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[旧佐賀市][久保泉校区]は62件登録されています。
旧佐賀市 久保泉校区
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妙福寺
臨済宗、東福寺派で開山は円鑑禅師の高弟、大道一以大和尚である。本寺の大日尊縁由略記によると本尊の大日如来は承徳2年(1098)に流失した石城山妙楽寺のものと推定され川底から発見されたこの仏像は「疱瘡の神」として近在、近郷に知られている。 この寺は神代家の分家の墓所として又中島哀浪先生の菩提寺として知られている。
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半肉彫石造如意輪観音坐像
久保泉行きバスの勝宿神社で下車し、歩いて約15分北へ向いさらに右に折れ5分で慈音院に着く。ここからさらに山道をたどる急な坂道雑木におおわれた小径を登って行くとおよそ300mで不動滝につく。さらに小径を300m登って行くと目的地の磨崖仏に出る。あたりは巨木、巨石に囲まれた小鳥のさえずりさえ聞こえる別天地である。地上およそ3mの巨石の壁に花頭窓のように輪郭をつけて彫られている如意輪観音は美しく華麗である。像高1m50cmで半肉彫に彫られふくよかで全体として非常にやわらかな感じである。造立年代はさだかでないが、延宝5年(1677)頃一修験僧に依り幾星霜の年月を経て完成したといわれ、山岳信仰を究明する上からきわめてその価値が高い。 如意輪観音の功徳として、如意とは如意宝珠、輪は法輪を転じ、六道の衆生の苦を抜き利益を与えることを本誓とする菩薩として人々の厚い信仰を受けている。
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上揚の也足庵
皇位をめぐる南北朝の争いに続いて、将軍家の後継争いは、地方大名を巻き込み小豪族間の勢力争奪へと波及した。この時代を戦国時代と言う。勝つためには義理も人情も無い、嘘と欺き反逆に明け暮れ、肉身をも犠牲にし、上下の関係も薄らいだ時代である。 肥前においても、藤原系を名乗る龍造寺・太宰の少弍・関東下向の千葉氏、北の松浦・波田、西の橘・後藤・大村、島原の有馬、それに加えて豊後の大友、南の菊池・島津、中国の大内、それ等をめぐる馬場・八戸・高木、蓮池の小田、神埼の本居・姉川、城原の江上、山内の神代の諸豪族間にも攻防斗争が続いた。 隆信の曾祖父剛忠家兼が92才の天文14年=1545年、馬場頼周は謀を巡らし龍造寺を倒すため諸豪とはかり、城を渡し退去させ、剛忠の息子家純・家門・純家を川上淀姫社に招き、一方孫の六郎周家・三郎家泰・孫八郎頼純を城原勢福寺城へ誘い出した。各れも僅かな郎従を取囲んで急襲し全滅さした。正月23日のことである。 このときの先鋒が、34才の神代勝利であった。これ以後神代と龍造寺は矛を交えること8回、4回は勝ったが4回は負け、最後は大友勢と共に今山で鍋島の夜襲を受け、惨敗した。 さきの城原へ出向いた隆信の父周家等3人と郎従は、西郷の祗園原で討死し、ここ也足庵に葬られたが、明治4年本庄の高伝寺に合祀された。也足庵には小さな墓標が残されている。当時の也足庵の僧は、龍造寺の血統の者であった。 也足庵は戦国中期の創建で、付近には玉泉坊を始め多くの寺社があった。現在は臨済禅寺で、南北朝期に数名の筆になった大般若経500余巻が写本として保存される。また脇仏には龍造寺家再建を祈願し、天文17年=1548作の木造達磨像があることでも有名である。
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文殊台
不動滝の裏手の山に文殊菩薩像が安置され、この台地を『文殊台』という。この像は、直長の子神代茂真-鳥栖村田鍋島の祖の墓標であったというが、ここに移され、知恵を与えて下さる御仏として信仰する人が多い。右手に剣・左手に経典、獅子にまたがるのが本姿。この台地は標高200mで見晴らしがよく、キャンプのテントがよく張られている。 『三人寄れば文殊の知恵』というのは、釈迦如来の脇侍普賢と文殊の三仏のことであるが、三人相談すればいい考えが出るの意。
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磨崖仏
磨崖仏とは、大分の臼杵石仏や相知の鵜殿石仏のように、自然の岩壁や硬い土に直接仏像を彫刻したものをいう。 観音滝左手の大きな岩に、高さ1.5mほどの半肉刻の『如意輪観音像』が見える。コンクリート造りの籠り堂があって、一寸見え難いが、首を右に傾け滝の方を御覧の姿で、左膝を立てておられるが右手はよく見えない。滝の上に坐した姿か。 如意輪観音は、右膝を立て三対の手には宝珠・宝輪などを持って居られるのが普通の姿。-奈良・西大寺- 一切衆生の願いをかなえ、苦しみを救って下さるみ仏である。観音様は変化が多く、慈音院の聖観音・千手観音・后良十一面観音・西原二の馬頭観音などがあり、女性の姿をしておられる。 金立山登山口から約3㎞のところにある「吹上観音」も美事であるが、こちらの観音が優しい顔に見える。造立銘がわからないので、いつ頃誰が彫造したかはっきりしないが、慈音院建立の1677年(延宝5)頃か。 余技的彫造でなく実に精巧な立派な作で、よくもこんな山深いところに、美事な彫造をしたことよ。 「ひたすらに救いたまえと祈る身は ふみわけたどる幽谷ここに」
