古村周辺遺跡(ふるむらしゅうへんいせき)
古村周辺遺跡(ふるむらしゅうへんいせき)
■所在地佐賀市久保泉町
■年代中世
■登録ID2928
下六の古村一帯には、中世遺跡が多い。
中世とは、平家が滅んだ1185年から、鎌倉・南北朝・戦国の時代を経て、関ケ原の戦いの1600年までをいう。
10世紀初頭には、各地に荘園といって貴族・社寺の私的領有地ができ、春日・松梅・金立・久保泉・西郷は、安富庄として後白河法皇が建立された長講堂の御領であった。ところが、鎌倉幕府の守護地頭配置によって武家に侵略され、南北朝動乱の後は庄園は廃れ、小地頭を勝手に名乗る小豪族や家人(下向武士)により新田が開発され、そこに居館や砦を構え、周囲を濠で囲んだ。
古村の縦横の濠は、右図に示すように中世の屋敷遺構である。下一の本村や村徳永周辺にも、これに似た濠跡があり、当時日常生活に使われた土師器やカワラケの破片が見当る。
この集落内にもエンシュー寺という寺屋敷があり、東の方には玉泉坊・ギチョー坊・デンソウ庵・神仏混こうの白鬚社・八幡社といった寺社が多く、也足庵のみが現存する。また、大刀屋敷・大刀堀(立掘、館堀)の地名もあり、砂鉄塊がある由、古刀の製作が為されていたともいう。
この集落の北から東へかけて「古陣」といい、字名を矢の助という。その一画に100m×200mの長方形の林を囲む濠がある。
内側は山林になっているが、三重の土塁(土屯)を以て築かれた砦がある。土地の人は「スーフクジ」という。崇福寺なのか、文献には見当らないし、山林なので内部遺構も今の処わからない。
戦国末期、神代長良が騙し討ちされた東千布商の土生島青土城の構築に類似しているので、中世末の平地砦・館跡と想定する。
出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.18〜19