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[民俗・芸能][行事][嘉瀬校区]は28件登録されています。
民俗・芸能 行事 嘉瀬校区
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年始(1月1日)
年始は俗に「年とり日」と言われ、元旦の行事は家庭によって様々であったが一般的には朝早く起きて朝風呂を浴び、若水で顔を洗い、その年の恵方を向き、歳徳神に不老長寿、福徳円満、家内安全を祈念した。農家では、にわなか(土間)に歳徳さんの祭壇を作った。祭壇は臼を土台にして、その上に箕を置き、それに一升桝を立て年末についた餅、蜜柑、干柿等を飾っていた。家族全員が歳徳さんに礼拝をすますと座敷に年長順に座り、新年の挨拶を交わしてから屠蘇酒を飲んだ。 一通り屠蘇酒を交わす式が済むと鏡餅に向って「〇〇歳になりました」と宣言し、三宝に乗せてある昆布、スルメ等を頂いてから朝の食膳についた。朝の食事は各家庭によって様々であったようだが、お雑煮を食べるのが一般的に行われていたようである。その後氏神様や恵方にあたる神社に参拝しに行く人もいた。太平洋戦争までは、子ども達は学校での四方拝の儀式に参加していたが、戦後は家族中心の行事となり学校での儀式はなくなった。
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ほんげんぎょう(鬼火たき)(1月7日)
朝まだ暗いうちに起床し、家の門前や鎮守の境内等で、前日までに土手などで刈ってきた竹笹やしめ縄、お札を焼く行事である。これは全国的な行事で鬼火たきとは鬼退じの意味である。この鬼火たきでは歳徳神に供えた餅を焼いて食べた。この餅を食べることによって禍を除き福を得ることを祈ったものである。また竹の燃えかすのまだ煙の出ているのを拾って田んぼへ挿し虫除けのまじないにしたり、上部を三角形に折り曲げ門口に立てて魔除けにするところもあった。 嘉瀬では、各部落によってその方法は様々であったが、今では殆んど行われていない。ただし、扇町では虫供養塔北の田んぼの中で、公民館行事の一つとして実施している。
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荒神餅(1月9日)
この日に荒神様に供えた餅を食べた。この餅はへっつい(かまど)を模して作った餅で、地域によってはこの餅は男性に嫌われ専ら女性だけの餅であった。最近では丸型の餅を供える家庭が多い。
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土龍打ち(1月14日)
約5、6mの竹を切ってきて、その先に藁づとをくくりつけた棒で、部落内の家々に行き庭先で円陣をつくり、土龍(もぐら)打ちの歌に合わせて地面を叩く男児の行事である。この行事はもともと田畑を荒す土龍の害を除こうとするもので、子どもたちはもちやお金をもらったものであったが近年では、あまり行われていない。 <土龍打ちの歌> せんすい(千秋)まんすい(万歳)そぉーれ なれなれ柿の木、 ならずの木をば(実を結ばない木を)、 なれぞというた、 千なれ万なれ 億万なれ、 つる打ちすんな、 あだ花咲くな、 人のちぎっときゃ(人が盗みとるときは)、 ほい(堀)の岸なあれ、 おどんがちぎっときゃ、 畑のまん中なあれ、 去年よりや今年あ、 所見がようして(見ばえがよくて)、 太うして 長うして、 ぶらっぶらっとなあれ、 14日のもぐら打ち
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針供養(2月8日・12月8日)
明治の頃までは裁縫師匠の家で針子たちが集まり1年間に使用し折れた裁縫用の針を白い豆腐に挿し、祭壇を設け、草花や菓子を供えて針への感謝と共に裁縫の上達や針で怪我をしないようにと祈った。豆腐はお寺のそてつの下にうめていた。今では、2月8日に一部の部落(元町)や学校等で行われているだけである。
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ひな祭(3月3日)
「桃の節句」や「ひなの節句」といってひな人形を飾り、ふつ餅(よもぎを入れて作った草餅)を供え、白酒を入れたかんびんに桃の花枝をさして飲み少女の将来を祝った。特に初節句の家では親類等から雛人形や、ぼんぼり等やお祝儀を貰い、それに対して酒肴を出して盛大に祝った。この行事は今でも実施している家庭が多い。
