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[旧佐賀市][蓮池校区]は150件登録されています。
旧佐賀市 蓮池校区
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大楠の穴
與衆館の横から女山へ行く途中に、今は枯れた大楠がある。この幹に大きな穴があり、その穴から這入って幹の上に抜け出すことが出来る。落雷によるものと伝えられているが、子ども達にとって、現在のジャングルジムに相当する遊び場であった。
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蓮池公園
寛永16年(1639)に蓮池藩が開かれて以来、歴代の居城であった蓮池城(世人俗に「御館(おやかた)」と称す)は、明治維新により廃せられた。当時の蓮池藩知事鍋島直紀は、明治4年11月、蓮池県が伊万里県に統合されるに先立ち、9月に蒲田津から船便で東京麻布の私邸に移った。明治10年、火災によって旧館の過半が焼失したので、村民一同、その跡に池を作り、山を築いて松杉桜等の植樹を行って、これを蓮池公園(芙蓉公園と称した時期もある)と名付け、園内に蓮池社を造営して歴代藩主の霊を祀り、もってその遺徳をたたえた。 さきに8代藩主直與は、幕府若年寄、寺社奉行に推挙されたが、鍋島本藩の阻止に遭い、帰って退隠し、かつての庭園を拡張して天賜園を作り風月を友とした。天賜園は、現蓮池公民館(公民館の建物には、今も天賜園と銘のある屋根瓦がある)の東、北方一帯に広がり、江湖の流を巧みに取り入れ春は梅と楊柳が美しく、夏は青葦によしきり、五位鷺の声を聞き、秋は穂葦の中に櫨の紅葉が映える名園であったと伝えられているが、今は浄国寺に伝わる『天賜園絵図』によってそのたたずまいを偲ぶに過ぎない。 蓮池公園には、この天賜園にあった帰田の詩碑、敏謙神社、天満宮、春日社、宗像社、稲荷社が移されているが、その発想の基礎は天賜園にあると思われる。蓮池公園は、鍋島子爵家から国へ寄贈され、蓮池村から蓮池町へ、そして昭和30年の佐賀市合併によって現在は佐賀市営公園となって、グラウンド、子ども遊園地も整備され、染井吉野を始めとする桜も多く、市民の憩いの場となっている。 西名の人、野中十蔵は直與の命により柔術を学び、その技において名声の高かった士であるが、また計画立案に優れていて、與衆館の新築、羽州出兵の記念碑、蓮池社前の石橋、踊舞台等、すべて彼の関与したものであり、公園の改良についての彼の力は多大であったと伝えられている。
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花見
蓮池公園の桜は見事であった。桜の馬場は、まさに花のトンネルで、オートバイサーカス、見世物小屋、射的、土産物屋が、馬場の両側にずらりと並んだ。園内には茶屋が出来、三味線の音や、人々のざわめきが夜遅くまで続いた。当時は夜になると蒲田津方面までも、その音が聞えたという。江下伍長銅像の前に、1.000燭、男山に500燭の特設電燈が明るくかがやき、踊り舞台では仁輪加や、浪花節(さいもん)が演じられ、老いも若きも心から春の1日を楽しんだものである。 現在蓮池公園は市営となり、神野公園と共に佐賀市民の憩いの場として、計画的に整備されている。戦中、戦後に荒廃した桜も、若木が植えられ、公衆便所も整備され、護岸工事も立派に出来た。交通の便もよくなり、桜の頃の人出も漸次増えて来ており、青年団の桜花の下の茶会は恒例の行事となった。つつじも、藤も再び美しい花を咲かせてくれる様になり戦後の荒廃は語り草になってしまった。しかし、宗像宮、先得亭、尚武会等、その姿を永久に消したものも多い。かって成章館に、講肄場に、文武の道に励んだ先人の姿も、今は偲ぶすべもないが、市営公園として生れ変った蓮池公園は、新しく育ちゆく桜の若木のそれの如く、新しい市民の憩いの場として、また、古い伝統の中に、何時までも蓮池人の心の故郷として、その立派な環境を保ち続けていってもらいたいものである。(昭和49年資料作成された時の状況)
