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[旧佐賀市][蓮池校区]は150件登録されています。
旧佐賀市 蓮池校区
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恵比須さん
次々に事故や病気が続いたので祀られたといわれている。
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紺屋町のお地蔵さん
祭礼行事は、毎年8月4日に行う千灯籠祭りである。元来小・中学生の行事であったが子どもがいないので最近は大人みんなで行っている。
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お大師さま
毎月21日はお大師さまの日である かかさず1日・15日・21日はお祭りが行われている。 師走の21日は百万遍を唱える。
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城内会館天満宮
公民館新築の際に整備され祀られた。
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恵比須さん
以前は中地にあったが、転居のため現在地に移転した。
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中央さん、地神さん、稲荷大明神
昭和61年頃の圃場整備の折に現在地に移設された。稲荷大明神には文化14年(1817)建立とある。
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恵比須さん
家の鬼門隅に祀られている。
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江下伍長銅像
戦時中の芙蓉校の生徒は、2月22日には、江下伍長の銅像と、正念寺にある伍長の墓に参拝させられた。「22日の午前5時」。骨身も凍る寒さにふるえつつ鼻水をすすったものである。また、この銅像の前で、芙蓉校生徒の、剣道の試合が行われた時代もあった。 今は台座のみ蓮池公園内に残っている。 (江下伍長の銅像は三田川自衛隊の記念館に現存している※) ※正しくは陸上自衛隊の目達原駐屯地で、銅像の原型となった石膏像が広報資料館に展示されている。 ※台座は昭和33年に蓮池中興の英主雲叟(8代直與)公の歌碑として転用された。(写真は雲叟公歌碑)
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小松小学校
蒲田津、出雲神社社務所の南隣に明治25年まであった。東西に長い教室で、南に入り口があり、木の机と長い腰掛が並んでいた。「兄に弁当を運んだ」という当地の老婦人によれば、北島先生や西名の小藤太先生などがおられ、唱歌の時間に「セッシャ元来ボタもちゃ好かぬ 馬の上からボタもちゃ落とす♪」などという歌が聞かれたという。明治9年の生徒男89人、女42人。(明治14年版 『長崎県地誌』)
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蓮池名物芋茶がい
芋茶がいは、蓮池の郷土料理として今でも毎朝食されている家庭も多い。 今から二百数十年前、雲仙の大噴火で死傷者が出た時、蓮池藩は塩田町(蓮池藩の飛び地)まで救援物資を送り、嬉野で難民を湯治させた。 この時島原の人達がお粥の中に芋を入れて食べているのを見て、お殿様が食されたとか。 その後、島原や天草から芋舟が佐賀江をのぼるようになり蓮池には芋問屋が立ち並んだ。 平成9年に伝承料理として芋茶がいの作り方を古老に手ほどきを受け、そのレシピを整備した。 蓮池の芋茶がいは水1升、米1合といいます。芋茶がいはヘルシーな主食として「ふれあいサロン」でも食されている。
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鼓の胴の松飾り
鼓の胴の松飾りは、藩政時代から作られている伝統の松飾りである。このしめ飾りは米俵を基本としており、その飾り方は蓮池流などといって自慢されており、平成元年よりずっと蓮池公民館と芙蓉中学校の正門に掲げられている。 「佐賀藩主鍋島勝茂公は島原の乱において、勝利のきっかけを作ったが、逆にそのことが軍令違反とみなされ、閉門を命じられた。1638年のことである。年末を迎えた江戸・鍋島屋敷ではひっそりと新年を迎えようとしていたが、12月28日に処分が解かれた。不意の開門で正月の準備がなく、納屋にあった米俵などを用いてにわかに松飾りを作った。その形が鼓の形に似ていたので鼓の松飾りといいこれを吉例とした。」
