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[川副町][ 物語・四方山話]は24件登録されています。
川副町 物語・四方山話
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川副七佛
医薬の佛として薬師如来が知られるが、川副七佛について『肥前古跡縁起』(寛文乙巳年・大木惣右衛門著)には次のように記されている。 川副庄、一本七佛薬師如来は行基菩薩の御作、聖武天皇の勅願也、楠一本を以て尊形七佛を作り給ふ。依て参詣の輩は元木より参初めて木の未にて詣で納む。柳川副七佛一番の堂塲は徳富村の東光寺、二番には寺井の長福寺、三番には崎ヶ江の法願寺、四番には米納津東光寺、五番には南里正定寺、六番には新郷本願寺、七番には袋村の寒若寺の薬師堂にて参納む、貴賤道俗せきあへす衆生悉徐の本願に頼を掛て一筋に祈る、験の類無き霊佛にてぞ在しける…以下略 諸病平癒祈願のため法願寺(現「法源寺」)では、戦前まで正月頃に長さ3間ほどの大数珠を回していた。これは大数珠を中心として中に僧侶が入り鐘を鳴らし、「カンカンタンポ」の唱え言に合わせて数珠を順送りしながら祈願する行事であった。 また正定寺の土用丑の日の頭痛焼きも、頭痛を病む人にはよいとされる。
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神佛(眼病平癒)
上早・執持院の側の妙見様の石祠に参るとよいとされる。ここに毎朝お水を供えて拝み、その水で目を洗うとよいという。 また、西古賀・西福寺境内の石地蔵には、白紙にメメメ……と書いて祈願するとよいという。西南里には、石地蔵の目のふちをこすり、その手で自分の目をこするとよいとする地蔵がある。 その他にも、大川の生目八幡などの目薬をいただいてさすとよいともされる。
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神佛(イボ地蔵)
和崎のイボ天神様に大豆を自分の年の数だけ煎ってあげるとよいとされる。ここは周辺地区よりむしろ、町外からの参拝者が多いという。他には、大豆を煎って供え、それを食べると治る(新村・天神社イボ地蔵)、煎った豆を、年の数だけ人の知らぬようにあげて参る(大詫間下ノ小路・イボ地蔵)、などの地蔵があり、久町・鰡江天満宮などにもある。
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神佛(夜泣き防止)
「雄鶏を描いて、それを逆さにはっておくと夜泣きがやむ」 「筬(おさ)を枕の下に敷くと止る」などといわれるが、崎ヶ江の毘沙門様に子どもを伴って参り、お茶とお菓子をあげて願をかけるとよいともされる。お茶は子どもに飲ませ、お菓子は近所の子ども達に分けて食べさせると夜泣きが治るという。
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神佛(ほおばれ)
大蔵院(西古賀)、正傳寺(大詫間)などに呪いを頼んで平癒を祈願したり、弁財天の護符や膏薬をうけてきて、頬にはるとよいとされる。弁財天は氏神・海童神社や佐賀市嘉瀬町荻野の弁財天や佐賀市八戸の弁財天などにも参ったという。
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チョウヒン鳥(動物の起源)
