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[旧佐賀市][久保泉校区]は62件登録されています。
旧佐賀市 久保泉校区
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横落水道
旧神埼町西部を流れる城原川の水が、仁比山の八子から西へ分かれて下和泉まで約6kmの直線水路がある。この水路を横落水道又は横路川と言う。 この水路は、城原川右岸から下和泉へかけての灌漑用水路で、成富兵庫が指揮したともいうが、川久保の邑主神代の采配があった。この取入口を三千石井樋または単に三千石と言うのは、この付近の大字竹以西が神代家の配分地でありながら、水が無くて荒れていたので、年貢4000石の負担が苦しく、3000石と称していたためである。当時神代氏は鍋島氏の親類藩として1万石の石高を与えられていたが、この付近では3千石が水路や神代氏の代名詞となっていた。 もともと城原川は、小渕(大字的)で、東西に分かれていたが、一の井手(通称あらこう)で東の流れをせき止め本流1本になし、下流の八子に石堰を築き西へ落した。 この水道の川浚えは、毎年5月上旬の八十八夜前後に行なわれ、城原八子・川寄・野寄・柏原・利田・伏部・尾崎東分・尾崎西分・大字下和泉の関係田持が『横落公役』として出夫し、各村の庄屋が引率し延べ700人が参加。代官所が監督していたと伝える。 受益面積は、もと412町であったが今は狭くなりつつある。 横落水利組合の水利慣行は、動かすことのできない鉄則として守られていた。 負担金の率も地区によって異なっていた。
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檪木
檪木は川久保と同じ神代藩の配分地で、1646年の正保絵図には『一井ノ木村』とあり、1853年の嘉永石高帳では『檪木村』となっている。当時、田は少なく木ろうが藩の専売品だったから、はぜの植栽が奨励されこの付近にははぜの林が多かった。 檪木村が、上和泉村に編入されたのは、明治12年である。 檪木の『檪』の字は、イチイ・クヌギの漢名である。 イチイの樹は、マキ科の「一位之木」、つまり昔の貴族や神官が束帯姿のとき右手に持つ細長い板片、笏の原材で、階位一位に因む。これを「一位之木村」としないで、「一井ノ木村」としたのは、遠慮してのことだろうが。漢名「檪木」はこれに起因する。 もう一つのクヌギは、樫・栗と同じぶな目。棟木の天神さんの祠の傍にある大木を、土地の人は「イチノキ」と呼んでいるが、これは「イチイガシ」が植物学名で、樫の葉よりも細長く、丸い実が成る。この木は木船や車力・馬車の材として昔は珍重がられた。イチイノキと言わないでイチノキと言うのは、「イ」が脱落したもの。同属のクヌギの漢名「檪」の転用もである。 いずれにしても、植物名をとって集落名としたのは、奥ゆかしい。
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川久保の宿
縄文末期に半島経由でも稲作が入ったが、筑紫平野の稲作は大陸中南部から有明海経由で異品種が入ったと言われる。 脊振山内には、先住の縄文人が大自然の中で悠悠と生活していたが、稲作技術を持った弥生人達と別に争うこともなく、山で獲れた野獣の肉や果実、干した青草と、平地や海で得られる塩や米、海産物の干物が、山の出入口で交換された。 西の都渡城、東の仁比山や川久保が、その交易地であった。 大化の改新後、太宰府の中央政府九州駐在所と、尼寺北に置かれた肥前国府を繋ぐ官道が、山麓の川久保を通った。その後川久保は平和時には文化交流地であり、非常時には進攻防守の要路となったが、神代氏が山を下りて川久保に居を構えると、城下町としての形態を整えた。 宿場と言うのは、街道筋の旅籠集落であるが、川久保のそれは小規模の『宿』で、今も高令者はそう呼んでいる。 縦横に道が交叉し、城下ともなれば人の往来も多く、情報基地ともなり、自ずと町が出来る。始めは単なる休憩所としてのお堂であり馬つなぎ場であったものが、わらじ(旅の下足)の取替から、湯茶の接待をする茶屋となり、だんごや餅・おこしやノンキーを売る駄菓子屋となり、おにぎり・うどんを出す飯町となった。 物々交換は次第に金銭取引となり、干物・塩漬、海草や魚貝類、山菜・穀類・干柿・栗などの果実・獣肉類・コンニャク・そば・食塩・薪炭・しょうけ・つけ木・燈心油、陶磁器の破れ物・繭などが「市」の形をとるようになった。お供日前夜は沢山の露店が並ぶ「市」として賑やかで、狂言(芝居)の催もあっていた。 明治末までは、行商が多く椿油・ローソク・塩干魚・入れ薬・針糸端切の小間物・鍋釜修理の鋳掛・キラズ・豆腐屋が来ていた。 明治大正になると、行商人は「宿」に店を構え常時展示販売をした。農工具の製作修理をするカンジーさん・桶や樽を作るオケタンさん・油屋・ローソク提灯屋・薬屋・小間物屋・文具類の筆屋・金物屋・荒物われ物産・飴オコシのノンキー屋・塩干物の魚屋・染屋・酒場(造り酒屋)・木賃宿ができ、製紙原料の楮を集荷取次ぐ店や油粕・煮干し鰯を取扱う肥料屋・打綿取次の木綿屋・精米精粉のマサツ屋・呉服の反物屋・履物屋・床屋・豆腐屋・煙草屋・砂糖屋などが軒を並べ、それに郵便局・銀行営業所・農会、お医者さんまで出来て山内や近郷からも客が多く「川久保宿」は随分と繁盛した。 昭和の初め、人力車に代って高柳善次氏が「乗合自動車」を尼寺経由佐賀まで走らせた。定員4人なのにいつも6人位おしこんで1日3回往復していた。
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川久保七隈
