蓮池藩第9代鍋島直紀 (なおただ)

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蓮池藩第9代鍋島直紀 (なおただ)

■所在地佐賀市蓮池町
■登録ID375

在位26年(1845〜1871)
直與の長男、20歳で蓮池藩主となった。嘉永年間から安政年間にかけ幕府は欧米諸国の求めによって各国と和親、通商の条約を結ばざるを得なくなる。一方国内では尊皇攘夷論者の活動が活発化していき、幕府の威信は次第に低下していた。しかしこの時代の蓮池藩ではまだ殆んど動揺は見られない。
嘉永5年2月28日夜、成章館は家老石井玄蕃方から出た火で類焼した。安政2年4月15日には佐賀藩医大石良英を招いて藩主夫人と庶妹4人に蓮池では初めて種痘を受けさせている。
幕府は諸外国との交渉が度重なるに従って沿岸警備を厳しくするよう諸藩に命ずると共にその取扱いについては国際問題を引起さないようしばしば注意を促していたが、万延元年11月9日、蓮池藩から長崎港外伊王島へ派遣していた戊兵が長崎市内で外人と争い、2名は外人に捕われ、1名は伊王島へ逃げ帰るという事件を起した。この事件で藩は本藩に詫び、佐賀藩は外人と争った3名を斬罪に処するとともに連累者2名を牢人にした。蓮池藩はこれに服するほかなく全く不名誉なことであった。
慶応2年6月成章館はその名を育英館と改められ、同年9月2日には加与丁、魚町間の架橋が成った。
慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜は大政を奉還し、同年12月9日に王政復古の大号令が発せられた。以後日本国内の政情は急展開をするのである。即ち、翌明治元年5月9日、東北諸藩親征の勅書が出され、10月5日には蓮池藩も石井靱負を大組頭として総数545名が奥州へ出兵するのである。さらに明治2年6月17日、かねて願い出ていた藩籍奉還が認められ藩主直紀は知藩事に任ぜられた。特記すべきことは、佐賀藩の許にあった三支藩がここで初めて本藩を離れ独立した藩として認められたことである。しかしこの時はまだ藩政が残されてはいたが旧来の領主権はなくなっていた。ついで明治4年7月14日廃藩置県の詔勅が出、7月20日、蓮池藩は蓮池県となり藩知事鍋島直紀は職を免ぜられて、あとは大参事であった成富清記に県務は譲られた。この日をもって初代鍋島直澄以来232年続いた蓮池鍋島時代は名実とも終を告げた。
藩政をすべて政府に返上し、無官となった直紀は、明治4年9月8日、蒲田津から船で諫早に出、長崎から再び船で横浜に上り、同月19日、東京麻布龍土の私邸に移った。

出典:芙蓉P.76