むかし。 あるところに、お母さんと親不孝な息子が住んでおったと。 ある日、お母さんが死ぬ間際になって、親不孝な息子に、「俺が死んだ時ゃあ、海端ゃ埋めてくいろ」と言った。 お母さんは、親不孝な息子が反対ばかりしていたから、そのように頼んでおけば山に埋けてもらえるだろうと思った。そしてお母さんは、やがて息をひきとった。 ところが、親不孝な息子は、「お母さんの、あがん言いよらしたけん、死んでからなっとん、ほんなことせじゃあ」と、独り言を言って、お母さんの死体を海端へ埋葬した。 そのため潮が満ちてくるたびごとに親不孝な息子は、「お母さんの墓が沈む」 と言って、泣いていた。とうとう親不孝な息子は鳥になってしまい、潮が満ちてくるたびごとに、 「チョウヒン、チョウヒン」と鳴いて、お母さんの墓が流れてしまうと心配しているということさ。 そいばあっきゃ。 (船津 副島ツタ)
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お釈迦さんの話(動物の起源)
むかし。 お釈迦さんは臨終なさろうとする時に、いろいろな鳥獣物が見舞いに来たと。その中で雀がいちばん口に来た。燕は、紅つけ鉄漿つけして最後に来た。 だから、お釈迦さんは雀に、「お前は、いちばん口に来たけん、お米のとるんない、いちばん口に食うてよか」と言われた。 それから、お釈迦さんは燕に、「お前は、いちばん遅う来たけん、虫どん食うとれ」と言われた。 蛇がお釈迦さんに、「私ゃ、何ば食うてよかでしょうか」と、言って聞いた。すると、蛙か側から口出しをして、「俺が尻どんねぶっとれえ」と言った。 だから蛙は、蛇から呑まれるようになったげな。 そいばあっきゃ。 (西干拓 田中スキ)
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猿と蛙 (動物昔話)
むかし、むかし。 あるところに、お爺さんとお婆さんが餅を搗いておったと。その様子を両側から猿と蛙がじっと見ていた。ところが、お爺さんとお婆さんは何処かへ行ってしまった。 すると、猿と蛙はお互いに餅のことで、「私が見つけた。私が見つけた」と、言って争った。 猿は、臼を転がして熱い餅を取った。そして猿は、木に登って自分ばかり餅を食べようとしていたら、それが枯枝にひっかかり下に落ちてしまった。蛙は、その餅を拾いあげた。 すると、猿は蛙に、「私が見つけたとこれぇ、私にやれ」と言った。蛙は腹を立て、その熱い餅を猿の顔に目掛けて投げた。その熱い餅は、猿の顔にひっ付いてしまった。猿は、 「熱、熱、熱」と言った。 猿は、その熱い餅を顔から取って、蛙に投げ返した。 だから、猿の顔は真赤になり、蛙の目玉は飛び出してしまったとさ。 そいばあっきゃ。 (平田分 西川フジ)
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カラスとタニシ (動物昔話)
むかし。 長いあいだ旱魃が続いて、田んぼの水がなくなってしまったと。 田んぼにいたタニシは、飛んできたカラスに堀の中に連れて行ってもらおうと思って、 「カラスさんとは、そなたのことか。足にビロウドの脚絆をはめて、『ゴホン、コホン』と鳴く声聞けば、昔、お釈迦さんのお説教の声よ」と、言ってほめた。 すると、カラスはいよいよ得意になって、 「そんない、助けてやろう」と言った。そしてカラスは、タニシを口にくわえて堀へ 飛んで行く途中で、 「もう、タニシ、恩と思え」と言って、何度も繰り返した。タニシは、余りカラスが恩にきせたので、堀の中へ落としてくれた時に、 「そうそうは、恩とは思われん」と言った。 そいばあっきゃ。 (久町 野本勝一)
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ワラスボが鯛に恋した (動物昔話)
むかし。 ある日、ワラスボ(ハゼ科)が、きれいな色をしている鯛に恋をしてしまったと。 ところが、鯛はワラスボに、 「どうも、お前好かん。そがい見にっか顔して、目はなし、こうもして」と言った。 だから、ワラスボは憤慨して歯をくいしぼっているげな。 (野村 牟田新市)
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山ン姥 (人間と動物)