川久保から、東の方神埼町へかけて、「隈」がついた山が7つある。名付けて「川久保七隈」という。 隈の語源は、へんぴな片隅・奥まって隠れたところ・曲りかどであって、川・山・道などの曲がった所、物かげ・秘密の場を言う。 ところが、川久保七隈は、平地を展望する古生層の丘陵で明るい。いずれも何等かの古代遺跡が想定される。 これを古い発音と、転化語、今の当て字を記す。 古い発音 転化語 当て字 高さ 1ほのくま 烽山 火の隈 日隈 日の隈 148 2わさぐま 輪差隈(岩田の北) 早稲隈 174 3さきぐま 松崎隈(日の隈の東南)茶杵隈 茶臼隈 120 4こぐま 小隅 狐隈 50 5なかぐま 中限 (横山)(隈本山)(天童山) 6おおくま 大隈 雄隈 おふくま 帯隈 177.3 7すすくま 芒隈 清隈 須々隈 鈴隈 139.5 ふるさとの帯隈山のうぐいすは 今も鳴くなりそのたかむらに 中島哀浪 鈴隈の谷田のかわず河鹿かと はじめの声の澄みてきこえし 中島哀浪
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神籠池
佐賀平野の条里は、城原川の西にも設定され、西郷野寄を基点とし西は横落から金泉中へ、南は城田上黒井までの3.9㎞、1里の方形であった。当時この間は、水に恵まれず墾田開発は進まなかった、と広島大学の米倉二郎氏は説く。藩政初期、神代氏の配分地となり、横落水路・八ッ溝の開さく・大小の溜池築造・河川の改修が為され、新田が開発された。だが水不足は思うにまかせず、水源かん養林では間に合わない。 神籠池の竣工碑には、『昭和12年村長本村久雄、村民に訴え同県補助による計画を樹て、同15年認可、16年起工云云』とある。 昭和4年、同9年には旱天続きで田が植えられず、水争いが各地で起こり、溜池の拡充・増設の議があがった。始めは、勝宿社の所で城山・鈴隈が迫り狭谷50mなので、社を城山に移し、ここを塞き止め県営ダムを、との案であったが、地元が反対したので、長い導水路を付け、東の小城内に移し縮小することになった。受益面積500haという。 この改良案を住民に訴えたのが、昭和12年である。ところが同14年、西日本一帯の未曽有の干ばつは、御神輿のお下りまであって9月9日にやっと雨が降った。村長本村氏は、再参内務省と直談判をし、ようやく16年着工と補助の約束を得た。 だが村内の政党争いで彼の土産が届かぬ内に、村長の座は変わっていた。 戦後、復員・引揚者の労働力により、8ヶ年の歳月をかけ昭和24年やっと竣工した。 工事中発見された神籠石に因んで『神籠池』と命名された。
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不動滝
慈音院の右手の山道を、瀬の音伝いに登ると二条の瀑布の前に出る。不動尊を祀ってあるので『不動の滝』という。 もうここまで来ると、俗世の雑音も雑念も去り、木霊する爆音に何かを祈りたくなる。飛沫は岩に砕け、かかる虹の橋はいつ来ても心が和む。 ああわが古里よ 古里よ。 なくもがな、瀑布の前の閉ざされた籠り堂。 不動明王は、大日如来の命を受け、衆生の心に潜む悪魔を払い善人にして下さるという御仏で、右手に剣・左手に策(なわ)を、怒った形相で髪は炎のように逆立たせ、するどい眼光、むき出した牙。何と恐ろしい姿だろう。いや我々の心の悪魔の姿ではないだろうか。 滝の左手の道を西へ登ると、大方広佛華厳経と書かれた巨石がある。 華厳経は大乗仏教経典の代表格とされる。大方広仏とは広大なる仏ということである。「仏道の根幹は仏を信じ、修業と求道により心の内にひそむ諸悪業をざんげすれば、自分も清浄になり社会も光り輝やく極楽となる」と説く。
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観音滝
不動の滝から流れに沿って左手の道を200m、軣然たる木霊と共に、十数mにわたって岩肌を伝い流れる直白い帯がみえ、不気味ささえ漂う谷間がある。これを『観音滝』という。水子地蔵が沢山目に止まる。
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県営模範林
川久保藩邑主神代直宝(鍋島直大の従兄)は、明治20年頃山林原野350町歩を川久保村に、明治38年1月山林95町余を佐賀県に寄贈した。貰い受けた佐賀県は、林業の合理的経営のテストケースとして『県営第一模範林』とした。 早速、その年(1905)の3月から、松・檜・杉の植林を始め3ヶ年で造林を完了した。植林後の数ヶ年は地元民の協力によって、下草刈・つる切り・枝打を続け保育して来た。 その甲斐があって、露出した山肌に緑が蘇り、大雨も急に流れ出さず、土砂の崩壊もなくなり、少々の干ばつでも川の水は絶えなくなり、久保泉の水田も潤い作物も多く獲れるようになった。 敗戦(1945年)前後の建築資材不足の頃は、伐期令には少し早かったが3分の2を伐採した。 〔伐期令標準は松35年、檜45年、杉40年が、伐積成長量最大のとき〕 敗戦後の混乱で、新植事業なかばの昭和24年ジェディス台風で伐採地に土石流が生じ、西原西の谷は土砂に埋った。 この頃は、干ばつ・洪水が続き山河は荒れた。 昭和26年に水源かん養兼土砂流出防備保安林に編入され、逐次新植され、また下刈・つる切り・枝打ちが町民によって続けられた。 林道も年々延長され、やがて大小野に通じるようになりそうだし、保安林だから5ha〜3ha以下の小面積皆伐方式がとられ、平成3年の2回の連続台風による倒木を教訓として、林種転換その他根本対策が考えられているようだ。
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宮分の鐘掛松跡
宮分鳥居原集落の北に、土地の人が「鐘掛松」と地名をさしていっている。 今は道筋も、川筋も直線化しているが、元は道路も川も大木の松を中央にして曲っていた。樹齢700年を越すとさえ言われた程で、根廻り6mはある老松。樹姿も美しかった。 敗戦後枯れたが、松食い虫の痕跡は無く、何人もの人が臼を造った。この松は、白鬚明神の神木と言われ、戦時中松根油を掘るときも、神木の名でこれだけは除外された。 この松が「鐘掛松」と呼ばれていたのは、戦国時代戦斗開始を知らせる鐘を吊るし、且つ士気を鼓舞していたという説話による。 また、戦に勝つときは枝が上に栄え、敗け戦の場合は枝が下へ下がると言われ、それだけに対応策を講じたと伝える。そういえば、日支事変から大東亜戦と言っていた頃は、地につく程に枝が下がっていたし、敗色強まった頃から樹勢が衰え、終に枯れてしまった。 徐福が千布に出ないで、ここを通りここで一休みし、山様を調べて登山道を決定し、天神山から水分け、ひどのへのコースを選んだとも伝えられるが、年代が違い過ぎる。
