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[旧佐賀市][蓮池校区]は150件登録されています。
旧佐賀市 蓮池校区
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蓮池藩第8代鍋島(攝津守)直與(なおとも)
在位29年(1816~1845) 直温の養嗣子、19歳で蓮池藩主となる。寛政・享保時代藩財政の窮乏から藩治が弛緩していたことを嘆いた公は藩主になるとともに理財のことに意を注いだため数年ならずして財務情況は好転しはじめ、文政10年には藩士給禄の部割を減らし、諸礼式等を享和以前に戻すことが出来た。また、官吏を督励して文武を勧奨する一方、信賞必罰を徹底したため藩風は大いに引締った。弘化2年嫡子直紀に家督を譲り、東館の近傍数町の地を游園にして天賜園と名付け、また、塩田から大石を運ばせて天賜園に建て自ら詩十律を書いて彫らせた。これが雲菴道人帰田之碑である。いまは蓮池公園の中に移し替えられている。 直紀に家督を譲ったあとも時勢の動きをよく読みとり直紀を助けて防備のため武備を拡張し、大砲数十門を鋳造した。これに要した銅鉄は領内に厳命して所在の梵鐘、士民の什器を徴収するなどした。 直與はまた和漢の書を好み、詩文書から歌音楽までよくした。その自ら著したものは次のようなものである。 「朝聞日鈔 思草 金石堂誌稿」「夜読偶鈔 雑抄 天賜園製薬誌」「真名鏡 印書 精選百家声巧」「佛蘭察誌 臨書帖 弓箭大双紙」「書画帖 志迺婦草 柳暗花明村舎詩」「推敲録 医書抜録 欧罹巴諸図」「左傳抜録」「歌集」「古風抄稿 金石堂臨末帖」
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蓮池藩第9代鍋島直紀 (なおただ)
在位26年(1845〜1871) 直與の長男、20歳で蓮池藩主となった。嘉永年間から安政年間にかけ幕府は欧米諸国の求めによって各国と和親、通商の条約を結ばざるを得なくなる。一方国内では尊皇攘夷論者の活動が活発化していき、幕府の威信は次第に低下していた。しかしこの時代の蓮池藩ではまだ殆んど動揺は見られない。 嘉永5年2月28日夜、成章館は家老石井玄蕃方から出た火で類焼した。安政2年4月15日には佐賀藩医大石良英を招いて藩主夫人と庶妹4人に蓮池では初めて種痘を受けさせている。 幕府は諸外国との交渉が度重なるに従って沿岸警備を厳しくするよう諸藩に命ずると共にその取扱いについては国際問題を引起さないようしばしば注意を促していたが、万延元年11月9日、蓮池藩から長崎港外伊王島へ派遣していた戊兵が長崎市内で外人と争い、2名は外人に捕われ、1名は伊王島へ逃げ帰るという事件を起した。この事件で藩は本藩に詫び、佐賀藩は外人と争った3名を斬罪に処するとともに連累者2名を牢人にした。蓮池藩はこれに服するほかなく全く不名誉なことであった。 慶応2年6月成章館はその名を育英館と改められ、同年9月2日には加与丁、魚町間の架橋が成った。 慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜は大政を奉還し、同年12月9日に王政復古の大号令が発せられた。以後日本国内の政情は急展開をするのである。即ち、翌明治元年5月9日、東北諸藩親征の勅書が出され、10月5日には蓮池藩も石井靱負を大組頭として総数545名が奥州へ出兵するのである。さらに明治2年6月17日、かねて願い出ていた藩籍奉還が認められ藩主直紀は知藩事に任ぜられた。特記すべきことは、佐賀藩の許にあった三支藩がここで初めて本藩を離れ独立した藩として認められたことである。しかしこの時はまだ藩政が残されてはいたが旧来の領主権はなくなっていた。ついで明治4年7月14日廃藩置県の詔勅が出、7月20日、蓮池藩は蓮池県となり藩知事鍋島直紀は職を免ぜられて、あとは大参事であった成富清記に県務は譲られた。この日をもって初代鍋島直澄以来232年続いた蓮池鍋島時代は名実とも終を告げた。 藩政をすべて政府に返上し、無官となった直紀は、明治4年9月8日、蒲田津から船で諫早に出、長崎から再び船で横浜に上り、同月19日、東京麻布龍土の私邸に移った。
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売茶翁
