中世〜近世の与賀

中世〜近世の与賀

■所在地佐賀市西与賀町
■登録ID206

古代律令制崩壊の過程で荘園が成立していく訳であるが、与賀庄として記録にあらわれるのが建長2年(1250)の『沙弥行恵家領処分状案(東福寺文書)』である。これによると、肥前国与賀庄は関白九条道家の家領であった。また、『与賀大明神御鎮座記』によれば、同年8月8日に与賀神社の鐘を鋳造し、その鋳銘に、「肥前国与賀郷庄守守洪鐘壱口 右奉為天長地久祈願円満也 殊為本家領家預所沙弥 成阿地頭豊前前司藤原朝臣資能安穏泰平」の文字が刻まれている。
時代が降って、明応4年(1495)の『大蔵某の証文(河上神社文書)』に「肥前国佐嘉郡与賀庄上古御寄附の地 字号辻ノ堂」とあり、現在の辻ノ堂付近を中心として与賀庄と呼ばれていたらしい。
藩政期になると与賀庄は上与賀郷と下与賀郷に分かれ、佐賀本藩の蔵入地となっていた。現在でいう西与賀町、本庄町を中心とした地域である。

出典:西与賀の歴史とその周辺p2