検索結果 RESULT
[指定文化財][佐賀市][建造物]は21件登録されています。
指定文化財 佐賀市 建造物
-
旧嬉野家の武家屋敷の門(薬医門1棟)
重要文化財
杵島・藤津地方を中心に勢力を持っていた一族で、古くは白石氏を名乗った。同氏が歴史の表舞台に現れたのは13世紀の蒙古襲来の時であり、肥後の御家人竹崎季長を助けて奮戦、その様子を描いた『蒙古襲来絵詞』にも白石六郎通泰の名で描かれている。 佐賀藩政期になると家臣団に組み込まれ、正保や慶安の御城下絵図では、片田江竪小路1番(現在の松原神社門前)に嬉野与右衛門の名が見受けられる。明和8年(1771)の「屋敷御帳控」によると、初出は文化6年(1809)正月で、嬉野与右衛門が南御堀端小路13番に屋敷地を得て文政2年(1819)5月まで居住した後、天保3年(1832)6月に現在地である松原小路4番に移っている。 屋敷地は、約30間四方と広大であり、西側は北堀端に移転拡張する前の最初の藩校弘道館敷地に隣接する。小路沿いの南面に門を構え、主屋は屋敷地の中央よりやや北側に配置されていた。この門はかつて「中門」と呼ばれ、さらに東方に配置された長屋門が屋敷の正門であったと伝えられている。 この武家門の形式は薬医門で、三間一戸、切妻造、本瓦葺である。本柱に冠木を載せ、女梁を載せ、男梁を支えて、控え柱と繋ぐ。小屋組みは束を建てて貫で固め、棟木、桁を載せて垂木を配る。中央に一間の両開きの板戸をいれ、両脇は板壁としている。中央一間の柱の見込みは薄く、背面に一筋の鴨居が残され、元は引き分けの引戸であったことが判る。妻飾りは拝み懸魚が付き、屋根本瓦葺きの鬼瓦には「水」の字が入る鬼瓦を載せている。女梁先は簡単な渦目の絵様とする。 この武家屋敷の門の正確な建築年代は判明していないものの、門の内法高が低く古い形式を呈しており、城下町佐賀における貴重な建築遺産といえる。
-
香椎神社肥前鳥居 一基
重要文化財
香椎神社は、安元3年(1177)ごろ、この地の地頭窪田因幡守藤原利常(くぼたいなばのかみふじわらとしつね)が、久保田村矢櫃の森という所に創建したが、天明ごろ現在地へ社地替えとなったと伝えられている。祭神は、神功皇后、応神天皇、住吉大神である。 肥前鳥居は佐賀市を中心とする肥前一帯のほか、長崎県や福岡県の一部にも分布する。江戸時代初期に数多く造立され、延宝年間(1673~81)ころから著しくその数は減っている。 この鳥居は香椎神社の二の鳥居で、柱は二本継、貫・島木は三本継であるが、中型の鳥居としては二本継は珍しい。造立銘によれば、慶長11年(1606)に龍造寺政家が一門の安泰を祈願して建立したものである。
-
神代勝利公の墓 一基(石造宝篋印塔)
重要文化財
神代勝利は天文元年(1532)龍造寺氏に対抗しようとする山内の武将に請われて三瀬城主となり、神代大和守勝利と称した。弘治3年(1557)金鋪峠(かなしきとうげ)の戦で隆信勢を破ったが、永禄4年(1561)川上合戦で決定的な敗北を受け、永禄8年(1565)山内の畑瀬城で病死した。 墓碑は、石垣の三段積で、玉垣で囲み、台の上に石門があり、、墓石は宝篋印塔で、基礎・塔身・笠・相輪で構成されている。基礎から相輪までの総高は、108.0センチメートル、塔身の東西南北四面に、「星」「心」「日」「月」の四文字が深く刻まれており、基礎石正面には、摩耗した浅沈線の為に不明瞭であるが「覺譽賢利」「大禅定門」と勝利の戒名が2列に彫られている。 墓碑は東畑瀬の宗源院にあったが、嘉瀬川ダムの建設により、ダム堰堤の左岸、畑瀬トンネル近くのダムの水面を眺められる高台に移設されている。
-
六地蔵 二基
重要文化財
