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[旧佐賀市][ 学校]は28件登録されています。
旧佐賀市 学校
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青藍校跡
青藍団地は1960年(昭和35年)8月より入居が始まり、分譲・県営・市営の住宅が91戸あるが、この地は、嘉瀬尋常高等小学校のち嘉瀬中学校の跡地である。敷地は鵜川徳次郎氏寄贈。団地に入り、すぐ左側に学校跡として記念塔が建てられている。
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栄昇こう(栄昇小学校)
明治十三年(1880)扇町の苗運寺境内に栄昇小学校が開校され、明治二十二年(1889)に嘉瀬小学校に合併された。
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小松小学校
蒲田津、出雲神社社務所の南隣に明治25年まであった。東西に長い教室で、南に入り口があり、木の机と長い腰掛が並んでいた。「兄に弁当を運んだ」という当地の老婦人によれば、北島先生や西名の小藤太先生などがおられ、唱歌の時間に「セッシャ元来ボタもちゃ好かぬ 馬の上からボタもちゃ落とす♪」などという歌が聞かれたという。明治9年の生徒男89人、女42人。(明治14年版 『長崎県地誌』)
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純粋社塾跡
勤皇家石井龍右衛門がおこした私塾で、大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平、中野晴虎らが学びました。龍右衛門は、1881年(明治14年)57歳でこの地で没しました。 庭の片隅に、1943年(昭和18年)肥前史談会によって「純粋社塾趾」の石碑が建てられています。
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循誘小学校
循誘小学校の誕生は、明治8年教正小学校という名前で紺屋町に創立されたのが始まりで、明治17年循誘公民館西隣りの長徳寺南側に当時の予算3,000円で柳町校舎が建設され、明治19年1月21日移転して開校された。学校敷地は、当時思案橋で酒造業をしていた下村辰右衛門(後に国会議員となった)が寄付したものであり、また、佐賀市仲仕組所が500円を寄付した。循誘小学校百周年記念事業が、昭和50年に盛大に実施されたがその記念誌には、この柳町校舎で学んだ人達の思い出が掲載されている。明治44年6月1日、この柳町校舎も老朽化し、狭隘となったので巨勢村に移転。その頃は校舎も新しく、校地も広く佐賀県一小学校といわれていた。小学校の門は佐賀市高木町にあるので小学校の住所は高木町となっている。また、同年それまで勧興校区だった呉服町、千代町、新馬場、馬責馬場、通り小路等が循誘校区に変更された。大正14年には創立50周年の記念式典が挙行され、その記念として校門から南の佐賀劇場手前までの直線道路が通学道路として完成した。このときに架けられた橋に『記念橋』とか『循誘橋』の名前が付けられた。昭和10年5月国鉄佐賀線が開通し、初めての汽車が通るとき、循誘小学校の子どもたちは、線路に沿って日の丸の旗を振って祝ったといわれている。この汽車は通常ガソリンカーと呼んでいて汽車の発車する時の汽笛が『ポーッ』とでなくラッパを鳴らすように『プウッー』と鳴らしていたのが印象深い。この佐賀線は、三国線とも呼ばれていて肥前、筑後、肥後を結ぶ予定で熊本の南関町まで開通する予定であった。児童の数は、創立時は118人であったのが大正10年以来常に1千人を超えていて、昭和35年には最高の34学級の1,750人を記録した。これは戦後のベビーブームが一度に押し寄せたもので、急激な児童数の増加に伴い、どこの市町村でも教室の建設に追われ苦労の時代が続いたようである。この当時佐賀県では大町小学校で3千人を超えた記録があり1学級50人から60人位で教壇のすぐ側まで机を並べていたことも珍しくなかった。しかし近年は子どもの出生率も低下し、児童数も激減している。
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寺子屋の話
