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[物語・いわれ][物語・四方山話][西与賀校区]は16件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 西与賀校区
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副島種臣ゆかりの地
副島種臣は、文政11年(1828)9月9日佐賀藩士枝吉忠左衛門種彰(号南濠)の二男として佐賀市南堀端に生まれ、国文学者枝吉神陽の実弟で、幼名を枝吉二郎といった。 種臣31歳の時、親類の副島和忠の長女律子の入婿となる。副島家は、代々西与賀町今津江湖端に住み、種臣も青年時代の一時期当地で過ごしたと伝えられ、その後は現在漁業田中氏の乾燥工場等が建てられている。副島種臣は、明治維新の元勲として明治新政府で参議、外務卿、内務大臣を歴任し、その外交手腕は、外国高官からも高く評価された。また、書家としても優れ蒼海と号した。
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西与賀町の伝説
全国各地に日本武尊の伝説が存在するが、熊襲征伐のくだりでこの西与賀町関連部分がある。それによると武尊は長門国より乗船し、五島、平戸を経て有明海に入り、火前(ひのまえ)の御崎(みさき・諫早の肥の御崎の説有り)に一応上陸、ここより現地の者による水先案内で、佐賀郡西与賀村の元相応あたりに上陸、そこから小津江(多布施川流域か)を遡行し「中の龍造島」に至ったという。真偽のほどはともかくとして、古代、この西与賀町の大半が海または湿地であったとするのが一般的な考えであるが、この説話は少なくとも一部には人々が生活していたことを示唆しているのではないだろうか。
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中世〜近世の与賀
古代律令制崩壊の過程で荘園が成立していく訳であるが、与賀庄として記録にあらわれるのが建長2年(1250)の『沙弥行恵家領処分状案(東福寺文書)』である。これによると、肥前国与賀庄は関白九条道家の家領であった。また、『与賀大明神御鎮座記』によれば、同年8月8日に与賀神社の鐘を鋳造し、その鋳銘に、「肥前国与賀郷庄守守洪鐘壱口 右奉為天長地久祈願円満也 殊為本家領家預所沙弥 成阿地頭豊前前司藤原朝臣資能安穏泰平」の文字が刻まれている。 時代が降って、明応4年(1495)の『大蔵某の証文(河上神社文書)』に「肥前国佐嘉郡与賀庄上古御寄附の地 字号辻ノ堂」とあり、現在の辻ノ堂付近を中心として与賀庄と呼ばれていたらしい。 藩政期になると与賀庄は上与賀郷と下与賀郷に分かれ、佐賀本藩の蔵入地となっていた。現在でいう西与賀町、本庄町を中心とした地域である。
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野狐と白毛婆(しらがうんぼ)・白毛爺その1
16、7からですね、私ゃかまぼこ屋でございましたが、20歳頃までかまぼこ屋しとりました。 そいで、かまぼこをいのうてなた、午前3時頃、もう、一日(ひして)過しなって。多久まで80斤(きん)から100斤いのうて、1日でかけて来て、そいぎ、ちくわとかまぼこもんのまい。そがんしていのうて卸(おろし)行きよるわけですよ。 そいけん、野狐でんなんでん出て来にゃならんばってん、ほら、朝、3時から行たてばんたぁ、そいで、帰ぇさみゃあは、もう4時頃にならんば家にゃ帰って来よりませんでした。 そして、行きよったところが、三日月の先の方からなた、西さい分れりゃ高柳ヶ里ちゅうてございました。そして、高柳ヶ里ちゅう所を行きよっちゃった向こうに、明かいが一つ見えましたですもんなた。おお、今のう誰じゃい行燈つけて行きよるね。今からちょっと、60年前のことですもんね。