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松陰寺
神代1万石の菩提寺松陰寺は、西原天神山東の竹林に囲まれているが、もとは鈴隈南麓お霊屋下に在った。『太宰管内志』によれば、この辺に太郎丸(泰郎丸の誤りか)という所があってそこに行基菩薩(?)が作ったという薬師尊像があった。松陰大姉(鍋島勝茂の娘で、神代5代邑主常利の妻。性空院のこと)は先祖菩提のため仏殿を建立し医王山松陰寺と号した。本尊は唐佛の釈迦とその弟子の三尊云云とある。
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白鬚神社
近江(滋賀県)吹下より勧請されたと伝える白鬚大明神を祀る『白鬚神社』の祭神や勧請年代、十九丸の供奉集団や奉納される田楽の性格考証は「佐賀民俗学」第四号を御覧いただくとして、我が国古代の神信仰と白鬚社の特色について觸れてみたい。 在天の神の降臨道筋に神体山がある。古式の社には、必ず神体山がある。白鬚社の神体山は、社の裏の鈴隈山(昔は清隈と書いた)である。 我々は社に詣るとき、必ず口をゆすぎ手を洗う。昔は境内に入る前に、体ごと清流に身を浸し、罪や汚れを洗い流して初めて境内に入った。 祭典に従事する人は一定期間、堂に籠り、斎戒沐浴し寝食・行動の精進をした。この禊ぎの場を持った籠り堂が中宮で、現在の白鬚社のある所。上宮は社の東台地上に。下宮は県道鳥栖川久保線沿いの石の鳥居の南側一帯であった。この鳥居からが参道で、田楽もここから「道行き」をしていた。〔神上は、上宮(かみや)辺が本当である〕 祭神は、応神天皇・神功皇后・武内宿禰の三柱説と、豊受比売命・猿田彦神・武内宿禰の説、新羅神説とがある。 勧請年代も、肥陽古跡記は金立権現鎮座の時(紀元前210年)、佐賀県神社誌要は継体天皇18年(527)、敏達天皇3年(574)は祭典記録、推古天皇34年(626)は花納丸文書、三代実録では貞観12年(870)とそれぞれ異なっている。 昭和49年に1400年祭が行なわれたのは、敏達天皇3年説による。 十九丸の地名や丸祭の形態からすれば、花納丸文書が重視される。祭祀集団であったか・貴族豪族集団・逃避難民集団・農耕技能集団・或いは渡来外来集団であったか、論議されている。 白鬚の鬚はあごひげ、村徳永の白髯はほおひげ、髭はくちひげ。 現社殿の「流れ造り」は、記録が無いので建造年は不明。 社前の三の鳥居は、木造の「両部鳥居」で、木柱の前後に控え柱が設けられ、本柱と控え柱の間には貫を通し補強された古式の鳥居で、神仏混淆の神社に多い。また、四脚鳥居ともいう。「丸持の家」の祠の祭神には、薬師・不動・観音・地蔵・天神・弁財天・本地阿弥陀が祀られたと寛文11年(1671)の記録が在り、神仏混淆の社であることが窺われる。
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中島哀浪歌碑
昭和23年に建立された中島哀浪先生の歌碑が妙福寺山門手前左側に建っている。 その歌は哀浪先生がこよなく愛した、 「かきもぐと木にのぼりたる日和なり はろばろとして脊振山みゆ」 が刻まれている。
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獣類供養塔
川久保の宿をそれて西へ約100mの所に螢橋がある。これを渡って北方約1キロメートルの鈴隈山中腹にある。 享保14年(1729)に建立されたもので、「回向、猪鹿六六〇有余、大小諸畜類之幽魂、業性転滅……享保第十四己酉年、二月二〇有八日」とある。八角形の基礎石の上に建てられた石幢形の塔であって塔身は八角柱である。鍋島吉茂公年譜によると、享保13年(1728)6月18日「為御遊猟川久保御越同日御帰座」、享保14年(1729)4月9日「為御遊猟川久保御越同日御帰城」とあるので、佐嘉藩主がこの川久保方面で狩猟を行っていたことが知られ、この猪鹿供養塔は藩主の命によって建立されたものであろう。
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中島哀浪旧宅(坐泉荘)
中島哀浪は明治16年の生まれで本名は秀連という。佐賀中学時代より高田保馬、下村湖人らと作歌に励み、さらに早稲田大学中退後帰郷して「ひのくに」社を主催した。彼は同年代で何れも早稲田大学を中退した若山牧水、北原白秋と共に九州の三大歌人と称されたが、1人郷土にあって歌境を深めた。そのおおらかな調べは哀浪独自のもので全九州の歌人に大きな影響を与え今日に及んでいる。