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お水堀
水源は城原川お茶屋畑より引水してある。 下直鳥村ほか5村が姉村と水論を起こし、相応答あって1824年3月解決する。 神埼郡境原村の底樋の討議は1828年1月解決。この底樋は、郷内の6村の用水として用いる。城原川から引水した水は留浪川を通り、浜へ行き、見島のお水堀に溜まる。 このお水堀より中地川の底の下を潜って立体交差する水路がある。見島のお水堀の井ビから大橋へ。北名を西へ抜けてデンゼ橋の下からお祇園さんの太鼓橋をくぐり、神埼町の南を東進して、出張所の前の橋の下をなお東へ少し行き、南へ曲がって公園を抜け、先得亭で江湖へ出る。たいした迂回路だが、もと城原川の「お茶やの井樋」(直鳥)から引いた良質の水で、江湖に遠い家庭の多くが恩恵を受け、また農業用水として地区を潤した。 古老の話によれば、城原川の「よい水」を中流(現千代田直鳥)で採り、蓮池方面の上水として利用した昔の水路。藩主の用にも使ったため、特に大切にしていたが、当時は城原川、佐賀江(湖)の水もよく使っていた。混ざり物があるので、各家大がめに汲み込んで、いくらか澄ましながら使った。お水堀の水は、上流からの水が多いので上質だったと思われる。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。
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蓮池の由来
蓮池に関係する地名はいつ頃から世に知られたのであろうか。『図書編』という古書に「肥前州法司奴一計(はすのいけ)あり。」とあるが、その起源、いわれは不明である。この場合、蓮ノ池が現在のどの範囲を指すか詳らかではないが、中地江から西、大字蓮池が主邑であることは間違いなかろう。また、地理的にみて、今から1.200年前頃の海岸線が佐賀江に沿うた線ではなかったかと推定されることから、1.200年以前より古い時代とも考えられるが、天平の初め頃出来たとみられる『肥前風土記』にその名が出ていないところから、まだ、目立った集落、地名はなかったのではなかろうか。 蒲田津については、『肥前風土記』に「神埼郡蒲田郷郡西に在り。第12代景行天皇巡幸のときから蒲田郷の地名が起こった。」とされている。また、同風土記にいう蒲田郷の地域については明確なことはわからないが、元広島大学米倉教授の研究になる「条里から見た肥前の郡、郷、里」によれば、「蓮池町蒲田津を主邑として餘江、柴尾を含み、直鳥の南に及び、城原川左岸の用作等にわたり条里の10里余りの地であったろう」と推定されている。いずれにしても相当古い土地柄であることは判明しているが、その頃の情況については殆ど知られていない。
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蓮池と平氏1
下って平安朝の末期、平氏最盛期の頃、土肥左衛門尉宗綱という人が蓮池の押領使として任命されている。土肥はもと山辺氏で武蔵にいたが、のち相模国土肥に移り地名をもって姓とした。平重盛に仕えその家人となっている。 宗綱が蓮池に居た期間は判明しないが、その子家綱は四国土佐国高岡に押領使として派遣され、平治の乱後平氏の命を受けて土佐冠者源希義(義朝四男)を殺し、功に因って土佐国を賜わり蓮池城を築き定住した。『吾妻鏡』に「寿永元年(1182)小松内府の家人蓮池権頭家綱等、土佐冠者源希義を殺す。」との記事がある。家綱の後裔はさらに大平と改姓したようで『土佐遺語』に「蓮池城は大平氏13代伝領せり。大平氏は吾妻鏡にいう権頭家綱の後なり。」とあるのをみても知られる。土肥氏が蓮池押領使として来任したことを考えると、当時蓮池は相当知名の地であったものと想像される。
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小田氏の統治2
