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[旧佐賀市][ 河川・水路]は52件登録されています。
旧佐賀市 河川・水路
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干拓堤防
嘉瀬新町の干拓堤防は、後傾斜工法のオランダ式堤防である。堤防事業は、用水確保、洪水調節、陸地造成など多目的である。有明海では、大潮の時には水かさが5~6mに達している。
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嘉瀬川水路の変遷
奈良時代、国毎に作成された最古の地誌の一つ「肥前風土記」によれば佐嘉川の上流に荒ぶる神あり。通行人の半分を殺した。当時、土地の支配者佐賀県主(あがたぬし)「大荒田」が、まだ朝廷に服従してなかった「土蜘蛛」の「大山田女」と「狭山田女」の二人の女性に占わせた。そこで二人は、下田の土で馬と人を造り、荒ぶる神を祀ったら静まった。そこで二人の女性は崇められ感謝されて「賢女(さかしめ)」と呼ばれたという。サカシメが佐賀の地名の由来となったとも言われている。この風土記の中の佐嘉川は現在の嘉瀬川であり、荒ぶる神は嘉瀬川の氾濫である。川は氾濫を繰り返しながら流れを西方に変えていった。 奈良時代は、川上から巨勢川、佐賀江川から諸富で筑後川に合流していた。当時、諸富は有明海に臨む重要な河口港であった。その北徳富の大津は、肥前国司所在の大和町久池井への玄関口になっていた。 鎌倉時代になると水路は、多布施川・八田江から有明海に注ぎ、中世末から戦国時代になると、多布施川・本庄江となり、さらに現在の嘉瀬川となった。 江戸時代初期の寛永年間に成富兵庫茂安の石井樋造成で、石井樋より上流を川上川、下流を嘉瀬川とよび、初めて佐嘉川が嘉瀬川となり現在の流路に定着したと言われている。 そして、嘉瀬村も現在の村落として形成されたのである。 佐嘉川(嘉瀬川)の洪水や水路の変遷がもたらす土砂流と、有明海の干満の差6mにも及ぶ潮の流れが運ぶ潟土によって形成された平野が農作地帯として開発されるが、平野の形成に重要な役割をなすものに澪(みお)と呼ばれる小水路があった。 潮の干満に伴って、潮の流路ができる。堀ともクリークとも呼ばれる。この澪が潅漑用水路として重要な役割を持っていたのである。嘉瀬村は特に「澪」の多い地域として豊富な米作地帯となった。
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「嘉瀬川の古い流れ」
嘉瀬川は、縄文中期(約5千年前)頃、脊振山地の麓に沿って支流をもちながら、東の方に流れ筑後川に注いでいた。水量豊かで舟楫の便があったらしい。 奈良時代(710~793)頃、市ノ江・巨勢江湖・佐賀江の線が、嘉瀬川の本流である。この佐賀江は、巨勢江湖をはじめ、中地江その他の細流を集め東西に流れ、東は筑後川(大堂川) に注ぎ、西は新川などの支流をつくる。 平安時代・鎌倉時代(794~1085、1192~1333)頃、嘉瀬川は、なお西漸して、八田江湖の線に移り、戦国時代(1491~1603)頃、本庄江湖より更に西に移る。 近世初頭(1604~1867)頃、現嘉瀬川河道に納まったものと想像される。 江戸時代(1603~1867)初頭、成富兵庫の治水利水事業の推進によって河道も安定した。 成富兵庫茂安は、元和年間(1615~1624)から寛永年間(1624~1644)にかけて石井樋を設けた。
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「昔の嘉瀬川」
県農林部技師 崎田善七の著 昔の嘉瀬川より 昭和30年1月発行 史実によれば、平安朝頃(800年頃)までの佐賀平野は、有明の海だった。堤防もなく井堰もない全く原始的な性格そのまゝで、洪水毎に乱流していた。てっきり「水神さまの祟りである」と怖れおののいた。 鍋島村岸川部落の川べりに八竜神社を建立した。380年前、天正の始めに建てられた。戦国時代の末期に当り徳川がほぼ天下を平定した頃です。