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春祈祷(4月〜5月)
この行事は部落によって期日は違うが、4月から5月にかけて行われていた。農家ではこの頃から麦刈りや田植の準備が始まり、1年中で最も多忙で骨折る時期で、「ごんがつ」とも言った。この行事はもともと氏神様の境内で村人が集まり五穀豊穣を祈ったものである。昭和の初期まで続いたが現在でも元町・有重・新町・十五では4月7日、または4月28日に行われている。
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端午の節句(5月5日)
男児が生れた家ではお節句の数日前から庭先に幟竿を何本も立て、これに矢車、吹き流し、鯉幟を飾りつけて祝った。初節句の家では酒を用意し親類知人等を招いて振舞った。この節句は現在でも行われているが、4月中より鯉幟を掲げ、幟を立てる場所のない家庭や団地等では室内用の小型鯉幟を飾っているところもある。昭和23年7月に国民の祝日に関する法律が制定され、この日を「子供の日」とし「子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかると共に母に感謝する」という日になった。
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さなぼり(早苗祭)
七月上旬頃で農家では一番骨折る田植えが終り、無事済んだというお祝いで、うすの上に箕をおき、苗束を供える行事である。また、地方にもよるが農家では新嫁をこの日から里帰りさせることも行われていた。
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七夕祭り(旧暦7月7日)
この日は、天界のけん牛(鷲座のアルタイル)と織姫(琴座のベガ)という星が天の河(銀河)で相会するという中国伝来の説に基づく風習で、7日は早朝に起きて稲などの葉にたまった露の水滴を取り集めて墨をすり、五色の短冊に自分の願いごとを書いて竹の枝にくくりつけ、その竹竿を家の入口に立てた。七夕に使用した竹竿は畑に立てて虫除けなどにしたり、物干竿にもしていた。この行事は近年新暦7月7日に行うところが多い。
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盆祭り(8月13日〜8月15日)
以前は旧暦の7月13日から15日までの三日間にわたる日本中の国民的行事であった。しかし現在の嘉瀬町では8月13日から15日までの3日間行われている。お盆にはいる前に墓地を清掃しお花や線香をあげて、宗派によっては異なるが、家庭では盆用の仏壇を作り盆花を供え13日の夜は玄関か縁側に盆提灯を提げてお精霊さん(仏様)をお迎えする。13日の夜のお茶湯から始まって15日の朝の餅まで精進料理を供える。またこの期間中には菩提寺の僧侶が各家庭を巡回してお経をあげる。初盆の家庭では親類等から贈られた提灯に灯を点して故人を偲び、15日の夜は本庄江の高橋や嘉瀬川の定められた岸辺から精霊流しを行ない、精霊を十万億土の極楽へ送っている。また、盆踊りは空也上人の念仏踊りが変化したものと伝えられており、戦後急に盛んになった。この盆の期間中には故郷を離れた者たちの帰省が多い。
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豆祇園(8月24日)
村の鎮守の夏祭りを祇園と呼び、鎮守の境内には守護神の他に地蔵尊、観音、大日如来などいろいろな神仏が祀ってあり、これらの守護神以外の神仏の祭りを灯つけといって、観音様は女児が、その他の神仏の灯つけは男児が担当した。各戸から豆やお金を喜捨してもらい昼間清掃して神仏の前にござを敷いて、夜各家庭から持ってきたご神灯に灯を点して村人に参拝して貰い煮豆の接待をした。現在では、一部の集落に残っているだけである。
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おくんち(10月10日)
おくんちは村の鎮守の秋祭りで豊年に対する感謝祭であった。このおくんちは中国の9月9日の重陽の節句から変わったものだろうと言われている。 嘉瀬では十月に行われ、おくんちの行事の一環として有重八幡宮(有重、十五、新町)、四面神社(北島、元町、中原、嘉瀬津、天草江)、乙護神社(荻野、野田、東原) での浮立が実施されている。
