川久保の笊笥づくり

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川久保の笊笥づくり

■所在地佐賀市久保泉町川久保
■登録ID2945

 川久保一帯は、里山の麓に集落が散在し、中心部に川久保宿があった。古代には中央政府の大宰府や肥前国府の尼寺を結ぶ官道が通り、戦国期には神代氏の出城があったが、徳川時代には山を下りた神代氏の城下町としての形態を整えていた。古代から西の都渡城(大和町)、東の仁比山などとともに山間部・平野部・海岸部との交易地として栄えていたらしい。そこでは竹製品の「ざる」なども交易されていただろう。 
 大政奉還、明治維新を経て時代は様変わりしたが、手工業の竹細工などは自家製として細々と作り続けていたと考えられる。古老によると「明治後、下級武士の内職として笊笥(そうけ)つくりが広まったと聞いた」という。特に竹林に囲まれていた西原地区に笊笥(そうけ)つくりは多く、上分、宮分、下分、そして宿場の町分などにも散在していた。大正時代から昭和初期、戦後までの笊笥(そうけ)づくり系譜をたどると61戸が数えられるという。その半分以上35戸は、西原居住者だった。
 作っていた笊笥(そうけ)は、普通は真竹でつくり、万石(まんごく)そうけ、担いそうけ、飯そうけ、うどんてぼ、芋てぼ、酒てぼ、ウナギ・カニ・ドジョウのうけ、ほげ、だんべいなど17種類、各大、中、小と作っていた。戦後混乱期の物不足時代には、笊笥(そうけ)類も需要に追いつかないぐらいに業者が仕入れに来ていた。特に、ほげ、担いそうけなどは、炭鉱の作業具として作っても作っても売れていたという。それも昭和30年代までで、プラスチック製品が安価で普及すると急速に竹製品は廃れていった。今では笊笥(そうけ)つくりを伝える人もほとんどいなくなった。

出典:川久保の川越氏からの聞き取り