地蔵が六道を輪廻転生する衆生を救済するということから、六つの分身を考えて六地蔵として信仰することは平安時代末期に始まったといわれる。本県内に遺存する石像物を通してみる限り、地蔵尊は室町時代前期に現れ、後期に著しく造立されている。室町時代の地蔵信仰は造立銘より、その大部分は個人信仰であったことは明らかであるが、後期になると信仰を同じくする集団である講の発生を見るに至っている。 多聞院の六地蔵は、方柱形の二本継の竿石の上に中台をのせ、その上に尊体を安置し、宝珠のついた屋根形の笠石をのせた六地蔵の基本形式である。一般的には時代が下ると中台の側面の蓮華文が消滅する傾向がみられる。 195センチメートルの六地蔵には蓮華文が残っており、笠石は六角形である。また竿石には二体の半肉彫像が彫られている。 150センチメートルの六地蔵には蓮華文がなく、笠石も円形である為やや時代がくだる可能性がある。寺院の門前や墓地の入口に一般的に見られるようになったのが室町時代後期からであることから、そのころの造立と推定される。
-
肥前鳥居 一基
重要文化財
肥前鳥居は、室町時代の末期から江戸時代初期にかけて多く造られた。その特色としては、笠木と島木が一体化していて、木鼻が流線形にのびている。笠木・島木・貫・柱の各部分が継材となっていて、原則的には、各部分が3本継ぎになっている。柱の下部に亀腹を設けず、柱の下部を削り出して、生け込みになっている。柱の上部には、台輪をつけ楔を設けないなどがあげられる。 若宮神社の肥前鳥居は、総高211センチメートル、笠木320センチメートル、貫290センチメートル、柱間の幅145センチメートルで銘文はないが、額は「若宮神社」と彫られている。 肥前鳥居の特徴である各部分の三本継ぎが柱には見られず、極端に低く貫下が153センチメートルしかない。亀腹が見られることから上部の二本が破損して低くなったという可能性がある。貫は事故のために破損したため、昭和58年に修復された。
-
肥前鳥居 一基
重要文化財
肥前鳥居は肥前を中心として、その周辺の福岡県の一部などに分布している独特の構造と形式を有する石造鳥居である。特色として、島木と笠木が一体化していて、木鼻が流線型に伸びていること。笠木・島木・貫・柱の各部分が継材となっていて、原則的には各部分が三本継ぎになっていることなどがある。 新北神社の参道には4本の鳥居があり、この肥前鳥居は神門の前に立つ。額は「新北大明神」とあり、慶長13年(1608)佐賀藩祖鍋島直茂の奉献になるもので、高さ3.80メートル、笠木の長さ4.25メートルである。
-
久留間六地蔵 一基
重要文化財
蔵福寺の境内入口に立っている六地蔵は、もと地区の南端にあったものを移設したものである。地表面からの総高2.04センチメートルで、竿石・中台・尊像・笠石・宝珠の5部分で構成されており六地蔵像の標準的な構成である。尊像は半肉彫りの六尊を円筒状に配したもので、合掌したもののほか、錫杖(しゃくじょう)と宝珠、経筥(きょうはこ)、妙鉢(みょうばち)などを持っている。一部破損が見られるが保存状態も良好である。 竿石正面には三列の線刻がある。 代□為成就現□□味之悉地當村中各々 奉彫刻地蔵薩埵六像 永禄四年辛酉季春廿日 本願快玄 とあり、永禄4年(1561)に何らかの願成就のために村中において建立されたものである。
-
与止日女神社三ノ鳥居 一基
重要文化財
肥前鳥居は、肥前地方を中心に興った独特の鳥居の形式で、慶長年間(1596~1615)に特に造営が盛んだったことから、別名「慶長鳥居」ともいわれている。 肥前鳥居の特徴は笠木と島木が一体化し木鼻が流線的に伸びていること、笠木・貫・柱が三本継ぎになっていることである。柱に刻まれた銘文により、佐賀初代藩主鍋島勝茂が慶長13年(1608)に寄進したことがわかる石造肥前鳥居である。 鳥居額には『肥前鎮守正一位河上淀姫大明神』とあり、柱には「扶桑国肥前州路鎮守正一位河上淀姫大明神 奉建立石鳥居三柱 鍋島信濃守豊臣朝臣勝茂」とある。
-
神野のお茶屋
重要文化財