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上和泉の金立森
上和泉集落の東にタカタ山または金立森というのがあって、昔は老松が生い茂っていた。徐福一行はここに来て休んだが、松風の音で夜は眠られず、『波の音聞くまい山の仮り住まい 苦はのがれぬ松風の音』と詠んだという。泊った祠を「元金立社」といい、上和泉上古賀の人達は代々免田(祭田)を持って、年1回の祭りを続けていたという。
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白石原湿原
ベッコウトンボの生息地 白石原湿原は、佐賀県内で確認されたベッコウトンボの最後の生息地です。 ベッコウトンボは、「絶滅の恐れのある野生動植物の種の保存に関する法律」により国内希少野生動植物に指定され、環境省のレッドリストの絶滅危惧1類に指定されている希少なトンボです。 ※ベッコウトンボの採取などは、法律で禁じられています。 ◆生き物たちの楽園 白石原湿原は、南を兵庫クリーク公園と周辺クリーク、北を金立山などの北部山麓とため池群などで構成される北部農業エリアの中で、ショウジョウトンボやギンヤンマなどのトンボが移動できる距離(1から2km)に点在するクリークなどの施設を結んだ生態系ネットワークの中核に位置します。そのため、たくさんのトンボなどの昆虫や鳥達が、ここを棲家とするだけでなく、えさ場や遊び場として訪れます。 白石原湿原は、たくさんの生き物たちが生活する『生き物の楽園』になっています。 ◆人と自然の共生 白石原湿原は、トンボを「人と自然の共生のシンボル」と捉え、佐賀市が平成元年から取り組んでいる「トンボ王国さがづくり」事業の一環として整備しています。 ここを訪れた皆さんに、人と自然の共生の大切さを実感していただけるよう、人と自然(生き物)のふれあいと学びの場として環境教育などに活用できる観察デッキや展望台などを設置しています。
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神代家(親類藩)
神代家は、人皇8代孝元天皇の孫・武内宿禰を元祖とし、高良山玉垂の宮に仕え高良山に住んでいたが、源平の頃高良山の北麓神代村に移った。元寇の役のとき増水した筑後川で、筑後以南の軍勢を船を繋いだ浮橋によって渡した功により、幕府の感状を貰っている。以来、久留米東北部の地頭職であった。 戦国中期、筑後の蒲池・西牟田に攻められ、一族と筑後の地頭土豪達27人が松浦の波多氏を頼って行く途中、千布の陣内氏と仲良くなり、婿に迎えられ、神代勝利が生まれた。 勝利は山内の将に迎えられ、龍造寺と相争いその子長良の代に大友と共に佐賀城を攻めたが、鍋島の夜襲を受け大敗。鍋島直茂の甥(家良)を養子に迎えて4,300石の知行を受け、一時芦刈に移封されたが、川久保に戻り鍋島家良(直茂の甥)・直長(勝茂の10男)・直利(光茂の次男)を次々と邑主に迎え、親類藩として1万石の領主となり、明治の時代まで栄えた。 龍造寺氏との攻防は、当時のいくつもの戦記に面白く述べられているが、勝利初め代々の領主は大小の溜池・水路開さく・新町開発等の善政をしいたので、主従の関係は他藩に無い親密なものがあった。特に最後の邑主神代直宝は、95町余の山林を県に寄付第一模範林として植林させ、緑と豊かな水で町を潤して呉れた。また350町歩の山林原野を川久保に無償払い下げ、今日の蜜柑産地として町民の懐を潤おした。士族授産竹細工奨励は堅ろう「川久保物」として県内外に有名になった。 町民は、神代家の住民に対する業績を感謝しこの恩情をいつまでも忘れないで、語り伝えたいものである。
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中島哀浪
(1883〜1966) 「佐賀は文学不毛の地」との評は、佐賀の人が中央で華やかな活動をしなかっただけで、豊かな文学風土は長い間、先人達によってはぐくまれてきた。むしろ維新前後の沢山の英傑や戦時中の軍人の影に隠れて、皆が気付いていないに過ぎない。 ここでは、われわれに最も身近な1人、郷土が誇る歌人中島哀浪を取りあげる。哀浪は北原白秋・若山牧水と並ぶ九州三大歌人の1人で、久保泉で生まれ育ち、佐賀を離れず郷土を格調高く詠み続け、自ら好んだ郷土の清らかな泉の上『坐泉堂』で息を引き取った。 1万を越す詠草・詩・随筆、50有余の校歌の作詞、特に郷土の名物きゃら柿の歌200首は「柿の歌人」と言われ、豊かな人情味あふれる独特の風韻は「哀浪調」として、日本歌壇にその名を残した。 彼の佐賀中学時代、同級の高田保馬(後の経済・文学博士)佐賀画壇の統帥山口亮一、一級下の下村湖人(次郎物語の作者)などと文学グループを作り、中央歌誌に投稿を初めた。また白秋や牧水とは、早稲田大学で同じ下宿に起居した。 歌誌「ひのくに」の創刊から、もう70年を越した。 彼の代表作 柿もぐと木にのぼりたる日和なり はろばろとして脊振山みゆ の歌碑は彼の菩提寺妙福寺入り口に建っている。これは「敗戦後の郷土に、文化の灯を」と乞い願う村の青年団や文化団体いずみ会が、「ひのくに」の協賛を得て昭和23年10月に建てたものである。 宮分の蛍橋のたもとの「坐泉堂」は昭和27年古稀記念に子弟や平野建設から贈られたものがあるが、今は無い。 平成2年、令息草市潤編の『中島哀浪全歌集』は、約1万の短歌を収録し、年譜・初句索引を付す貴重な図書。