行燈つけて行きよんね、こう思った。そして、出っかしたなた。こっちは風で右から吹きよんもんじゃい、ちょうど出っかしました。そうしてみたところ、こうして見たぎ、白髪姿の、あたいよい太かとの立っとんもんのまい。びっくいしましたのまい、これにゃあ、本当に。そいぎ、そいが言うことにゃあ、 「かまぼこ屋さん」「ないかい」「あの、家の娘がお前、丹坂越えて来い」「うん、越えて行く」「あっけぇ、おとうにん人さんのおっちゃて、家の娘が縁じいとんもんのう。その娘に、『きゅうは稲刈りじゃけん、来てくいろ』て、言うてくれんかい」 て言うて、あたし言づけさすばん。そいばってんがこっちは、つっくるびいて、あなた、白髪姿じゃんもんじゃあけん。そして、 「うぅん、ううん」 ちゅうて、もう返事ばかいして、かけて走ったわけ。あたし、えすかじゃもんじゃっけん。 そうしてみたところが、向こう見たぎ、ほうかぶいして、またこっちゃい向いて来んもんのまい。なんの、娘方(がや)ぁじゃ行きよっとたんたぁのまい。使ぇ、親父がこいがこうして見たぎにゃあと、こんど白髪爺の立っとんもんのまい。ほんに、びっくいしてあたしゃ足ゃあくりゃあぐうして駆けて来た。
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野狐と白毛婆(しらがうんぼ)・白毛爺その2
そうして、向こうの丹坂(にざか)越ゆっ時は、まあーだ暗かですよ。7時までは夜は暗かった。そして、おいかぶっもんじゃいのまい。あの境に。そいぎ、暗かけんもう、午前の方におってんばい、あたしゃ越さんじゃった。よそん悪わかもんじゃっけんが、もう、 そいぎ、そいが言うことに、 「あの、お前、丹坂越えて来い」 て、また言うもんのまい。 「いんにゃあ、丹坂もう越えん。山ん先さい回っ」 て、こう言うたぎんと、そいぎ、 「あつこ、石馬のおんもんのう。石馬のおっとこれぇ、『きゅうは稲刈いやっけん、かせぇに来ぇ』ち、言うてくれんかい。また、そうっと言うもんのまい。そいぎ、足ゃつくごとつかんごと駆けて行たて、ほんに黒うどったもん」 そいぎ、そこの丹坂の家からのまい、 「そりゃ、ほんなもん」て。 「決して、白髪婆も白毛爺も、そりゃほんなもんぼ。そいけんが、おそう時間、ゆっくいあっ」 て言われて、ここに来たごとがありますなぁ。
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野狐の世間話その1
あるところに、仕出屋ばしないよったて、魚屋でのまい。 そして、この射的道ができる前は、神埼線ができっ前は、この前ばずっといたて、久富の裏さい東向って、仕出して、車引いて帰えないよったぎぃ、若か娘のさい、二人さい、「おじさん、加勢すんのう」て言うてさい、一所懸命、ええて、加勢すってっちゃん。そいぎ、わがいっぱいつけとって、車が軽うなっけん、ホイホイホイで娘が加勢すんもんじゃい一所懸命になって昔の古道ば暗に、一所懸命。 あの人は次作さんやったきゃん。 そがんごとの何度でんあったてっじゃん。野狐も化しよか人間と、化しにっか人間とあっちゃろうちて。 人の見っぎにゃあとは、「何んしょいなっちゃろか。畑ん中ば、なし、あがん一所懸命、車引いて行きなっちゃいきゃん」ちて。
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野狐のなまず