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「変った嘉瀬川の堤防」
江戸時代から昭和の末期まであった、嘉瀬川堤防の竹林は、濃い緑の帯をなしていた。 その竹林の中に、一本の小道があった。この小道を歩いて、ふる里を離れていたが、いま帰郷したと、心に、沁みたものだ。 秋も深まれば、竹林の帯の中に、はぜの木の一群があったが、真紅に染った色は、一段と色鮮かだった。ところどころにある椋の木は、黒い小粒の実を一杯つけて、子供たちを待っていた。口一杯ほほ張り、一粒ずつ実を空に吹き飛ばす、しぐさと感触は忘れられない。椋の木の上から望めた、稲小積の列や、屋敷の大根干しの列など、今は、無い景色。竹林も、はぜの木も、椋の木も姿を消した今の裸の堤防だが、河川敷の川幅は広くなり、バルーンの行事中は、にぎやかである。昔の嘉瀬川堤防の椋の木の友達が、お志賀さんの境内に一本あります。秋には、実のり一杯にし、皆さんを待っております。
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有明海の港
13、4世紀の船舶「刳船」は6〜8人の櫓の漕ぎ手で、有明海に潅ぐ嘉瀬川を利用し、年貢や物資の集散地であったのが嘉瀬津であったと推察される。 嘉瀬津には「津の代官、平吉弥次郎」着任している。今の嘉瀬津公民館。中国との交流もあっていたのだろう「宋銭」を祖母から貰っている。 その頃の九州の3大津 博多津・・博多、坊津・・鹿児島、嘉瀬津・・有明海 13、4世紀頃の嘉瀬津の船着場を昨年やっと、ここらしい所をさがしだす。 土井の古賀で側に「ひやあらんさん」を祀ってあった。勿論写真に収めている。場所は十五部落の西の方。
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本庄江湖
本庄江は鍋島深町の北部一帯の小河川の流れを集めて嘉瀬、西与賀を経て有明海に注ぐ延長約8.1kmの河川で嘉瀬川水系に属している。 この川は人工の河川で文明14年(1482)少弐氏が開削したと伝えられている。 上流の高橋は八戸宿の西の端にあたり佐賀城下の入口で番所が設けられ、本庄江湖をさかのぼる川舟の終点でもあった。 この周辺はかつて荷を運搬する牛馬や人々が往来し長崎街道の物資の集散地として栄えた。 佐賀藩が嘉永3年(1850)西洋式反射炉を造り大砲鋳造所で長崎防備用の大砲を見事に鋳造した。これらに必要な原材料である南蛮鉄や、石炭等は本庄江湖を利用して運ばれており、藩政時代には運河として重要な役割をもっていた。
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有明海概要
有明海は、島原半島と天草諸島との間から佐賀平野の前面に入りこんだ奥深い内海で、長崎、佐賀、福岡、熊本の4県に囲まれており、筑紫海または筑紫湾とも呼ばれ、本県では一般に前海と呼んでいる。 平坦部を貫流する河川には、東から早津江川、本庄江川、嘉瀬川、六角川、塩田川、鹿島川などがある。潮汐の干満の差は非常に大きく、大潮時では6mに達する。従って、潮流の速度も速く、底質の関係で潮汐は沿岸に近づくほど混濁の度が著しい。
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西与賀の干拓