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横尾 柴洋
横尾紫洋は、春日の高城寺で学び、20才で長州(山口県)・京都・江戸に遊学。日光東照宮の豪華さに比べ、当時の皇居の荒廃を見て歎き、事を構えようとして露見。郷里に帰ったが再び京に上り、関白九条家の侍講(天皇・将軍へ講義する職)となった。幕政批判をする紫洋をおそれた鍋島家は彼を引取ろうとしたが本藩の帰国命令に従わなかったので、捕えて佐賀で斬刑にした。51才、幕府の目を恐れてのこととは言え、江藤新平同様、惜しい人材を処刑したものだ。 ♪高い山から谷底みれば、瓜やなすびの花ざかり の俗謡は彼の作。これは幕府におもね、皇室をないがしろにする輩を諷刺したもの。
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川久保へ350町歩
川久保は、邑主神代家の中心領で秀吉の島津征伐のころ(1587年)には、館をここに定め、知行1万石の領主を迎えた。 神代家は、佐賀藩が確立した1600年には御親類藩として、本藩と最も濃い血縁関係となり、大正の始めまで栄えていた。 最後の邑主神代直宝(鍋島直大の従兄)は、明治38年佐賀県に95町余を寄贈、県営第一模範林となるに先立ち、明治20年頃らしいが、当時の川久保村に山林原野100町歩、実面積350町という広大な私領を下賜(無償払い下げ)した。 川久保は、神代家が筑後から肥前入り以来の縁故地であり、住民と共存共栄して来たので将来の相互発展を期しての払い下げである。これを受けた川久保は、各区から選ばれた区長、地元村会議員で『川久保協議会』を創設し、維持管理並びに運用に当った。明治22年前までは、戸長が統轄した。 植林に手を着けたのも、県営模範林よりも早いと伝えられる。山頂部・脊梁部の痩せ地には雑木・くぬぎ・松を、谷の湿潤な肥え地には杉を、中間に檜を植えた。里に近い丘陵地の下部は竹林、上部は野焼の出来る草刈場(秣場でもあるが、田の肥料採取に欠かせぬ採草地)とした。誰故草(えひめあやめ)も、野焼のできる草刈場に自生していた。野焼での事故後は、杉・檜を植林した。敗戦前後の食糧難時代は手開墾でこっそり藷・陸稲・瓜・蔬菜畑に、谷間は水田化し、半私有地化された。 昭和30年代に、大字共有を認めないとかで、既墾地の既得権を認め、それ以外の山林原野を大まかに区割、地区割してブル開墾、個人に分割払い下げた。脊梁部等開墾不適地は、代表者外何名で個人私有化、大字有の土地を無くした。 この開墾地は、昭和36年度から農業構造改善事業として、蜜柑園となり山麓のオレンジベルトを形成した。 昭和50年の蜜柑生産高3.720トン・園地面積147ha、販売高1億を越し栽培者199名に達し、町の主産業となった。 生産高 売上げ S54 1501t 8910万円 S59 760t 1億1499万円 ところが、全国的な過剰生産による価格の暴落で、減反を強いられ、需要の多様化で品種更新をせざるを得なくなり、一方九州横断自動車道の開さくによる用地買収で園地面積が減少し、かつ栽培者の高令化・後継者の離園で労働力が不足し、管理不充分となり、荒れ地・廃園が目立ち初め、転換期を迎えた。 もうこうなると、神代家が乞い願った地域活性化はおろか、先人の偉業に対する感謝の念は忘れ去られようとしている。 歴史とは、過ぎ去った昔のことを、面白おかしく知ることでなく、現在をどう対処するか、将来をどうあらしめるかを考えることでの先人の遺業を辿ることである。
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久保泉町名の起こり
久保泉・金立・春日を上佐賀上郷といい、富士町を入れて中世は「安富荘」という荘園で、後白河法皇が建立された長講堂御領であった。 但し、川久保の十九丸は私領としての取扱を受けていたようだ。 室町期には、少弐・千葉氏の後を神代氏が支配し、近世には川久保鍋島家として石高1万石で、物成(年貢)4,300石の親類藩となった。 1787年(天明7)の領村目録では、河窪・一井之木・徳永・上泉の一部・神埼町大字竹が神代氏の配分地=知行地で、上泉の一部・西尾崎・下泉が佐賀本藩の蔵入地=直轄地であった。 西尾崎村には本村・白石原・折地・池副が、下泉村には立野・古村・古賀・東上ヶが、徳永村には村徳永・篠木野・光岡・川原が、一井之木には野中が、上泉村には草場・出来島が含まれていた。 金立徳永は薬師丸村で、大小野は来迎寺村に入っていた。 明治11年の郡区町村編成法翌年西尾崎村は下和泉村に、村徳永と檪木村が上和泉村に入り、川久保村を入れて3ヶ村となった。 明治21年の市町村制の翌年、3村は合併し、川久保の久保と上和泉・下和泉の泉とを複合させて久保泉村が誕生、旧村を大字地名とした。 川久保はもと河窪と書き、清い水が豊かに流れる低地の意、泉は美しい地下水の湧き出る所の意で、和泉と書くのは713年(和銅6)の風土記編さんに郡・郷名を二字に改めたことに準じた雅読み文字。 昭和29年佐賀市に吸収合併され、佐賀市久保泉町と改名し、今日に至った。
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千葉胤正(胤誠)の墓
千葉家は下総(千葉県北部・茨城の一部)の桓武平氏で、蒙古襲来の文永の役(1274)に九州に下向した武士団で、戦後そのまま小城の晴気荘の地頭となり、小城・杵島・佐賀の一部を領した。全盛時代は、肥前国主と自称し小城を国府・尼寺国府を府中と呼ばせたこともあるが、戦乱の頃は親子兄弟の内輪もめが絶えなかった。 永祿2年(1559)正月11日、龍造寺隆信によって千葉胤正の小城晴気城は落され、兄の胤朝は陣没。少弐冬尚は逃れて仁比山で自害した。 胤正は、この仇を打つには神代勝利の力を借らねば出来ないと考え、勝利に援を乞いに山内に来た。勝利は若い頃一時千葉家に居たこともあり、胤正を三瀬の土師村に住わせた。胤正は家伝の八龍宮を氏祖と崇め、妙見菩薩の祠を建て祀った。 仇討ちの機をうかがっていたが、来せぬまま文禄2年(1593)逝去。『平日義大神祇』とおくり名(法名)され、皿山の西の丘に葬られた。ここを屋形山というのは、千葉家の家柄に対する敬称で、館の字を当てない。 ここには敗戦後まで、立派な松があった。江藤新平はその末孫という。 一緒に葬ってあるのは、胤正の一人娘で数奇な一生を送り寛文元年(1661)7月晦日卆。眞如院殿妙光日住大姉である。