むかし。 あるところに、一郎・二郎・三郎の3人兄弟が住んでおったと。 ある晩、一郎は大根畑へ見に行った。すると、山ン姥が大根を引いてガブガブと、食っていた。一郎は恐ろしくなり、家へ大急ぎで戻った。 そのことを知った二郎が、大根畑へ見に行った。やはり二郎も山ン姥が恐ろしくなり、大急ぎで家へ戻った。こんどは三郎が大根畑へ見に行った。一郎や二郎が言ったように、山ン姥は大根を引いて食っていた。 三郎は、 「婆さん」と言って、山ン姥が大根を食っているところへ行った。すると、山ン姥は三郎に、「俺が子に養子来んか」と言った。三郎は、山ン姥から言われるままに養子になった。 山ン姥の住んでいる家の裏山には、きれいな蔵が建てられていた。三郎は、蔵の前で山ン姥から踊りを習わせられていた。 ある日、山ン姥が留守中に三郎は蔵の中を開けた。その中には、金鎖につながれもの言う馬が1匹いた。もの言う馬は三郎に、 「飯ば炊て食わせろ。3日すっぎ、俺達食わるっじゃ。山ン姥から」と言った。三郎はその馬に、 「どがんすっちゃいきゃ」と言った。その馬は三郎に、 「小豆飯ば3升食わせろ」と言った。 三郎は、ものいう馬が言ったとおり、小豆飯を3升炊いて食わせた。すると、その馬が金鎖につながれていたが、それがバラバラと切れてしまった。その馬は三郎に、「今のうち乗れ」と言った。 三郎は、その馬に乗った。また三郎は、その馬から3個の玉を貰った。山ン姥は、何処からともなく現れて、3個の玉を三郎から取りあげた。そして山ン姥は、 「ヒノヤマトウゲ (火の山峠)」と言った。すると、その馬と三郎は、たちまちのうちに千里も吹き飛ばされてしまった。 次に山ン姥は、 「オオミズ (大水)」と言って、玉を投げた。たちまちのうちに大水になったので、山ン姥は三郎とその馬を追いかけることはできなかった。 三郎は、山ン中の一軒家へ寄った。そこには、お爺さんとお婆さんが住んでおった。三郎は、その家へ泊めてもらうために、山ン姥から習わせられていた踊りをして見せた。お爺さんとお婆さんは、三郎を家へ泊めた。やがて三郎は、その家から風呂焚き丁稚になって、金持ちの家へ通った。 ある日、金持ちの家で芝居があった。三郎は自分の顔に煤の付くほど働いた。三郎は、顔の煤を洗い、八丈絹の着物を身につけ山ン姥から習わせられていた踊りを踊ったら、そこの娘に惚れられてしまった。2人は、いつの間にか愛し合うようになった。そして、やがて娘は赤ちゃんを生んだ。娘の親は番頭たちに、「誰子か」と、言って聞いて回った。しかし、番頭は誰も心当たりがなかった。番頭が赤ちゃんを抱いても泣いてしまう。三郎が抱く番がきたので番頭は、「こいが抱いたっちゃ、顔は猫ンごとして、汚るっくさい」と言った。そこで三郎は、「半時間、暇くいろ」と言った。 三郎は顔を洗い、八丈絹の着物を着てりっぱになって赤ちゃんを抱いたら、泣きやんだということさ。 そいばあっきゃ。 (新町 糸山サノ)
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蛇聟入り (異類婚姻)
むかし。 あるところの娘のところへ、蛇が美男子に化けて通って来ていたと。ところが、娘は妊娠してしまったげな。 父親は娘に、 「誰子か。こがん腹の太うなって」と言った。娘は父親に、 「わからん。誰か知らん」と言った。父親は娘に、 「そがんわからんないば、俺が針と糸で、尻じゃい、足じゃい、袖じゃい、そいばちゃんと刺しとっぎ、印のちゃーんとわかっ」と言った。 その晩、いつものように美男子が娘のところへ通って来た。娘は、父親から忠告されたとおり、針に糸をとおし、美男子の裾にそれを刺した。 翌朝、父親はその糸の跡をたどって行った。すると、沼の所で糸の跡は消えていた。沼の中から、 「俺もう、がんして誰てろの腹ば太うにゃあてね、子持つ。3月3日の桃酒ば飲むぎ、お前がそがん娘の腹ゃあ入れとったっちゃ、しっきゃあ腹の子は死んでしまう」と、いう話し声が聞こえてきた。 その話を聞いた父親は、家に大急ぎで戻って娘に桃酒を飲ませたと。すると、蛇の子が何匹も下ったげな。 そいばあっきゃ。 (西古賀 西村トワ)