私はのまい、あの、太かことばっかい言うばってんが、なまずのさい、人間の頭ぐりゃあいのなまずの、私が流れうけつけとったとにはいったことのある。そいも鍋島おっときくさんたぁ。 長雨(ながせ)のうち、まぁ、よぼいしぎゃ行たわけ。田ん中、あがっことしとんもんじゃのまい。そして、うけばつけとったさい、流れうけば。そいぎ、帰ぇがけ、あの、めかけぞうけば、あの、てぼに持って行たとったもん。そして、うなぎてぇろん、鮒てぇろん、でぼに入れとったもん。そして、帰ぇがけ、もう流れうけ鮒の入っとろにゃあと思うて、こう、開けでみたたんたぁ。 そうしてみたところが、もう、ゴトゴトゴトで、もうえすかごと音さすんもん。こりゃあ、なんじゃい太かとの入っとっばいねぇ。もう楽しゅうであげてみたわけ。そうしたところが、こうして見たぎにゃあとは、その、なまずの入っとんもん。太かもんのまい。がん太かもん。そいぎ、こりゃどういうなまずかと思うてさい、そうして、野菜かごたんたぁのまい、あいばでぼに持って行たとったもんじゃい、尾ば取ってみて、そうして野菜かごの中ゃあ、尾ば入れて、こう、うけばかけたわけ。ガタガタっとして、ありゃあ、俺が取ったとまでちん逃げたとは太かったとこれぇにゃあて、思うた。両わきの田ん中も水のはいっとんもんのまい。あぜのこうしとっところの、溝につけとんもんじゃん。こうして受けたぎ、バタバタバタってして、こいまで転ばぁきゃあて、そして、やっとったとまで全部やられた。そいぎ、全部出てしもうた。 そうして、残っとったとは、こいくりゃばっかいのなまずがさい、1匹残っとんもんの。そがんとは残らんたっちゃよかったとこれぇ、ほんに惜しかったにゃあ。また、そいがのぼってくっくさと思うて、またつけてぇていたわけ。あんまい先さぁいかんけんがぁと思うて。あぁ、もうどうしゅうかぁ。待っとっ筈じゃこんもんじゃあと思うて。そうして、帰ったんたぁ。 そうして、帰って、なんもかんも、なまずの1匹じゃんもんじゃい、こうまかこいくりゃあんとの1匹しか残っとらんもん。そいぎ、「太かなまずの入っとったばん。こいくさ俺が頭のごたっとの入っとったぁ」ちゅうて、「そがん太かなまずのおんもんかぁ」ちゅうて、親父がやかまし言うて、「わが今のまでそがんしとんない、わが、やられとっじゃあ。つけられとっじゃあ。そいけん、早よう帰って来んばぁ」ちゅうて、あっちゃごし小言いわれた。なんて小言いいよっかにゃあと思うて、なんのその、野狐から騙されとっちいう意味たんたぁのまい。なまずになって、あとから話聞いたぎ、野狐が。そいぎ、目の真暗うなって、川の中にはい込んだいすっらしか。
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野狐の世間話その2
谷口鉄工所が本当に盛んな時、私がまだ若い頃、あの、私の所は建築資材のごたっとを売いよったたんたぁ。そいぎ、あつこがレンガのいっけんちて、レンガの注文があったわけたんたぁ。 そいぎ、なんの電話はそん頃なかもんじゃい、そいぎあの、急ぐちゅうもんじゃい、そいぎ、「今のから行たて来っか」ちゅうて、私が行こうでしたぎ、そいぎ、父が、「今からもう、暗うなっけん行くな」ち。そいばってんが、気になんもんじゃい、「俺が行たて来っ」ちゅうて、そのまま、ところが、えぇ、城島ちゅうて、大川の筑後川の所に工場があっわけですたいなぁ。そいぎ、そこさい、もう、午後から行たわけ、自転車で。 そして、ずうっと行きよったところが、もう、大抵、日暮れ頃になって、ちょうどそんときゃあ、あの、なたねの咲しとっ頃でござんした。そして、ずうっと行たて、もう、だいぶん行たて、そしてあの、煙突が、工場あるからなたぁ、煙突がずうっと先の方まで見えよっ。とにかく、ずうっと行きよったところが、あの、その、なの花の畑ん所を、何か、ぷすっと、あの、道ば行ったわけ。そいから、少し行きよったところが、ずうっと行きよったところが、道がだんだん狭もうなってくっ。そして、ずうっと行きよったところが、先ゃあもう、道が狭もうなって、もう、あぜ道のごとなって自転車行かれんごとなってしもうた。ありゃ道ばまちごうとっばいと思うて、そしてちょっと立ち止って、こう、あたりを見回したら、そうすっと、少し離れたところは、うぅん、人のまだ通いよっし、あの、車も通いよった。そいぎ、あぁ、そんときゃ道ば自分がまちごうとったと思うて、こう行きよるばってん、先ゃあ田ん中ゃ行かんばらんていうて、そうして、また戻って、戻ったところが、あがんと太か道に出たわけ。そして、ずうっとまた、その工場に行たて、「実は、こういうふうなことが途中であったぁ」ちゅうたぎ、「あぁ、そんときゃ、あがんと、ここんたりゃ狐の騙すけん、そぎゃんいうぎ、そいぎ早よう帰らんばもう」ち、言うもんじゃいね。そいぎもう、早よう、用事ば済まして、あの、帰ったとたんたぁ。 そして、帰って来よったぎにゃあ、もう、あぎゃんこともあって。そうして、提灯のいっごとなったわけ。そいけんが、狐の騙すちゅうことは、こういう風なことじゃなかろうかぁと思うなたぁ。