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エヒメアヤメ自生南限地帯
天然記念物
エヒメアヤメの自生地は、史跡帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごごいし)の列石線内にあって、別名タレユエソウと呼ばれているアヤメ科の多年性草木である。長さ15~20センチメートルほどの剣状の細長い葉を直立させ、葉間から10センチメートル内外の花茎(かけい)を出して、桜の散るころにアヤメの花を小さくしたすみれくらいの一花を開き、紫色のきわめて可憐(かれん)な花を咲かせる。 その分布は、もともと寒冷・乾燥の地を好むので、ヨーロッパのアルプス地方から中国東北地方・朝鮮半島付近まで普通に自生している。わが国では、瀬戸内海周辺の山陽・四国・北九州にのみ自生している。 エヒメアヤメという名は、古くから愛媛県腰折山に自生していることが知られていて、牧野富太郎博士によって命名されたものとされる。 大正7年(1918)に神埼市日の隈山で発見されたころは、みやき町から小城市清水付近の山中に見ることができたが、現在は自生地が限定されている。 エヒメアヤメは、アジア大陸と日本列島の西南部との植物分布関係を研究する上から貴重な価値を有するものである。
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帯隈山神籠石
重要文化財
神籠石は佐賀市の北部山麓に築かれた古代山城(やまじろ)である。帯隈山(標高175メートル)を中心に切石を並べた列石線が約2.4キロメートルの長さで一周し、途中、北面に門跡1か所、南面に水門推定地3か所がある。昭和16年(1941)に発見され、同39年に発掘調査された。 列石線は帯隈山から天童(てんどう)岳、清兵衛(せいべい)山にかけ、尾根上を地形に合わせて複雑に屈曲し、途中、小さな谷を渡る場合は出水に備えて水門を設けていたと思われる。全体としては北側山頂部から下って南側山裾を廻り、2、3の低丘陵を取り囲んで馬蹄(ばてい)形状をなす。列石の用材は花崗岩(かこうがん)で、高さ60センチメートル前後の直方体に切りそろえられたものである。 神籠石という名称は、かつてこの列石が神域を示すものと考えられていたことによるが、発掘調査の結果、実は列石は土塁(どるい)の基礎であり、その背後上部には高さ2、3メートルの土塁が版築(はんちく)によって築かれ、また石塁前面の平坦部には約3メートル間隔で木柵が立てられていることがわかっている。 神籠石は現在、北部九州から瀬戸内一部にかけて12か所知られる。しかし、その存在は文献に明らかでなく、また規模や立地、域内に建物跡がみられないなどの点で、基肄城(きいじょう)跡など朝鮮式山城と様相が異なる。6、7世紀ごろの築城とされるが、正確な年代、目的、性格となると不明で、今日でもまだ謎が多い。
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白鬚神社の田楽
重要無形民俗文化財
白鬚神社は、近江の国白髪大明神の分霊を勧請した古社と伝えられる。勧請に奉仕した19の家があって、いずれも姓に丸字をつけているので、丸持の家といわれ、丸祭と呼ぶ古式の祭りが伝承されている。毎年10月18、19日に行われる秋季例祭に、川久保集落の人たちによって奉納される舞楽がすなわち田楽である。 白髪神社における田楽の史料上の初見は、寛文5年(1665)に編さんされた『肥前古跡縁起』が最初で、ついで 享保19年(1734)建設の石鳥居に「時奏村田楽」とあるくらいで乏しい。 田楽の起源は平安時代、田植のおりに笛や鼓などを奏しながら歌い舞ったものが、次第に形を整えて専業化し、神社仏閣などに奉奏するようになったものと考えられる。 白鬚神社の田楽は神社境内に設けられた玉垣(たまがき)(青竹で組んだ囲い)の中で行われる。 当日の早朝、田楽衆はみそぎをして身を清め、午前11時頃に神社社務所に集合し、衣裳を着つけ、化粧などの準備をする。ササラツキ4名(オモ2名、ワキ2名)は、美しく女装した少年で、顔は化粧をして点彩をほどこし、袖と裾に波と兎の紋様のある青地の着物に、黒の繻子帯(しゅすおび)を前に結んでその両端を長く垂らす。後頭部に女性のかもじを下げ、大きな花笠をかぶる。花笠は割竹を編んで紙を貼ったもので、造花をつけた竹へご数10本を突き刺している。この花笠の上に古鏡二面をとりつけた女帯を二筋ずつ垂らす。手にササラ(編木)を持つ。カケウチ(2名)は腰の前に太鼓を吊し背中に金銀で飾った木刀を負った若者による。ハナカタメ(1名)は鉢巻きを締めて手に造花をつけた棒と扇を持った幼児で、スッテンテン(1名)は金色の立烏帽子(たてえぼし)をかぶり手に小鼓(こつづみ)と扇を持つ。笛役(7名)は大人で、世襲で、うち熟練者1名が頭取(とうどり)として全体の指揮にあたる。 定刻になると行列を整えて、神社の鳥居まで「道行(みちゆき)」を行う。このとき、ハナカタメとスッテンテンは付き添いの男性に肩車をされて移動する。行列が鳥居にかかると、「鳥居(とりい)がかり」の曲が奏され、この後一同は境内に入り、社殿前に青竹で作られた玉垣内に入り、それぞれ定められた位置で、まず、「三三九度(さんさんくど)」が演じられる。カケウチは左右に相対して跪坐(きざ)し、ときどき掛声を発して太鼓を打つ。ササラツキのうちオモ2名が前方に進み出て相対して立ち、囃子につれてササラをつき、わずかに位置をかえる緩慢な所作が行われる。