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あらこ
「あらこ」は普通「荒籠」と書き、川岸に石を組んで、護岸、舟つき、流れの調整などを図る出っぱりである。筑後川などにも諸所にある。 佐賀江の記事にこれを「洗湖」と書いたのが栗山賚四郎氏にもあるが、これは佐賀江の特徴に合うと思われる。鍋島氏になってから成富兵庫によって作られたと古老たちにより言い伝えられている。 佐賀江は曲がりが多く、蒲田津橋から今宿まで直線距離5kmのところを、川は9.5km以上約2倍の長さになっているのは、有明海の干満の力をよく利用して水を蛇行させることで、保水と舟運の便を図ったものと思われる。この江湖はほとんど高低のない平地を、横に走るが、満ち潮に乗って櫓で今宿まで行き、荷をさばいて引き潮で下る事がで出来るように手を加えたと言われる。 小田氏時代は、この川は龍造寺に備える砦の意味が強く、鍋島になって交通交易を図ったようである。また、江湖の水はガタを含むので、沈澱のため川がせまくならないように、曲がりとあらこが江湖の特徴である。あらこの出っぱりとその上下の捨石の使いようにより、水をよく動かして深みを保ち、向う岸をも洗う働きが考えられている。 写真は蓮池町に現存するただ一つのあらこ。昭和初期までは荷揚が行われていた。藩政時代は乾鰯(ほしか)の荷揚げ場所として賑わった。佐賀江川沿いには数箇所のあらこがあったが現在では一つしか残っていない。
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肥筑軌道跡
大正末期、肥筑軌道が集落の中央を通り小松駅が設置された。 高尾から﨑村まで軌道がひかれたが、小鹿・堂地・小松・本町・犬尾等の停車場があり、中地江川や城原川の川底に今もコンクリートの軌道の土台のコンクリートが残っている。 肥筑軌道は、当時真崎鉄工場や田中酒店、兵働、横尾等の知名士が株主となり会社を起こしたものである。
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蓮池の方言
蓮池の言葉は、この地方の独特の言葉・アクセント・訛と、佐賀地方と同じ言葉が一緒に使われている。 言葉は聞いただけで、どこの地方の人かが大凡わかったもので、昔は他藩から来た人はすぐ判別出来、蓮池藩では佐賀本藩より二文字下った方言を作ったものとも思われていた。しかし蓮池藩が作られる時、直澄公に41名の側近と、犬塚氏・小田氏・江上氏の家臣と、にしめ侍と呼ばれた塩田方面よりの人達があり、その人達の間ではお小路言葉と言われる、佐賀藩と同じと思われる言葉「オサヨウデゴザイマシタ」という様な一般農家・商家とはやや違った言葉が使われていた。 犬塚氏・小田氏・江上氏・鍋島時代と一般住民の間に受けつがれたのが蓮池の方言である。その最も基本になる特徴は、佐賀は二文字下り、蓮池は四文字下りと言われる事である。アイウエオの内で一文字目がア、二文字目がイ、四文字目がエで例をあげて説明すれば、共通語の「会いに」は佐賀だと「イャーギャー」となり蓮池では「エーゲー」となる。共通語の「差出口」は佐賀では「シャービャー」となり蓮池では「セーベー」となる。この様な四文字目の言葉使いは、蓮池に限らず小田氏・蓮池犬塚氏・崎村犬塚氏等使われていたようで、筑後川沿いでもケー言葉は使われている。また蓮池だけのものでないけれど、セをシェ・ゼをジェ・エをイェと発音する。先生をシェンシェイ・全然をジェンジェン・十銭をジッシェン・英語をィエイゴというふうに発音する。 アクセントでは柿と蠣と垣の違い、橋と端と箸の区別が出来ない。 濁るところが濁らない。1時間をイチシカン・2時間をニシカンと言う。 形容詞で3回続ける。ジャンジャンジャン・ドンドンドン・ボンボンボン・ガタガタガタ・チョロチョロチョロと言う。 遊ビゲコンコー、ウンクッボー、行くとは言わないで、来ると言う。 同じ言葉でも佐賀江を隔てれば、アクセントが違う場合もある。セントウローをふれ廻る時に、蓮池の方は始めの方にアクセントがある。また一般にそうであるように蓮池辨といっても丁寧な言葉、目上に対する、同僚、目下へ、女の言葉、子どもに対し、赤ちゃん、けなし、けんか、等ある程度の違いがある。
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蓮池祇園