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久保泉小学校沿革
(川久保小学校 → 久保泉小学校) ・ 明治 8年 西原の郷学校跡に川久保小学校を創立したが、その後字原口に移転(年次不詳) ・ 明治20年 尋常川久保小学校と改称 ・ 明治25年 久保泉金立両村で学校組合を作り管理する。川久保尋常小学校と改称 ・ 明治41年 義務教育を6ヶ年に延長 久保泉金立二ヶ村学校組合を改組 ・ 大正 2年 久保泉金立両村で学校組合を解消し、久保泉尋常高等小学校と改称 ・ 昭和3年 青年訓練所充当久保泉公民学校を併置 ・ 昭和16年 久保泉村立国民学校と改称 ・ 昭和19年 10月20日夜火災のため北側1棟全焼、東側1棟半焼 ・ 昭和22年 新学制学施により、久保泉村立久保泉小学校と改称 ・ 昭和29年 図書室設置 佐賀市に合併により、佐賀市立久保泉小学校となる ・ 昭和30年 校歌を制定(作詞:中島哀浪、作曲:陶山聡) ・ 昭和33年 水泳プール完成 ・ 昭和36年 学校給食を開始 ・ 昭和50年 小学校創立100周年 (和泉小学校) ・ 明治 8年 上和泉竜田寺本堂を以って泉小学校を創立 ・ 明治11年 佐賀郡久保泉村大字下和泉字古賀に校舎新築 ・ 明治20年 尋常和泉小学校と改称 ・ 明治25年 久保泉金立2ヶ村組合学校となり和泉尋常小学校と改称 ・ 大正2年 久保泉金立2ヶ村学校組合を組織し2ヶ村組合立尋常小学校となる ・ 大正8年 和泉通俗図書館を設置 ・ 昭和3年 青年訓練所充当和泉公民学校を併置 ・ 昭和16年 久保泉村和泉国民学校を設立 ・ 昭和22年 新学制学施により、久保泉村立和泉小学校と改称 ・ 昭和25年 和泉小学校を廃止して、久保泉小学校として発足
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丸山遺跡
丸山遺跡は金立山南麓より平野部に突出した丘陵上にあり調査前は雑木林であった。当地周辺は戦後蜜柑園として造成された為、多くの古墳が何らかの破壊をうけていたのに較べ、幸にも旧来の姿を残していた。 調査は昭和52年1月から昭和57年10月まで断続的に実施され、縄文時代晩期〜弥生時代前期(約2200〜2400年前)の墓と5・6世紀の古墳群などが発見された。 縄文時代のものには甕棺(3基)、支石基(130余基)、石棺(3基)があり、遺構の内部及びその周辺から、水稲耕作を裏付ける籾痕のある土器や石器等多数出土した。 古墳は10基あり、そのすべてが径4〜14mの円墳であるが、内部主体には竪穴式石室、横穴式石室、舟形石棺などがあり変化に富む。古墳からの出土遺物としては土器をはじめとして、鉄製品(剣・刀子・鏇・鉾・釧・斧・鏃等)や石製品(小玉・管玉・勾玉・琴柱形石製品)がある。 このように丸山遺跡では墳墓形式や出土品に多種多様なものがあり、極めて学問的に高い価値をもつ複合遺跡ということができる。 丸山遺跡は九州横断自動車道の建設予定地内に存在していたので、その保存に関して論議を呼んでいたが遺跡の西方約500mに移転されることになり、野外博物館的施設として活用されることになった。 昭和58年2月22日には、舟形石棺を形どったタイムカプセルが公募の品を入れて、3号墳内に納められた。
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西原古墳群
脊振山系の南麓に続く西原の低丘陵地で松林の中に古墳群が点在している。ほとんどが円墳の横穴式石室で開口され、いずれも巨石を用いている。 この古墳群は6世紀後半から7世紀にかけて築成されたものと推定され、この濃密に分布する古墳群は広大な農地に恵まれたこの地方に、当時家族集団を基礎とする農耕集落が相当発達していたことを物語るものである。
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城山中世山城址
川久保の山中、勝宿神社の東方で標高115メートルの尾根に、地元ではイモのガンギー(芋の雁木)と呼ばれている土塁を持つ山城址がある。現在その全体が雑木林に埋もれており、外観は普通の山林と大差ないが、一歩その中に踏込んで見ると、南北に細長い尾根に幅2メートル、深さ1.5メートル、長さ35メートル程度の溝が、幅約2メートルの土塁をはさんで東西に走っている。また、尾根の頂には径10メートル程度の平坦地があり、ここに何らかの施設があったのではという想像をかりたててくる。 この城址は何時、何人によって造営されたものかは不明であるが、神埼の城原地方にはこの種の、しかも大規模な中世山城址の存在が知られており、当地のそれも同時期のものと推定できる。 いずれにせよ、当地は、北は脊振東は神埼南は佐賀平野を望む交通の要衡であり、この地に何らかの「砦」的施設があってしかるべきものであろう。 東鹿路から妙楽寺へ出る道を「川久保道」と昔から云っていた。この道は、山内の三瀬・脊振はもとより、福岡・唐津への近道でもあり、川久保を通じ平野部へ通じる重要な交通路であった。 