のち、ササラを置いて扇をひらき、緩やかな所作を行うと、オモにかわってワキ2名が進み出て、しばらくオモと同じ所作を行う。最後にスッテンテンとハナカタメが並んで進み、一周してもとの位置に戻って座る。ついで、「つきさし」「さざれすくい」「四方立(しほうだち)」「おさえばち」「むこうにみあし」といった曲が1時間30分余りをかけて演じられる。一部カケウチの活発な動きはあるものの、全体としてはゆっくりとした曲と動きである。 佐賀県下に残る唯一の田楽である。鼓打ちの稚児(ちご)をスッテンテン(シテテンの変化)と呼ぶなど田楽の古い姿を伝えている。また、子どもたちが主体なので稚児田楽ともいわれ、演者の衣装と化粧にも特色がある。特にササラツキは少年が女装をするが、花笠は他の田楽に見られない異風なもので、風流の影響が考えられる。演者は田楽奉納の期間中はみそぎをし魚肉を遠ざけ精進をしなければならない。もし、精進を破ったばあいは、演舞中に気分が悪くなるといわれ、改めてみそぎをし直す。地区に定着する中で独自の展開を見せ、地域的特色も顕著である。芸能の変遷の過程を知る上で重要であり、九州に残る希少な田楽である。
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木造普賢延命菩薩騎象像 康俊作 一躯
重要文化財
龍田寺(りゅうでんじ)は、元亨(げんこう)年間(1321~24)に、一地上人(いっちしょうにん)の開山になると伝える真言律宗寺院で、この木造普賢延命菩薩騎象像を本尊とする。 普賢延命菩薩は、息災延命を祈る修法(すほう)の本尊とされ、6本の牙をもつ白象上に二臂(ひ)あるいは二十臂に表現されることが多い。 本像は、4頭の白象上の蓮華(れんげ)座に結跏趺坐(けっかふざ)する二十臂の普賢延命菩薩像で、上下二重の円光背(こうはい)を負う。像高は71.7センチメートル。桧材による寄木造(よせぎづくり)で、表面に漆箔(しっぱく)を施こす。体内に内刳(ぐ)りを施し、目に水晶をはめこんで玉眼とする。頭上には金箔をはった銅製の宝冠を戴き頸(くび)飾を懸ける。 髻(もとどり)を高く結い、頬(ほお)が豊かに肉付いた丸顔で、目を切長に半眼とし、口元を締める。肩はややなで肩で、胸は膨らみを表現するために波打つ窪みを刻み、腹の膨らみは緩やかな弓状を描く線を刻んで表現する。膝は張り、厚みとも上半身に比べて小さいが、これは本像が高い台座に乗るため、下からの観賞に備えるためでもあろう。衣制は、背子(はいし)(肩掛)・条帛(じょうはく)・裳(も)を着けるが、これは厚手のものではない。衣の襞(ひだ)は写実趣味に基づきながら、細部を省いた強い曲線で表現する。 これらの特徴は、鎌倉時代末期から南北朝時代の仏像に共通する。 台座蓮肉裏の造立銘により、鎌倉時代末期の正中3年(1326)に、南都興福寺の大仏師康俊(こうしゅん)の作であったことが知られる。康俊は鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した慶派の流れをくむ正統仏師である。
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舟形石棺(附あり) 一合
重要文化財
佐賀市久保泉町川久保にある標高55.5メートルの熊本山の北側高所から箱式石棺1基、南側高所から箱式石棺5基と舟形石棺1基が昭和36年(1961)に出土した。 舟形石棺は、径30メートル余りの円墳と思われる高まりの土中に直接埋置されていた。福岡県八女(やめ)地方産の阿蘇熔結凝灰岩を3室に刳りぬいた身と蓋(ふた)からなる石棺は、長さ4.3メートル、最大幅88センチメートル、身の最大高53センチメートルと長大で、内面は赤く塗彩されている。身・蓋とも刳り抜きや両端にある孔は対応し、身の両側面にも円孔が見られる。身の底部は、舟底形を呈しゆるやかな曲線をえがき、内部は、主室を中心に両端に副室を設けておりその構造は舟型石棺の名称にふさわしいものである。 中央室の刳り抜きは長さ2.03メートルで、造り出し枕に頭を置いた人骨1体と差し違えてもう1体の人骨があり、鉄剣2口・鉄刀1口が出土した。中央室の両側にある小形の刳り抜きのうち、枕側の北室に多くの副葬品が納められており、南室からは用途不明の鉄製工具1個が発見されたのみである。 北室からは、革綴(かわつづり)式の短甲(たんこう)1具、四獣鏡1面、鉄剣1口、釶(やりがんな)1個、鉄針1本、ヒスイ製とメノウ製の勾玉(まがたま)各1個、碧玉製管玉(へいぎょくせいくだたま)18個、水色のガラス製小玉162個、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)2個が出土した。獣帯鏡(径10.7センチメートル)は徳島県節句山2号古墳出土鏡と同じ鋳型で鋳造されたもので、熊本山のものが後鋳品である。 この舟形石棺は、その構造および副葬品などからみても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀前半ごろの所産であると考えられる。
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関行丸古墳
史跡