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荒神さん相撲(12月24日)
集落の男児(小学生)が集まって各家庭を回り、それぞれの家の荒神様(かまどの神様)の前に敷いた蓙の上で座り相撲をとる行事で、この日には各家庭では荒神様の神棚にごっくうさんをあげてあった。相撲をとった後、各家庭から御礼として蜜柑や干し柿を時にはお金を子供たちに与えていた。
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餅つき(12月下旬)
年の瀬も押迫ると、各部落では思い思いに組を作って餅つきを行った。29日の日は「苦」に通じるとして一般にこの日を避けた。にわなかや門先に大臼を据えて5、6名の壮青年が向う鉢巻をして餅をつき、女の人はつきあがった餅を丸めていた。この餅つきで正月用の歳の餅や神仏に供える餅を作った。各家庭でつく餅は糯米(もちごめ)1俵(約60kg)以上のところが多かった。しかし近年ではこの様な方式は殆んど行われずに機械で餅をついたり、業者に依頼することが多くなった。しかし、嘉瀬津、元町、扇町等では公民館や子どもクラブの行事として実施している。
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英彦山まいり
佐賀藩鍋島家と縁の深かった英彦山権現への長途の参詣をすることを「英彦山まいり」と言った。(享保14年 1729年英を加えて英彦山となる)これは、3・4月頃の農閑期に集落毎に行われた。このおまいりと関連しているのが権現講(彦山講)であった。講は年1回集落毎に行われ、この講で「英彦山まいり」の当番が3〜4名順番で決められていた。鹿児島線・長崎線の鉄道が開通してからも一泊二日のおまいりであった。土産には必ず札に「英彦山ガラガラ」という土鈴と「飯しゃもじ」それに英彦山の生笹を付けて家毎に配ることになっていた。厄除け、一家安全・繁栄の御利益を祈願した。 英彦山権現の青銅鳥居は初代勝茂の寄進であり、神殿の改築も鍋島藩主の寄進であった。そして、嘉瀬有重の徳善院に英彦山の分霊を祀り「徳善院権現」または「徳善院英彦山」とも称した。徳善院は、歴代藩主の祈願所となっていた。つまり徳善院は鍋島藩と英彦山権現とのパイプ役をつとめていた。「英彦山まいり」が集落毎に行われるようになったのは、このような藩と英彦山権現との長い歴史を通じての深い因縁によるものであり藩の指示もあったと思われる。このように長く続けられた「英彦山まいり」も戦後は殆ど行われなくなった。けれども、一部の集落では今でも行われている。
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八天神社参り(八天さん参り)
火災鎮防、安産の神として崇敬を集めている八天神社は、嬉野市塩田町山口にある。いつ頃から参るようになったかは詳らかでないが、部落の火災安全を祈願するため、2月に部落の代表が参詣した習わしが今に受け継がれている。往時は、徒歩でお参りしたり、船を利用したりしていたという。火災鎮防のお守札を各戸分頂いて配布している。有重と北島で実施されている。
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川の神祭(5月上旬)
「河童祭り」とか「川祭り」とも言われ、藁や小縄で円座を作り、それを川や堀に浮かべ、1本の竹で支えたり、川に流したりした。円座の上には野菜、果物、御供飯(ごっくうさん)を供えたり、または白紙に茄子、胡瓜、南瓜等の野菜の絵を書いたものを張りつけた。この行事は、川や堀などに落ち込まないようにという祈りである。
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三夜待と六夜待
三夜待の神は、女の神だから男がまつり、六夜待の神は、男の神だから女が祀った。「三夜待」は毎月23日を中心に開かれた。嘉瀬では、江戸中期以降に、刻像塔が多く建てられている。文字は、二十三夜・勢至(せいし)菩薩・月読尊・二十三夜尊などである。月齢の二十三夜を「忌み籠りの日」と定め、月の出を拝む講のことを「サンヤマチ」と言った。石碑の前に酒肴をささげ、おさがりを戴いて、よもやま話に花を咲かせた。 「六夜待」は主婦たちが、毎月26日の夜に集まった親睦会のことである。 23日、26日ともに、月齢の暦の日付けであった。今でも行われているところが多い。