佐賀藩10代藩主、鍋島直正(閑叟)が弘化3年(1846)に佐賀城下北西のはずれ、多布施川沿いの神野に築いた別荘である。別荘は木造平屋の寄棟造り藁葺1棟と木造平屋建の四方廻屋根、藁葺(わらぶき)1棟の2棟からなり、この2棟を瓦葺の廊下で継いでいる。 寄棟造りは桟瓦葺の庇(ひさし)をつけ、南と西は1間幅の縁がめぐる。主室は4間半に2間半の畳の間で床の間がつき、この主室の北側に4間に1間の畳の副室がついている。 四方廻屋根は、4棟を方形に結合した形で方形に畳の間が廻り、その中央は庭園となっている特殊な構造である。東棟の北隅に千鳥破風本瓦葺の玄関が付いている。 2棟ともに床下は吹放しで、本柱は、すべて1面又は2面が矧(は)ぎ付けとなっている。庭園は、天山を背景にして多布施川の清流をひいて、池、小山を造り、石と樹木を配したもので、別邸の建造物とよく調和し、江戸時代後期の県内では代表的庭園である。 藩主の休息の場としては粗末すぎると感ずるほどの質素なものであるが、構築は藩をあげての総意で樹木や庭石などは、藩士たちが持ち寄ったものである。この別荘は大正12年(1923)に鍋島家から佐賀市に寄附され、神野公園と名を改めて、市民の憩いの場として親しまれている。
-
武家屋敷の門 一棟
重要文化財
小路に面し、南を正面として設けられている武家屋敷の門で、創建の年代は明らかでない。門は、3間1戸の平門で、切石礎石上に4本の方柱で直接棟木を受け、貫の上方は連子となっている。貫の上に肘木(ひじき)をとおして軒桁(のきけた)を支え、軒は疎棰(そたるき)で本瓦葺となっている。中央は両開きの板戸で、左右の脇間は片開きのくぐり戸である。両側の破風(はふ)に懸魚(げぎょ)が用いられている以外は、飾金具もなく、装飾的な構造は全くみられず極めて簡素な造りではあるが、木組みは比較的に大きくて安定している。 門の両側には、棧(さん)瓦葺の塀も残存していて、保存状態は良く藩政時代における武家屋敷の遺構が極めて少なくなった今日、その価値は高いものがある。
-
佐賀(龍造寺)八幡宮石造肥前鳥居 一基
重要文化財
文治3年(1187)龍造寺季家が鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、龍造寺村 (旧城内)に創建した。その後慶長9年(1604)に鍋島勝茂が佐賀城拡張に際し、当地に移したと伝える。 鳥居は慶長9年佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、笠木の長さ4.80メートル、高さ3.40メートルである。石柱の下部は生け込みとなっていて、笠木は太い柱に対に反る特有の様式である。貫は三本継ぎで中央部分は後補により原形がいくらか改変されている点が惜しまれる。 この烏居は、造立年代の古いものの一つで、また、笠木の曲線などに独特な華やかさをもっており、最も典型的なものの一例として価値が高い。
-
御位牌所 一宇 附一、木造阿弥陀如来坐像一躯 二、御位牌二〇二霊分
重要文化財
高伝寺は天文21年(1552)に鍋島清房によって建立され、鍋島家の菩提寺となって歴代藩主に尊崇された。明治初年鍋島家先祖と龍造寺家の墳墓を当寺に集め合祀した。 御位牌所は明治29年(1896)の建立である。本堂の北にあって南面し、土蔵造で腰を海鼠(なまこ)壁とし軒も塗籠めである。内部は北側一面に位牌壇をつくり、中央に阿弥陀如来座像を祀り左右に鍋島家と龍造寺家の位牌を安置する。 外観は唐風な花頭窓と唐戸そしてギリシャ風の柱に支えられ、屋根は破風造りの向拝である。鎌倉時代に移入された唐風様式が時代と共に和風と完全にとけあった独自な折衷模様を取り入れたものである。和唐洋折衷の時代相を現した好建築で明治建築を知る上で貴重なものである。 御位牌所の中央に安置されている阿弥陀如来坐像は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の寄進によるものである。像高1.45メートルの上品上生((じょうぼんじょうしょう)(定印)の印を結ぶ寄木造りの木造で金箔の堂々たるものであってその価値が高い。 御位牌は、鍋島、龍造寺両家の202霊が奉安されている。最大のものは総高1.34メートルの堂々たるものであって、彫物や彩色などが華麗に施されていて、近世における工芸品としてその価値が高い。