脊振山南麓の狭い扇状地上に立地する。東に神籠石(こうごいし)で知られた帯隈山(おぶくまやま)、西に139.5メートルの山丘によって囲まれた平地に位置する前方後円墳である。昭和32年(1957)に佐賀県教育委員会、九州大学が発掘調査を実施した。後円部径35メートル、周囲の水田面からの比高差4.5メートル、幅13メートル、高さ1メートルで主軸の方向は西25度南である。葺石(ふきいし)・埴輪(はにわ)などの外部施設は認められない。 内部主体は短い羨道(せんどう)をもった単室の横穴式石室で後円部にあり、北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、奥壁の方が前の部分より約0.8メートル広い。側壁の架構は腰石の上に比較的小型の塊石を平積みにしてせり上げている。石室内は石障(せきしょう)によって区画された3つの屍床(ししょう)がつくられている。1つは北側にあって東西に長く、他の2つは西側にあって南北に長く、奥壁に平行して前後に並列している。3つの屍床には計5体の遺骸が埋葬されていた。石室内は天井部と羨道部を除いて、屍床から床石に至るまですべて鉄丹(に)が塗られている。羨道の幅は玄室に接するまで1.2メートル、開口部が2.2メートルで「ハ」字状に先開きである。 副葬品は、鏡4面、金鋼製冠帽、貝輪、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、小玉、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、辻金具、鋲(びょう)金具、三環鈴(さんかんれい)等が出土している。当古墳は6世紀初頭ごろの築成と考えられる。
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木造大日如来坐像 一躯 附 大日如来由来記 一巻、木札 六枚
重要文化財
妙福寺は、臨済宗、東福寺派で開山は円鑑禅師の高弟の大道一以大和尚である。 本尊の大日如来は、定朝様を忠実に受け継ぐ面貌の表現や一木造りの構造からみて、制作の時期は11世紀の後半と考えられる。作風は中央の様式をよく伝えて優れており、半丈六(仏像の大きさの基準となる1丈6尺の半分)の大きさは県内の平安仏では最大で像高164センチメートルである。 また、同寺には本像にまつわる由緒が伝えられており、恵心僧都源信の作とする。伝説的要素が強いものの、本像の制作の背景に天台宗の源信に係わる信仰が係わっていた可能性をうかがわせる点、脊振山系の仏教文化を考えていく上で興味深い。像の背面には鍋島勝茂の名を記す朱銘が残っている。修理の際のものと思われるが、勝茂の信仰あるいは文化事業の一環としてとらえるべきであろう。 本像は平安文化を伝える美術品として優れているばかりでなく、肥前仏像史上でも重要な位置を占めるものと考えられる。
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西原古墳出土石製表飾遺物 一個
重要文化財
西原古墳は脊振山系南麓の低丘陵上に築造された、横穴式石室をもつ全長約60メートルの前方後円墳である。 ここからは「石人・石馬」といわれている石製表飾遺物が出土しており、県内では唯一現存するものである。造営時期は、埴輪などから5世紀後半ごろと推定される。 この石製品は、基部を欠き、中央部には個人の庭石に使われていた際に開けられた二次的な孔が施されている。 残存長77センチメートル、最大幅46センチメートル、最大厚13センチメートルである。中央部には横帯を持ち、上部先端は両角とも欠損している。翳(さしば)・盾(たて)・靫(ゆき)のいずれかをあらわしたものである。 いわゆる石人・石馬は、古墳時代中期から後期にかけて北・中九州を中心に分布するものである。西原古墳のものは、その中でも初期の段階に属するものであり、地理的には最も西側で確認されたものである。
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丸山遺跡三号墳舟形石棺 一合(附)鉄剣二口 鉄矛一口 鉄刀子四口 土師器十点(四個以上)
重要文化財
丸山遺跡は、久保泉町大字川久保に所在し、狭い範囲に密集した竪穴式石室・横穴室石室・竪穴系横口式石室・舟形石棺・小石室といった多様な内部主体を持つ5~6世紀の古墳群に特徴づけられる。 3号墳は径13.8メートル、周溝まで含めると径16.6~16.9メートルの円墳で、墳丘上には葺石(ふきいし)を持つ。内部主体は墳丘中央部に直葬した1基の舟形石棺である。石棺は長方形の墓壙に埋置されていた。石棺内部には3体分の人骨が遺存していたほか、鉄剣2口・鉄刀子2点が副葬され、棺外には鉄矛1口・鉄刀子2点が置かれていた。また、墳丘上及び周溝内からは土師器甕・高杯・小型壷が出土した。これらの出土遺物から5世紀後半の年代が考えれられる。 石棺の石材は身・蓋ともに阿蘇熔結凝灰岩である。蓋は、全長232センチメートル、頭位幅114センチメートル、足位幅100センチメートル、高さ50センチメートルをはかり、いわゆる四柱屋根形をなし両方の妻には円柱状の縄掛突起が造り出されている。棟部には狭い平坦面を設け、屋根は直線的に周縁部に延び、平縁を有さない。身は、全長235センチメートル、頭位幅117センチメートル、足位幅104センチメートル、高さ56センチメートルをはかり、小口部には円柱状の縄掛突起が造り出され、周縁部には縁辺突帯がつく。側面はわずかにすぼまりながら安定した平底へ続く。内部は平面長方形にほぼ垂直に刳り込まれており、長さ181センチメートル、頭位幅74センチメートル、足位幅69センチメートル、深さ39センチメートルをはかる。蓋・身ともに内面は赤色顔料で塗彩されている。 この舟形石棺と同形式の石棺は、熊本県菊池川下流域と福岡県大牟田市周辺に集中して分布している。このことは佐賀平野と筑後南部・肥後北部との関連を示唆するものであって、5世紀後半における北部九州の社会・政治体制を検討するにあたって重要な資料と位置づけることができる。
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佐賀市花納丸古墳出土遺物 一括(附)花納丸古墳出土遺物の記録 一巻