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野狐の世間話その3
火の玉の、ほんなこて縦の1尺ぐりゃあの火の玉に私が二十歳(はたち)頃会うたことのあっですなぁ。 町遊べ、二人(ふたい)連れ、その人もまだ生きとって。二人連れ町から12時過ぎ、あすけぇ森のあっ。森から、こう、出たところが、ここが堤防で、もう今は川の中って。こいから50mばかい行ったとこれぇ、最近まではぜの木のあったたんたぁ。その楠のほんな家の所にね、北の所に山王さんのおいなっさい。その当時。 そいぎ、二人連れ、久保ちゅうて、まだ現在におらすて。ちょうど三叉路から、森の方から出て来て、三叉路になった所のにき、ホォーと、こう、よなよしさんのごたっとのくさんたぁ、まあ、頭の高さぐらいのとこれぇ、ほんにびっくいすっごたっとの、赤でんちぃたたんたぁ。 そいぎ、こっちもびっくいしてもう、かくっぎにゃあ、相手もかくぅごたんもんじゃさい、こっちもじいっと我慢したごとして、そして、その、そこのはぜの木の、こう立っとった時、下ば通らんば、まあ、ちょっと行かれんもんじゃい。ちょっと川じゃあもんじゃいなぁ。 そして、その下んにきに行たぎにゃあとは、そいが自然と、そおっと消えて、のうなったわけ。のうなったけんよかったもんの、そいから気持ちの悪さ悪さのまい、のうなってからがさい、「もう、かきゅうじゃっこうさい」て、かけじゃあたぁ。ちょっと、気持ちの悪かもんじゃいけんさい。そいぎ、城井樋まで出かけて行た。 そいぎ、そいが何じゃったかちゅうて、えぇ、何こっちゃいわからんたんたぁ。そいぎ他の者に、「こがんことのあったばい」ちて。そいぎ、「そりゃあ、あの、練兵所の野狐ちゅう。お前たちは騙されとったぁ」ち。あすこは、せっせと騙されたちゅう者の多かとよ。もう、火の消えたけんよかったばってんもう、あの川ん所はさい、ガオガオガオでもう、ないじゃいこう、馬の駆けてくっごとひょうつかすて。そいぎ、ないじゃいわからんて。
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副島種臣二郎さんの風呂入り
古老の話に今津周辺で子どもが風呂に入りいい加減にして遊び上りよく拭きもせず着物を着ると、これを許して「二郎さんの風呂入り」といったそうである。これは副島種臣が今津に来てからの風呂入りをかく評したもので、日常生活にいかほど無頓着であったかを知ることができる。
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副島種臣浸水にも平気
二郎(副島種臣)が今津に来てから幾度か大潮にて本庄江湖の水がふとり、遂に今津の土手をこして副島家に侵入した。 養父吾左エ門は、手桶をもって家の中の水を汲み出しに一生懸命になっていたが、一方二郎はひとつも気にせず2階から、淡々として潮の満ちて来る江湖を眺めて平然たるものであった。 それを対岸の有重の人達は「吾左エ門さんは、あんな馬鹿者を養子してどうするつもりか」と、ののしったその声は今津方面に聞こえる程であった。けれども相変わらず平気で考えこんでいた。
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副島種臣犬神堀の投網