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蛇女房(異類婚姻)
むかし。 ある男が、堤のところで苦しんでいる大蛇を助けたと。 ある晩、大蛇は女に化けて、ある男のところにやって来た。その女は、ある男の嫁になった。 ある日、嫁は子を生んだ。その時に覗いてはならないと、嫁から言われていたが、ある男はそれを守らなかった。ある男は、嫁の正体が大蛇であることを見破った。そのため嫁は、ある男が引き止めるのにもかかわらず、 「こいば腹の減ったときゃ、くわえさせろ」と言って、乳飲み子のために自分の片方の目玉を与えて堤へ立ち去って行った。 乳飲み子は、目玉をしゃぶっているとおとなしかった。しかし、その目玉を悪い奴から盗まれてしまった。そのため乳飲み子は泣くばかりだった。ある男は泣き続ける乳飲み子のために悩まされた。とうとうある男は、大蛇のいる堤へ行き、 「しかたなか。目ばまあいっちょくいてくんさい」と言った。大蛇はある男に、 「昼も晩もわからんけん、お寺の吊り鐘ば朝夕打ってくいろ」と言った。 ある男は、お寺の吊り鐘を打つことを約束した。大蛇は、片方の目玉をある男に与えた。ある男は、その目玉を喜んで持ち帰り乳飲み子にしゃぶらせた。すると、乳飲み子は不思議に泣きやんだ。 それからというものは、ある男は毎朝夕に寺の吊り鐘を打つようになったけな。 (新町 糸山サノ)
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子育て幽霊(異常誕生)
むかし、むかし。 あるところに飴がた屋があったと。 ある晩から、飴がた屋へ毎晩、1時か2時ごろになると、きれいな奥さんが雨戸を叩いて買いに来るようになった。飴がた屋の主人は、 「毎晩毎晩、この1時か2時に飴がた買いや来らす奥さんは、何処の奥さんやろうか」と言いながら、その奥さんの跡をつけて行った。すると、あるお寺の門前でその奥さんの姿が、すうっと消えてしまったげな。 翌朝、飴がた屋の主人は和尚さんに、 「こい、どうしたやろうか」と言った。そして、話をたどってみたら、むかし、妊娠した6、7ヵ月位の奥さんが土葬されておったと。その中で赤ちゃんだけが飴がたを食べて生きていたげな。 亡くなった奥さんが、幽霊になって飴がたを買いに来ていたということさ。 そいばあっきゃ。 (下早 内川英作)
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継子と尺八(葛藤)
むかしむかし、大昔。 あるところに、姉弟とお父さんが住んでおったと。 ある日、お父さんは後妻を貰った。そして継母は、姉弟を憎むようになった。そんなこととは知らずにお父さんは、弟に硯、姉に鏡のみやげを買ってくるという約束をして、京都へ商いに行った。 継母は、お父さんが留守にしたので、これ幸いとばかりに2人の子供を味噌釜に入れて炊いていた。そこへ虚無僧さんが通りかかり、 「あんたぁ、何炊きよっ」と言った。継母は、 「味噌豆炊きよっ」と言った。すると虚無僧さんは、 「あぁ、味噌豆炊きよんないば、私も少しいただこうかぁ」と言った。継母は、 「いんにゃあ、まぁーだ煮えとらん。そいけんがあの、煮えとらんけん」と言った。虚無僧さんは、 「そんないば」と言った。 虚無僧さんは、その家を立ち去り7里ぐらい歩いた。それでも虚無僧さんは、味噌豆のことが妙に気にかかり、その家へ立ち戻った。そして虚無僧さんは、 「もう、味噌豆は煮えたじゃろうか」と言った。すると継母は、 「なぁーい。もう、煮えてしみゃあになった」と言った。虚無僧さんは、 「おかしかねぇー。