-
鐘楼 一棟
重要文化財
浄土真宗真覚寺は、永禄年間(1558~1569)に創建され、鐘楼は元禄12年(1699)に建立されたものである。 桁行(けたゆき)2.81メートル、梁間2.55メートルで平面は正方形に近く、軒の高さは3.04メートルで、用材はすべて欅(けやき)材である。 屋根は本瓦葺、照り屋根で切妻造り、棰は二重角棰で化粧裏板張り、妻は破風打ち、懸魚(げぎょ)は腐朽して外れているので様式は不明である。柱は方柱で江戸風な細い面がとってあって、わずかに内転びに立てられていて、頭貫(かしらぬき)、腰貫、地貫によって軸部が固められている。柱下の礎石は30センチメートル角、厚さ6センチメートルの平石で基壇は高さ60センチメートルの乱石積み、床は粘土たたき仕上げである。 妻の大瓶(たいへい)束及び斗(ます)に四方に木鼻がつけられていて、大瓶束の下の方は獅子面の彫刻で飾られている。蟇股(かえるまた)は桁方向のものは、くり抜き墓股で、妻側は梵鐘の重みを考慮して板蟇股(平安後期以前)が使われている。梵鐘受けの虹梁と妻の虹梁は共に二段眉がとってあって桃山調、また頭貫の上に台輪が梁えられていて、これ等の木鼻が賑やかである。 屋根の重厚さに対し、吹き放しの四本柱の架構は簡明すぎる感じがするが、上中下三段の貫で絞め固められた柱は、やや内側に倒れて踏ん張っていて、力強さを表現している。 この鐘楼は県内の寺院建築の中でも、その価値は高く評価される。
-
勝宿神社本殿 一棟
重要文化財
勝宿(かしゅく)神社は佐賀市久保泉町川久保の北端で山に囲まれた景勝の地にあって、神代勝利を祀り、江戸末期に長崎から棟梁を招いて建立されたと伝えられている。 社殿は本殿と拝殿とから成り南面し、拝殿入母屋造り瓦葺で近世の新しい建築であって、造りも簡素である。本殿は、一間社流造りで向拝に江戸風の軒唐破風がつけられている。 基壇は、高さ四尺(1.21メートル)、花崗岩の白然石乱積みで上端に葛(かずら)石を配してある。屋根は、銅板葺で棟、鬼板、鳥衾(とりふすま)共鋼板で加工され、鬼板には三つ巴の紋が小さく型打ちされている。軒は二軒繁棰、地垂木、飛燕垂木共に角材、軒唐破風は疎棰で屋根の反りに合わせて曲の棰が使われている。本殿の四本の柱は円柱、向拝の柱は角柱で唐戸面が取ってある。妻破風の上下は透し彫りの木彫で飾られ、拝懸魚(おがみげぎょ)は室町風の藁(かぶら)懸魚に三つ巴の紋を浮き出し、鰭(ひれ)及び降(くだり)栱懸魚は若葉模様の木彫、妻壁は蟇股、斗栱(ときょう)、虹梁や竜頭(たつがしら)の彫刻の真束で組み立てられていて、それらの空間は波や雲型の彫刻で充たされ、柱頭には植物の木鼻なども添えられている。 また、正面唐破風の壁も、斗栱、二重虹梁、獅子の彫刻の束や、二重虹梁の空間の波に戯れる竜の彫刻などで埋められている。向拝の柱の正面、側面には前肢を伸ばして、口を開いた獅子の木鼻がついていて、両妻と正面の上部の壁は豪華に飾られている。本殿正面には、両開きの格子戸、右側面には壁の中央より左に偏って両開きの浅唐戸が吊ってあって、この扉の上面の鏡板には木彫の三つ巴紋が浮かしてある。扉を除いた壁面及び左側面、背面の壁は、すべて中の広い横板張りである。本殿の四周には縁を廻らし、組勾欄を設けてあるが、正面階段と、右側面の浅唐戸前に擬宝珠柱が立っている。縁は三手先の斗栱によって支えられ、縁の下の建物周囲には亀腹が施されている。 用材は欅(けやき)を主体に桧(ひのき)も一部に使われていて彫刻材には楠を使用し、木部見え掛りはすべて白木の化粧仕上げである。屋根は現在銅板葺であるが妻飾りなどの華美さに比して鬼板、鳥衾(とりぶすま)、棟などの手法が簡単すぎて、ややふつりあいである。 やはり、創建当時の屋根は古来の神殿造りの様式を踏襲して、桧皮葺(ひわだぶき)であったものを後世に補修した折、銅板葺に葺き替えられたものと思われる。 この本殿は一間社造りの小規模の建築であるが、その木彫技法の巧緻さはいうまでもなく広い重量感のある反り屋根と、斗栱に支えられた廻り縁とのすばらしい調和など、山の緑を背にしたその姿は美しく江戸後期の数少ない遺構として貴重な建物である。