副島家の隣に、須古弥エ門の住宅があった。種臣が弘道館教授の当時、高太郎犬神屋敷(旧西与賀小学校の北東)の堀干しがあって獲物が多かったので弥エ門氏は種臣に、しきりに漁をすすめた。 その時種臣は机に向かい、読書三昧に入っていたため、何の返事もない。弥エ門は、更に大声を発して勧めてもやまなかったが、種臣は迷惑そうに、「先に行かれよ、あとで自分は参るから」と言い読書を続け読書一段落を告ぐるや、網を肩にのこのこと家を出た。 テボも持たねば別に支度もせず、しかも犬神堀にいたるや数回網をうったが、場所も動かねば、魚の取れよう筈がない、村人はあまりの事に呆然として見物していたが、種臣は、左様のことに頓着なく数回にして投網を肩に平気で帰宅し、再び机に向って、先の読書を続けたということである。
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副島種臣弘道館教授となる
実兄、枝吉神陽の心配で弘道館、目達原分校の教授に就任し、毎日徒歩にて今津より目達原まで、24kmの道のりを通勤した。 のち弘道館教授枝吉神陽の病没に際し、本館に転勤となった。当時、弘道館生徒であった清水熊之助氏(10代西与賀村長清水宇吉の父)の談によれば、朝食を済ましてすぐ種臣先生宅をたずね先生に伴われて通学していたが、出発前には必ず天をあおいで天候を見定め笠を横にしばり途中雨が降り出そうと、雷鳴にあっても一向平気で、何時も変わらない歩調を続けたという事である。 また、平素が無言無愛想で独り思索に耽り、時に直立して思案に沈むこともたえずあったと、もってその一斑を知る事が出来る。
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副島種臣親孝行
副島種臣は孝行心の深い人であった。 種臣が弘道館に通学中のことである。朝の空模様が悪いので、義父は今日は雨になるかわからないから高下駄をふんでゆけと言う。やがて義母は雨が降るまい下駄でよいと言う。種臣は一方高下駄、一方に低下駄を踏んで例の通り笠を頭にし、平気で弘道館に通学したという事である。
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副島種臣御庫番のこと
二郎が副島家へ入ってから無職で閉居し、読書三昧に耽るのみで、しかも家は左程財政も豊かでなかったから、親戚の一人が大いに心配して、ついに二郎を鍋島家のある御庫番に就職するようにした。 あたかもその当時、副島家に法事があって、親類会合する機会があったので、その席で吾左エ門と二郎に御庫番に定めてきた一件を誇り顔に報告した。二郎は柱にもたれたまま、全く耳にせずに何等の返事もしなかった。 よって、その人は、自分の好意を無視するものと大いに憤慨したので義父は、閉口の態であった。ここに親類の他の一人が先程から二郎の様子を窺うに、とても御庫番には見向きもしまじと思われる。 これは「大馬鹿か大傑物か二つに一つ、まあ怒るものではない。」と慰めて御庫番は、ものにならなかった。大賢愚に似たりとか、大馬鹿ではあるまいかと疑われた二郎が後年大傑物として天下に名をあげたのである。
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副島種臣長崎遊学につき平山翁の学資援助
長崎にオランダ人が初めて日本人に文物を伝来して以来、天下の士は奮って長崎に遊学する様になり種臣も、また志望に燃ゆること甚だしかったが、それを満たすだけの学資がなかったので養父吾左エ門は思い悩みの末、庄屋、平山栄十翁に相談された所、翁はただちに快諾されたので種臣は教授を辞し憧れの地、長崎に遊学することができた。 種臣が天下に識見を求むる基であって、明治維新後、一族東京移転後も吾左エ門氏は墓参りに帰郷する毎に平山家に立寄り、翁の1子を引受けて、学問をさしてやるからとの事なりしも、翁は遂にそれを受けなかったということである。