江戸時代に庶民の日常的な算用等の心得を授けるため、自然発生をした教育機関で普通寺子屋と呼んでいる。 寺子屋の師匠は僧侶や武士、神官、医者、庄屋等で主として師匠が自宅を開放している。寺子屋は藩学とは大きな違いがあって、一般に就学の年齢は自由で5・6歳から、約3〜7年間位学んだ。収容人員も大変少なく、一つの寺子屋で10人〜40人位までが普通であった。 教育内容は、読み、書き、算盤で教科書としては、実語教、童子教、庭訓往来等の実学が大部分を占めており、四書(大学、中庸、論語、孟子)の素読を受けている所もある。 女子には百人一首や女大学、女今川等を教え、年中行事の一つとして、七夕祭には、吉書を書き、書技を競ったりしていた。 明治5年(1872)学制施行前の寺子屋。 私塾の状況 1.高柳寺子屋 村岡 私平 2.西川内寺子屋 中溝 養朝 3.正里寺子屋 久米 栄吉 4.鹿子下区龍昌寺 服部 平左エ門 5.満穴西光寺 広木 仁海、増田喜太郎 6.中島寺子屋 淵井 兼介 7.末次寺子屋 林 敬人 8.袋柳郷塾 柳郷 虎一 9.袋手習所 角田 権一 10.西八田私塾 夏秋 作衛門 11.上飯盛寺子屋 高木 長庵
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普通教育
1.篤信小学校 明治19年(1886)5月初等中学科教育の目的を以て大字一本松に創立した。尋常校は、就学児童の増加にともない、後には民家や寺院等を使用し篤信小学校の分校として教育を施して来た。 (当時は5分校であった) ☆本荘の部−本荘村、厘外村(人口1.964人) 1.本荘小学校(本荘村の内溝口分) 2.東本荘小学校(本荘村の内東分) ☆鹿子の部−鹿子村、末次村(人口1.350人) 3.鹿子小学校(鹿子村の内鹿子上分) 4.末次分校(末次村の内西分) ☆八田の部−新郷村、袋村、末次村(人口1.435人) 5.八田小学校(新郷村の内字八田分) 2.與賀高等小学校 明治25年(1892)6月與賀三村連合組合会の議決をもって、篤信小学校となってから、境内の拡張校舎の増築を数度なして来た。同40年(1907)小学校令改正の結果、高等1、2年生のみを置くこととなり、同43年より農業校を附設することになった。
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国立大学法人佐賀大学
佐賀大学は、昭和24年(1949)5月に国立学校設置法の公布により文理学部、教育学部の2学部として発足する。昭和30年(1955)に農学部設置、昭和41年(1966)に文理学部を改組し、経済学部、理工学部及び教養部を設置、以後、組織の改組・拡充を重ね、平成15年(2003)10月に旧佐賀大学と旧佐賀医科大学が統合、平成16年(2004)の法人化に伴い、国立大学法人佐賀大学となる。海洋エネルギーの研究を始め、シンクロトロン光による応用研究、リチウム電池の研究など数多くの研究成果を発表している。
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菊楠(きくなん)シュライバー館
大正15年(1926)に木造2階建として建てられた旧制佐賀高等学校の外国人教師公舎を学内に移築・復元し、公募により「菊楠(きくなん)シュライバー館」と命名した。現在、佐賀の歴史文化研究教育の拠点として平成18年(2006)4月に発足した佐賀大学地域学歴史文化研究センターとして活用している。
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星共小学校
明治21年(1888)9月鹿子及び袋両所にあった旧藩の焔硝蔵を解体し、本荘村字灰塚に改築し、分校の名称を脱し、初めて独立の尋常小学校を星共小学校と改める。(現在の本庄小学校の前身となる。) 敷地面積1反6畝歩、建築は48.5坪の2階建であった。(明治22年(1889)4月1日市制・町村制施行時に鹿子村、袋村、末次村、厘外村の内正里を合併し、本荘村へ編入する)
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本荘尋常小学校