-
旧古賀銀行及び旧古賀家 二棟
重要文化財
古賀銀行は、明治18年(1885)1月に佐賀市蓮池町1番地の両替商古賀善平が設立した。明治39年(1906)5月には佐賀市蓮池町76~78番地(現在地)に本店を移転新築した。その後資本金の増資等により、大正8年(1919)末には九州における五大銀行の一つに数えられるまでに成長した。 しかし大正15年(1926)には、大正9年以降の慢性的な不況によって休業に追い込まれ、昭和8年(1933)9月には遂に解散を決議するに至った。 その後、昭和9年6月から昭和29年(1954)まで佐賀商工会議所として、昭和29年から昭和61年(1986)までは佐賀県労働会館、平成4年(1992)7月まで労働団体の本部として使用されてきた。 旧古賀銀行の建物は創建後に数度に亘ってその用途が変わったが、中でも大正2年(1913)の大幅な資本金増資のころに大きく増築され、東西方向に約2倍、南北方向に約1.5倍に拡張され、現在の規模になったと推定される。西面中央には寄棟屋根で石造円柱を有するポーチも付された。その後、佐賀県労働会館、労働組合県本部としての使用に際し、南面入り口2か所の3層の塔状突起部の撤去や内部の改造等が行われた。 この旧古賀銀行は、新しい都市機能の一端を担う銀行建築として、従来の構法である土蔵造りを採用して建設されただけでなく、その建築自身の中に改造の歴史を残している。それは、石造りの帯を巡らした煉瓦タイル張りという形式で建物の表面を飾り、少しでも「近代建築」風であろうとする点において、近代建築が地方へと浸透していく過程を知る上で貴重な歴史遺産といえる。 旧古賀家は、旧古賀銀行の西隣にあり、旧古賀銀行の頭取を務めた古賀善平の住宅であった建物である。主屋は、古賀銀行の開業に先立つ明治17年(1884)に建てられたと伝えられている。 戦後、昭和29年以降は料亭として用いられ、宴会場などへの改築後現在に至った。 旧古賀家は南を正面として屋敷を構え、町家ではなく武家屋敷に似た配置形式をとる。西側に二階建ての土蔵造りの厨房を配し、主屋は敷地のほぼ中央に建ち、東側に17畳半の座敷を配する。主屋は座敷を中心に東西に長く延び、西側に茶室、北側背面に奥座敷、南側正面に玄関を設ける。これを覆う屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、全体の形状はT字型をなし、その前に独立した入母屋造りの玄関棟が付く構成である。 表座敷の床構えは創建時の特色を良く伝え、土蔵造りの厨房と付属の座敷も同時期の建設と見られる。座敷を始め住宅の主要部分は良く残存し、旧古賀家は本格的な屋敷構えで規模格式にも優れ、明治期の上流階級の住宅遺構として貴重な存在であり、旧古賀銀行と合わせ重要な歴史遺産である。
-
旧牛島家 一棟
重要文化財