あってんが、そんときまじゃあ、『どがんでん煮えとらん』ち言うて、もう煮えてしもうたかにゃあ」と言った。 継母は、すでに2人の姉弟を茹殺して、裏の竹やぶに埋けてしまっていた。だから、味噌豆は7里も立ち戻って食べるもんだと。 それから数年後、虚無僧さんはその家へ立ち寄った。継母は、 「うちゃあ、あの、裏に竹の生えたよ」と言った。すると虚無僧さんは、 「その竹ばいっちょ見せてんござい」と言った。継母は虚無僧さんを案内すると、 「こりゃあ、きれいな尺八竹たぁ。こい1本、私に相談なでけんじゃろうかぁ」と言った。継母は、 「なぁい、よかろう」と言った。 虚無僧さんは、竹を切って尺八を作り吹いてみると、 ♪京の硯は いぃやいゃあ 京の鈍も いぃやいゃあ 父ちゃんうれしや チンチロリン 嚊さんうらめしや チンチロリン と、いう歌が流れた。虚無僧さんは、 「やれ、不思議や。ありゃあ、どうした不思議な竹じゃろうかぁ。この竹の生えかげんば、いっちょ教えてくいろう」と言った。すると継母は、 「この前、あなたのお出んさっ時、炊きよったとは、この子供ば炊きよった。そいけんが、そけぇ葬ったぎんと、こぎゃん竹のきれいに生えたけん、あなたの尺八ばあげぇくんさったぎ、そがな声のしよっ」と言って、白状した。 やがて、京都からお父さんが戻って来た。お父さんは、 「うちの誰かしと、誰かしは何処えおっかぁ」と言った。継母は、 「向こうにき遊びぎゃあ行たとっ」と言った。お父さんは、みやげを子供に早く見せて喜ばせてやりたかったので、 「ほんなこてぇ、京の硯も買うて来た。京の鏡も買うて来たけん」と言った。 継母は、どうすることもできなくて、よその子供を2人連れて来た。お父さんは、 「そい、うちの子じゃなか。こやもう、隣のにきの子供ば連れて来たっちゃあ、うちの子じゃなかばい。うちんたぁどがんしたかい」と言った。継母は隠しきれなくなって、虚無僧さんに白状したとおり、お父さんに告白したげな。 (下ノ小路 本告ヨシ)
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大歳の客(葛藤)
むかし。 あるところに、釜を洗う時に、その底に付いた飯粒を溜めて、それを炊いて食べていた女中さんがおったと。 ある歳の晩に、主人から女中さんは、 「今年の火をね、来年まで続くっこと、今晩一晩は火ば消さずに、とっとかんばでけん」と、言われていた。しかし、女中さんはうっかりその火を消してしまった。女中さんは、 「さぁ、どがんしてこいば火つきゅうか」と、独り言をいった。 女中さんは、困り果てて夜遅くまで起きていた。すると遠くからちょうちんの行列の火が、こちらへやって来るのが見えた。女中さんは、その火を貰おうと思った。それは、葬式の行列のちょうちんの火だった。女中さんがその火を乞うと、 「火はくるっけれども、この棺おけまでお前が貰わんないば、火ばかいはくれん」 と、言われた。 女中さんは、火種の欲しさのあまり、棺おけまでも貰ってしまった。女中さんは、棺おけに濡れむしろを被せ、かま屋に隠していた。 翌朝、奥さんがかま屋に来て女中さんに、 「こりゃ何置とっか」と言った。女中さんは、 「実は、消してできないこの火を消してしもうた。そいで、さぁどかんしたこんなよかろうか。何で火をつきゅうかと思うて考えて、まぁ小便に出たところが、遠方から火の来よったけん、その火の来んまで待っとった。そうしたいば、葬式の火やった。そいぎ、その火を貰うて、つきゅうでしたけれども、『葬式の棺おけまで貰わんば、火ばっかいはくれん』と言うことで、それは乞うごとなかけれども、火は消していかんもんだから、私が何とか始末しゅうと思うて、夜でもあったから、かま屋の後ろにちょっと濡れむしろを被せとった」と言った。すると奥さんは、 「こがな物ば乞うて、お前どがんすっかい。何処ぇ埋むっかい。まぁ、とにかく何の入っとっこっちゃい、中を開けてみろ」と言った。 「こりゃほんにどうしたか。お前の好きな物をね、何でも作ってやるから、お前の好きな物を話せ」と言った。女中さんは、 「私は、お観音さんがいちばん好き。だから、お観音さんの堂を作ってください」 と言った。 そこへ旦那さんもやって来て、 「そや、お前がそがん言うない、お観音さん堂を作ってやる」と言った。 女中さんは、きれいなお観音堂を作って貰い、その中に入り、そのままお観音さまになってしまったということさ。 (下早 古賀八郎)