祇園は毎年7月22、23の両日に行われる。 八坂神社(祇園社)の祭神は素盞鳴尊である。祇園祭は大字蓮池が氏子で、その中、神埼町・城原町・魚町・本町の4町が、年々順番に分担する。以前は紺屋町も参加していた。分担の種別は「お供」「神輿」「獅子」「山鉾」である。神輿は22日の午後7時煙火の合図で社殿を出て78町を隔てた下の宮(城原町と魚町)に御幸し翌23日の午後8時再び煙火の合図で下の宮を出て還幸するのである。「お供」は40人近くの男が何れも菅笠麻裃を着け、高張提灯や、花籠付の紅白旗や赤天狗、青天狗、神劍、矛等を捧げて神輿の前後に従う。「神輿」は裃を着てかつぎ、「楽方」 は楽を奏しながら従う。 獅子舞は神輿の先駆ともいうべきもので行列中の花形である。この番に當った町では若者を獅子、笛、太鼓等に分け毎年7月の朔日頃から稽古を始める。赤獅子・青獅子が節面白く囃立てながら神輿の道筋を練り行くのである。その使い方や囃方は昔から蓮池独特で、その舞方は各町違っている。神埼町は「ひざり」で囃方も「チールリ、タールリ」、城原町は「ゆすり」で囃方も「ヒョーロヤドンドン」で外2町とも同じであり、本町は「内より」魚町は「外から」である。 山鉾は昭和46年以来中止されているが、素盞鳴尊に因みある叢雲の劍を牽くというもので、出雲の三瓶山における大蛇退治を形取って造られ、屋根の正面に三つ叉の鉾を付けたものであるが近来は全く余興としての踊舞台にされている。この番に當った町内の娘達は2か月以前から踊の稽古を始める。当日は「チヨーッサンヨ」の掛声も勇ましく山鉾を曳出す。 お祭の前夜は衣裳揃と称して獅子舞と山鉾との総仕上である。 祇園が近づくと蓮池の町は、小ぎれいな感じになってこのにぎわいを迎える。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。
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ももて
出雲神社の「ももて」は、文永年間、出雲国造の弟北島康孝がこの社を建立した当時から伝わるという。 毎年2月11日あるいはその前後の日曜日、「百手」と呼ばれる行事を、蒲田津東分が6組(榎下組・番所組・渡端組・昭和組・馬場組・新町組)に分れて、毎年一組が実施する。 海の幸・山の幸、神酒の献饌をし、儀式がある。 この日直径1間位の大的の中心に「鬼」という字を書いたもの2個を組合せて拝殿の南方に立て、北方の神殿から弓に矢をつがえて、最初に神官、次に当番組の世帯主が交代に、鬼の字を目標に弓矢で射て、五穀豊穣・家内安全を祈念する。 後で、この的を子ども達が取り合い、相手かまわずかぶせようとするのを、「ハタハタカブセ」という。鬼の字の墨汁で、かぶせられると顔がよごれることがある。
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歌(軌道を見て)
園田初太郎作 肥筑軌道の哀さよ 通る度ごと見ていれば たまに空箱引いてゆく それでは炭代でも 取れはせぬ スットントン スットントン♪
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歌日独戦争凱旋祝賀の歌
園田喜八作 ころは大正3年の しかも8月半頃 日独戦争の命下り 此處や彼處の兵士らは 老たる父母あとに見て 恋しき妻子に生別れ 神尾中将の命令で リュウコウ湾やロウザン湾 知らぬ支那地に上陸し 青島さして進軍す 雨の降る日も風の日も 所定めずまま食べず 艱難苦労も厭いなく 兎追うように追いかけて 向う遙に眺むれば 西も東も砲台よ 南も北も砲台よ 其の内名高き砲台は モルトゲ・イルチス・ビスマーク ワルデック将軍が 固めたる17年がその間 金と知恵とに打任せ 難攻不落と誇りたる 膠州湾もなんのその 撃てや撃て撃て敵軍よ 弾丸の当るだけ撃て見よ 九州男子の手の内を 名誉と共に汚さらん 今日凱旋の兵士等を 喜び迎える国民の 万歳天地に轟きて 國の誉は吉野なる 朝日に匂う山櫻 天皇陛下万々歳 我陸海軍万々歳♪ (蓮池仁輪加一等賞受賞の歌)
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江下伍長の歌
江頭 文明作 一.芙蓉城址の春浅み 雪雲低くおおえども 今年も梅の白々と 君が勲を勾うなり 二.のどには死なじ丈夫が 廟行鎮の寒空に とどろとあげし爆音は 海の外までもひびきけり 三.天賜の園の葉がくれに 今日しも仰ぐ姿こそ やさしく強き御民なる 我が胸ぬちのしるしなれ
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子どもの遊び