この開口部にあって、山内の様子も平野部の様子も手に取るようにわかり、三方を険しい崖で囲まれた要害は、山城として持って来いの場所である。従って古代から砦なしの城の機能があった。 この山頂の南から北へかけて、深い堀が二重にある。これを間道という。日の隈山から北の城原へかけても、この間道が遺っている。 兵を動かす為か、防禦用だったかわからない。 いつ、誰が、どの戦に使ったかも戦記には見当たらない。 或る人は、神代の砦があったとか館・曲輪があったと言うが、古代から中世までは使われても、神代が芦刈から戻ったときは、既に龍造寺・鍋島の配下となっていて、こんな要害を使わせる筈はない。神代の館は平地に設けられた筈である。 勝宿神社前の通りを「馬責馬場」というが、武家屋敷の近くの馬の調練場・合同馬管理場の外に駄馬待合所、牛馬売買所の場合も馬責馬場という。八ツ溝南の「下馬責馬場」も同様である。
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古村周辺遺跡(ふるむらしゅうへんいせき)
下六の古村一帯には、中世遺跡が多い。 中世とは、平家が滅んだ1185年から、鎌倉・南北朝・戦国の時代を経て、関ケ原の戦いの1600年までをいう。 10世紀初頭には、各地に荘園といって貴族・社寺の私的領有地ができ、春日・松梅・金立・久保泉・西郷は、安富庄として後白河法皇が建立された長講堂の御領であった。ところが、鎌倉幕府の守護地頭配置によって武家に侵略され、南北朝動乱の後は庄園は廃れ、小地頭を勝手に名乗る小豪族や家人(下向武士)により新田が開発され、そこに居館や砦を構え、周囲を濠で囲んだ。 古村の縦横の濠は、右図に示すように中世の屋敷遺構である。下一の本村や村徳永周辺にも、これに似た濠跡があり、当時日常生活に使われた土師器やカワラケの破片が見当る。 この集落内にもエンシュー寺という寺屋敷があり、東の方には玉泉坊・ギチョー坊・デンソウ庵・神仏混こうの白鬚社・八幡社といった寺社が多く、也足庵のみが現存する。また、大刀屋敷・大刀堀(立掘、館堀)の地名もあり、砂鉄塊がある由、古刀の製作が為されていたともいう。 この集落の北から東へかけて「古陣」といい、字名を矢の助という。その一画に100m×200mの長方形の林を囲む濠がある。 内側は山林になっているが、三重の土塁(土屯)を以て築かれた砦がある。土地の人は「スーフクジ」という。崇福寺なのか、文献には見当らないし、山林なので内部遺構も今の処わからない。 戦国末期、神代長良が騙し討ちされた東千布商の土生島青土城の構築に類似しているので、中世末の平地砦・館跡と想定する。
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支石墓
金泉中学校の南、150mあたりは昭和25年頃まで桑畑や野菜畑であったが、段下げをして水田になすとき、かめ棺群が見付かった。 ここのかめ棺は、木蓋や石蓋をした単かめと、進化した合口かめ棺が多く、僅かに傾斜して埋葬した弥生中期のもの。 平成2〜3年に行なわれた圃場整備現地調査で、少し離れた所から弥生中・後期の竪穴住居跡やその後の掘立柱建物跡が確認され、この地の農耕集落が分かった。 その西北、運動場の南50m水田の中に昭和29年まで、大きな扁平石があった。これが脊振山系南麓で初めて発見された『支石墓』である。 支石墓は中国・朝鮮に多い巨石ドルメン系墓で、わが国では弥生時代に玄海沿岸に発達した。墓の内部は土こう又はかめ棺墓の埋葬施設で、これが壊れないように数箇の石で支え、扁平巨石を蓋とした。だから一見して、支石墓とわかる。 この石の取扱いには、慎重を期するようにお願いしていたが、適当な忠魂碑竿石が無かったので、これを搬出した。そのとき内部主体を故意に砕き、何も無かったことにして、村徳永共同墓地の中央、せんだんの木の根元に埋めたとのこと。 当時の人の話を総合すれば、1組の合せ口かめ棺と推定される。 昭和29年春のことである。久保泉小学校・校庭西の忠魂碑がそれ。 この石は「ううひと=超巨大人」が金立山に腰掛け、力試しに2つの石を投げた。東の石が村徳永、もう1つが尼寺南小路。(昭和49年発見) そのときの左足が町分西屋形の水田「ううひとの足跡」だと。うう人でなく、金立さんだとか、北山正現さんだとも言う。 いずれにしても、この石を移動すると、うう水=洪水が出るとか、ひねった人はううけがをすると伝え、昔からこの石を大切にしていた。 古墳を大切にしようとの、いい説話である。
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八ツ溝古戦場
