地を購入して祭田とし、沖田組には中島猪六氏が自分の所有の土地を弁財天祭を行うという条件で寄付し、昭和50年頃までは組毎に当番の人が祭田を耕作してその収益で祭りを実施していた。祭り田が住宅供給公社の宅地造成地区内に在ったので、売却して其の売却代金を基金として12月15日に実施して居たが、近年は村民も勤め人が多くなり、現在は、12月15日に近い日曜日に実施されている。 当時は竹輪1本に肴の切り身1切れの質素な料理であったが本当に楽しいお祭であった。 その後、祭りの伝統を北組(きたんわい)が引き継ぎ「ツウ」と言う伝統の記録書類で現在も記録されている。 その書類が煤け、破損が酷かったので整理した際、はっきりした記録が判明し、嘉永年間(1854〜1860)の頃からの記述があり、この村祭りが大分古くから行われていたことが分かる。 1年を通じて権現さんを中心に色々と村民の触れ合いの行事が行なわれており、今振り返って見ると懐かしさが一杯である。
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堀干しやごみ揚げ
現在の堀はコンクリート護岸が施され、昔の面影は殆どなくなったが、昔は両岸には柳の木や芦が生い茂り、堀の幅も広く、深くて流れは清く、鯉や鮒、鯰などが沢山棲んでいて、夏は魚釣りドウケやウケ等の漁具を使っての魚取りは村民の楽しみだった。 堀は所々に堰きで区切られ、色々と堀の名前が付けられて居て、管理は両岸の水田の持ち主で管理と決められていた。 秋の供日が近づけば堀の持ち主が気の会った人を集めて堀干しが始められる。(堀を干した上で魚を捕る事) 堀干しは下流から順々に始められ、堀の水は何時も流れて居るので、上流から始めると吐水が下流に流れ魚が驚いて逃げ出すので、堀干しは必ず下流から始められる。 水車を何台も据え付けて水を汲出して堀を干上げて魚を取り、皆で分けて持ち帰り、昆布巻きや焼鮒子を作り、供日のお客のもてなしに利用された。 又、春には人手を集めてごみ揚げ(堀の中のがた土)が実施され、昔は科学肥料も少なかったので水田の肥料にされ、又、堀は綺麗に清掃され、堀の底の日当たりの良い所にぬくめ(魚の居場所)等をつくり魚が棲み易い様に工夫して魚の繁殖に努めていた。
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西佐賀団地の夏祭り
西佐賀団地で育った子ども達が成長し大人になり家庭を持ったときに、「自分達は西佐賀団地で育ったが、緑も多い団地で大人たちも仲がよく、団地内で祭りを行なったり神輿を担いだりしたことは、楽しい思い出である。」と言ってくれるように、昭和60年から実施して、平成21年で24回を数えている。その間、祭りを中止しようとの意見も出たが、それを乗り越え、子ども達が西佐賀団地の夏祭りを楽しみにしているため、平成22年以降は子ども達だけの祭りに切り替え継続して開催して、今後とも西佐賀団地内の融和をはかって行きたい。
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江頭ふるさと祭り
平成元年10月に若宮社に祀ってあった石祠蔵を現在の江頭公民分館の敷地に移し、木製の鳥居や御堂を建立して、仁徳天皇三女神をお祀りしている。 毎年8月上旬に子ども達の病気平癒、健康を祈って祈願祭を行い、午前中に「子ども神輿」が町内を練り歩くため、力水をかけ元気づけ、楽しんでいる。 神輿は、江頭公民分館 ⇒ 西八田(若宮社) ⇒ 東土井(道祖神社) ⇒ 大西(観音) ⇒ 大渡 (観音)⇒ 江頭公民分館 の順路で練り歩く。 夜は、生産組合、婦人部、子ども会でバザーの出店や、舞台を飾りつけカラオケ大会や踊りのご披露などがあり、商品を用意して江頭ふるさと祭りを実施していた。 しかし、平成5年8月からは、「開成ふるさと祭り」が開催されるようになり、「江頭ふるさと祭り」を午前中に行い、午後4時頃から「開成ふるさと祭り」に参加している。 祭りは、町区民や校区民にとって、親睦融和をはかる上で欠かすことができない重要な行事として、現在も開催している。
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八戸溝の力石