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彼岸ごもりと遍路
彼岸とは春分と秋分の日を中心として、その前後各3日間合わせて1週間をさし、つまり迷いの此の岸(現実)から悟りの彼の岸(理想の涅槃の世界)に至ることである。この彼岸中は「彼岸ごもり」といって部落のお宮のお堂に一家の主婦たちが集まり先祖を偲び感謝することをした。またこの期間中に全国的には四国88箇所の霊場巡りが行われた。しかし、佐賀から四国までは遠距離であるため、佐賀市郡一帯では弘法大師を祀ってあるお寺など88ヶ所を定め、巡路宿泊地を定めて行脚をしていた。 嘉瀬では有重の徳善院が一番札所、扇町の苗運寺が二番札所となっていた。遍路の列は法螺(ほら)貝を吹きながら嘉瀬のお寺や神社等の札所を巡り、集落の主婦たちの接待をうけた。しかし、この遍路の行事もあまり行われなくなって、平成15年秋の彼岸をもって嘉瀬からはなくなった。
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観音講
もともと法華経の観世音菩薩を信仰する者の行う宗教的行事であって、昭和初期までは婦女子の親睦をはかる行事として年にて1〜2回行われていた。しかし、近年ではほとんど行われないようになったが、今でも毎月17日には迎町(大字荻野)では行われている。
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灌仏会 (花祭り)
釈迦が誕生した時、天から龍が下ってきて水を灌ぎかけて釈迦を洗い清めたという故事に因み、4月8日の釈迦の誕生日に、高さ十糎程の釈迦の像に甘茶水を灌ぎかける行事である。釈迦の像は甘茶水を入れた鋼製の鉢の中に安置してあり、鉢は花を飾りつけた厨子の中に置いてあるので「花祭り」ともいう。昔は朝廷の行事として行われていたが、現在は寺院等で行われる年中行事の一つである。甘茶は貰って家に持ち帰り、これを飲んだり家の周囲にふりかけたりすることもある。
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村祀り
数軒の農家が共同で神を祀る風習である。神に附随して田圃(祀り田、めんだ)があり、1年毎に交替して耕作する。祀り田を耕作する家(ほんつう)は、1年間神を祀り12月1日には、祀りに加わっている家の家族全員が「ほんつう」の家に集って飲食を共にし神への感謝を捧げお互いの親睦を深める。朝はなます、竹輪、澄し汁に赤飯と香のもの。昼の食事は無くて夜は、決った献立の御馳走が用意される。大人には神酒が振舞われ歌が出ることもある。ひと通り飲食が済めば来年度の「ほんつう」を決めるために籤引きをし、今年の「ほんつう」から翌年の「ほんつう」につう渡しの盃事があってお開きとなる。 この行事は、ほとんどの部落で行われていたが、農地改革のあおりを受けて消滅したところが多い。
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ゴミホイ(ゴミアゲ)
村の中を縦横に走る堀は、上水道が完備するまでは、炊事、洗濯、風呂などの日常生活を支え、稲作の潅漑用水を供給する極めて重要な役目を担っていた。堀の水を清浄に保ち堀の水を流れやすくするためには、堀の底に貯った泥土をあげる作業が欠かせなかった。泥土をあげて堀の深さを保つ作業をゴミホイと呼んで、冬の農閑期に村のクヤク(公役)として行われることが多かった。ゴミホイは堀を深くして、防火用の溜め水の場にしていた。 泥土をあげる田にモミガラを敷く。堀を区切って水を落とし、堀の両岸にミチギ(足場)を組む。ミチギの上に4、5人ずつ乗って向き合い、ゴミオケにつけた親綱と子綱を引き、呼吸を合わせて桶を操作し泥土を汲み上げるのである。堀の中では、カスイで泥土をかき集めて汲み上げやすくする。すべて呼吸を合わせ、反動を利用しての操作である。 この共同作業とは別に個人でゴミホイをすることもあった。堀の底にのめりこまぬように、4、5本の竹を藁縄で編んだスクラを置き、その上に乗って、カンピョウエ(柄の長さ1.4mほどの木製匙状の道具)で泥土を田圃へ、ほうり上げる作業である。いずれも力のいる重労働であった。あげられた泥土は放置して1ヶ月もすると、大きくひび割れする。これを小さく砕いて田圃の肥料とした。ゴミホイは後にモーターを利用した機械でするようになったが、やがてゴミホイも今では全く見られない。