今を距る約580年前、小田直光がこの地に来り、肥前国佐嘉、神埼、筑後国三潴の三郡に亘り6.000町歩を領し、城廓を構え勢力を張った。この時の城名を小曲城(蓮池城ともいう)と称し、城域は今の諸富町加与丁、小曲地区より蓮池公園所在地付近にまたがり、本丸のほか3か所の出城があった。しかも城の外濠は筑後川に連なり干満の差甚しき急流の江湖であったため平城としてはなかなかの堅城であった。かつて中国の太守大内義隆が来攻したときも小曲城の攻め難きを知って攻城を断念して兵を還したこともあり、また龍造寺氏も幾度か攻略を企てたが非常に苦心したとの伝えもある。 小田氏の祖先は鎌倉幕府源氏3代に仕え、武人としても文人としても有名であった八田知家である。その後裔が、何時の頃からか関東より鎮西に下り、その後、筑後方面で栄えたものが小田氏を姓としたと伝えられている。直光以後鎮光に至るまで8代、約160年間この地方の領主として勢力を保った。第6代資光(覚派入道)、第7代政光、第8代鎮光の3代の頃は龍造寺氏の覇業成らんとする時期に当り互に角逐を繰返していたが、鎮光の代に至って龍造寺隆信の詐謀によって祖先伝来の居城を去り多久城に移り、ここに蓮池の地は龍造寺氏の領するところとなった。 なお、蓮池城を去って多久城に移った鎮光は、元亀元年(1570)大友軍が大挙入肥せる際、大友軍に組し手兵を率いて多久城を出で、水上山に陣を敷いた。しかし、大友軍は今山、その他の地で敗戦したため、鎮光も筑後に逃れ流浪するに至った。隆信は、鎮光が女婿の身でありながら反逆したことを憤り、鎮光の妻室阿安を説いて鎮光を誘引し、客舎に腹臣を忍ばせ暗殺せしめた。ここにおいて小田氏は直光から8代、鎮光に至って滅亡したのである。
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小田氏の統治
小田一族の墓碑は今は巨勢町東巨勢龍津寺にあり弔う人も稀のようである。 さらに小田氏にかかる悲話は鎮光の妻室阿安(おやす)である。阿安は龍造寺家の嫡流たる胤栄の女であったが、父が死んで母が隆信に再嫁したため阿安も隨って隆信の女となった。隆信の政略的犠牲となって鎮光に嫁せられたのである。鎮光の惨死に悲しんで自殺を図ったが果さず、さらにまた唐津城主波多三河守親に再縁を強いられた。しかるに波多氏は征韓役で戦陣中卑怯の振舞があったとして改易遠流となり、第2次征韓役で戦死を遂げた。そこで阿安は佐賀に帰り尼となった。静室妙安尼と呼ぶ。現在妙安寺小路に所在する妙安庵は同尼の庵室があったことに因んだものである。 阿安に関してはその容姿が頗る美しく、豊太閤が名護屋に滞陣中、阿安の世評を耳にし召見を強いたところ阿安は自らその面を焼いて謁し太閤の意に逆った。このことが夫三河守親改易の因となったとも伝えられている。
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龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 1
永禄元年(1558)11月中旬頃、龍造寺隆信は江上武種(神埼、勢福寺城主)が少弐冬尚を援けて佐賀城を攻める計画があるとし、先手を打って江上武種を攻めた。この時、先陣を命ぜられたのは蓮池の小田政光、直鳥、崎村、蒲田津の三犬塚氏で、隆信は本陣を姉川城に置いた。 小田政光は龍造寺に降った証拠をみせるのはこの時とばかり、現神埼町莞牟田縄手で江上の軍と会戦した。この時味方が苦戦に落ち入ったため政光は再三にわたり姉川に陣する隆信に援軍を請うたが、胸に一物あった隆信は遂に援軍を出さず、憤慨した政光は大奮戦のあと戦場に散った。このようにして隆信は小田政光を見殺しにしたあと、兵を分けて政光の居城蓮池城を急襲し、ここに蓮池城は龍造寺に帰した。この時、小田の老臣深町入道理忠は蓮池城の木戸を守ってよく防戦し、そのすきに政光の子、鎮光、朝光、増光ら家人一同を三潴郡に落し壮絶な死をとげた。 