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ぼた餅は仏さま (和尚と小僧)
あるところのお寺に、和尚さんと小僧さんが住んでおったと。 ある日、ぼた餅を檀家の人から貰った。和尚さんは、その餅を自分だけで食べようと思って、戸棚の中になおした。 ところが、小僧さんは和尚さんの留守の時食べてしまった。小僧さんは、仏さんかぼた餅を食べたように見せかけるために、その口端に餡を付けた。 和尚さんが戻って来て、ぼた餅を食べようと戸棚の中を開けた。ところが、ぼた餅はなかった。和尚さんは、 「お前が食うたろう」と言った。小僧さんは、 「私ゃ食うていません。仏さんが食うた」と言った。 和尚さんは、仏さんを見ると口端に餡を付けていた。和尚さんは仏さんを叩くと、 「クワーン」と、音が出た。和尚さんは小僧に、 「『食わん』と言いよんさっ。お前が食うたろう」と言った。すると、小僧は和尚さんに、 「水ン中に入れてんさい」と言った。 和尚さんは、仏さんを水の中に入れると、 「クッタ。クッタ。クッタ」と、音が出た。小僧は和尚さんに、 「そーら、みんさい」と言った。 和尚さんは、仏さんがぼた餅を食ったと思ったげな。 (平田分 西川フジ)
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馬の落とし物 (和尚と小僧)
ある寺に和尚さんと、おしゃべりの小僧さんが住んでおったと。 和尚さんは小僧さんに、 「見たもんな見たごと、聞いたもんな聞いたごと、ようしとれ」と言って、叱っていた。 ある日、和尚さんは、 「今日は、小僧、小僧。供養に行くけん馬いっちょ出せ」と言った。小僧は、和尚さんから言われたとおりに馬の支度をした。 和尚さんは帽子を被って馬に乗り、小僧さんはその後ろから歩いて行った。供養先へ行く途中、急に強い風が吹いた。和尚さんの帽子は吹き飛ばされた。小僧さんは、知らんふりをして帽子を拾わなかった。 和尚さんは供養先へ着くと、 「あら、小僧、小僧。帽子は拾うて来たかぁ」と言った。すると小僧さんは、 「あんたぁ、『見たもんな見たごと、聞いたもんな聞いたごと、ようしとれ』ちゅうたけん、見てきた」と言った。和尚さんは、 「馬鹿が。馬から落ちた物は、何でん持って来ぇ。早う取って来ぇ」と言った。 小僧さんは帽子を取りに戻った。小僧さんは、馬の糞を拾って、帽子の中に入れて戻って来た。小僧さんは、それを和尚さんに手渡した。和尚さんは、 「馬鹿がぁ。糞まで持って来ン者が何処ぇあっかぁ」と言って、小僧さんを叱った。すると小僧さんは、 「あんたぁ、和尚さん。『馬から落ちた物な、何でん持って来ぇ』ち、言いんきったもんじゃい、こいも馬から落ちたけん」と言った。 そいばあっきゃ。 (西古賀 中川ミヨノ)
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馬鹿聟(愚人譚)