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お籠り
神社に各自弁当を持ち寄って食事をとる(夜)
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もぐら打
毎年1月14日は、子供クラブの行事として、もぐら打の行事が現在も続いている。前日の13日かそれ以前に老人クラブと子供達で竹と稲わらで、もぐらを作る。14日の夕方より、子供クラブで集落内の各家庭を廻り「14日のもぐら打ちや、孰れ孰れ柿の木」と歌って竹、稲わらで作ったもぐらを、土に打ちつける行事。
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「庶民のならわし」
① 元旦の床飾:白木の三宝台に幅広のコンブを前面にたらし、白米を盛り上げ、その上に橙、とろろ、栗、木炭、もろもき、つるし柿、つんの葉などを、面白く配置して、森林を想起して、盆栽を床飾りとする。 ② 鬼火たき:正月7日の早朝、青竹を手ごろに切り、ワラに包んで、門先で焚火し、荒神さん餅を焼く。嘉瀬津の市道では、車時代に入ると共に禁止された。 ③ もぐら打ち: 正月14日、農作物の満作を祈る子どもの行事。 ④ 雛祭り:3月3日、女の子の成長を祈って行う日で、お座敷には、お雛さんの段飾りをした。娘の子は、晴気の振袖、神社まいり、写真撮りなど可愛さ一杯の時である。 ⑤ 遍路詣り:彼岸期間中に、数人、数十人の男女が混合体をなし、弘法大師を祭る堂、宇、遺跡などを尋ねめぐる。服装は、白衣を着し、背中には経文を書き、襟脇には、住所、氏名、年齢等を認めた。手甲、脚絆、ワラジで、さんや袋をかけ、数珠と鈴を持ち、すげ笠を冠り、金剛杖をつく。道中或は参詣時には、和讃を合唱する。嘉瀬津の参詣地は、蓮乗院。 ⑥ 甘茶まつり:4月8日、釈尊誕生日を祝して、各寺院において、菜の花、蓮華草の花などで、小さな御殿をつくり、釈尊の像を祭り、甘茶の湯を灌水する。その灌水を各家庭に配分する。または各家庭から最寄りの寺に参詣し、この甘茶の灌水場を受ける行事。 ⑦ 菖蒲の節句:5月5日、男児の成長を祝う日で、菖蒲を屋根に上げたり、風呂に入れ菖蒲風呂にしていた。特に長男の生れた家では、初節句として、親類、縁者を招いて御馳走して祝いをする。鯉の吹き流し、上り旗、風車などを、門前に樹てて祝う。 ⑧ 夏の町内大会:班対抗ソフトボール大会。班でチームの出来ない所は、親戚、縁者の応援もあって喜々愛々だった。 ⑨ 盆おどり:お志賀さんでやったり、保育園でやったが、櫓を組んで、照明つけて、カラオケ歌って、住民仲良しで、住みよいたのしい嘉瀬津になっていた。 ⑩ 豆ぎおん:8月25日、嘉瀬津神社(志賀神社) で、女性の楽しみの日である。煮豆を貰って、踊りを舞って、子供も大人も、一つの輪になって、夜景も一段と美しい。 ⑪ お供日:嘉瀬津の志賀神社に、お供日はない。元町の四面神社からは、4年に一同巡ってくる。元町、嘉瀬津、迎町、扇町だったが、扇町は自分の町区の神社を祭ると云うことで脱退。当番に当った町区では、思い思いの浮立の形で、今では、10月10日の体育の日に、お供日が行われている。お供日の日は、堀り干しで捕れた鮒を昆布巻きし、大根、蓮根も茶色がかる位、味がつき美味だった。家で作った甘酒、知人を招いて酌み交わす酒、次から次へと友人宅を訪ねており、どの家も、うたた声が道路まで響く、消え去ったお供日の風景。
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「三夜待、さんやまち」
さんやまちとは、本来、神のそばに居て共に夜を明かすことである。それが月の出を待って、神のそばにいると変化していった。県下では、江戸中期以降に、刻像塔が多く建てられている。刻まれた文字は、二十三夜・勢至菩薩・月読尊などである。月齢の二十三夜を「忌み籠りの日」と定め、講員が集まって飲食しながら月の出を待って月を拝む集団のことで、二十三夜に集まる講のことを「さんやまち」といった。今では「さんやまち」は、単に仲間同士が定期的に集まり、当番の家を順番に回って飲食する親睦会的な機会と考えられて、主に男子の行事として伝承されていた。それが女性尊重の世代になるや、主人も奥さんも子供も家族ぐるみの親睦会化し、行事も食事会、旅行、花見と変って来た。親睦会を三夜待と言うようになった。