石に対する信仰の1つで、神の依代(よしろ)となっている石を持ち上げて豊凶を占うのであったが、後では娯楽化して男の子が力試しをして少年期からさし上げて、力量を試しあった。また、米1俵を肩に担いで乗せることが、若い衆として認められる資格であった。八戸溝の力石は、薄茶色の卵型で、鳥居の側に置いてあり、少年や青年たちは競って挑戦していたが、持ち上げる人は村中に数人しかいなかった。その力石は、昭和30年代までは存在していたが、その後川岸の護岸として埋められた。
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荒神さん
昔の農家の家造りは、玄関から台所(くど、へっつい)までは、庭中(田の土で固めてある)があり、玄関の戸は重たいよろい戸であった。庭中の中央辺りに「荒神柱」が建ててあり、神棚を設け、お供えものをして荒神さんを信仰していた。八戸溝のほとんどの農家には終戦後あたりまでは見られたが、現在は改築されその面影を見ることはない。 また、鍋島町内のある町区では、くど(へっつい、かまど)の形の餅を備え、正月9日に女性だけが頂く町区もあった。あくまで、台所は女性の働く場所で、男性は立ち入りしないのが良いとの風習があったためだろう。
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荒神さん相撲
八戸溝では、毎年12月9日の夜は小学生から高等科の生徒までが「荒神さん相撲」といって、村中を回って相撲をとっていた。先人によれば、「荒神さんは、力が強くて相撲が好きであったから、小さい頃から相撲をとって各家を回っていた」と口癖のように言われていた。その言葉から推測すると、明治時代から昭和30年代までは続いていたようである。「相撲ば取らせてくれんかんた」と言って、夜の7時頃から10時頃まで寒い中を回って、各家では危なくないように「いまなき(むしろ)」を敷き、取り終わったらご祝儀にお金をもらって皆で分け合っていたそうである。
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子ども祭り
子ども祭りは、開成5自治会(開成二〜六丁目)の地区内で、新村川沿いに、地蔵さん2ヶ所、弁財天さん、権現神社、観音さんの5つが祀られている。 平成元年までは、旧新村子ども会の豆祇園として、毎年8月1日に2台の神輿が町内をねり歩き、夜は子ども達による豆祇園が実施されていた。 その後、平成2年住居表示が実施され、旧新村地区は5町区に分割されたため、どのように継承するべきか、自治会・子ども会で話し合いを行い、子ども会主催による5町区(開成二丁目〜六丁目)それぞれで、昼は「神輿」、夜は「豆祇園」として現在も継続をしている。
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鍋島産業組合(農協)
鍋島町は昔はほとんどが農家で、農協は鍋島町としても重要な施設でした。昭和6年に農会が鍋島村役場内に併設され、農家の経営や技術指導を行ってきたが、昭和12年に村役場の南に産業組合として新築され独立し、終戦後には農業協同組合となり、昭和41年に佐賀市に合併して、佐賀市農協鍋島支所となった。その後、300m北の現在地(開成三丁目)に建物が移転している。 鍋島町は市街化と共に開発が進み、新栄、開成と行政校区が分離となり、自治会組織は独立して運営されているが、農家組織である生産組合は従来どおり鍋島町の農協組織の中で運営がなされている。
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新村江湖