神代勝利の子、長良は、永禄8年(1565)3月に父を亡くし、4月には子供2人の急逝にあい、悲嘆にくれていた。 たまたま、千布友貞の土生島青土の砦にいた4月の23日に、龍造寺隆信の長臣納富信景がやって来て、悔み述べると共に縁組の復活の話を持ち出し、隆信には別心はない旨の誓書を届けたいと申し出て帰った。 ところが、その日の夜には納富の率いる大軍が、手薄な千布砦を包囲し攻め込んで来た。長良は不意をつかれ、家臣古川佐渡守嫡子新四郎等数名でやっと囲を破って脱出し、山越えして筑前の戸坂に身を隠した。 これを「千布崩れ」という。 翌年、長良は再び山内に迎えられたが、如何にして去年の仇を晴らそうかと家臣の古川と計り、干ばつなのを幸い、納富の領地へ流れる水を八ツ溝で堰き止め、一滴も流さなかった。納富はこれに憤り、息子の納富治部大輔に屈強の兵を大勢つけ、5月9日堰崩しにやらせた。古川は兵を四手に分け、三手は川の近くの窪地に伏せさせ、中央の一手を農夫に装わせ八ツ溝近くで納富勢をおびき寄せさせた。納富は増増怒り、自ら陣頭に立って中央隊を攻め、遂に南原まで攻め込んだ。ここで伏兵の三手はときの声を挙げ攻め立てたが、敵もなかなかの強者ぞろい、反撃を繰り返したが、古川兄弟の槍には勝てず、治部大輔も討取られ他の将兵もことごとく討死した。この戦を「八ツ溝合戦」という。 これで千布の恨みも晴れ、中佐賀一帯は神代が支配するようになった。
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川久保焼 窯跡
川久保の両県道交差点を東へ1粁、左手の小高い山を皿山という。西が千葉胤正の屋形山、東が古墳のある大塚山で、中央の皿山の北斜面の密柑畑の中に『川久保焼窯跡』の標柱が見える。 傍らに3m角の窯壁が見え、下にも二段位ある登り窯である。窯の底部は作物があって見られないが、付近から半磁器の皿や碗それに窯の中で使うトチン、変形不合格品の破片が転がっている。 灰色地や褐色地に上薬=釉がかかったもの・かからないもの、灰色釉・飴色釉・ヒビ焼風・赤絵のあるものなどが見受けられるが、作は悪くない。 大塚山北端・屋形山東斜面にも窯の遺構がある。 この窯は、元禄の初め1690年頃、神代6代邑主直長(鍋島勝茂の十男)が、韓人陶工に築かせたと伝えるが、朝鮮侵攻から100年経っているので、末えい=子孫だろうか。また、ここで長くは焼いていないようなのは、製磁に向かない土だったのか、或は大川内へ移動させられたのか。いずれにしても散逸する前に早く本調査を期待する。 西原お茶屋跡から、お茶屋火災直後、焼物の鋳込型数種が発見された (川原末四郎氏提供)。また近くから薄青磁の香炉や菊形の皿が出土した。窯跡は探せなかったがこの近くに窯が築かれていた、と伝える。 名付けて『御茶屋焼』又は『お庭焼』と呼ぶ。神代15代邑主直宝が、明治の初期焼いたという。
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祝部窯跡
小清兵衛西端 関行丸古墳の南に神籠石の説明板がある。これから東へ250米、突き当たった処が小清兵衛山で、南の方3米のところに窯跡があった。これが『祝部窯跡』である。道路拡幅で削り取られた。単窯で、焼成度は600度位、短時間焼いたので赤褐色のままで、もろい。 埴輪・杯・皿・坩などが焼かれたらしく、すぐ北の溝の中からその破片が見付けられた。主に祭祀用に使われているが、町内から祭祀遺構が発見されていない。質が脆いこともだが、祭祀の後で器物を壊す習俗があり、残物が見当たらない。 葬儀後、出棺時に本人の愛用した碗を門口で地にたたきつけて壊す習俗は、今も各地に遺っている。
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土師器土器窯跡
古墳時代前中期から奈良時代まで使われていた土器で、7〜800度の焼成だから幾分硬く黒灰色又は黄褐色。文様はなく素焼。皿・碗・高杯・壷などが作られた。西原古墳や金立西隈古墳から一点ずつ出土しているが、古墳後期(6世紀から7世紀前半)の住居跡からは多数出土しているので、日常生活に使われたということだ。 であれば、町内か隣町に窯がなければならない。未だ見付からないので、探索中である。白石原までも下っただろうか。
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須恵器土器窯跡
神籠池北岸・不動滝下・后浦 神籠池北、ひの口の東5m程のところに、黒ずんだ箇所が堤防からも見える。登り窯なので縦に細長い。1千度を越える焼成だから製品は硬い。 不動滝下には、癒着したもの・歪んだものが散乱するが、昭和28年、村の青年団の協力でハイキングコースの整備をしたその時、上分だったか西原だったか青年が、壷形土器と皿の完成品を発見した。この壷は火葬骨の蔵骨器とみられ、祐徳博物館に保管されている。なお、不動滝下は平安前期の窯とされ、数少ないものだが、壊れるにまかせ本調査をしていない。后浦は溪谷近くまで開墾され、破片のみで窯跡不明。
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お茶屋跡