むかし。 あるところに、馬鹿聟さんとその嫁さんが住んでおったと。 ある日、聟さんは嫁の里へ行った。すると、嫁の母は聟さんに団子を食べさせてくれた。聟さんは、団子がたいへんうまかったので、嫁に作ってもらおうと思って、 「団子、団子」と言って、家へ帰っていると踏張戸があった。聟さんは、それを踏み越える時に、 「ドッコイショ」と言った。 聟さんは、すっかり団子のことは忘れて、「ドッコイショ、ドッコイショ」と言って、家まで帰った。そして、聟さんは嫁に、 「ドッコイショばして食わせろ」と言った。嫁は、何のことだかさっぱりわからなかった。 嫁は、 「『ドッコイショ』ち何かんたぁ」と言った。すると聟さんは、 「ドッコイショはドッコイショくさっ」と言って、嫁を殴った。嫁は、 「あんたの叩ゃあたけんが、団子ンごたっコブンでけた」と言った。聟さんは思い出したので、 「その団子、団子」と、言ったということさ。 (鹿江 鹿村キミ)
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屁ふり嫁(愚人譚)
あるところに、よく屁をひるお政さんという娘が住んでおったと。 ある日、仲人さんがその娘を嫁に貰いにやって来た。すると、その親父さんは、 「ないもかんも、家の娘ぁもう、屁ふって、どがんでんされん。くいられんたい」と言って、仲人さんに断った。仲人さんは、 「いんにゃ、誰でん人間な、屁はふっさい。屁ふらんないどがいすっかい」と言った。親父さんは、 「そんないよかたい。そがいお前の言うない、くりゅうだい」と言った。 そんな縁談話があってから、ある日のこと、娘は仲人さんの世話で、ある男の嫁になった。嫁は屁ひることを我慢していたので、 「お父さん、屁ふってよかじゃいきゃん」と言った。親父さんは、 「おりょ、屁ばふらじゃあ。おとん、俺どみゃあ1日何度ふっかん」と言った。するとお政は、 「そんない棚の上の、あの、何でんのけとってくんさい」と言った。親父さんは、 「いくらおとんの屁でん、そがい太か屁のあんもんかん。よかよか」と言った。お政は、 「そいないば」と、親父さんに言いながら屁をひった。ところが、棚の上の物は、ガランガラン、バチャンバチャンと、落ちてしまった。親父さんは、本当に目をまわさんばかりにびっくりしてしまった。そして親父さんは、 「お政よ。いくら屁ふいでん、そがい太か屁ふんない、おとんのごとあった出てくいやい」と言った。 お政は、そんなことを親父さんから言われたので、2、3日後に仕方なしにその家から出た。お政が実家に戻っていると、鍬打ち込んでいるある人に出会った。ある人はお政を見て、 「おりょう、お政さん。お前あこの頃ぞ嫁御ぇなって、もうはち来よっのまい」と言った。お政は正直に、 「ないもかいも、屁ふったぎ、お前、ださいたたい」と言った。ある人は、 「おうーろ。お前の屁はそがん太かのまい」と言った。お政は恥ずかしくも思わないで、 「太かくさい」と言った。 ある人は、お政の尻の近くで鍬打ち込んでいた。お政は、 「さあ、ふっばい。ブーッ」と、大きな屁をひった。 ある人の鍬は、何処かへ屁で吹き飛ばされてしまった。そのため仕事ができなくなり、百姓の家に奉公した。やはりある人は、鍬のことが気にかかって、奉公先の鍬ばかり見ていた。 ある人は、早朝に田んぼへ馬使いに行った。ところが、その馬を途中で博労に売ってしまい、馬使いどころか、どうすることもできず、 「おーりょ、どがいすっかねえ。あの鍬ば一ちょのうにゃあて」と、独り言を言いながら、鍬を探していた。そこへ主人が朝飯を持って来た。馬もいないので主人は、 「おったぁ、馬ぁどかんしたかん」と言った。ある人は、 「ないもかんも、ケラ (虫の一種) の曳いてはしったたんたぁ」と言った。すると主人はまた、 「おったあ、馬あどかんしたかん」と言った。ある人は、主人に博労に売ったとは言わずに、 「ケラのぶっ張ったたんたあ、ケラの曳いてはしったたんたぁ」と言った。 それから、「鍬はねずみの曳く。馬はケラの曳く」と、いうことげな。 (野村 高森アヤ)
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糸脈同心(その他の話)