旧新村沖田の中央より(現在の開成6丁目)新村川を立体に交差して現在の開成5丁目の中央を南に流れる水路を藩政時代の昔より江湖と言っていた。 この江湖は本庄江湖の上流に当り、旧新村の北部一帯の全ての排水を集めて新村江湖〜上碇川〜本庄江湖と流れ、有明海に注ぐ、新村地区の幹線排水路である。 昔は川幅も広く水量も多く流れ、川底は砂地で春にはしじみや溝貝等が沢山取れた。また、途中の入江には藩政時代には、船の帆柱が埋まっていた等と、古老達に語り継がれていた様に、下流の深町や坂井地区に止井樋や防潮樋椚が築造される前までは大分上流まで有明海の潮の干満の影響があったようである。又、新村江湖は徳川時代初期に成富兵庫茂安が多布施川を築造する前までは、洪水の度に川道を変えて乱流する嘉瀬川の一支流の一つであったと思われる。 成富兵庫茂安が多布施川の付属河川として築造した植木川や新村川を築造の際は、その支流の水路と何箇所も交差する事になるので、植木川と新村川は色々と工夫されて造り替えられている。植木川は植木川の北100mの所で既設の水路を切断してバイバス河川の、八尻川を新設して、これより北部の水路を全て集めて西に流し、東新庄を通り、江頭の方に植木川に平行して流れる様に付替え、深町の汐止樋椚を通り、本庄江に流れている。植木川から沢山の小水路(シードウー)より流れ、新村川の北部の水田を潤し、使用後の余水や使用された排水は、既設の堀に集められる。そして、現在のお観音さん前と開成6丁目の中央で新村川を立体で交差して江湖に流れ、南の上碇樋を通り、坂井地区の止井樋で調整されて、東新庄を回って流れて来た八尻川と合流して、本庄江湖となり有明海に注いでいる。 又、新村川を立体で交差した樋門の上流は2ヶ所とも角目地区(植木川)の手前100m近くまで水路が伸びていたが、現在は北部バイパスの開通や周辺の工業技術センターや卸団地等県の施設建設で付け替えられ、其の姿は殆ど無くなり、草むらの中に僅かに当時の面影を見る事が出来る程度に変更されている。よって、新村江湖は多布施川が築造される前は乱流する嘉瀬川の支流の一部だった事が裏付けられる。又、多布施川の付属河川として作られた新村川や植木川が人工の川で、同河川築造の時に、新村の全ての堀や水路は付け替えや改造された。
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新村川(前ん川)
新村川は別名前ん川と言って北部バイパスの北の所(通称後家井樋)より多布施川の水を分岐して堤防ぞいを南に流れ、旧新村の南を沢山の小水路を分岐して、新村中央排水路以南の水田を潤して江頭地区に流れている。 また昔より地区民の生活用水として親しみ、大事に接し、管理してきた川である。
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小柳助治
工学士。京都大学卒業後長崎三菱造船所電機設計課交流係主任の要職につき、在職10年にて帰郷し、佐賀中学の教職につき10年。退職後佐賀機械工業組合を経営し、終戦後は農業の傍ら読書思策を続け、「哲学の根本」、「唯空論と唯物論」、「唯空論哲学摘要」などの著書がある。また戦後混乱の昭和22年10月から初代鍋島公民館長として活躍、公民館生みの親としてその基盤を築いた。彼は無類の記憶力と読書力があり興至れば、三昼夜宗教書を読み耽ったこともあるという。三菱では電気工学の権威としてアメリカ留学を命ぜられ、佐中では物理主任として、名物教師であり、腕白少年たちからドンポー先生の愛称で敬愛され、一面奔放奇抜、談論風発、その超人的勉強と野人ぶりは鍋島一の異才であった。
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秀島辰太郎
明治2年江頭生。24年鍋島村役場に奉職、29年収入役、32年助役におされた。その間村農会副会長、都農会幹事など幾多の公務につき、38年村長におされた。以来5期を重ね、村史員として前後34年間精勤村治に尽瘁し、一面教育の振興、衛生の普及につくし貢献する処多大で、村民の信望も厚かったが、不幸病を得て死去した。
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中島猪六
明治19年新村生。36年佐賀農学校卒業後、41年佐賀税務署に勤務し、大正6年おされて村収入役となり、11年助役に進み、昭和3年村長に就任し、7年再選され村治に精励し多大の功績があった。
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赤子堀
江頭地区には『赤子堀』という名の堀がある。今は、柳の木が1本生えていて草が生い茂っている。 それは、中島信さんのおとうさんのお話しによれば、昔、食糧ききんのとき、その堀の中に赤ちゃんを捨てていたそうだ。そのために「赤子堀」といわれるようになったそうで、たいへんかわいそうなおはなしである。