旧牛島家住宅は、佐賀市朝日町3番24号(旧今宿町63番地)に所在した町家建築で、佐賀江川に面した北側を正面として建っていた。通りに接して主屋を建て、続いて釜屋、奥には2棟の土蔵があり、水路を背に配していた。平成5年度に前面道路拡幅の際、佐賀市が主屋と釜屋を譲り受け、実測調査及び痕跡調査を行い解体し、佐賀市柳町に移転・復原され、平成9年10月に佐賀市歴史民俗館の一館として開館した。 旧牛島家住宅の屋敷地は、嘉永7年(1854)「下今宿町竃帳(かまどちょう)」に下今宿町の姥役(おとなやく)を務めた問屋を営む高柳伊助の屋敷として記載される。明治23年(1890)制作の銅板画「佐賀県独案内(ひとりあんない)」にも、煙草仲買商・海陸運漕店を営む高柳伊代助の店として外観が描かれる。明治後期以降は油屋を第二次大戦時まで営んでいたという。 解体された主屋の外郭は「佐賀県独案内」の描く姿と異ならず、屋敷地の規模も7.7間、奥行き18.5間で、「下今宿町竃帳」記載のものと異ならない。以上と建物形式から主屋と土蔵の建立年代は江戸期に遡ることは疑いないが、佐賀市の旧城下町域に残される町家建築と形式技法を比較・編年した結果によると、主屋が建てられたのは18世紀に遡ると推定される。 解体時の調査によると、建築当初の主屋は西側と南側に土間を巡らし、居室部に表の間と中の間を設けた単純な平面構成で、2階は表の間のみに設けられ、中の間・土間部分は上部を吹き抜いている。座敷と目される居室はなく、表の間2階に床柱のみ設けられる。柱を間引かずに整然と建て、南側の閉鎖的かつ広大な土間空間を備える点と、床と床脇からなる定型的な座敷飾りを備えない点が、江戸中期の特色を示している。当初の表構えは土蔵作りではなく、2階に出格子を設け、1階は大戸と蔀戸(しとみど)を建て込んだもので、その姿は「佐賀県独案内」にうかがえる。 主屋には明治中期に至って、南側の土間空間に続き間の座敷が設けられ、明治末期には2階表構えが土蔵造りに改められ、さらに釜屋を建て替え、表構え1階東側にも出格子が設けられ、それぞれの時代にふさわしい姿に整えられてきた。 佐賀旧城下町域に残された町家建築の中では最古のもので、多くの改造を経ているとはいえ、城下町における生活の基盤をなした町家建築の江戸中期の構成を知る遺構として貴重な存在であり、数少ない佐賀の明治期における町家建築の構成を知る資料としても貴重である。
-
旧福田家住宅 一棟
重要文化財
旧福田家住宅は、明治末期から大正期・昭和初期にかけて、佐賀を代表する実業家として活躍した福田慶四郎の居宅である。大正6年(1917)9月3日に起工し、翌7年10月25日に落成したと、棟札に記されており、戦後の一時期は佐賀県議員会館として利用されたこともある。 北面して建つ入母屋造り二階建ての主屋を中心に、和洋それぞれの様式の応接室や数奇屋造りの茶室などを配し、南側には庭園、東側には土蔵が設けられている。 建物の内部は、細部に至るまで丁寧な造りであり、接客のために多様な空間が用意されている。また、落ち着いたたたずまいの中に、華やかなアクセントがちりばめられ、端正な中に華麗な表情を見せている。 江戸期に完成した伝統的建築技術は、近代には技術と芸術がその頂点を極めたとされる。この旧福田家住宅はこうした特徴をすべて備えた、大正期の近代和風建築である。
-
旧三省銀行(付属棟含む)一棟
重要文化財
三省銀行は、明治15年(1882)7月に佐賀藩士柿久栄次を頭取として設立された三省社を、明治18年に正式の銀行に改めたものである。当初は順調な経営であったが、投機師専門の金融機関化し、明治26年(1893)、廃業するに至っている。 その後、この建物を買い取った杵島郡大日村の医師木塚紋太郎が、医院を開業し、昭和4年(1929)には池田医院となり、昭和51年(1976)まで営業を続けた。 建物は、三省社創業時の明治15年に新築されたもので、南面して建つ妻入り切妻造りの主屋の背面に、庭と土蔵などが設けられている。 医院時代が大半であるため、そのための改造が大きかったが、平成10年(1998)の解体修理により、新築時代の形状に復元することができた。内部は、佐賀の伝統的町家の形式である吹き抜けのある中の間を中心にしつつ、業務用建築らしい大らかな空間構成をとり、外部は上方に向かってふくらみを持つ屋根や、大胆な形状の窓など、人目を引く特異な表情を持つ。 このように、明治時代前期の息吹をも感じさせる、他に類例のない、個性豊かな建築物である。