川久保には、小学校北に広い地域の『屋形』がある。東の屋形は隈本山の麓古川氏方前をいう。ここは大阪在の神代良夫氏系の屋敷跡で、戦災前の系図で確認した。西の屋形は学校北のことだろうか。 勝宿社前に館があったと言う人もあるが、確証がない。 西原東の「お茶屋」には、城内の神代屋敷(今の県庁舎一帯)からたびたび直系が訪れ、或は明治前後は居館として使用されていた。『川久保別邸内に享保年間(1716〜1736)、館新営』とある。ここがお茶屋という名で「川久保さん」(神代直系)が起居したであろう。 茶室があり、館があり、お庭焼の窯跡や学舎があったであろうお茶屋は、直系や家臣の離散・代替りで屋敷は転々と人手に移り、今は顧みる人もなく、それこそ根刮ぎ土取場となって、昔の面影は全く失せた。
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銅戈溶范
東の祇園原から檪木・上和泉・草場・篠木野・一丁田線の標高15mから、10mの尾崎・下一・佐大農場・下五・六・村徳永・大野原へかけて、点々と甕棺群や弥生時代の竪穴住居跡がある。 檪木集落から少し北の一帯もそうで、もとは相当広い範囲にわたって埋蔵していたらしく、弥生土器片が多く見当る。 ここのかめ棺群は、2箇のかめを組み合わせた「差合」式や「合口」かめ棺で、斜に埋められた弥生中期の須玖式である。 棺内からは遺体も副葬品も見当っていないという。 このような大形かめは、それなりの技術がないと製作されないが、各集落毎に製作したかそれとも専門の技術集団集落があったかは明らかでない。いずれにしても文化水準の高まりはあった。 この共同墓地群近くの納骨堂南をぶどう園に造成中昭和30年頃横尾正幸氏が発見された石製溶范がある。これは砂岩の切り石に、諸刃の剣である矛(戈または鉾とも書く)の形を刻み込み、これに溶けた銅を流し込み同型のものを沢山鋳造した鋳型である。 これで造られた矛が、実戦には使えなかったが、権力誇示又は宝物として所有され、祭祀には神前に供えられたようだ。いずれにしても、小さな集落の長でなく、いくつかの集落を統合した権力者の私有物と推定される。しかし、この溶范で鋳造された銅戈は発見されていない。 県内でも他に一例があるだけで、貴重な弥生の遺物であったから、東京・上野の国立博物館が買い上げ、今は国の重要文化財となっている。
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獅子舞(大神楽)
今から約700年前、檪木村の北の松林、現在は地区立納骨堂前左の楠あたりに鬼の岩屋があり穴の中に、獅子がいて、『これを見たら家内安全・無病息災・安産の御利益がある』といわれ、みなが拝観したがった。ところがなかなか、お姿を現わしては下さらない。 たまたま、丹波の国の小間物売り「与作」がこのことを聞き、村の衆のお役に立つことならばと、村人に笛や太鼓で囃させ、自らは造花の『めずい棒』を両手に、面白おかしく踊りめずった。獅子は何事かとチラット姿を見せたゲナ。それからは、与作はもとより囃手の村の衆は、御利益てき面、みなが幸せになり、村は繁盛したとサ。 この獅子を神獅子とあがめ、全国の社寺のお札で獅子の面を造り、小鼓打ちを「もらーし」と呼び、詞章(よみ歌)を作り、舞として後世に継承するようになった。これを『檪木のジャーカグラ獅子舞』という。 隣地区の尾崎獅子舞によく似ているが、伝承が異なり当方のはササラが無く、よみ歌の節回しが違い、神埼の櫛田神社には出場せず専ら金立神社の50年に一度の大祭りや、雨乞いのみに先導露払い役を勤める。 出場総勢は、60名だが小地区なので少なくなった。 ○音頭取 数名 むらの長老がなり、紋付羽織で、赤白の三角紙を吊した杖を持つ。 この中から頭領1、歌い手2が出る。 ○獅子めずい又は「与作」 2名 少年が交替でなり、造花のめずい棒を両手に、あご吊り彫り黒面を、かむり、 赤白の女の長襦袢を尻からげして、腰にひょうたんを下げ、面白おかしく踊る。 ○獅子っきゃー 10名の2組 青年がなり、獅子の胴内に入る。服装は獅子めずいと同じ、先頭が獅子の面を操る。 ○笛の役 8名 熟練した若者で、頭領の旗による指揮により、横笛の調子を変える。紋付羽織 ○小もらゃーし 6名の2組 小太鼓打ち、筒袖の白衣に紫のたすき、緑の帯。花笠をかむる。 ○うう太鼓打ち 2名 太鼓は2人が担いでいたが、今は車に乗せる。 獅子の頭部獅子頭は全国の神社の神符を竹編みに幾重にも貼り、赤に塗り、たてがみには白紙の御幣が結ばれ、胴体の前は無地の麻布を垂らす。胴体は紅白の幕布で、尻尾はない。 「ジャーカゲラ」は「大神楽」でなく、「代神楽」とも考えられる。伊勢詣りの代りに、伊勢の御師が神楽の一座を連れて各地を訪れ、舞をしたのを「代神楽」という。中国にもこれに似た舞がある。 左右の狛犬の左の口を開いた方を「しし」という。 野獣を総称してもいうし、特に鹿を指す場合がある。鹿ヶ谷・鹿垣。
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白鬚神社の丸祭り