古来有明海は自然の営力による堆積作用が著しく、自然陸化する地域が所々にみられ、その土地を人々は開墾していったが、人口の増加はさらに広大な圃場を必要としていった。佐賀地方における干拓の開始時期は鎌倉時代とされているが、やはり江戸期から近代に至る間にその大半は形成されている。 江戸期においては藩をあげて干拓事業に力が注がれ、機構的にも殖産興業を目的とした六府方が天明3年(1783)に設置され、その中の搦方が中心となっていた。この六府方は治茂治下、長尾矢治馬(東郭)の献策によるものであり、これをうけて設置されたもので藩の財政に大きく寄与することになった。財源は万人講(現在の宝クジ)の収益金の5割をあて、大規模事業を実施していった。また民間資本による干拓も後年認可され、干拓事業は隆盛をきわめる。明治期になると築造の工法も近代的になり、事業規模はさらに大きなものも可能となり現在に至る。
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あらこ
「あらこ」は普通「荒籠」と書き、川岸に石を組んで、護岸、舟つき、流れの調整などを図る出っぱりである。筑後川などにも諸所にある。 佐賀江の記事にこれを「洗湖」と書いたのが栗山賚四郎氏にもあるが、これは佐賀江の特徴に合うと思われる。鍋島氏になってから成富兵庫によって作られたと古老たちにより言い伝えられている。 佐賀江は曲がりが多く、蒲田津橋から今宿まで直線距離5kmのところを、川は9.5km以上約2倍の長さになっているのは、有明海の干満の力をよく利用して水を蛇行させることで、保水と舟運の便を図ったものと思われる。この江湖はほとんど高低のない平地を、横に走るが、満ち潮に乗って櫓で今宿まで行き、荷をさばいて引き潮で下る事がで出来るように手を加えたと言われる。 小田氏時代は、この川は龍造寺に備える砦の意味が強く、鍋島になって交通交易を図ったようである。また、江湖の水はガタを含むので、沈澱のため川がせまくならないように、曲がりとあらこが江湖の特徴である。あらこの出っぱりとその上下の捨石の使いようにより、水をよく動かして深みを保ち、向う岸をも洗う働きが考えられている。 写真は蓮池町に現存するただ一つのあらこ。昭和初期までは荷揚が行われていた。藩政時代は乾鰯(ほしか)の荷揚げ場所として賑わった。佐賀江川沿いには数箇所のあらこがあったが現在では一つしか残っていない。
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城原川
部落西端を北南に貫流する城原川は、従来川幅が狭く毎年の雨期には、上流の堤防が決潰し大きな被害を出していたので、昭和28年より幅員を約3倍にする改修工事が始まり、昭和33年に完成した。 この川は昔は新宿橋下より乙南里〜姉〜境原を経て川崎の上流にて中地江に通じた留浪川が本流であった。その後新宿より下流は新しく掘られた新川である。従って以前は古賀・枈尾は陸続きで当時の水利関係は田手川並びに中地江が利用されていた。その後水上運送の利便灌漑等のため新川が開削されたと思われる。
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蓮池(蓮堀)
公園の池には蓮が一杯であった。夏の早朝、ポーンという大きな音をたてて蓮の花が開く。大きな葉の間の、うす紅の花の美しさは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の冒頭の部分を思い出させた。また、水に映えた池畔の菖蒲の姿も忘れがたい。
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お水堀
水源は城原川お茶屋畑より引水してある。 下直鳥村ほか5村が姉村と水論を起こし、相応答あって1824年3月解決する。 神埼郡境原村の底樋の討議は1828年1月解決。この底樋は、郷内の6村の用水として用いる。城原川から引水した水は留浪川を通り、浜へ行き、見島のお水堀に溜まる。 このお水堀より中地川の底の下を潜って立体交差する水路がある。見島のお水堀の井ビから大橋へ。北名を西へ抜けてデンゼ橋の下からお祇園さんの太鼓橋をくぐり、神埼町の南を東進して、出張所の前の橋の下をなお東へ少し行き、南へ曲がって公園を抜け、先得亭で江湖へ出る。たいした迂回路だが、もと城原川の「お茶やの井樋」(直鳥)から引いた良質の水で、江湖に遠い家庭の多くが恩恵を受け、また農業用水として地区を潤した。 古老の話によれば、城原川の「よい水」を中流(現千代田直鳥)で採り、蓮池方面の上水として利用した昔の水路。藩主の用にも使ったため、特に大切にしていたが、当時は城原川、佐賀江(湖)の水もよく使っていた。混ざり物があるので、各家大がめに汲み込んで、いくらか澄ましながら使った。お水堀の水は、上流からの水が多いので上質だったと思われる。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。
