白鬚神社の丸祭り

  1. 旧佐賀市
  2. 久保泉校区
  3. 白鬚神社の丸祭り

白鬚神社の丸祭り

■所在地佐賀市久保泉町大字川久保3466
■登録ID2943

川久保白鬚神社には、10月9日早朝、今もなお続けられている「丸祭り」がある。この祭は、上代の姿を供え物・直会(なおらい)の肴・供え膳に残していることで注目されている。
前夜のお籠りに続いて早朝、丸持ちの家の人達が紋付羽織袴で集まり、祭典中は氏子と雖も境内に立入りさせず行なわれる私祭で、一切言葉を発してはならなかった。昔は神官を招かず、蔵人さんが司宰(しさい)したという。

供え物の品は、人家幣と書く御幣19本・花米と書く御饌米1升・甘酒1徳利・新米で搗いた月形日形の餅各19個・オキョーサンという大きな御供さん19個・みょうたん柿・くり・キノス柑又はユズ柑各19個の6種を、70の御膳に乗せて供える。
御膳は30×25センチメートル角で小竹を折り曲げた角物に5本のわらを格子状に組み、その上に和紙を敷いただけ。直会の肴は、結び昆布又はわかめ・コンニャク・煎り大豆・茹で里芋・針生姜の5品目だけの古い食べ物。

天保11年(1840)、たまたま花納丸の古墳より、鏡・三環鈴・管玉が出土。この模様と十九丸の由来を、古川徳基・南里有隣・草場佩川が書いた『花納丸文書』が、県立博物館に在る。この文書には次のことが記されている。
「推古天皇34年(626)邑長祠を立て、江州(滋賀県)白鬚の神を奉ず、このとき江より来る者19人、明丸・石丸・泰郎丸・千徳・彌頭.関行・犬王・倉童等皆丸を以て、祠の傍に宅す、後丸を以て其の宅を呼ぶ、総べて19丸。花納丸はその一也、祠に最も近し、云云」

残りの丸は地名として、吉丸・米丸・有吉・太郎・三郎・六郎・彌以・光富・有富・乗貞の合計19丸で、その所在地は付図の通りである。丸の所在地には、もと古墳らしきものがあり、石の小祠には薬師・不動・天神等の仏の名が刻まれていた。
白鬚神社の項で述べた祭神・勧請年代・十九丸の性格を、この花納丸文書と照合すれば、古墳後期の百済新羅系農耕祭祀集団に比定される。一説にはシラギがシラヒゲに転じたともいう。(金達寿氏説)

上代の日付の変り刻は、日のくれた日没で、9日は8日の日没からであった。9月9日は重陽(ちょうよう)の日で、お供日の祭り日であった。
明治5年(1872)暮の太陽暦採用により、10月19日が祭り日となった。18日の夜のお籠りは、潔斎の最後の日のなごりである。18日に田楽を舞って、神の降臨を仰ぎ、夕みけの饌を供え、厳粛なお籠りを行ない、日の出前に朝饌を供え、神にお礼の祝詞を上げ、また来年も豊作をと祈願し、終れば田楽を舞って神の昇天を見送った。この一連の祭典を『丸祭り』というが、長い年月の間には、いろいろと変わり省略された。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.98~99

地図