明治21年(1888)9月鹿子及び袋両所にあった佐賀藩の焰硝蔵を解体し、本荘村字灰塚に改築し、分校の名称を脱し、初めて独立の尋常小学校を星共小学校に改める。 明治25年(1892)4月小学校令改正に際し、本荘尋常小学校と改める。 以下現在までの沿革を記しておく。 明治41年(1908)4月−義務教育の延長により、第5、第6学年を置く。 大正5年(1916)4月−高等科を併置し本庄尋常高等小学校と改める。 大正11年(1922)3月−上飯盛出身の中野實翁より、校舎新築資金5萬圓の寄付により講堂、校舎が落成する。(各区より総参加の仁○加でお祝いをなす。) 昭和7年(1932)4月−佐賀県女子師範学校代用附属として開校する。 昭和12年(1936)8月−児童の宿泊訓練所として農道館建設。 昭和16年(1941)4月−本庄村国民学校と改名。 昭和22年(1947)4月−新学制実施により、本庄小学校と改名。
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正里寺子屋の跡
福山晴大氏宅地東北隅には麦藁葺き平屋の正里寺子屋跡の建物が残っていましたが、平成3年(1991)秋の台風で倒壊しました。当時の所管は久米栄吉師匠で、約十数名の少年達が学んでいたそうで、明治維新の英傑大隈重信(八太郎)も見かけたと言います。
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勧功興学
勧興小学校所蔵 書:佐藤尚武 「小学」礼記王制篇より 民咸安其居 楽事勧功 尊君親上 然後興学 「人がみなその処に安んじて仕事を楽しみ励み、長上を敬い親しむとき、学問や文化が盛んになる」という意味で、ここからの引用が「勧興」の由来である。 (註)佐藤尚武…明治23年卒業、外務大臣、参議院議長を歴任。
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蒙養舎
八代藩主鍋島治茂は、藩校として松原小路に弘道館を創設した。その後、天保11年(1840)に十代藩主直正が北堀端に校舎を移し17歳以下が学ぶ「蒙養舎」を建てた。 勉強の内容は漢学を中心に儒学に関するものが多く、礼法や算術、書道があり、武芸として柔術、弓術、馬術、水練などがあった。 当時、教科書として使われていた「礼記」王制篇第五の612頁に「勧功興学」という文がある。 この蒙養舎時代の教科書が現在、多久市郷土資料館に保存されている。
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国旗掲揚台
成章中学校のプール横にある掲揚台。 台座を良く見ると階段右側に「オリンピック東京大会記念1964」、左側に「昭和39年10月10日 佐賀市立成章中学校育友会」のプレートが埋め込まれている。
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勧興尋常小学校
佐藤尚武著「回顧八十年」より 『明治21年、私は父が佐賀県警察部部長として佐賀へ赴任したのに伴い、勧興尋常小学校へ入学した。幼い子供で初めて佐賀の学校に入って私はたぶんに佐賀人の気風に染まったことと思う。全校生徒で洋服を着ていたのは私と兄の二人きりであったがために非常に人々の注意を引いた。』
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佐賀市立佐賀高等小学校
明治32年(1899)、勧興尋常高等小学校の高等科が成章高等小学校に併合され、「佐賀高等小学校」が発足した。 場所は、成章高等小学校があった龍造寺八幡宮一帯から北堀端へ移転した。 明治から大正にかけ幾度かの学制の変遷を経て、昭和9年8月に「佐賀市立佐賀高等小学校」の校舎が現在地(成章町)に建設された。この工事の為に、同年5月に学校の南に「校南橋」、西に「校西橋」が竣工されている。
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成章高等小学校
明治24年(1891)、佐賀市の明倫・循誘・日新の各尋常高等小学校は、併合され明倫小学校敷地内に「成章高等小学校」が開校された。 現在の佐賀市白山一丁目の龍造寺八幡宮境内に「成章校之址」の碑がある。
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弘道館記念碑学舎図
天明元年(1781)、鍋島治茂が松原小路に藩校として創設した。 弘道館の教えは、寛政の三博士と謳われる一人で、藩士随一の学者・古賀精里の指導により、「四書五経」の精読などが行なわれた。定められた課程を終了出来なかった者は、その家禄を減らされたり、藩吏になれないなど厳しい定めが設けられた。 その教導にあたる教授の中には、大隈重信らを育てた武富い南や草場佩川などの有能な学者が多数いた。 「小学」礼記王制篇からの「勧功興学」がのちの「勧興小学校」の校名由来である。 ※「武富い南」の「い」を漢字で表記すると、「圯」の右部分が「已」で表記される。