(春)ヨシノコたおし(芦の新芽で)・ヨシブエ・竹笛・竹ヤモ(竹トンボ)・テンチクバリ(春先の堀にどじょうなどをつけて夕方かけ朝あげてうなぎを捕る)・ブイブイまわし(糸を通して廻す)・押し鉄砲(タマはエンの実、リュウのヒゲ)・アモゼー釣り(運動場の微小な穴に草の葉をさして小さな虫を釣る)・竹ヘゴつかみ(割竹5本、掌にのせ、手の甲にのせ、たおし、おこし、つかむ)…。 (夏)夏のあそびは今は夢。江湖で堀で朝から夕方まで真っ黒になって泳ぐ。橋から飛び、干き汐にはしじみとり。なまず、えびの手づかみ、つばの色失っては甲羅干し。 人々も川を大事にし、子どもがケガをするようなものは絶対に捨てなかった。 (秋〜冬)ペチャ(メンコ)・ゴム銃(パチンコ)・ジャンジャカジャンノジャン(軍人あわせ)・陣取り・サゲアシ(竹馬)・トーバタ(凧)・瓦たおし(的もタマも瓦のかけら)・下駄かくし(起きっかねぶっか馬ンくそポロイと歌ってげたをとばす)・馬乗りじゃんけん・コマ・メンチー・ネンボウ(柳の木をとがらせる)・釘ネンボウ…。 (女のあそび)ママゴト・千鳥かけ(あやとり)・セッセノセ(手合わせ)・お手玉・縄とび(一人とび、お客さん、大波小波、まわし)・ゴムとび・キンパタ(丸、二つ丸、丸・丸。タマを入れて行きもどり)・指陣取り(手の平コンパス)・波陣取り(波もようにハジキすすめ)・おはじき陣取り(線をのばす)・ベンジャラボンジャラ(握った手をまん中に集めて、ソコヒキャポイ)・後ろの人あて・通リャンセ・開いた開いた・ジャンケン歩き(グーで勝てば20歩、パーで勝てば10歩…)・ヨシノコ人形・ユビ組みあそび(殿さんの道ドロボーの道)・オマイ立ち立ち(手をうしろに組み、子どもをのせ、「おまい立ち立ち、乗り手は強し、乗ってトーれてけがどませんかん、いいえそんなことござんせん、チの出たばっかい」…。 数々の遊び、文字ではあらわしにくい。
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もぐら打ちの歌
もぐらもぐらもる(ん)な ならずの柿(梨・桃)の木 千成れ 万成れ 億万成れよ もぐらもぐらもる(ん)な うちん者のちぎっときゃ 畠の真ン中ァ落ちろ よその者のちぎっときゃ 堀の真ン中ァ落ちろ 十四日のもぐらうち♪
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蓮池の民謡
「蓮の池節」 一.蓮池の在郷辺から 糊つけ着物に 小倉の帯しめ 願正寺詣りさす時や ちょうどさいば 藁人形 二.一で赤かもんな 法印さんの衣か お稲荷さんの鳥居か朱か紅か お猿さんのお尻か 素海老のいでがらか 三.次に白いもんな 豆腐に初雪 源氏の白旗 横丁の丸木屋の白壁に お姫さんの内ももど 「おりきんばっちゃん」 お力んばっちゃん どけェ行きよっかい 目薬びんどんさげて つっくるびいて 鼻たれて 私や 通り小路の黒田さんに 目の養生 いつからや おとてから そりゃまた きつかね とこ電信柱に ずくにゅうどんば 打ったくらんごとね 「蓮の池節」は言うまでもなく、樺島政市の作である。その歌詩にこめた皮肉と、チョッピリにじんだお色気は、さすが長崎にも学んだことがあると言われる片鱗をのぞかせている。彼は盲目の身で三味線をかかえ、蓮池から佐賀の街までの道をトコトコ歩いて行き、明治から大正にかけての佐賀ンマチから神埼あたりまでも流して歌い廻ったと言う。その家のことなどを読み込んで即興的に歌うのが、得意だった。三味線も名人の域にあった。昭和の始め、90歳で亡くなったが、蓮の池節は今も宴席は勿論、テレビ等にもとりあげられ、トコトコ政市たんの愛称と共に何時までも人々の心に残るであろう。 「おりきんばっちゃん」は、対話体のなかに実に見事に方言が生きている。どこか仁輪加でも見ているような、思わず微笑を呼ぶものがあり、半面、かくされた哀愁といたわりを感ずる。蓮の池節の樺島政市の作ではないかとの説もあるが、つまびらかでない。
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おりきんばっちゃん(蓮池バージョン)
「おりきんばっちゃん どけ行くかんた 目ぐすいびんば さげて つっくるびーて 鼻たれて 私しゃ中地名の(本来は私しゃ通い小路のぇ) 久保さぁんへ(本来は黒田さん) 目のようじょう いつからや おとちぃから そりゃ又きつかない とこ電信柱に 頭入(ずくにゅう)どんば 打ったくらんごとない♪」 100年程前、中地名(現在の中地)には久保眼科医院があった(現在の糸山氏邸)。広滝に発電所が出来て、大正4年に電気がきていることから考えて、電信柱は随所に立てられめずらしかったと思われる。 故におりきんばっちゃんは樺島政市の作として、蓮池の人々に親しまれている。 樺島政市の生涯は、1844年から1935年(91歳)である。 昭和49年(1974)に書かれた『芙蓉校百周年記念』の本に、100年前の中地の地図がある。100年前とは明治7年(1874)で、その地図に「久保眼科病院」が見える。樺島政市、30歳頃と思われる。このことから、樺島政市の作ではないかといわれている。