蓮池城が龍造寺に帰してからは、その一族である龍造寺長信、および家晴等の居城となっていたが、天正12年(1584)隆信が島津家久の軍と島原で戦って戦死するや鍋島直茂が替って蓮池城を守り筑後に備えた。その後間もなく神埼城原城主江上家種に蓮池城を与えた。現在の神埼町、城原町は、その時家種に従って蓮池に移り住んだ人達が付けた名称である。また、佐賀藩初代藩主勝茂公は幼時江上家種の養子となっており蓮池城小曲の館にあって西小路の徳恩寺で学んだ。 文禄2年(1593)家種は朝鮮の役に出征したが釜山浦で客死したので蓮池城は再び鍋島直茂の有に帰した。さらに、鍋島直茂、勝茂の両公は慶長5年(1600)から同16年(1611)まで蓮池城に住み、この間に勝茂の庶長子で後の小城藩主となった元茂が出生している。
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龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 2
慶長16年、鍋島一族は新築なった佐賀城へ移り、蓮池城は城代に管理させているが、『佐賀年譜』によれば「石井党の頭々へ城代、城番を仰せ付けられたり云々」とあり、その役割は次のようになっている。 御本丸城代 石井孫右衛門 駕輿丁出城番 石井五郎衛門 小曲出城番 石井壱岐守 蒲田江出城番 石井又左衛門 この石井一党による蓮池城の管理は元和元年(1615)大坂夏の陣によって豊臣家が滅び、徳川政権が確立するとともに出された「一国一城令」の公布によって蓮池城がとり壊されるまで約4年間続いた。 この時とり壊された蓮池城の天守、櫓、塀等の材木や瓦をもって佐賀城の本丸や二の丸が構築されたのである。
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蓮池藩の成立
寛永14年(1637)10月中旬、島原、天草のキリスト教徒が蜂起し、島原城を攻めた。このことは11月9日になって江戸に急報され、九州の各大名は急遽領国に下ったが、鍋島家では勝茂の子元茂と直澄が14、15日相次いで江戸を起って下国した。12月5日、元茂、直澄は佐賀に着き、元茂は搦手、直澄は大手の指揮をとることになり、佐賀勢の総指揮官には直澄がなった。佐賀勢は立花、有馬、松倉の諸勢と共に上使板倉重昌の指揮下に入り、19日から原城の攻撃にかかった。戦闘は激烈で久しきにわたったが直澄はよく戦い戦功が少くなかった。直澄ときに23歳であった。 鍋島甲斐守直澄は佐賀藩初代藩主勝茂の三男である。勝茂はかねて2代藩主に予定されていた忠直が若くして病死し、その子光茂(4歳)が幼いことから三男の直澄に家督を譲ろうとした。しかし幼少とはいえ嫡男の子が現存しているところから当時小城藩主であった元茂等の強い反対があり、勝茂も強いて押し切ることが出来なかった。 このような事情があったところへ直澄の島原の乱における優れた戦功もあり、寛永16年(1639)藩主勝茂は直澄に対し藩領のうち佐賀、神埼、藤津、杵島、松浦5郡の地から79か村52.625石を分ち、蓮池に封じ、諸侯に列せしめた。ここに鍋島直澄を初代とする蓮池支藩は成立した。
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戊辰戦争と蓮池藩
明治元年5月3日、王政復古後間もない新政府に対して奥羽列藩同盟が結成され、さらに北越諸藩が加わって反政府軍が強化されつつあった。これに対し新政府は5月9日、東北諸藩親征の勅書をいただいて各藩に出兵を命じた。このため蓮池藩もこの年10月5日奥羽に向けて出兵した。即ち、石井靱負を隊長として士卒365名、軍夫180名、総員545名をもって編成された蓮池隊は伊万里郷楠久から傭船した英国船に乗船し、日本海を北上、途中佐渡国夷港で飲料水を補給して同月16日に羽州秋田船川港に上陸、直に東北游撃軍久我将軍(公卿出身)の部属として陸路酒田に行き寺院、その他に分宿した。このとき出雲国松江藩の兵士350余名もまた同地に駐屯しており、この両藩兵でもって酒田を警備した。