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保字上分にあった花納丸(かのうまる)古墳の出土品とそれら遺物の記録である。今日に伝わる遺物に変形文鏡1面、三環鈴(さんかんれい)1点、管玉(くだたま)11点があり、5世紀後半代に比定される。 記録では、天保11年(1840)11月に花納丸古墳が、破壊された折に、前記の遺物が石室の3隅から出土し、ほかに長さ45センチメートル位の鉄刀と鉄線をよって金メッキしたような釘が発見されたと伝えている。 変形文鏡は、面径9センチメートルの仿仿製鏡(ぼうせいきょう)である。背面の文様は、円座鈕(えんざちゅう)のまわりの内区に8個の乳(にゅう)を配し、各乳を双脚文(そうきゃくもん)が囲んでいる。その外に割り付けの乱れた複線波文・外向きの陽起鋸歯文(きょしもん)をめぐらし、縁は素文である。三環鈴は青銅製で、径3.8センチメートルの環体の三方に径2.7センチメートルの鈴が直接ついている。小型品に属する三環鈴であり、馬具の一種である胸繋飾(むながいかざり)とも推定される。管玉はいずれも碧玉(へきぎょく)製で、孔は片方から穿(うが)たれている。長さは2.3~3センチメートルである。 記録は二葉からなり、現在は巻子(かんす)に表装されている。1葉は、佐賀藩の儒学者、草場佩川(はいせん)(1787~1867)が書いた記録・考証と画家、歌人、古川松根(まつね)(1813~1871)の模写図を入れた版摺(はんず)りで、遺物が出土した翌年冬の刊行である。他の1葉は、佩川の草稿の写しである。記録の公表には国学者、南里有隣(1811~1864)も加わっている。これらは藩政時代の貴重な考古学的資料である。
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関行丸古墳出土遺物 一括
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保に所在する関行丸(せきぎょうまる)古墳から出土した遺物である。関行丸古墳は、西南向きの全長55メートルの前方後円墳である。 関行丸古墳の内部主体は短い羨道(せんどう)をもつ横穴式石室で、後円丘の前半に位置し北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、石室の奥側半分に板状の仕切石で3つの屍床(ししょう)を造り、各屍床から合計4体の人骨と副葬品が、また、石室の前半部と羨道部からも遺物が出土した。 第1屍床からは熟年~老年男性とともに方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)(径10.1センチメートル)、歩揺(ほよう)と魚形をとりつけた金銅製半筒形装飾具(長14.9センチメートル)1双1具などが出土した。奥壁に接した第2屍床からは若年1体(もう1体か)と、珠文鏡(径7.3センチメートル)、金銅製冠片・貝輪・刀子(とうす)・尖頭(せんとう)工具が、また第3屍床からは熟年~老年人骨と20歳くらいの男性人骨、変形文鏡(径7.6センチメートル)、珠文鏡(径8.8センチメートル)・勾玉(まがたま)・棗玉(なつめだま)・管玉(くだたま)・ガラス小玉・貝輪・刀子・鏃(やじり)・鞘尻(さやじり)状金具が出土した。石室前半の床面からは鏃のほか鉸具(かこ)・鋲留(びょうどめ)金具などの馬具類が、羨道閉塞(せんどうへいそく)の詰石(つめいし)近くから三環鈴(さんかんれい)などが出土した。三環鈴は、外形11センチメートルの大形のものである。中に入る鈴子もそれにふさわしく径2センチメートル前後の丸石である。 関行丸古墳は未盗掘墳であり、石室構造の特徴や鏡・金銅製品・貝輪・三環鈴などの出土遺物からみて紀元500年前後に築造・追葬されたもので、古墳文化を研究する上で価値の高い資料である。
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木彫彩色婦人坐像(観世音胎内仏一躯)
重要有形民俗文化財
川久保(佐賀市久保泉町)の邑主であった神代直長の娘、成姫は、本藩2代藩主鍋島光茂の養女となり、白石(しらいし)(三養基郡みやき町)の邑主鍋島直弘の嗣子鍋島直氏(又は直紹)に嫁したが、難産のため18歳(延宝4年〈1676〉8月10日)で死亡した。このため、直長は成姫のめい福を祈って慈音院を建立し、成姫の坐像を刻んで本尊観世音像の胎内に納めた。しかし、このことはいつしか忘れられていたが、明治年間に寺の裏山からの火災で、本尊を避難させたとき本尊の胎内に物音がしたので調べてみたら木像が安置されていた。これが成姫の像で、婦人坐像に彫像されており、現在は本尊とともに安産の仏として信仰されている。 製作の年代は、延宝4年(1676)以後1~2年問と推定される。像高は21センチメートルで、小さな人物像にすぎないが、県内には婦人像はほとんど他にその例がなく、江戸時代前期の若い武家婦人の風俗をそのまま伝えているものとして価値がある。
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石造十一面観世音菩薩立像 一躯
重要文化財
勝宿(かしゅく)神社と小川をへだてた山腹の小堂に石造十一面観世音菩薩立像が安置されていて、后良(きさきら)観音と呼ばれ、今日でも地域の人々の厚い信仰を集めている。 像高118センチメートルの石造で、宝冠に化仏を頂く十一面観世音菩薩の立像である。右手は掌を前にして垂下し、左手は屈して胸前で蓮華を執るが、両手・両足ともに体部に密着した浮彫りで、窮屈な表現となっている。顔面は大きくて下半身が寸詰まりとなり、しかも下半身の表現は簡略化されている。衣文彫りは浅く、正面観のみの表現であって、側面及び背面は素材のままの荒削りとなり、中世石像彫刻の様式をよくとどめている。体側両面に、次のような造立銘が陰刻されている。 左体側「河窪村中泉〇〇天正十三暦三月廿如意林日」 右体側「奉彫刻妙観音尊像一基〇〇〇」 この造立銘によって、天正13年(1585)に彫造された中世末期の石像であることが知られる。 柱上の石材を用いて彫顕した一種の板彫り像であって、県内の石像彫刻が、線彫→浮彫→半肉彫→板彫、丸彫→肉彫と進化していく石像彫刻の進化過程を知る上から、県内では数少ない遺例の一つであり、板彫系統の初現的な石像の一例として注目すべき価値を有している。