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佐賀市立成章中学校
昭和10年(1935)、一年半の歳月と多くの人手により当時の木造としては佐賀県下でも大型の箱型校舎が完成した。周囲は、まだ水田が多かったがそのためにこの巨大な校舎は遠く離れた鍋島からも見えたと言われている。玄関正面には「奉安殿」の社も建っているのが分かる。 昭和62年(1987)には、成章中学校は開校40周年を迎えた。
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佐賀県立ろう学校
ろう学校は、大正13年(1923)10月23日に私立佐賀盲唖学校となったのがはじまりで、大正14年1月13日、佐賀市水ヶ江町124番地に民家を借り受け仮校舎として発足している。 以前は盲唖教授所別に佐賀盲学院等と称して盲唖者の教育を施していた。この発達には佐賀市長故野口能敬氏や中原勇蔵氏という方々が活躍してその礎を築かれている。 その沿革概要を述べると 大正14年2月24日 内田喜平・大塚竹次の名で文部省に許可申請 大正14年6月10日 文部省から認可 昭和6年3月1日 佐賀県立代用指定 昭和8年4月 聾唖中等部も授業開始 昭和9年4月 佐賀県立盲唖学校と改称 昭和16年4月 職業科設置 昭和20年8月 空襲で校舎全焼 昭和22年4月 新学制施行で佐賀県立盲唖学校を佐賀県立盲学校と佐賀県立聾学校とに分離。小6・中3・高3の6・3・3制となる 昭和23年4月 義務教育施行 昭和39年11月 佐賀市鍋島町に移転新築。29,598平方メートルを買収、起工。 昭和41年10月 新校舎へ引越し完了 昭和49年10月 創立50周年記念式典挙行 ろう学校は、水ヶ江戦災で高木町(※現・呉服元町)願正寺・上芦町の民家・大和町の春日山道場・多布施川沿いの旧日東航機青年寮跡などに校舎を転々として、のち盲・ろう分離し、私共鍋島町に施設を移し、校舎はもちろん体育館・職業教育の特別教室・寄宿舎・浴場・調理室・食堂等々又運動場も広く、理想的な施設が完備され、特に戦後は、福祉国家建設思想が高揚され、憲法にいう人権尊重と教育の機会均等が実現され、涙ぐましい教育活動は感謝と尊敬の外ない。
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佐賀県立佐賀農学校
JR長崎本線の多布施川鉄橋付近で、多布施川は本流と天祐寺川に分かれる。この分岐点の三角地に佐賀市内で最も閑静な高級住宅地「緑小路」がある。その昔この場所に寄宿舎をもち、広い実習農園と圃場(現在の佐賀工業高等学校敷地)をもった佐賀県立佐賀農学校があった。 この学校は文部省令に基き、明治28年3月1日佐賀県令により佐賀郡神野村大字多布施128番地に佐賀簡易農学校の名称で創設され、簡易の方法により農学と実地技能を授け、県の農事の改良進歩を図ることを目的として、対象者を県内の住民で田畑5反歩以上を所有する者およびその子弟に限定して入学させた。この学校の終業年限は2年であった。 明治31年4月1日、簡易農学校は僅か3年間で廃止され、新たにこの学校のすべてを引き継いだ佐賀県立佐賀農学校が設立された。終業年限は3年に延長され、入学定員は50名となった。 その後27年間に751名の生徒が卒業し、卒業生はそれぞれに学校創建の理念である「農は国の本なり」を旨として幅広く地域農村の模範的指導者として活躍した。 平成6年10月に同校校舎跡地に建立された同校創立100周年記念碑の碑文には、「思えば、当時の農村は、伝承的農業に甘んじる風潮があった。これを科学的に啓蒙して本県農業を飛躍的に発展させたのは本校卒業生諸賢の尽力に負うところ多しと言えます。」と刻まれている。 大正8年11月21日、佐賀県議会は学校の杵島郡白石への移転を可決、これに生徒一同が猛反対、佐賀商工会議所も反対を表明、佐賀市は公会堂で佐賀署警察官監視のもと移転反対の市民を巻き込む市民大会を開催。佐賀市議会も移転反対を可決、行政裁判に訴えている。 この移転問題では、当時の憲政党と政友会とが激しく対立し、佐賀県政を2分する政争になった。この後、この学校は大正11年11月7日に白石に移転し、戦後の学制改革により佐賀県立佐賀農業高等学校に引き継がれて今日に至っている。