戦乱の鎮定後蓮池藩兵は陸路江戸(当時すでに東京と改称されていた。)に出て麻布龍土町の藩邸で慰労の宴を受け横浜から英船サクラ号で兵庫に入港したが、同港で我兵と船員との間に紛争を生じ兵庫西裁判所に訴う等の事件があり、藩は和解のため停船の損金600両を支払って解決した。兵庫からさらに海路長崎に上陸し、諫早から渡船数十隻に分乗して早津江につき蓮池に凱旋した。この日明治2年10月7日、前年蓮池を出てから1年と2日を経過していた。またこの戦役のため、戦没した方は堤嘉一郎ほか計6名であった。後年その出征の事蹟を後世に伝えるため有志の基金によって明治37年3月蓮池公園内に記念碑が建立された。この碑には戊辰戦争の出征者全員の氏名が刻まれている。なお、記念碑の篆額は游撃軍参謀長船越洋之助、即ち、後の男爵船越衛の書である。
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佐賀戦争における蓮池隊 1
明治7年1月、参議兼司法卿江藤新平は征韓論主張に敗れて薩摩の西郷隆盛等と共に職を辞し帰郷した。旧士族江藤新平を迎えた佐賀においては、江藤を支持する朝倉弾蔵、中島鼎蔵その他が同志を募り征韓党と号し、政府に建白書を提出すると同時に、征韓党趣意書を配布して全国の同士によびかけた。かくするうちに日を追ってこの論盛んとなり、その党に集まるもの2.500名に上り、遂に県金庫を掠奪し、県官の命令を聴かず、県官吏が庁舎を棄てて赤間関に遁るゝに至った。 一方、前秋田県令島義勇もまた、官を辞して帰郷し、「君側を清くするがために現政府を倒すベし。」と主張した。これに賛同する者1.500名に達し憂国党を称した。 征韓、憂国両党の主張には多少の差異はあったが、現政府を倒そうとする点は同じであり、ここにおいて斡旋者があって両党は固く結び檄を遠近に伝え、旧三支藩は勿論、武雄、多久、諫早、久保田等の各邑の有志にも加担を求めた。
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佐賀戦争における蓮池隊 2
このような情況の中で蓮池士族は旧藩校成章館に集合して賛否を問い、激論の後には遂に刃傷沙汰にまで至らんとした。そこで衆議をもって陣内利武を佐賀軍本営のある川上実相院に派遣して両党主に面接し、蓮池士族の実情を伝え、かつ両党主の意向を求めさせた。これに対し両党主は、蓮池の軍事上の重要性を説いて加担を強請して止まず、「佐賀に加担しない場合は自衛上蓮池の人家をことごとく焼却し、もって官軍が占拠しても戦略上の価値なき地となさざるを得ず、しかる場合は人家のみに限らず一般市民の生命もまた保障し難い。」と主張した。利武は帰って以上の情況を皆に告げ、かつ、「土地と人命を救うためには佐賀軍への加担も止むを得ない。」と説き、皆もまた余儀ないことであるとして佐賀軍への加担を決定した。そこで一般市民に対しては戦禍を避け安全なところへ避難するよう説き、一方、当時佐賀県庁に蓮池士族中島修平という人が県官として勤務していたことから大塚成章を県庁に派遣して政府方の情勢を確かめようとした。かくするうちに佐賀軍は2月16日から佐賀城を囲み、18日、県庁を占領した。官軍は18日早朝、城門を開いて突出し、一隊は諸富方面へ、一隊は蓮池、境野、城田、千歳方面に向って脱出した。この日、佐賀軍に加盟した蓮池隊は巨勢村高平まで進撃した頃、斥候から「佐賀勢が蓮池方面に向って進撃中。」との報告があったが、当時、両軍の服装はともに洋服を着用し、官軍は腕章黄色、佐賀勢は赤色を付けており、脱走兵は脱走の途中、避難中の子女から赤布を受け、佐賀軍同様赤腕章を付けていたため、斥候は誤認して佐賀軍と報告したもので、このため蓮池隊は官軍を見逃がす結果となった。しかも、官軍が通過した村落に村民の死傷者を出すことになったのである。その後、蓮池隊は三川村、千歳村方面の防備に当ったが、優勢な官軍が三川村に反撃してきたるや千歳村に撤退した。まもなく反乱は終結し、兵を解いて官軍に降ったのである。この戦争によって蓮池隊の主なる幹部は禁固刑ならびに除族処分となった。また、蓮池地区の犠牲者は10名、現在蓮池公園外の招魂碑に祀られるほか、万部島招魂碑にも合祀されている。 万部島所在の招魂碑の祭典は毎年4月13日、両党首および幹部級処刑の日に行われ、蓮池招魂碑は殉難の日、2月18日に慰霊祭を行う習慣になっている。