売茶翁は俗名を柴山元昭といい、蓮池藩に仕える武士の子として西名に生れた。 少年の頃、東ノ巨勢、龍津寺に学んだが上洛して宇治の黄檗山万福寺に入り、のち諸方を行脚して再び京に帰り、享保20年、61歳のとき、東山に「通仙亭」という茶亭をかまえた。 『落栗物語』という書物によれば、頭はまるで、まっ白な蓬(よもぎ)を頂いているように白く、髭はひざにまで届きそうであった。大きな篭の中に茶を煎じる道具を入れ、それを荷なって風情のある所で茶を煎じ、「茶銭黄金百鎰より半文銭まではくれ次第、只のみも勝手、只よりは、まけ申さず」と貴賤の区別なく、茶を振舞ったという。 売茶翁の偈語(げご)の中に「相国寺にあそび楓樹の下で茶を煎ず。」というものもあり、「大典禅師をたずねて相国寺におもむいた。」ともある。翁はいつも大きな籠を背負っており、その中に入れられた18種の道具には高僧文人の詩文が書き込まれていたと言われる。 煎茶道の開祖と言われる。 生家は、西名道畹端にあったがのち北名に移り、現在建物の一部は大橋(大宝家)に残っている。
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原口進兵ヱ尚昌
故原口直太氏の祖父に当り先祖は太田鍋島の重臣で太田村(諸富町)に住んだ。明治元年鍋島監物の軍に従い江戸平定より東北各地の戦に従軍し戦功あり。
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樺島政江都 トコトコ政市たん
1844〜1935 蓮池の庄屋筋の家に生まれたが、7歳の時疱瘡にかかり、失明した。その後長崎に修行にでたが、生来陽気な性格で音曲に興味をもち、三味線を弾くようになった。三味線を抱えて門付けをするようになりトコトコ政市タンと親しみをこめてよばれた。蓮の池節の作詞・作曲をした。 晩年は九州座頭会の会長もつとめている。
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鵜池四郎
1901〜2001 理研農産化工創業者 神埼郡蓮池村に父・健一、母・ニヨの長男として生まれる。家業は、米殻・肥料商を営んでいた。10歳で父に死に別れ、叔父たちの庇護のもと、行商にせいを出した。19歳で鵜池商店を設立し、肥料の取り扱いおよび、精米業に進出し、その後製油・製粉・製麺工場を建設。昭和23年47歳にして理研農産化工(株)を設立した。
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江崎利一
1882〜1980 グリコ会社創業者 神埼郡蓮池村に父清七、母タツの長男として生まれる。家業は薬の行商であった。大正8年グリコーゲンと出会い、栄養菓子グリコを作り、1粒300mの宣伝文とおまけサービスで業績をのばした。順調に利益があがると利益還元として「母子健康協会」などを設立、社会奉仕の実践を続けた。昭和28年佐賀市にグリコ九州工場をつくり郷土の産業に貢献した。生家は蓮池町に寄贈され現在は公民館として使用されている。
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成富椿屋
成富鵬といい、旧蓮池藩士。初め画を佐賀の中島藍皐に学び、書を大徳寺の僧鉄翁及び、のち画を木下逸雲に学ぶ。さらに長崎に遊び南宋画を修めた。 有田にも滞在して陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治33年皇太子殿下佐賀市行啓の時、御前において松鶴の画を揮毫した。墓は蓮池の淨国寺にある。 また、淨国寺が火災で焼失しその再建の時、檀家であった椿屋は、その資金捻出のために絵を寄進した。淨国寺ではその絵を売って建設資金としたため蓮池の分限者が買い求めた。○円椿屋と呼ばれ町内にも数点残されていると思われる。 北名では成富椿屋の屋敷を成富屋敷と呼んでいた。 絵師として名高い椿屋さんを彷彿とさせる。
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永田暉明
1838〜1923 旧蓮池藩士、天保9年9月29日蓮池村に生る。碧桐又は有終と号し、詩文に長ず。慶応元年東都に遊び聖堂に学ぶこと2年、維新の際東西に奔走して国事に尽す所あり。明治4年廃藩置県後、蓮池大参事、続いて大属となり神埼郡長、県会議員を経て明治29年8月佐賀市長となる。(第3代佐賀市長)37年芙蓉詩社を起こして後進を指導した。
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八坂神社
神埼町にあり祭神素盞鳴尊、天正末期から文禄初頃(1590年前後)江上家種が城原から現在地に建立した。祭礼は7月22、23両日で祇園祭として賑わう。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。
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蓮池神社