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佐賀龍谷学園発祥の地-願正寺
西本願寺の第21代、明如門主は真宗教学の振興、青少年の育成のために、新しい学校制度を促進した。その一環として佐賀でも県内の真宗寺院が協同して、明治11年4月に、願正寺内で小教校が発足した。はじめは振風教校と名付けられたが、西肥仏教中学となり、さらに第五仏教中学に改められた。生徒数が増え、校舎が足らなくなったので、明治36年に、現在の水ヶ江の地に移転した。その後明治41年4月からは私立龍谷中学校として新たなスタートを切った。 「龍谷」の校名は、願正寺第11代住職の熊谷広済初代校長が、京都東山にある親鸞聖人の御廟(大谷本廟)に詣でた折、「龍谷山」とある山号の扁額を見て決めたということである。この「龍谷」の校名は、その後、京都の龍谷大学(大正11年命名)以来、旭川龍谷高校、札幌龍谷高校など、真宗関係の多くの学校に付けられたが、佐賀だけは、佐賀の地名を入れず、龍谷中学、龍谷高校と称している。最初からその校名であり、他校がそれと区別して校名の最初に地名を付けているのである。 昭和53年には創立100周年を記念して、当寺参道に「振風教校跡、佐賀龍谷学園発祥地」と刻まれた記念碑が本学園より建てられている。
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行学塾
材木1丁目の本経寺の山門に「行学塾」という木片がかかっていた。塾の経営者は住職の籾井恵学、対象は旧制中学生で塾生は10名前後であった。 英語の教え方は独特で、先ず前回出された宿題のテストから始まった。従って宿題をなまけるとついていけない。また英文法などは「名代動形副前接感」などとお経式で教えられた。 行学塾の名の通り躾面でも厳しく、勉強中は座り机に正座、玄関の履物も「地震や火事の時はだしで飛び出すのか。」と出船型にきちんと並べることが求められた。 また土曜の夜は本堂の御本尊前で坐禅があった。正座して耳と肩は一直線、へそは垂直、ひざはこぶし一つ開け、手はせい下丹田において生卵をそっと抱くように組み、腹式呼吸をできるだけゆっくりし、蚊がきても払うな、というものであった。もちろん15〜6歳の中学生、煩悩の滅却どころか足のしびれと柱時計の音だけが気になっていた。 その他寒い冬の朝でも水をかぶるように言われ、自らも井戸で水かぶりを示してくれた。これを実施したか否かはテスト用紙に○×で報告した。この水かぶりは年齢とともに冷水まさつ、乾布まさつと変わってきたが、たしかに風邪の予防にも役立っているようである。 こうした厳しい一面だけでなく、古湯まで自転車で登ってレクリエーションをしたり、黒髪山登山に連れていったりする面もあった。ここで学んだことは塾生の一生の心の糧となった。 なお、終戦の頃高木町観照院の住職となられたが、戦後生まれの人も観照院の塾で学んだ人がいるので、後年まで塾はあったらしい。
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佐賀大学医学部
佐賀大学医学部は、教育・研究・診療の3つの使命を一体として推進することによって、社会の要請に応えうる良い医療人を育成し、もって医学・看護学の発展並びに地域包括医療の向上に寄与することを基本理念とし、本学部では教育の特徴として自学・自習をモットーとし、科学的論理的思考に基づいた問題立脚型学習法を導入して、広い視野からの問題解決の能力の涵養を目指している。 附属病院では、地域の中核医療機関として、患者・医師に選ばれる病院を目指し、そのために地域連携室による地域医療への貢献・救命救急センターによる救急医療の充実、高度医療技術の研究開発等を目標としている。 (沿革は主なもの) ・昭和51年10月 佐賀医科大学開学(1学科目) ・昭和53年 4月 佐賀医科大学開設(8講座・9学科目) ・昭和56年 4月 医学部附属病院設置 ・昭和59年 4月 大学院医学研究科(博士課程)設置 ・平成 5年 4月 医学部看護学科設置 ・平成15年10月 佐賀医科大学と佐賀大学が統合し、新「佐賀大学」設置 ・平成16年 4月 国立大学法人佐賀大学と改名