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巨勢川
巨勢川は兵庫町東渕付近で市の江川、黒川、徳永川を合流して東流し、傍示で南に折れ、兵庫町や巨勢町の中央を流れ巨勢町南で佐賀江川に注いでいる。 市の江川は成富兵庫によって作られ(改修)嘉瀬川より水を引き入れ、さらに、傍示に砂堰を作り堤防の下に穴を作り巨勢、若宮、野中方面に水を引き城原川から引いた横落水道の水と合わせた水利事業で巨勢野は開発されて巨勢、兵庫地区はすばらしい肥沃の水田となった。 巨勢川は有明海の潮汐を受け兵庫町まで影響した。そこで、水運の便がよく、船が高尾まで昭和20年代に来ていた。水も清流で、しじみ、うなぎ、鯉等がとれ、高尾橋では朝早く桶をかついで飲み水などを汲みに来る人で列をなしていたそうである。 巨勢川は度々氾濫をおこし、堤防が壊れることもあったが大規模な改修工事が行われている。また、成富兵庫の勧めで、この川の所々に井樋が作られた。クリークの水が多いと、ここから水を落とし、不足すると淡水を引き入れた。
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佐賀江川
佐賀江川は多布施川、大溝川や巨勢川の水を集めて東に流れ東西付近から蛇行を続けていた。今度の大改修でショートカットし蛇行は訂正された。長い間蛇行は続いていたが、この蛇行は自然に出来たと一部は人工的に作られたともいわれてきたが、蛇行によって水流が緩やかになり、水運に便利だったといわれている。しかし、排水が悪く洪水を起こすこと度々であった。
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焼原川
焼原川は久保泉町川久保付近から兵庫町を流れ下流の平尾付近ではクリークのようになって流れ東西で佐賀江川に注いでいる。
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巨勢川と井樋
巨勢川や佐賀江沿いには、いくつもの井樋が作られている。これらの井樋は成富兵庫茂安の発案と指導によるものと言われ水が多すぎるときの排水、水不足の時の採り水などに活用されてこの地域の人々は多くの恩恵に浴してきた。
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本庄町地域の主要な河川
本庄町地域が、陸化し平野地として成立すると、干潟の時の澪(みお)筋が江湖または江と呼ばれる平野に源流をもつ(上流を海抜4m)感潮河川が生成された。これが町中央部を南流していた小津江であり、東部を流れる八田江(古江湖川)であった。今は、僅かに旧江湖筋の名残りを留めるのみとなっているが、これら旧河道が主要水系となっている。 また、山地に源流をもつ河川(嘉瀬川〜多布施〜天祐寺川)の末流・萵苣木川が、町西部を南流している。この3河川が、本庄町地域の往時の主要河川で地域の生業、農業に大きな役割を果たし続けてきた。今では水系の改編・改良で整備が図られているが、本庄町地域の主要河川に変わりはない。
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本庄町地域のクリーク網