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産業市
戦後、蓮池振興の一環として、農業機械市、産業市が開かれる様になり、近在からの人出が見られた。商栄会も桜まつりを行っているが、昭和48年には、桜まつり少年剣道、スケッチ大会を行い、久しぶりの人出で賑った。
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直與公御贈位記念運動会
直與公の国を思うの情は帰田の詩にあらわれている。その事蹟により正四位の御贈位となる。これを記念して、明治末から大正時代、盛大な運動会が蓮池公園(新公園と言われた)で開かれた。 蓮池・城田等は勿論のこと、旧藩領の塩田・五町田久間・吉田方面からも出場と応援があり、北方や、神埼郡、三養基郡の山手方面からも来場し、「殿さんの運動会」として、非常に盛大なものであった。 諸方から寄付された優勝旗などもあり、村を挙げて、近隣にも評判する賑々しい大会であった。 直線のコースで種目も多くなかったが、いかにも大正期の「運動会」らしい盛り上がりと興奮をよんだ。 後、学校に場所が移ったのも、一つには、「人が入りきれない」ことにも理由があった。 明治44年から大正10年頃まで、同じように開催された。
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蓮池5ヶ町など
お城下は、城内のほか郭内と郭外に分けられ、郭外には武家を配置し、郭内5町を町人の町とした。 本町は5か村のうち一番早くからの町のようで、小田氏の頃は嘉与丁と続いていたらしく、浄国寺の山門は、嘉与丁にあったという。鍋島時代も商店街として栄え、明治以後は、法務局(登記所)、駐在所、郵便局などが並び、大正に至り、肥筑軌道の蓮池駅もでき、種々製造業があって活気を呈したが、現在は空地も見られるようになった。 魚町は、今宿江が今の形に出来てから船着場の商人町として栄えた。慶応年間橋の架かる前は、嘉与丁との間は舟渡しで、魚町の方に水口として番所があった。問屋は唐芋でよそにも知られたが、(トコロ)テングサなども扱われた。廃品回収業も九州初の業者として、上方へ船積みして盛んであった。種油、うどん、水引、傘、カマス、米なども出荷された。明治には人力車の「タテ場」が出来、順を待ってたむろしていたという。 西小路・北小路は武家屋敷で、明治になると、軍人、官僚、学校の先生等になって蓮池を離れた人が多い。 城原町、神埼町はその名の通り、元日の隈山の東、城原の江上氏に従って移り住んだ人達で出来た町で、城原町は職人の町、神埼町は商人の町として栄えた。 藩の御用金を承ったという丸木屋は薬種商が本業で知られた。ここに昔伝わった「髪の毛綱」は城の普請に使われた物とも言われ、拝領ものと想像されるが、今は、千代田公民館に保存されている。 紺屋町は昔、金銀細工、うるし細工など盛んで、今佐賀に残るマトイにも紺屋町、本町の名が記されている。度々の火災で昔の紺屋町の繁栄を知る資料が少ない。
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鎮台橋
佐賀戦争の官軍退却の際、この橋付近で激戦が行われたと伝えられる。当時拾い集めた薬莢は民家に多数保存されていたと言う。そのためこの橋は鎮台橋と言われている。
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ゴミホリ
