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[東与賀町][ その他]は21件登録されています。
東与賀町 その他
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観音信仰
わが国における観音信仰は仏教渡来とほぼ同時に始まったと言われている。衆生の願い事を聞くことから観世音といい、すべての衆生を救済するため33の姿に変化するという。観音は聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音など各種あり、形としては、頭髪を美しく結いあげ、頭には宝冠を戴く慈悲相で、上半身に条帛(じょうはく)、下半身に裳(も)をつけている。例外として馬頭観音は忿怒相で頭上に馬頭を戴いている。 平安時代中期には六道輪廻の思想がひろまるにつれて、六道に6体の観音を配する六観音の信仰が起こった。町内には造立年は不明であるが、六地蔵のうえに6体の観音の坐像を彫った上下12体の六観音六地蔵塔が、立野の龍王宮前、実久の龍水院前にある。 また旧7月10日(新8月10日)は、四万六千日で観音の結縁日とされ、この日に参拝すると四万六千日分の功徳があると言われている。 慈愛に満ちた面相から女性の信仰が厚く、観音講をつくり毎月定期的に茶講を行っている集落も多い。また、妊娠や安産を願って観音に願をかけ無事、妊娠あるいは出産をすれば願成就のお参りをした。 馬頭観音は、もともとヒンドゥー教のジシュヌ神の化身から転化し仏教にとりいれられて観音になったものと言われる。頭に戴く馬からの連想で、馬の供養や安全息災を願って広く祀られるようになった。
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地蔵信仰
地蔵菩薩は、釈迦入滅の後、弥勒菩薩が現われるまでの間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の救済の菩薩とされ、平安末期におこった末法思想により庶民の間に広く信仰されるようになった。 近世には、さらにあらゆる願いをかなえてくれる仏として祈願され、いろいろな供養塔の本尊としても用いられるようになった。佐賀においては三界萬霊塔の上に建つものが多い。三界とは欲界(食欲、性欲など欲の世界)、色界(物色の世界)、無色界(欲も物もない精神のみの世界)の三つをさし、この世のすべての霊をこの塔に宿らせ回向することによって誰でもすべての霊を供養することができると言われ、集落の辻など多くの人から回向をうけやすい場所に建立されている。 また、独尊像のほかに六地蔵像がある。六地蔵は六道巡錫(じゅんしゃく)を造型化したもので、丸彫り像を6体並べたものと石幢に彫ったものがある。 六地蔵の典拠となるものは不明で、諸説があって一定しないが1、2を示しておく。 地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道、あるいは、予天賀地蔵・放天王地蔵・金剛幢地蔵・金剛悲地蔵・金剛宝地蔵・金剛願地蔵などで、これが造型化されたものと言われている。 石幢に彫られたものは六地蔵像と観音信仰で記した六観音六地蔵像があり多くは寺院や墓地でみられる。上古賀の栄蔵寺境内には、三界万霊を中心に左右に3体ずつ6体の地蔵と石幢六地蔵があり実久の龍水院前、立野公民館前と路傍、下飯盛地蔵院・龍田寺などにもある。 地蔵は身近な信仰の対象として庶民に親しまれており、いろいろな伝承を持つ地蔵がある。実久の通称泣きびす地蔵(夜泣き地蔵)は、赤児の夜泣きを封じる地蔵として、夜中に人に知られぬように赤色の胸掛けをかけてやると良いと言われている。中村の地蔵は眼病に霊験があると言われ、中割の地蔵は男児を望む人の信仰を集めている。
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稲荷信仰