堀は、クリークとか溝渠ともよばれ、灌漑排水、生活用水、たんぱく源供給など農・漁業、日常生活に重要な役割を果たしてきた。本庄町地域内も縦横無尽、網の目のように張り巡らされていた。域内のクリークには自然的成因である、干潟時代の澪(江湖)及びその支流や旧河道が堀、いわゆる自然堀(江湖堀)として遺存するもの。また、灌漑排水用として設けられたもの、集落形成や宅地造成用の土取りとして掘削されたもの、人為的成因のものがあった。南北方向の堀が導水的機能をもち、東西方向の堀が貯水的機能をもっていた。およそ海抜4m線あたりが多布施川末流と江上流との結接点となっている。これによって多布施川水系からの淡水がひかれ、灌漑・生活用水が維持されてきた。 本庄町地域の水田面積に対する用水堀の占める面積の割合は、水田面積479町に対し用水堀面積は49.8町で10.4%となっていた。(『佐賀平野における農業水利事業の沿革』による。)その様相は、本庄村当時の『本庄村水路要図』(古野尚司元本庄公民館長作成)で窺うことができる。今日では、往時の河川・水路の状態が圃場整備事業や宅地造成等の開発で大きく変化している。
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大井手幹線下流部〜萵苣木川
多布施川の分流・天祐寺川が南流、天祐、中折、長瀬町を経て、ここから(六長橋)厘外、西与賀方面の天祐寺線と本庄、東与賀方面への大井手幹線水路(下流)とに分かれる。大井手幹線は、道祖元町を過ぎ本庄町東・西寺小路の間を南流。溝口に入り、ここで高傳寺川に分水、また、溝口集落東、水田地帯の堀に分水する。さらに正里、上飯盛を経て東与賀町に流下し、南部水田地帯の農業用幹線三面水路となっている。 以前は、本庄区間の、川の土手には萵苣木が植えられ、並木をなしていたので、萵苣木川、萵苣木堤(デー)と呼ばれていた。この川に由緒のある橋名の「法無乱橋」、「萵苣木橋」、「周防殿橋」などが架けられている。
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大覚寺井樋水路(小津江旧河道)
伊勢町の大覚寺井樋(大覚寺東南角)から導水、伊勢町、西田代、与賀町から本庄町中央部を貫流し、西与賀町丸目の本庄江河口に至る用・排水路である。佐賀市は、昭和55年(1980)大覚寺井樋水路(排水路)として指定した。町の西・南部域の灌漑用水供給と排水機能を持たせる幹線水路としての機能を果たしている。 市街地から町内に入り十五川(堀)に流れ、十五縄手橋~佐賀大学構内貫流~西頭橋南で二つに分かれ東は、蔵橋を経て本庄小学校西の浜橋に至り、灰塚方面の用水堀となっている。本流は、西に折れ、慈姑田堀から慈姑田橋(橋親柱は貝田橋となっている。)、岩崎橋、ここから南流、西川内集落内を流れ、梅林寺橋、官人橋が架かる。さらに南下、正里を過ぎ、鹿子に至るが、圃場整備で、昔の一町六反橋、石井殿橋、夫婦橋などがなくなった。鹿子から西に折れ上飯盛に入ると妙院橋、上飯盛橋、宝伝寺橋が架かる。宝伝寺橋傍に常十井樋(上飯盛制水門)が設置され、これで流域水田地帯の用排水の調節が図られている。ここまでが大覚寺井樋水路である。 これから南、東与賀を経て西与賀町元相応、丸目に達し、自然排水のドンポ(呑接尾)井樋から、本庄江河口に流している。また、ドンポ井樋傍に湛水防除の強制排水施設丸目排水機場がある。 この大覚寺井樋水路の本庄町地域以南は、小津江の旧河道と言われている。「文明14年(1428)頃、少弐政資の居館与賀館(城)付近に小津江の入江があり、商家軒を並べて喧騒なりしをとがめ、入江を西郷に移し、両岸の在家を分けて東岸の移るところを今宿、西岸の移るところを今津とした。」(『佐賀市史』第1巻)との記述からして、室町時代までは、小津江は舟運の往来に重要な役割を果たしたことが想像できる。
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善左衛門井樋水路〜古江湖川