-
武家屋敷の門 一棟
重要文化財
元来、門は出入りする者の身分によって格式があり、上位から四脚門、棟(むな)門、唐門、上土(あげつち)門、薬医(やくい)門、平門、冠木(かぶき)門等の順に定められていた。 この門は、元鍋島家の家臣水町氏の屋敷門として、多良の名工、託田の番匠の手によって建築されたと伝えられている3間1尺の薬医門である。 もともと、薬医門は医師の門として使われたもので、病人の出入りを妨げないように門扉はなかったらしく、後に公家、武家の屋敷等に使われるようになってからつけるようになった。 四角な本柱4本を前方に、控柱2本を後方に立て、その上に切妻屋根を置く。側面から見ると、棟は本柱の真上より後方にずれているのが薬医門の特色である。屋根は本瓦葺で破風には、かぶら、懸魚(げぎょ)その両側に鰭(ひれ)が装飾されている。 軒裏は、棰(たるき)、野地板とも化粧に仕上げられ、裏側の一部には鏡板の軒天井が張られていて、肘木の先端には繰形彫刻が施されている。扉は両開板戸が吊ってあるが、これは後になって取り換えられたもので、当初は引き分けの板戸が建て込まれていた。なお、平成20年度の解体修理で、扉は引き戸に戻した。 用材はすべて欅(けやき)が使われている。建設年代は不明であるが、構造形式から江戸後期と推定される。永い期間風雨にさらされ、本柱や控柱の脚廻りの損傷が処々にみられる。しかし、屋根瓦は幾度か葺き替えられたらしく、棰や野地板の損傷はほとんどなく、普段の管理が行き届いているので脚部を除いた小屋組、軸組材はほぼ原形のまま保存されている。 昭和45年の道路拡幅の折、3メートルほど東へ移設されている。 桃山、江戸と時代が変わるにつれて建築方法も華美に流れていく中で、特に質素を旨とした当時の佐賀藩の気風を表現したこの門は、簡素で均整のとれた風格を備えた武家門として価値が高いものである。
-
伊勢神社の石造肥前鳥居及び肥前狛犬像 一対
重要文化財
石造肥前鳥居の特徴は、笠木・島木・貫・柱が通常、2~3本の継材で形成されており、笠木と島木が一体化して木鼻は流線形になっている。さらに、柱の上端の笠木・島木を支える部分には、台輪が必ずつけられており、楔は使われていない。 慶長12年(1607)の造立銘があるこの鳥居は、笠木・貫・柱いずれも3本継ぎで、肥前鳥居の特徴をよく現わしており、造立年代の古いもののひとつとして価値が高い。 石造肥前狛犬は、一般に小形で、姿態は静的であり、また、その彫法は簡潔で素朴なものである。前面と側面を浅く彫り、全体は、丸彫り的に彫整され、前肢をそろえ、前肢の関節を節形に区切をつけて、表現している。後肢は屈して前に伸ばし前肢に接する。 背は半円形、顎は角ばって張り出し、口は顎いっぱいに浅く陰刻している。側面、背面は、極度に簡素化され、毛髪等も数条の線と頭部の項目尻尾、前肢、後肢を浮彫的に表現しているのみである。 在銘のものは少ないが、寛文7年(1667)の造立銘があるこの狛犬は、市内でも最も古い作として注目すべき価値を有する。
-
武家屋敷の門 一棟
重要文化財
八幡小路に面して建つ二階建ての長屋門がある。この屋敷跡は佐賀藩の家老という要職をつとめていた鍋島監物の屋敷であった。 門は、潜戸(くぐりと)付長屋門で、正面向かって左側に2階建の番所があり、右側には駕籠を納める倉庫があって、屋根は本瓦葺入母屋造り、外壁は漆喰塗り、腰は簓子下見板(ささらこしたみいた)張り、番所の2階正面には出格子(でこうし)窓が設けられ、門扉には両開き板唐戸(からど)で、扉の釣元(つりもと)に入八双(いりはっそう)金具、閂(かんぬき)の金具隠しに饅頭金物が装飾されている。 規模は間口12.7メートル、奥行3.9メートルで、建築年代は明らかではないが、江戸時代の様式をとどめた武家屋敷の長屋門として、当時を物語る貴重な遺構である。