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大橋地区の花祭り(潅仏会)
佐賀戦争の際、大橋村にあった妙徳寺が焼けてしまったが、当時の住職の圓暢法印が持ち出した経机とお釈迦様が大橋村の区長の手で守られ、代々の区長(自治会長)宅で花祭りが行われて来た。 2007年頃からこの花祭り行事が町区の婦人達にゆだねられ、公民館で実施されている。 また、佐賀戦争の際、妙徳寺は官軍をかくまったために火を放たれた。住職の法印は、逃げる途中で流れ弾にあたって倒れ、その時に持っていたお釈迦様の両腕が折れてしまったと言い伝えられている。
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千灯籠祭り
千灯籠祭りは7月、8月に集中して行われ、8月24日が最も多い。エビスさんは7月20日に集中している。 蓮池町には60体ほど石仏、石神さんがおられ、祭りが町区毎に子ども達の手で行われている。個人所有の恵比須は個人でお祭りがなされる。昔は男の子のみであったが、現在では女の子も参加し、当該町区でまたは子ども会の手で行われている。 1日前からお地蔵さんの周りを清め、笹竹を立てちょうちんをつるす。低学年の子ども達は町内外に触れ歩く。 「こんばんは。○○○の千灯籠けんめーってくんさい。」ドンドン♪「豆はきじ豆、砂糖はどっさいまたどっさい。」ドンドン♪ 蚕豆は虫がつきやすく乾燥が悪いと虫に食われてしまう。そうした折、蚕豆のかわりにきじ豆を使用したことを声高く触れ歩き、他所との違いを自慢した。貴重品である砂糖もたくさん入っていることをアピールした。
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たんどん(握りたどん)
たんどんはコークスの粉と、潟泥(川岸にたまった軟らかい泥)を混ぜて成形する。一般家庭では直径20cmばかりの鉄の輪に材料を入れてひらたいたたき棒で叩いて固め、2・3日天日に干して乾かす。このたんどんは風呂やいづみベッチィ(七輪の大きいもの・改良かまど)の燃料とした。 このたんどんの普及は、蓮池には城原川沿いに数軒の瓦工場があって、コークスの粉が容易に手に入ったことによる。 蓮池町内には数軒のたんどん屋があり、主に女性の内職として握られていたが、これは握りたんどんといって石炭の粉を材料に手で握って作られていた。これは火力があり、火持ちがよかった。
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城原川
部落西端を北南に貫流する城原川は、従来川幅が狭く毎年の雨期には、上流の堤防が決潰し大きな被害を出していたので、昭和28年より幅員を約3倍にする改修工事が始まり、昭和33年に完成した。 この川は昔は新宿橋下より乙南里〜姉〜境原を経て川崎の上流にて中地江に通じた留浪川が本流であった。その後新宿より下流は新しく掘られた新川である。従って以前は古賀・枈尾は陸続きで当時の水利関係は田手川並びに中地江が利用されていた。その後水上運送の利便灌漑等のため新川が開削されたと思われる。
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男山・女山
男山の登り口に、「嘉永己酉臣大野平教一撰書 嘉永二年(1849)」と僅かに読みとれる折れた門柱らしきものがあるが、これはかっての天賜園の石門のものである。頂上には大正15年1月15日県知事斉藤行三書による「王世子李垠殿下御展望所」の碑が今も建っている。男山の西北方に、それよりも低く、樹木数も少く、いかにも女性的につつましく控えている女山の姿は、昔の女性の心がけを思わせるものがあり、この一対の山は夫婦のあり方を無言に教えているようである。
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蓮池(蓮堀)
公園の池には蓮が一杯であった。夏の早朝、ポーンという大きな音をたてて蓮の花が開く。大きな葉の間の、うす紅の花の美しさは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の冒頭の部分を思い出させた。また、水に映えた池畔の菖蒲の姿も忘れがたい。
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藤棚
今はコンクリートになっているが、昔は皮をむいた丸太であり、藤の花の色を一層ひきたたせていた。戦前の佐商生のテニスのネットは、この丸太の1本と、神社前の大銀杏の樹を利用して張られていた。