多布施川に架かる善左衛門橋傍の井樋が善左衛門井樋(伊勢町・川原町境)である。これからの導水が、川原町、伊勢町、与賀町精を貫流し、本庄町に流入する。県道東与賀・佐賀線(佐賀大学東)に沿い南下、鬼丸町に達し境橋が架かり、これから大井樋辺で古江湖川に繋がっている。ここまでが善左衛門井樋水路で、昭和56年(1981)に市はモデル水系に指定している。この下流が古江湖川となり、準用河川となっている。大井樋あたりを古江湖川上流部に、大井樋・末次・満穴・中島を西に、袋・八田を東に流路をとり、八田最南端の樋門を通して八田江に合流している。この古江湖川から流域内の堀(クリーク)へ分水が図られ、灌漑用排水の制水機能を果たしている。元々の八田江の上流部であったが、今の八田江の上流部が新しく開削されたので、旧河道となり、古江湖川となっている。
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多布施川・棚路(タナジ)
以前は、多布施川のいたる所に棚路(タナジ)があったが、上下水道の普及とともにその風景もめっきり少なくなった。
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新村江湖
旧新村沖田の中央より(現在の開成6丁目)新村川を立体に交差して現在の開成5丁目の中央を南に流れる水路を藩政時代の昔より江湖と言っていた。 この江湖は本庄江湖の上流に当り、旧新村の北部一帯の全ての排水を集めて新村江湖〜上碇川〜本庄江湖と流れ、有明海に注ぐ、新村地区の幹線排水路である。 昔は川幅も広く水量も多く流れ、川底は砂地で春にはしじみや溝貝等が沢山取れた。また、途中の入江には藩政時代には、船の帆柱が埋まっていた等と、古老達に語り継がれていた様に、下流の深町や坂井地区に止井樋や防潮樋椚が築造される前までは大分上流まで有明海の潮の干満の影響があったようである。又、新村江湖は徳川時代初期に成富兵庫茂安が多布施川を築造する前までは、洪水の度に川道を変えて乱流する嘉瀬川の一支流の一つであったと思われる。 成富兵庫茂安が多布施川の付属河川として築造した植木川や新村川を築造の際は、その支流の水路と何箇所も交差する事になるので、植木川と新村川は色々と工夫されて造り替えられている。植木川は植木川の北100mの所で既設の水路を切断してバイバス河川の、八尻川を新設して、これより北部の水路を全て集めて西に流し、東新庄を通り、江頭の方に植木川に平行して流れる様に付替え、深町の汐止樋椚を通り、本庄江に流れている。植木川から沢山の小水路(シードウー)より流れ、新村川の北部の水田を潤し、使用後の余水や使用された排水は、既設の堀に集められる。そして、現在のお観音さん前と開成6丁目の中央で新村川を立体で交差して江湖に流れ、南の上碇樋を通り、坂井地区の止井樋で調整されて、東新庄を回って流れて来た八尻川と合流して、本庄江湖となり有明海に注いでいる。 又、新村川を立体で交差した樋門の上流は2ヶ所とも角目地区(植木川)の手前100m近くまで水路が伸びていたが、現在は北部バイパスの開通や周辺の工業技術センターや卸団地等県の施設建設で付け替えられ、其の姿は殆ど無くなり、草むらの中に僅かに当時の面影を見る事が出来る程度に変更されている。よって、新村江湖は多布施川が築造される前は乱流する嘉瀬川の支流の一部だった事が裏付けられる。又、多布施川の付属河川として作られた新村川や植木川が人工の川で、同河川築造の時に、新村の全ての堀や水路は付け替えや改造された。
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新村川(前ん川)
新村川は別名前ん川と言って北部バイパスの北の所(通称後家井樋)より多布施川の水を分岐して堤防ぞいを南に流れ、旧新村の南を沢山の小水路を分岐して、新村中央排水路以南の水田を潤して江頭地区に流れている。 また昔より地区民の生活用水として親しみ、大事に接し、管理してきた川である。