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江頭
文献はないが、地名、屋敷跡その他から考えてみたい。 江頭地区は東から西へ、東土井、新川(川)、荒巻、郷倉屋敷、西、修禅坊、古川(川)、大西屋敷と分布している。 東土井は江頭地区で土地が一番高く、その中央に植木川の下流が流れている。この川は天井川で自然にできた川とは考えられない。多分灌漑用の人造川で、名前も新川である。古川が一番低い地所を流れていて自然にできた川らしく近くに郷倉屋敷、修禅坊、西、大西屋敷、南に伽らんの地名がある。郷倉座敷の鬼門に良神神社(現在移転)その北に、300年以上の樹令と思われる「もち」の大木があるところから、最初は、古川の川辺に水の便を得て村落が発達したものと考えられる。その後、新川、植木川の開発に伴って西部の民家が減り、東土井付近にふえ現在に至ったものと思われる。 南部の大渡、なざまちも西部の伽らんから東へ移動したに違いない。 なお東土井にある道祖神は当地開発の際、守り神としてお祭りしたかも知れない。 また、今山出兵の道路として江頭西のあぁあ十れんを通って北へ進み将軍神社から勝楽寺に達したものと考えられる。
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新村(開成2〜6丁目)
新村といえば、戸数70戸ぐらいの昔の姿が思い出されてくる。佐賀ん町に近い所に位置して南には神野のお茶屋と言って鍋島さんの別邸(現在の神野公園)があり、それがまるで新村の前庭のように思われ、春には桜の花見客のさんざめきが夜を通して聞こえてきていた。 また、東を流れる多布施川、それから取り入れられた新村川が東から西に流れている。 その川の水は、大切な飲用水と農業用水に使用され、年に数回の地区総出の公役によってその美しさが保たれてきていたが、今は、まわりの人口増加により水も汚れつつあるのは残念なことである。 氏子神社として新村の北東に権現神社がある。由来ははっきりしていないが新村氏子一同の祈念する神社である。昔は、よく狐がいたので夕方からは近づかないように、回り道をして通った思い出のある人も多いことと思う。 時の流れとともに変わり、パチンコ店、バッティングセンター、スーパーといろいろな店が並ぶようになり、役場は記念碑が建立されている。 祗園祭は8月初めにあり、小学生の上級生が1日がかりでお宮の掃除や準備に追われ、夕方から高譲提灯を立て、お参りにくる人々に唐豆を煮てもらったのを一人ひとりに豆しゃくしで配ったものである。
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八戸溝
八戸溝という地名は、新庄八幡神社の沿革に養和元年(1181)八戸溝と森田の氏神様として建立とあることから、「八戸溝」はそれ以前から地名があったと考えられる。 1817年の藩政時代には新庄郷八戸溝村であり、明治22年(1889)市制町村制移行に伴い、佐賀郡鍋島村の中の5村(鍋島・森田・蛎久・八戸溝・八戸)となった。 昭和15年当時、66戸・324人の集落であったが、昭和40年代の人口の増加に伴い昭和55年には、648戸・2,313人と記録されている。 平成5年に開成校区が発足したことに伴い、八戸溝自治会の一部が開成校区の新しい自治会として分離発足し、残った八戸溝・鍋島第一団地・佐賀医大八戸溝宿舎の3自治会は新栄校区へと編入され、中学校区は鍋島という変則的な区域変更を余儀なくされた。 以来7年間新栄校区で活動してきたが、町区民が開成地区への編入を希望したことや開成小学校の児童数も当初より減少したことで、平成11年4月から開成校区への編入が実現した。 平成21年の八戸溝自治会は、八戸溝一~三丁目、神園五~六丁目で、西は国道208号線(西部環状線)より東側で、北は佐賀銀行鍋島支店北側道路より南側、東は多布施川支流を境に鶴沢鉄工所の西側、南はJR長崎本線の北側に位置している。 世帯数は約700戸で人口約2,000人が居住していて、自治会の主催でコンサートの開催や町区内に存在する石造物を見て歩く会など様々な文化活動を実施して、活発な地域活動を展開している。