川久保白鬚神社には、10月9日早朝、今もなお続けられている「丸祭り」がある。この祭は、上代の姿を供え物・直会(なおらい)の肴・供え膳に残していることで注目されている。 前夜のお籠りに続いて早朝、丸持ちの家の人達が紋付羽織袴で集まり、祭典中は氏子と雖も境内に立入りさせず行なわれる私祭で、一切言葉を発してはならなかった。昔は神官を招かず、蔵人さんが司宰(しさい)したという。 供え物の品は、人家幣と書く御幣19本・花米と書く御饌米1升・甘酒1徳利・新米で搗いた月形日形の餅各19個・オキョーサンという大きな御供さん19個・みょうたん柿・くり・キノス柑又はユズ柑各19個の6種を、70の御膳に乗せて供える。 御膳は30×25センチメートル角で小竹を折り曲げた角物に5本のわらを格子状に組み、その上に和紙を敷いただけ。直会の肴は、結び昆布又はわかめ・コンニャク・煎り大豆・茹で里芋・針生姜の5品目だけの古い食べ物。 天保11年(1840)、たまたま花納丸の古墳より、鏡・三環鈴・管玉が出土。この模様と十九丸の由来を、古川徳基・南里有隣・草場佩川が書いた『花納丸文書』が、県立博物館に在る。この文書には次のことが記されている。 「推古天皇34年(626)邑長祠を立て、江州(滋賀県)白鬚の神を奉ず、このとき江より来る者19人、明丸・石丸・泰郎丸・千徳・彌頭.関行・犬王・倉童等皆丸を以て、祠の傍に宅す、後丸を以て其の宅を呼ぶ、総べて19丸。花納丸はその一也、祠に最も近し、云云」 残りの丸は地名として、吉丸・米丸・有吉・太郎・三郎・六郎・彌以・光富・有富・乗貞の合計19丸で、その所在地は付図の通りである。丸の所在地には、もと古墳らしきものがあり、石の小祠には薬師・不動・天神等の仏の名が刻まれていた。 白鬚神社の項で述べた祭神・勧請年代・十九丸の性格を、この花納丸文書と照合すれば、古墳後期の百済新羅系農耕祭祀集団に比定される。一説にはシラギがシラヒゲに転じたともいう。(金達寿氏説) 上代の日付の変り刻は、日のくれた日没で、9日は8日の日没からであった。9月9日は重陽(ちょうよう)の日で、お供日の祭り日であった。 明治5年(1872)暮の太陽暦採用により、10月19日が祭り日となった。18日の夜のお籠りは、潔斎の最後の日のなごりである。18日に田楽を舞って、神の降臨を仰ぎ、夕みけの饌を供え、厳粛なお籠りを行ない、日の出前に朝饌を供え、神にお礼の祝詞を上げ、また来年も豊作をと祈願し、終れば田楽を舞って神の昇天を見送った。この一連の祭典を『丸祭り』というが、長い年月の間には、いろいろと変わり省略された。
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白石原の瓦
享保の佐賀の町大火(1726)で、佐賀城内外は灰じんに帰し、1835年(天保6)には再び二の丸が焼けた。この頃鯱の門は二の丸に在った。翌年本丸を再建するとき鯱の門を新たに現在地に造営している。 このとき、白石原の瓦工早田夘太夫英興という人の作った鬼瓦が上棟されている。同時に屋根瓦制作も命じられたであろう。 写真のとおり、この様に大きな、然も肉厚い焼き物は当時の作品としては珍しい。良質の土を見付け、十二分にこね、歪を避けるための逃げを巧みな曲線で成形し、焼くときの火の強さ・時間を加減し、火のまわり具合を均一に工夫し、また燃料材も選択し焼成されたであろう。不均衡な曲がりや亀裂が完く見当らない。 作者は、自信と誇りを持って、裏にヘラ書き銘を遺している。 久保泉公民館保管の仁和館鬼瓦も立派だが、型が小さく、銘がない。 敗戦直後までは、10軒位の家で嶺瓦・井戸瓦・鬼瓦・つぼ・火鉢等が丹念な「紐造り」手法で作られていた。白石原の地名からして良質の材料と秀れた技術集団が古くからここに存在したことを物語る。名護屋築城には白石原で城瓦を焼いたという。 肥前の瓦焼きは、大化の改新頃との説があるが、肥前のどこかわからない。土師の職制は大和朝廷にあり、土器の製作も担当。土器師土屋が当地へ来て土器を製作「土屋大明神」の碑があることになっている。 白石原の墓碑「カオンサン」はこの土器師なのか、開拓者なのか、白石原と深い関係があることだけは間違いない。 白石原は、春日の国府と神崎の庄を結ぶ街道筋であった。
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川久保の笊笥づくり
川久保一帯は、里山の麓に集落が散在し、中心部に川久保宿があった。古代には中央政府の大宰府や肥前国府の尼寺を結ぶ官道が通り、戦国期には神代氏の出城があったが、徳川時代には山を下りた神代氏の城下町としての形態を整えていた。古代から西の都渡城(大和町)、東の仁比山などとともに山間部・平野部・海岸部との交易地として栄えていたらしい。そこでは竹製品の「ざる」なども交易されていただろう。 大政奉還、明治維新を経て時代は様変わりしたが、手工業の竹細工などは自家製として細々と作り続けていたと考えられる。古老によると「明治後、下級武士の内職として笊笥(そうけ)つくりが広まったと聞いた」という。特に竹林に囲まれていた西原地区に笊笥(そうけ)つくりは多く、上分、宮分、下分、そして宿場の町分などにも散在していた。大正時代から昭和初期、戦後までの笊笥(そうけ)づくり系譜をたどると61戸が数えられるという。その半分以上35戸は、西原居住者だった。 作っていた笊笥(そうけ)は、普通は真竹でつくり、万石(まんごく)そうけ、担いそうけ、飯そうけ、うどんてぼ、芋てぼ、酒てぼ、ウナギ・カニ・ドジョウのうけ、ほげ、だんべいなど17種類、各大、中、小と作っていた。戦後混乱期の物不足時代には、笊笥(そうけ)類も需要に追いつかないぐらいに業者が仕入れに来ていた。特に、ほげ、担いそうけなどは、炭鉱の作業具として作っても作っても売れていたという。それも昭和30年代までで、プラスチック製品が安価で普及すると急速に竹製品は廃れていった。今では笊笥(そうけ)つくりを伝える人もほとんどいなくなった。