稲荷信仰は多様であるが、その一つに五穀の守護神、稲なりの神としての信仰がある。 神道では稲荷社の祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とか保食神(うけもちのかみ)と言われている。ウカ、ウケとは食物、特に稲をさしており、また、倉稲(うか)とは倉の中の稲(籾俵)のことである。中村の郷倉屋敷跡の文久2年(1862)銘の正一位稲荷大明神は郷倉すなわち穀倉の神として祀られたものかもしれない。 鍛冶屋の天満宮境内には宝暦4年(1757)、安政2年(1855)の2基の稲荷社がある。稲荷は稲なりの神としての農耕神のほかに漁業神、商工業者の守護神さらに刀工・鍛冶屋など、ふいごを用いる職のものが、鍛冶屋の神として信仰している。鍛冶屋の地名由来も単に伝承とばかりは言えないのではないだろうか。 大野の十六丁という地名は、本土居の修理に丁場(人夫小屋)を16回も建てたので十六丁の地名が起こったと伝え、16回目に京都の伏見稲荷に参って願をかけたところ、常盤の森という稲荷が西下し、ようやく土居が切れなくなったという。初めは住吉社に合祀されていたが明治6年に本土居上に移転したのが現在の常盤の森稲荷と伝えられる。一般にはトキワ(カヤの一種)が、うっそうと茂っていたことからそう呼ばれていたと考えられる。
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水神・海神
水は稲作民にとって命ともいえるので古くより水神信仰が発達していた。 水神の本体としては蛇が崇敬されていたが、中国の龍神信仰の影響をうけて蛇が長じて龍となり昇天したと考えられ蛇と龍は同一視されるようになった。 蛇を使わしめとする弁財天は、七福神の一員としてよく知られているが、もともとインドの一地方の河神であったものが仏教に取り入れられ、水をつかさどるところから農業神として崇敬されるようになった。 龍神は「八大龍王」として祀られており、旱天に汐水を竹筒に汲んで石祠にかけて雨を祈願したという伝承がある。 龍神は水神としての信仰のほかに海神として信仰する風も厚く漁民は航海の安全と豊漁を祈って祀った。海に近い立野・作出・搦などに、八大龍王を祭神とした龍王社がある。 実久公民館前に文化5年(1808)銘の琵琶を抱く2臂の弁財天像があり、搦に「弁財天 八大龍王」と二神の名を刻んだ享保元年(1716)建立の石祠がある。 上町若宮社境内の元治元年(1864)建立の「天山大権現社」の石祠も弁財天信仰によるものと思われる。 航海と漁業の守護神として信仰されている神は八大龍王のほかに住吉三神、金毘羅、沖仲大明神などがある。住吉三神とは底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命・上(うわ)筒之男命で住吉神社として祀られている。 金毘羅は讃岐の金毘羅さんと呼ばれて全国的に信仰されている。町内には実久の円通寺境内の金毘羅社と搦東の通称搦の山、下飯盛の地蔵院境内に金毘羅社の石祠がある。搦の山は有明海を航行する漁船が目標にしていたともいわれ、また、高潮時の避難場所ともいわれていた。地蔵院の金毘羅社は由来はわからぬが火の神として信仰されている。 今町や船津の沖大明神・沖仲大明神は、有明海の沖の島の御髪信仰に基づくものと思われ、今町では明治の初めに漁師のこぐいという網にかかったという伝承がある。
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舟霊
海で暮らしをたてる人たちの祀る神として船の守護神「舟霊さん」がある。舟霊さんの神体は男女1体の人形、銭12文、双六の賽(さい)2個など。人形は紙でつくり銭12文は今では10円貨をもって代用するが閏年は13枚、平年は12枚。賽は「天一地六(てんいちぢろく)向こう三三(さざなみ)、前四(し)あわせ、中に二(荷)を積む」と1を上に向け、6を下にし、表に3、艫(とも)に4の目が向くように2個をあわせて入れる。これらの神体は船おろしのときに船大工によって中央の帆柱のところにはめ込まれた。 舟霊は、船での吉凶を前もって知らせてくれると信じられており海のしける時などは、「チッチッ」という音が聞こえるという。これを「舟霊さんのさえさす」というが、漁船の動力化によりこの音も聞きとれなくなった。
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荒神
かつては、どこの家庭でも庭中の奥の釜屋にヘッチィ(かまど、くど)が座っていた。ウーベッチィ・ナカガマ・キーベッチィなどと大量の煮たきをする大釜から茶沸かしやおかずの煮たきに用いる大小のかまどが、4連ほどあった。 「へ」は煮たきの道具で「へつ火」が訛ってヘッツィ(ヘッチィ)となったといわれ、火の神をさすことばともなっている。物を煮たきする火所は食生活の要をおさえている神聖な所であるから、そこが火を統轄する火の神の鎮座する場となったと考えられる。 火の神を荒神というのは修験道や陰陽道で説かれている三宝荒神と混同されたものであろうとされており、三宝荒神は仏・法・僧の三宝を守る荒神であるといわれ、不浄を嫌うため家の中で最も清浄とされるヘッチィの中に居るとされる。 