明治10年の建立。歴代藩主の霊位を祀り、春秋に例祭を行う。特に春祭りは桜の花見と会わせ殷賑をきわめた。拝殿奥に直和書、「蓮池社」の額がある。 ※平成28年に社殿の老朽化に伴って解体された。跡地には東屋がある。
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鎮西出雲大社
蒲田津にあり祭神大巳貴大神、伊弉諾大神、伊弉冊大神ほか、文永10年の建立といわれ当時、その構造は精巧堅緻で大門、小門があり、また神楽堂、御館などもあって、神田32町歩を持ち、すこぶる広大な神社であったという。大友氏のために焼かれ、後元和4年(1618)鍋島直澄によって再建せられ今日に至る。
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八幡神社
北名にあり祭神応神天皇、元禄5年(1692)鍋島直之の建立になる。
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宗眼寺
西名にあり蓮池旧藩主累代の菩提所である。元、雨降山潜龍寺と称していたが寛文9年(1669)3月5日、初代藩主鍋島直澄公が塩田で没し、その遺骨を潜龍寺に葬る。この時正覚山宗眼寺と改称し今日に至る。曹洞宗。
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浄国寺
本町にあり。開山は團譽上人といい、元来法相宗の寺だったものを藩主直澄公の請により浄土宗に改宗して蓮池山古今院浄国寺と改称した。
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福正寺
城原町にあり真宗、天正2年(1574)に創立され当初甲斐山と言っていたが藩主甲斐守に憚って芙蓉山と改めた。開基宗運。
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真教寺
神埼町にあり明暦2年(1656)鍋島直澄、僧雲山を召し当寺を建立して住持とした。真宗。
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西方寺
蒲田津にあり慶長2年(1597)真宗西派の末寺として建立され流水山と号す。開基僧憶念。
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浄台寺
蒲田津にあり宝亀山(※)と号す。真宗西派末寺で元和2年(1616)創立。開基僧真教。 ※正しくは宝龍山
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正念寺
小松にあり真宗西派の末寺で寛文5年(1665)僧宗玄の開基で帰命山と号す。
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法雷寺
堂地にあり宗眼寺の末寺、宝暦8年(1758)建立、開基周悦和尚。
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盛林寺
見島にあり曹洞宗、佐賀市大和町玉林寺の末寺、玉林寺照山和尚開基。
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稲荷大明神
天明年間の祭祀と推定される。側に徳恩寺権大僧都法印豪順他2名による「中央」碑があり、これは享保年間のものと思われる。現在、社は修築され、供物の絶えたことがない。
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天満宮・春日社・宗像社
いわゆる中の島にあった。宗像杜の石鳥居は戦後も残っていたが、損傷はなはだしく、遂に取りこわされて、現在は社屋も残っていない。社のあったあたりに、嘉永3年2月(1850)と刻した大己貴命(おおなむちのみこと)の石祠があり、宗像宮の鳥居の石額や、「肥前国佐賀郡蓮池天賜園鎮守春日大明神広前弘化二年(1845)三月建之」と刻され、また、「宗像宮御宝前元録(禄)五年(1692)九月建之」と刻された燈籠の一部が、空しく積んであるが、天賜園から移祀されたことを語る貴重な資料であると思われる。
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先得亭
先得亭は、明治25年建造。江湖に面した絶好の場所にあったが、戦後損傷甚だしく取壊された。先得亭、與衆館は、一般の求めに応じて「雪月花の雅金並に冠婚挙式の場に供す」と伝えられている。
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與衆館