むかし。 あるところに医者が住んでおったと。 その医者は、直接に病人の手を握って脈を測らないでも、病人の手に糸を結んで、その糸を引張っておれば、病名がわかるというほどの名医だった。その医者は、たいへん繁盛して糸脈同心と呼ばれていた。 ある日、糸脈同心の評判が殿様の耳に入った。殿様は、糸脈同心を城に呼び出して、 「お前、糸ででんわかっ。姫の病気を治してくれ。もし、治しきらんやったら、お前は打ち首ぞ」 と、酷いことを言い渡された。 糸脈同心は、打ち首になってはと、たいへん心配になった。糸脈同心は、どうしたらよいだろうかと思っていると、家来が隣の部屋から糸を引張って持って来た。家来は、その糸を糸脈同心に手渡した。すると殿様は、 「さぁ、おまえは糸でわかるはずだ。姫の病気を治してくれ」と言った。 糸脈同心は、その糸を握っても、どうしてもわからなかった。そして、どうも人間の脈とは違うことを悟った。ところが、糸脈同心は、わからないと言うと、打ち首になるから、いろいろと考えていたところ、 「あぁ、わかった」と、殿様に言った。ちょうどその時、ねずみが天井から落ちてきた。糸脈同心は、そのねずみを取りあげて、 「病人には、これを食べさしてください」と言って、それを殿様に差し出した。 殿様は、糸脈同心の名医ぶりを試そうと、糸を姫の手にではなく、猫の手にくくらせていたので、 「おまえ、なるほど名医だ」と申された。そして、殿様は糸脈同心に褒美をくださった。 そいばあっきゃ。 (下早 古賀八郎)
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人柱伝説
元禄16年の申の年、下早と中津の渡し場の中間あたりに堤防があった。その堤防が台風と大雨のため決壊してしまった。 地元の人々は、堤防修理に努めたけれども、水がどうしても止まらなかった。そのため当時の庄屋さんが、 「私が人柱に立つ」と言った。そして庄屋さんが人柱に立つことになったけれども、その奥さんが、 「あなたがここに人柱に立ってもらえば、後を治める人か誰もおらん。だから、私があなたの代わりに立ちます」と言った。 そして、奥さんが人柱に立った。すると、不思議にも水は止まった。村の人々は庄屋の奥さんに感謝した。村人の一人が、 「こりゃどうしても、その人のために毎年供養をしてやらんといかん」と言った。村の人々は、供養することに賛成した。 村の人々は、下早の土居の曲がったところに石の祠を祭り、その側に榎の木を植えて八龍大明神さまを祭った。 村の人々は、庄屋さんのおかげで毎年、米も豊作になったと。 それから、八龍大明神という旗と、志賀大明神という旗を掲げて戦いに行くと、負けたことがなかったと。 (下早 古賀八郎)
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佐賀空襲
1、焼夷弾 昭和20年8月5日21時30分から8月6日1時ごろまで 1時間30分にわたり焼夷弾爆撃を受けた(小々森、波佐古、坂井) 北川副、諸富にも見る見るうちに火の海となった。
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昭和28年水害
6月24日午後東支那海にあった梅雨前線が北上し、佐賀地方では、25日朝から雨になったが、午後からはますます激しくなった。26日の午前に再び強雨となり400ミリを記録し、被害は全県下に拡大した。27日も早朝から強雨となり大被害を起こした。この雨も28日午後には前線が南下し、県内では少雨に変った。この4日間の雨量は平野部で600ミリ程度であるが山間部の三瀬、古湯では、900ミリに達し、年間雨量の35%にあたり、県下の河川は各地で氾濫して佐賀平野は一面泥海と化し、学校も休校となった。運動場にはムカデ板が浮き、帰宅の時には自転車のハンドルがわずかに水面上に出る位の水深なり、国道208号線も浸水し交通も麻痺した。 消防団も出動し、防災にあたるとともに佐賀駅側の国立倉庫より米を運び、早津江で炊飯し、漁船で各家庭に配達した。