ウーベッチィ(大釜)のそばの柱に小さな祠を荒神さんとして祀ったり、ウーベッチィをウーコージンさんともいうようにウーベッチィそのものを荒神としているところもある。 不浄を嫌うところから刃物をのせることを忌み、正月前には座頭さんによるススハリャー(荒神祓い)が行われた。1月9日には、子ども達が荒神相撲をしヘッチィ餅を食べた。 ヘッチィ餅を未婚者が食べると縁遠くなるという伝承もある。 遠くへ出かけるときに「ヘッチィさんのおヘグロ戴き」といって、ヘグロ(スス)を額に塗りつけて道中の無事を祈った。これは荒神の持つ激しい験力に期待するものであった。 火の神としての荒神は、また、農耕の豊穣をまもる農神としての性格もあわせもっており、田植えはじめの「田の神さん祭り」に3把の早苗を供えて豊作を祈願した。
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サギャアシ
竹馬のことを佐賀では「サギャアシ」といった。鷺足が語源であろうといわれている。節のそろった真竹に横木を工夫してつける。高さを競い家のひさしに届くようなものを作った。 片方の馬を肩に担いでするケンケンの芸当もある。
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ネンポウ
雑木(ビャーラ)の束から適当な木を選んで先端をとがらして作る。 田んぼなど適度に乾いた土のうえで順番をきめ負けたものが先にネンポウを地面に打ち込み、順に相手の棒を狙って地面に打ち込んで倒せば自分のものとなった。 打ちこんだネンポウが地面にささらず倒れたら、倒れたのをめがけて打ちおろし、あたれば自分のものとなった。
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ヨシの子倒し
長さ30cmほどのヨシの子を互に立てかけ2、3m離れたところから、1本のヨシの子を根元を先にして投げかけ倒した分をとり多く取った方が勝ちとなる。
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オハジキ
ネコギャー(猫貝)という小さな貝を、数をきめて出しあい順番をきめてふりまいて、当てようと思う貝と貝の間に小指をすべらせ、はじいて当てたら自分のものとなり次々とくり返す。はじき損ねると次の人に替わる。 後にガラス製のハジキができた。また素焼の土器や、それに顔の形を削ったものもあった。
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青年宿
立野の男子青年は古来自己の家庭には寝ずに、数名ずつ集まって他人の家に宿泊するという習慣があった。その宿泊する家のことを「青年宿」と呼ばれ、徳富春雄・野中十郎・増田政一等の住宅がよくあてられたそうである。毎日の風呂も昔からもやい風呂で、隣り近所の4・5軒が一緒になり、しかも男女混浴の姿であった。夕方から夜半にかけて20数名から30名位の人々が入浴を楽しんだ。使用する水はほとんど堀水をバケツで汲み入れ、燃料は主に石炭をたいた。今日では各自宅での入浴であるが、当時月を仰ぎ虫の鳴く声を聞いた野外風呂の情緒と景観はなつかしいものである。
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上町の酪農
上町は酪農の村として東与賀町における先進地である。当時この村の故御厨兼吾を中心に実久・立野・今町等の酪農家が合計40頭から50頭近くの乳牛を飼育していた。これ等が共同して、御厨兼吾の自宅前の空地を借用し工事費40万円を投じ本村では初めての「共同集乳所」を建設している。
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町営住宅下古賀団地集会室
下古賀村落における新旧住民の融和と親善のためには、なんとしても邑の氏神様でありも一つは公民館(集会所)である。お宮はこの村のほぼ中央に在り、さっぱりした石造りの祠で船津のお宮から分祀されたものとの風説がある。年記は不明であるが、神仏混交時代のものではないか。表の鳥居は明治26年改築したと明記されてある。 このお宮の東側に最新式ともいうべき集会所が建設された。これは昭和53年度に工事費総額1.390万円の巨費を投じて建築された。正式の名称は「町営住宅下古賀団地集会室」で、町営住宅建設の一環として完成されたものである。この集会所で地区集会をはじめ、老人クラブ・婦人会・父兄会の外、農家の生産組合や女性グループ(大正会・昭和会)等の勉強会・子どもクラブの活動等、幅広く利用され活用されている。 村落の事業としてはお宮と集会所を中心に和やかに楽しく、次のことが行われている。大般若経は毎年2月11日(建国記念日)当番の家で開催する。祗園は8月1日、大祭と小祭は10月17日と11月25日に二組に分かれて施行する。川神祭は5月5日の男の節句であるが、一カ里と南小路と北小路の3班に分かれて行う。ここも藁舟を作り堀に流して子どもの水難予防と河川に対する感謝を捧げるのである。お供日は十月祭りとして、赤飯祭りは当番の番帳さん宅で盛大に挙行する。かくて時代は移り世の中は変わっていくが、農村の麗しい伝統行事は毎年毎年引き継がれ受け継がれて、現在にもなお生きているのである。