與衆館は、明治26年建造。正面に明治26年三洲長莢書の「與衆館」の額がある。先得亭、與衆館は、一般の求めに応じて「雪月花の雅金並に冠婚挙式の場に供す」と伝えられている。また、かつて小作米を納入した後の農民に対し、慰労の酒肴をもてなす場所として、與衆館が使用された。館内大広間に「天賜園」の額がある。
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見島のカセドリ行事
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見島のカセドリ行事
重要無形民俗文化財
佐賀市蓮池町見島で、毎年2月の第2土曜日(元は2月14日)の夜に催されている民俗行事である。見島に鎮座する熊野神社の拝殿に、莚(むしろ)が敷きつめられ、数名の長老が羽織姿で座る。 「カセドリ」は青年2名で、藁で編まれたみのと腰みのを着け、黒脚絆に白足袋でわらじをはく。顔と頭には白布を巻いて、目、鼻、口だけを出し、鉢巻をしめ甚八笠をかぶる。手には黒手甲をはめ、長さ1.7メートル余りの竹を1本持つ。竹は一方の端のところを2か所縄でしばり、3分の2くらいの長さは細く割られている。 烏居のところに待機していたカセドリは、準備が終ると、竹を脇にかかえこみ、竹を打ち鳴らしながら拝殿に走りこむ。両膝をつき体を前にかがめて、竹の割れている方を床面に小刻みに激しく打ちつけ、ガチャガチャと打ち鳴らす。盃がカセドリの前におかれ酒が注がれると、そのままの姿で飲みほし、また、同じ所作を続ける。 謡が始まると、カセドリはそのままの姿勢で休み、終ると再び同じ所作を繰り返す。謡が三番はいって、最後の所作が終ると、竹を打ち鳴らしつつ鳥居のところまでかけ戻る。熊野神社の行事が終わると、提灯2名・天狗面2名・御幣1名・カセドリ2名・かごにないの少年数名の順で、各家々を廻る。カセドリは、竹を打ち鳴らしながら家々の部屋にとび込み、膝をつき体を曲げて畳に竹を打ちつけて激しく打ち鳴らす。茶が1杯ずつすすめられ、終わると竹を打ち鳴らしつつ走り出る。かごにないが切餅を貰い受けて、その家を去り、次の家に向かう。 各家を廻り終ると、熊野神社に集って、各家から貰い受けた餅を全員で食べながら、歓談するという。この行事は、以前は旧暦1月14日に行われていた小正月の行事であって、県内では他に伝承されていない小正月における神人訪問の伝統行事として注目される。
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木造河童像 一躯
重要有形民俗文化財
宗眼寺は、支藩蓮池鍋島家の菩提寺で、初代藩主鍋島直澄の霊屋がある。 河童像は霊屋の向拝の虹梁(こうりょう)の上におかれ、棟木を支えており、蟇股(かえるまた)又は束の機能を果している。河童像は、両足を立てて尻をおろした坐像で、像高23センチメートル余り、寄木造の彩色像である。眉毛は太く、眼は彫眼で大きく開き、正面を見すえている。毛髪は両側のみに巻毛を刻み、鼻は太く、口は閉じ2本牙を出し、首を前にのばして顔面を突き出し、背中を丸めている。両肘を屈し、高く上げて力み、両手はそれぞれ膝頭におき、手足には比較的大きな爪を刻み、褌(ふんどし)をしめている。体部は黒色、眼は金色で口、鼻、耳の内側及び褌には赤色が施されている。右足の指が欠失しているのみで保存は良好である。 彫像の年代は明らかでないが、江戸時代の作であると考えられる。また、霊屋にこの像が置かれた理由も不明である。小躯ではあるが河童の性格をよく表現した像で、江戸時代における特色ある彫像の一つとしても価値がある。この種の河童像が市内に数躯伝存しているが佐賀地方の風土が育んだ河童伝説に基づく遺物の代表的なものの一つとして、民俗学的な価値も高い。
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小松の浮立
重要無形民俗文化財
天衝舞浮立は、佐賀市を中心に伝承されている芸能で、天衝舞、天月舞、天竺舞あるいは玄蕃一流浮立又は浮立大神楽などと呼ばれており、小松浮立も天衝舞浮立のひとつである。 この芸能の起源伝承は各地異なって一定しておらず、小松浮立は平氏の落人伝説にその起源をおいている。 平清盛が福原に新都を築いたとき、何度島を築いても波のため流されたので、平家の公達1人が人柱に立ち、同時に浮立を演じて完成を祈願し無事に完成することができた。島の名に因んで、この浮立を築島浮立という。平家滅亡後、この地に落ちのびて来た平家の残党が、小松殿平重盛を追慕して、集落名も「小松」とし、この浮立を小松神社に奉納したのが始まりという。 小松浮立が他の天衝舞浮立と異なっている点は、笛が用いられないこと、ゼイが用いられることである。笛を用いない点については、平敦盛の「青葉の笛」の故事に基づき、これを忌むと伝えている。