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金立町の千布薬師丸兩大字を中心としたる成富兵庫の治水工事
この治水工事は何処までも佐賀藩の城下町及び藩穀倉地帯を守り、且つは良田を作るために行われた工事であることを先ず念頭に置いてこの工事の趾を見るべきであろう。 大体この治水工事の行わる以前は市の上を水門とする。所謂平尾川はなく福島川、徳永川(巨勢川)も川久保川(今出川)も夫々思い思いに低い所を撰んで南へ南へと流れていたもので、梅雨時の洪水と共に南部の平野水田地帯は河水の「はんらん」に荒され悩されていたものである。 福島川も今のコースをそのままに、はたちの土居あたりから南進していたか、或は福島の地形から見てこの川は福島の西北の地蔵堂のあたりから、低地を縫うて四丁堀のあたりに流れて南進していたらしいし、金立川も白金土井あたりからわざわざ東にまわる等のうかつなことをせず、少くとも樋の口の墓地の下あたりから低地を選んで金立支所のあたりを通り中村森の下方面に流れて南進(又は金立川は道祖神松の西側の水田地帯を流れていたと思われる節もあるし、或は今の金立本村の中の坊屋敷の辺から西進し北島吉田氏の東側を流れ西に曲り宮瀬行鎮守三味原に出て東千布に出ていたかも知れない) 正現山に源を持つ野田川(?)は今のコースから沖田方面に流れていたろう。 川久保川も今の徳永川等にまわって来ないで篠木野の北部あたりから南流し、村徳永薬師丸方面に流れ例の「投げ石」等は其の川の中にあったものと思われる。 こうした地形、水系を観察研究して成富兵庫が佐賀藩大事の治水工事を起したものであろう。 この工事の眼目の第一は洪水大水の際城下町及び穀倉地帯の水害水難を救うこと、荒地地帯の兵庫方面を耕地と化することの2点であったと思考される。而して此の工事がこの2大眼目を満足する条件の下に考案されているようである。 三本松、二俣の線でせき止めた諸川の水では平常兵庫方面を灌漑するには足らず、水源の豊富な川上川の水を取入れる要のあるを知り市の江水門を作り市の江川を作ったろう。 ところが洪水時は諸川の水がこの土堤防のため水量を増して堤防決潰の虞れも十分にあり、巨勢川ばかりでは十二分にこれを呑み下す能力もないし、又其の沿岸の堤防の決潰のおそれがあるので、この水勢を緩和するために考案されたのが千布沖田である。其の為に徳永川の洪水時は逆流して沖田に入ることも工夫されている。 更にこの沖田のみに水を溜め水勢の緩和を計るだけでは不安であるため四丁沖田への逆流、水溜地の設置、更に福島で合流する2つの川水を福島の水田地に水を入れて水勢の緩和を計り、徳永川の合流地(金立川、久保泉川共他の川)では17から下の大門地域に2段構えの緩和地帯を設けていて実に巧妙其ものの治水工事で確かに兵庫の腕のさえを十分に具現していると言うべきであろう。然し其の結果犠牲となった地域は藩の方針として地租割等十分に考慮されてあった。 ところが現在のように米の供出や固定資産税や所得税等の算出が他地方なみに考えられたり、又国家的見地からお互に増産が叫ばれるようになれば、従来の施設では犠牲地帯が何時迄もこのままであることは不合理と思われる。お互いに近代科学力を取り入れ近代科学的施設を計測し、この犠牲を取りのけ誰も彼もが一様に喜ぶよう、増産に進むよう、幸福な生活を進むよう実行に移され、実現される日の一日も早からんことを望む切なるものがある。それは小さくは金立町のため、次は佐賀市発展のためでこれが国家の進展に寄与することになろうと思うものである。 水害犠牲地の開発これは金立町一大課題であろう。薬師丸の下九郎の全部、五丁、和泉野の大部分上九郎水田の一部、これも兵庫方面の水害を緩和するため一時水を貯える施設をしてあることも、前同様十二分の近代施設を工夫する要があるのほ前同様である。
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逆井手