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中割公民館
村落の西部で作出の龍王神社に近く、しょう洒な建物の公民館が建っている。これは昭和39年の創立で室内に入ると、天井と壁の間には副業生産や農協に関係ある表彰額がずらりと掲げられて、ここに住む先輩の人々の勤勉と栄光を物語っている。その一つに昭和41年4月佐賀県農業協同組合連合会より、この中割の農協貯蓄額が1戸平均100万円を突破したことで感謝状と賞金を贈られている。いかにこの村が協力してがんばったか、そして家計も平均して豊かになったかが証明される。こうして昭和52年度には村の北部に面して、約1反歩の広々とした遊園地を完成した。これは圃場整備の余沢もあってできたもので、子ども等の遊び場と共に老人のゲートボール等、幅広い村人のいこいの公園として利用されている。
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梅田公民館
この村の南部広江橋に近く、梅田公民館がこの村発祥当時に見事に建設された。 公民館の新築には何分にも終戦後のことであったため相当の苦労が多かった。一度に多額の金を集めることは到底不可能のために、最初は各戸から5円宛の日抜き貯金を始めた。ところで自分たちの力でこの大事業完成を目指しており村落民の強い自覚と堅い決意もあって、予想以上に貯金は殖えていった。やがて5円から10円に更に20円と値上げして約8か年間の後には30円と格上げして見事に総合計約25万円の貯蓄高となった。これが公民館建築の基本金である。土地建物の経費合計約70万円也を使ったが、わが村の農協から40万円也を借用し多少の予備金もあって立派な公民館が完成しその落成式が行われたのである。その当時は年々と物価が上がる時代、高度な日本の経済成長の時代だったので、思い切って借銭をして敢行したことが幸いしたのである。この喜びは思えば村落梅田に居住した人々の団結と決意にあった。全く苦節20年の汗と油の結晶であったのである。
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作出の職業
作出と中割は東与賀町内でも都市化が進んでおり、そのことは職業の種別を見て伺い知ることができる。職種の多いことは本町内でも第1で、菓子製造・紺屋・医院・理髪業・酒販売・精米所・屋根葺業・薬行商・はた織業・銀行支店・叺織業・縄ない工場等、実に多種多彩である。とりわけ公務員数が13戸で町内でも最高であり、商工業への発展と新興気分が旺盛である。この事は村落の区域内に政治の本拠たる町役場と産業の中核たる農協の庁舎があり、作出西側の県道交差点から小・中学校へ至る県道の両側には、郵便局・病院・マーケット・幼稚園・自動車工場・材木店・飯食店の外、新宅地の造成に伴って住宅が日増しに建ち並んでいる。したがって昔は閑散でのどかな通学道路も、今日では市街化してまさに「東与賀銀座」への様相を呈しつつある現状である。
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中村公民館
今日の地区公民館は、かつての「青年会場」であるが、昭和3年5月に新築されたものである。50数年前の瓦葺き青年会場は、東与賀村内でも珍しい存在であるが、総工費約500円也でその資金は、当時十数名の青年諸君が相協力して働いた汗の結晶である。即ち大正12・3年頃から、各戸より石炭の注文をとり、佐賀市久保田駅前の於保石炭店から仕入れて車力で運び、これを各家々に配達し販売するのである。その頃は自動車もトラックも無い時代で、石炭の運搬は相当の重労働であったが、それだけに売価もかさんで収入金は予想以上に多額に上った。こうなると石炭だけでなく木炭の仲買いにも手掛けたり、女子の処女会員は菱の実を採集しこれを茹でて佐賀ん町中をふれ売り歩いて協力した。 特に稲刈りのすんだ田ん圃を借用して、仮小屋を設け1週間から10日間位の活動写真の上映は、実に大きい収入源となった。佐賀市内には宇宙館や大正館があったが、遠く離れたこの農村には娯楽機関には恵まれず、坂東妻三郎主演の映画など大いに受けて、毎日が大入り満員の盛況であった。木戸銭は20銭であったが、村内の有志や名士には案内状を発送して、その「御花」が1円も包まれて木戸銭の4・5倍に達して収入財源は益々ふくらんだのである。こうした当時の男女青年たちの協同によって約500円余の貯蓄ができ、これに村落よりの補助金を得て、待望した青年会場を見事に建築落成したのであった。