3月も末、堀のゴミ上げはサラエと泥土利用のための村仕事である。ガタをすくい上げるには「遠隔操作」の桶が使われる。桶は口が斜め型で、口と底から両側へ綱がクモ型に付けられる。5、6間ほどの間隔で渡した道木に構えた両側の人数の綱に操られて、桶が舞ってはガップと泥土をくわえ、せり上がっては吐く。「ダンポチコイコイ」の調子。呼吸が合わぬと、桶は宙返りして泥ハネが飛び散る。
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ハンズーガメ
江湖の水は月に2度「カラマ」の頃にわりあい澄む。昭和30年、水道の来るまで多くの家でカラマの水を汲んだ。桶を荷ないあるいはリヤカーに水箱を載せて。どこのカマヤ(台所の土間)にも人の入れるようなカメが2、3本据えられていた。寒の土用の水は殊に良いとされた。水道がきてからも、お茶用には汲む人もあったが、もう飲めない。 母親のヨソ行きに連れて行かれず淋しそうな子を「ハンズーかぶっとらす」と言う。
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師走講
蒲田津の江湖ばたは下関や五島方面からの海産物、魚肥、木炭などの船で賑わった。師走には、新旧の正月を控え、塩魚の船がおし合い、塩だらけのブリ、タイ、カナヤマなど大きな取引きが行われ、遠くは福岡県甘木あたりからも商人が来た。「師走講」であろうか。歳末おろし大売出しである。 後で問屋の番頭さん達は、竹の篭に紙をはった「手行李」に帳面や矢立を入れて大風呂敷で背負い、集金旅行をした。
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蓮池藩主
鍋島時代の蓮池藩は初代藩主鍋島直澄が甲斐守に任ぜられ、2代直之は攝津守、3代直稱(なおのり)が甲斐守と各代交互に甲斐守と攝津守に任ぜられた。
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鷹屋小路
「鍋島直澄公寛文2年田獵に用いる所の鷹を中地に養い鷹屋小路を置く。」と記録があるが、見島地区の南部一帯の字名は中地名と云い「鷹屋」という地名がある。比の処が鷹を養った場所と推定される。
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蓮池藩第1代鍋島(甲斐守)直澄
在位26年(1639〜1665) 初代藩主として藩制の大綱を定め藩治時代の基礎を築いた。51歳のとき職を嫡男直之に譲り、塩田吉浦に別館を設け余生を送る。剃髪して義峰と号し、寛文9年3月5日吉浦の館で没した。遺骨は西小路の宗眼寺に埋葬。また、延宝8年嗣子直之は塩田吉浦に祠を建て直澄を祀った。現在塩田にある吉浦神社がこれである。
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蓮池藩第2代鍋島(攝津守)直之
在位43年(1665〜1708) 初代藩主直澄の嫡男、24歳で藩主となった。 蓮池藩は小城、鹿島の各藩とともに幕府からは諸侯として認められていたが、本藩の直参と支藩、その他の家中の身分の呼び方でしばしば紛争があり、天和元年には将軍への献上物のことについて本藩から直之が責められ鶴田九右衛門という人が責を負って自殺する事件があったりした。天和3年佐賀藩に「三家格式」が出来て本藩と支藩の間に主従関係が確立し紛争は一応落着をみた。元禄12年2月、蓮池藩は初めて勅使接待役の命を受け、また、宝永元年には江戸城垣修繕工事を命ぜられるなどした事から藩財政は次第に苦しくなり、久間の山林を伐採売却するほか藩士の出米を求めるなどして費用を賄ったことが記録されている。このほか、直之は直澄を祀るため塩田吉浦に祠を建立したのをはじめ北名に八幡神社を建立、小松神社の再建、寺院では神埼町の真教寺、東西の龍津寺を建立などした。享保10年4月28日83歳で没した。
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蓮池藩第3代鍋島(甲斐守)直稱