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佐賀市立鍋島小学校
明治維新後、新政府は明治4年(1871)に文部省を設置。文部卿は佐賀出身の大木喬任。翌明治5年(1872)に「学制」を発布し、国民皆就学制をとった。 鍋島には従来、蛎久の満性院、鍋島の観音寺、森田の福満寺、東新庄の民家等に学校が開かれていたが、植木出身の学務委員堤長定等が一村一校を説いて、ついに明治15年6月それを統合して、「養正中等小学校」が創立された。 その後、明治19年(1886)学制改革、さらに明治41年(1908)義務教育は6年制をとり、ほぼ学制は完成した。 鍋島小学校は明治15年(1882)創立以来110余年を経たが、昭和53年佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)が鍋島校区に開学し、それに伴なう周辺地区の市街化が進み、児童数が1,600名を越す事態となったため、開成校区に新に平成3年開成小学校を開校し、国道34号線を境として校区を2分することになった。こうした変遷を経ながら、鍋島小学校は百数十年の歴史を誇り、教育熱心な町民性によって、県下でも優秀な小学校となり、現在に至っている。
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佐賀市立鍋島中学校
昭和20年8月終戦とともに、旧来の制度は大幅に刷新されることになり、教育においては「新学制」が敷かれた。昭和22年4月からは、新制小学校6年に次いで、新制中学校3ヶ年が義務教育として発足した。このことにより、鍋島村では、昭和22年5月3日鍋島村立鍋島中学校が創立され開校式を挙げた。鍋島中学校は、その後20余年に渡って輝かしい歴史を残したが、昭和40年に到り、適正規模の中学教育推進のため、中学校統合が実施され、鍋島中学校は高木瀬中学校と統合され、第七中学校(佐賀市高木瀬西)となり、同年8月10日に校名は「城北中学校」と改称された。その後、鍋島地区には中学校が置かれない状況が続いたが、昭和53年佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)の開学に伴う周辺地区の区画整理及び市街化が進み、人口増加、児童生徒数の増加に伴い、鍋島地区にも新中学校が創立されることになり、昭和58年4月1日新たに「鍋島中学校(校名は公募による)」が開校した。開校当時の生徒数は578名であった。以来鍋島中学校は市内でも有数の進学校となり、又部活動も活発で、合唱部は全国合唱コンクールで2年連続日本一に輝くなど、文武に優れた校風を今も誇っている。
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久保泉小学校沿革
(川久保小学校 → 久保泉小学校) ・ 明治 8年 西原の郷学校跡に川久保小学校を創立したが、その後字原口に移転(年次不詳) ・ 明治20年 尋常川久保小学校と改称 ・ 明治25年 久保泉金立両村で学校組合を作り管理する。川久保尋常小学校と改称 ・ 明治41年 義務教育を6ヶ年に延長 久保泉金立二ヶ村学校組合を改組 ・ 大正 2年 久保泉金立両村で学校組合を解消し、久保泉尋常高等小学校と改称 ・ 昭和3年 青年訓練所充当久保泉公民学校を併置 ・ 昭和16年 久保泉村立国民学校と改称 ・ 昭和19年 10月20日夜火災のため北側1棟全焼、東側1棟半焼 ・ 昭和22年 新学制学施により、久保泉村立久保泉小学校と改称 ・ 昭和29年 図書室設置 佐賀市に合併により、佐賀市立久保泉小学校となる ・ 昭和30年 校歌を制定(作詞:中島哀浪、作曲:陶山聡) ・ 昭和33年 水泳プール完成 ・ 昭和36年 学校給食を開始 ・ 昭和50年 小学校創立100周年 (和泉小学校) ・ 明治 8年 上和泉竜田寺本堂を以って泉小学校を創立 ・ 明治11年 佐賀郡久保泉村大字下和泉字古賀に校舎新築 ・ 明治20年 尋常和泉小学校と改称 ・ 明治25年 久保泉金立2ヶ村組合学校となり和泉尋常小学校と改称 ・ 大正2年 久保泉金立2ヶ村学校組合を組織し2ヶ村組合立尋常小学校となる ・ 大正8年 和泉通俗図書館を設置 ・ 昭和3年 青年訓練所充当和泉公民学校を併置 ・ 昭和16年 久保泉村和泉国民学校を設立 ・ 昭和22年 新学制学施により、久保泉村立和泉小学校と改称 ・ 昭和25年 和泉小学校を廃止して、久保泉小学校として発足