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誰故草(たれゆえぐさ)
桜の花の咲く頃から、脊振南麓の古生層地帯に、小さなあやめそのままのかわいい薫紫の花が、群をなして咲く。昔は「雛あやめ」「姫あやめ」と呼び、子供が花あそびをしていた。 明治30年(1897)、愛媛県で見付けられ、当時の植物学者牧野富太郎博士によって地名をとって『えひめあやめ』と命名された。ところが既に世界植物学会では洋名の登録があり、日本でも古い地誌(『芸藩通志』(※安芸国広島藩の地誌)及び『西備名区』(※備後地方の郷土史書))に『誰故草』と呼ばれていることを知られ、5年後に『本名を誰故草、一名をえひめあやめ』と訂正発表されて以来、学術書も辞書も「誰故草」で出てくる。 この野生植物はなかなかの気難し屋であるが、一般的に考えられるのは、 1)土質土壌と酸度の関係、 2)土中湿度と排水、 3)気流と極端な気温変化及び雨量、 4)日照方位と植被率の関係、 5)種子の発芽と活着条件、 6)それに盗株防止である。だがその他に、 7)昔のように秣場(採草地)であった頃は数回草刈をし、秋口の草を冬になって野焼きをしていた。 今は、自然保護の名目で葛かやの茂るにまかせていいものか。天童山・日の隈山・大分県の自滅と同じになりはしないか。 1)白絹病などの病害と花昌蒲のような嫌地性対策、 2)水源となる上部の植生品種と腐葉土の厚さ、要求微量要素、 3)共生と単植、 4)結実は虫媒か風媒か、人工交配は必要がないか、 5)移植の時季・踏圧・どろんこ植え、 6)根群の水のうと種まくら、などについての研究は不充分である。 愛媛県・大分県・山口県の一部では、消滅を理由に指定が解除された。日の隈山もそうだが、消滅の要因は何だったのか。県や市の報告書の不備もだが、今後の基本的研究と対策・保存会の実践活動に期待する。 誰ゆへに乱れそめ来し花なれや みちのしりへの里ならなくに 〔広島県西備名区〕
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旧川久保宿場通り
神代勝利は中世時代にはこの北部の山地を根拠に勢力を保っていた。藩政時代になると神代家の配分地となりその中心所領となった。他方では佐賀から鳥栖、脊振、小城と交通の要所として栄えた。宿場は旅する者にとってまさに憩いの場であった。駕籠や馬にゆられて行く人、或いは歩いて旅をする者さまざまな旅人が疲労と空腹で宿場にたどりつき宿場の家並みと旅館の看板に心を安ませたことがしのばれる。この宿にも大正時代まで数軒の旅館があったといわれているが今はその面影をみいだすことができないが、諸処に当時の武家門とその遺構は昔日を物語っている。
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銀木犀
県道小城・北茂安線の南400mの折地地区(下四)増田樸氏方の庭先きに根廻り2.3m目通しで二枝に分かれ、高さ10m余、樹令300年を越すといわれる名木銀木犀があった。ひひらぎ科、雌雄異株。 夏の日差しがいくらか和らいだと思う頃、どこからともなくいい薫りが漂って来る。春は白木蓮の蕾が、秋には木犀の薫りが古里の四季を教えてくれた。誰かがこの薫りは「極楽の匂い」だよと教えてくれた。秋の彼岸前後だからか、よか人ばっかいの久保泉と言うのだろう。 むかし、馬上のもののふがここを通るとき、いずこからともなく匂って来るこの花の香にしばし駒を止どめ、腰の矢立から筆をとり出し、すらすらと詩歌を書きとめたであろう。「駒止めの銀木犀」とは、よくも名付けた秀句たることよ。 金木犀の花は橙黄色で、いささか強烈な薫だが、銀木犀の花は青白色に近い白色で、和らかくふくいくたる芳香を放つというべきか。 昭和4年、名木として天然記念物に指定された頃は、伊賀屋駅を降りるとその薫に、ああ郷里へ着いたと一安心したもの。傘の形の優美な樹相も想い出される。昭和28年、県の再指定を受けた頃から、北の枝に樹勢の弱まりを感じ、専門委員の関谷・馬場先生を始め、県林業試験場・県林務課・営林署の各専門技師に来て貰い診断をお願いした。白蟻・葉ダニ・白紋パ病・一時冠水等による根群活動の変化、老令化などの意見は出たが決定には至らず、32年枯死。現在小株はあるが残念なことだった。