黒子(福島)川が平尾川と合流する点から数百mさか上った所に逆井手と称する井堰がある。現在の分は明治の頃金立町が金立村時代の名村長横尾孫作氏が時の村会を動かし石造りに改築したものだが、往年からこの頃までは年に1回友貞、久富の農民が井手作りをやって来たもので、平尾川や徳永川の水量が増し黒子川に逆流せんとする頃合いを見て土俵を積んで水を止め、減水した場合は土俵を次第にとりのけていたとのこと。又この井堰から徳永川を逆流し上九郎水田に水を引くようになっている。
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沖田の浸水
沖田はなぜ浸水するのかと言うと彼の福島川は立派な堤防が続いているが下流、淵頭近くの沖田南部で堤防の影が消えている。之はここから大水の際は福島川の用水は勿論、平尾川の水、徳永川、巨勢川の川水迄が逆流して沖田に流れ込む工夫がされてあるので沖田は忽ち下の方から順次に海の様になる。これは、成富兵庫の水利工事以来の遊水池犠牲地となっている。どうしてこんな犠牲地を設けたかを古老の言に聞けば佐賀の大殿様の城下町佐賀ン町を水禍から守る為の一大妙策を殿様の御威勢にかけて建設した為で彼の沖田の南端に西から東に流れる所謂平尾川の南側の堤防は仲々念の入った堅固な物でめったに決潰せぬよう作り上げてあり、旧藩時代は大雨洪水毎に係の侍達を先頭に高木瀬以南の農民が懸命にこの堤防を守り抜いたとの事、こうして沖田の犠牲地は計画的運命的に出来た物である【こんな訳で旧藩時代は米も思う様に収穫出来ないので租税(上米)は特別に安く課せられていたが今は其の加減はない】 こんな無茶な事をされて昔は泣く子と地頭には勝てぬと泣き寝入りしたが、自由民主主義の今日になって今尚不可杭カの宿命として諦めて居ることは、福島川を上流同様下流でも堤防を築き、巨勢川に直結して沖田に溢れる水も逆流する水も入れぬようにして、立派な耕地に改良することである。
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為朝の池
高木八幡宮の門前に小さな池がある。鎮西八郎為朝が九州下向の折、高木八幡宮前に陣を移動していた頃、五月雨が降り続く中、この池に蛙が数多く鳴いていた。為朝が「穴姦し鳴くな(アア ヤカマシ ナクナ)」と一声放つと、蛙は忽ち鳴きやんだとあり、是より為朝古来民施池と呼ぶようになった。 また、八幡宮西の方数十mの所に為朝を祀った為朝廟という社もあったという。これを無格合祀により八幡社と合祀した。現在、八幡宮神殿の東北に古びた石祠が残っている。 この為朝の池には花が植えられ、立花家観音と共に地区の人たちで大切に保存されている。
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八丁畷の水利形態
八丁畷は、もともと純農村地帯で、国道263号線(以前は往還と呼ばれていた)の東側に5戸、現国立病院の東側に7戸の専業農家があった。 そのほか国道の両側に非農家と商店があり、南に「あかかべ酒造」、製紙会社(当時、マオラン会社)の工場があり、現在の県警機動隊の所に「グンゼ」があった。 農家の基礎収入は米代金で、米作りには水が絶対必要である。この地でも大井手水利組合が設立され、北山ダムの負担金も一部拠出し、ダムの完成で大きな恩恵を受けている。 この地域は小寺川水系と呼ばれ、石井樋から取水、長瀬を経て上高木、下高木の国道西側の県営水路で館橋に至り、ここから東高木に入って兵営の北側から東側を経て八丁畷に達している。 農地は何時頃整備されたのかは定かでないが、東高木から五本の南に流れる水路があった。 第55連隊の兵営が出来たことで、東西の水路に振り分け取水しており、大体が自然灌水であった。 南に下るに従って少し段差があり、水路の要所要所には堰が設けられ、必要に応じて堰止め取水、自然灌水をしていた。(現在、総合庁舎の南には今も水田があり、その状態を見ることができる。) 当時組織されていた生産組合は、この水路の清掃、補修には多大の労力をかけていた。