在位9年(1708年~1717年) 直之の養子となっているが実は直澄の五男である。在位中に勅使接待役の命を受けたり領内が洪水不作に見舞われるなど、藩財政は益々苦しく藩士に銀料を出させたりした。享保2年には家督を嫡子直恒に譲って隠居した。
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蓮池藩第4代鍋島(攝津守)直恒
在位32年(1717〜1749) 若冠17歳で襲封した直恒は歴代中最も不運に見舞われた藩主であろう。 享保17年(1732)西日本一帯に及んだ大飢饉は佐賀平野を中心にして筑前と肥前が最も甚だしかったようである。翌18年にかけ佐賀藩内で餓死した者約8万人と推定され享保16年37万2千人だった佐賀藩の人口は同19年には29万2千人まで減っており約8万人の犠牲者の中、男5万5千人、女2万5千人と目立って男に餓死者が多かった。この中には蓮池領民も多数含まれていることは勿論である。この享保の飢饉を最大として公の在任中天災に見舞われること十数回、神埼町、城原町の大火2回、疫病の大流行があったりしている。また、災害凶作のため藩の歳入に欠陥を生じ享保14年には藩士に告諭して大出米を課した。このように苦難の連続の中で直恒は寛延2年10月16日、48歳で他界した。
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蓮池藩第5代鍋島(甲斐守)直興
在位8年(1749〜1757) 直恒の長男として蓮池で生れ20歳で襲封した。直興の代もまた、悪疫流行、天災による凶作が続いており、宝暦6年の凶作では幕府は蓮池藩の江戸神田橋門衛の役を解き、藩は同6年7月から7年4月までに飢餓者のため延57.750人に1人1日1合の米を給した。その他宝暦2年8月11日神埼町祇園祠内に鐘樓を設けて時鐘を打つことを許し、また、宝暦6年12月には町村五人組連坐の法を定めている。宝暦7年5月29日直興没す。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。
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蓮池藩第6代鍋島(攝津守)直寛
在位16年(1757〜1773) 直興の養子となっているが実際は直恒の四男、即ち直興の実弟であり家督を相続したのは12歳の時であった。在位中に菩提寺宗眼寺の全焼、お館の落雷による火災全焼に遭ったほか、3度の天災による領内不作の年があり、また、大坂藩邸は負債のため抵当となった。しかし、暗いことばかりではなく、塩田村の前田伸右衛門という人が村中の幼童青年30余人を集めて文学を教授し、かたわら藩に願って久間の荒地を拓き、米を作って学資とし、後の塩田学寮観瀾亭の基礎を築いたこと。大坂藩邸大目付の河野忠右衛門という人が儒書経解80帙、17史30帙を献上。これは後、成章館に移され藩士文学の用にされた。明和7年1月には神埼町に阿蘭陀(オランダ)舶来品売買商を置くといった記録もある。安永2年7月16日没す。28歳。
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蓮池藩第7代鍋島(甲斐守)直温
在位43年(1773〜1816) 直寛の長男、わずか7歳で家督を継いだ。天明元年4月、旧会所を学寮として藩士を通学させた。この学寮は同4年成章館と命名された。初代教頭は攝津尼ヶ崎の人で栗原嘉十という人である。同じ頃諸国飢饉となり肥前地方も凶作、疫病流行の年が続いた。蓮池藩でも天明7年には飢えた庶民のため神埼町、本町、蒲田津で廉価米を出して救恤している。このように天災が続いたほか、幕命による土木工事請負などが重なり藩財政は極度に悪くなった。寛政中期頃には負債のため領地は概ね抵当となったと記載されている。 また、この時代になるとロシア、イギリスの艦船がしばしば我国の近辺に出没するようになり、時には長崎にも侵入するなど世情はようやく騒がしくなってくる。幕命によって伊能忠敬が全国測量図を作るため蓮池城下、蒲田津を測量したのは文化9年9月21日である。