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大野の宮角力
繁華街の映画館や娯楽設備に恵まれない農村の田舎では、古来自らの慰安を求め娯楽を楽しむために、腕自慢や力競べ等の運動競技が盛んであった。本町でもその例にもれず、特にこの大野村では若い青年層を中心に中老や少年を交えて格闘技の一種である角力熱が旺盛であった。始めは各周路毎に野っ原での草角力から出発し、漸次お宮の境内に片やを作り、後には村中央の青年会(現在の公民館)西側空地に立派な土俵を築き、祭日や余暇を利用して技と力を練ったのである。この大野における青年層の角力熱は、近くの搦・今町・作出等の青年たちを刺激し、ついには東与賀全村落に角力愛好の風潮が広がった。かくて大正10年代から昭和に入っても戦前・戦後まで、佐賀郡内でも一番優秀な角力選手が揃い、各地区各神社等の大会に出場して、雄を競い覇を争ったものである。 当時その主将格となり先導役をつとめた山田寛(股名源氏山)は、その頃を想起して次のように述べた。 「大野には角力好みの先輩が多く、その指導と奨励が一番良かった。角力にはこの〝しごかれる〟ことと〝練習〟とが最も肝要である。その頃東与賀村の招魂祭が毎年11月15日に学校の校庭に土俵が築かれ挙行されたが、どこの村落よりも5名ずつの選手が出場して、勇壮な角力大会であった。これには村としても力を注ぎ奨励のために補助金も出してくれた。後には先輩や学校の先生に引率されて、佐賀郡内は勿論県内各地の角力大会に出場した。その頃になると東与賀全村から優秀選手を選抜して、佐賀郡青年団の角力大会・佐賀県護国神社の祭典角力その他中野代議士参議院議員当選祝賀大会にも出場してよく優勝旗をものにしたのである。特に大正5年11月3日の明治神宮全国角力大会には、年齢僅かに25歳であったが佐賀県の代表選手として、小城郡牛津町関川堅次君等と出場し4勝1敗の好成績を修めたことは、私の生涯中でも最大の歓びであった」と語る。 更に角力競技は、体と体・精神と精神を互いにぶっつけ合って勝負を決する格闘技であるために、一度先輩と後輩そして師匠と弟子との関係が結ばれると、その仁義と情愛は実に堅固なものである。往時を思えばわが村の先輩鬼崎末吉・鶴田祐作後輩の吉田吉郎・山崎次郎等があり、他町村では小城郡の時森や川副町の大塚・梅野等、裸人生の親友であり土俵上の仲間であって、うたた感慨無量ですと、このようにしみじみと語る往時の猛者「源氏山」の両眼にはキラリと光る涙が浮かんでいた。
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照明の普及
火についても苦労したが、入植当時家庭の照明としてランプ(石油)で、どの家も3か年間電燈はつかなかった。東与賀村内既にランプに代わって電燈が、どこの家にも煌々と灯がついていたのに、ここ大授は蛍火のようなランプの時代が続いた。やっと昭和10年から11年にかけて、まず第一区が灯され、昭和23年から24年の頃、二区・三区とも明るい電気の世の中となった。この時の喜びは特別だったのである。
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松土居公園
江戸時代に築造された有明海岸堤塘の跡地である。大野土手沿いに整備された公園です。当時は松並木が延々と続いていたといわれる「松デー」が再現され、今では松土居公園の木々も大きく育ち、見事な景観を作り、まちの新しいオアシスとなっています。
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第二線堤防の石積み
有明海干拓で潮止めの役割を果たしてきた大搦堤防は明治4年に、授産社搦堤防は明治中期に築かれた最大規模の有明干拓堤防です。 現在も二線堤として機能し、道路としても利用され、石積みの景観がすばらしいことから2003年に、後世に伝えるべき土木遺産として土木学会選奨土木遺産に認定されています。