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[旧佐賀市][ 仏像]は19件登録されています。
旧佐賀市 仏像
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不動明王
県外からも参詣者が多いお不動さん。豊山(ぶざん)派真言宗、新成田山、覚盛寺である。寺の境内には弘法大師88体の石仏・観世音菩薩・延命地蔵尊・大黒天・蛭子尊などの石仏が整然としている。
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城原町の千手観世音菩薩
城原町は元来、職人の町として栄えた。職人の町にふさわしく千手観世音菩薩を祀り本殿は仏式、拝殿は神式で建築がされており、また、見事な彫刻が施されている。千灯籠は、戦前は8月22日に城原町の女の子どもで実施していた。観音さんの側には家庭の陶器などで飾り付けられていた。
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梅林寺(庵)観世音菩薩立像
梅林庵山門外の堂宇に観世音菩薩の立像が安置されていた。これが文政11年(1828)の大風で堂宇と共に吹き倒され損壊し、50年以上過ぎてもそのままであった。明治14年(1881)に信徒の2人が発起・協力して立像を修復し、本堂の一隅に仮安置していた。このことを知らずにいた信徒衆が、昭和の中頃に立像を見つけ出した。ところがこれに仮安置までの経緯が記されており、終わりに後世へ堂宇の再建を促してあった。発起した先祖の意を汲んだ末裔らが、昭和47年に境内に堂宇を再建して立像を安置し、先祖の遺志に応えることができた。 木札の墨書(原文) 原ルニ斯、観世音菩薩ハ昔時山門外ニ美々タル堂宇アリテ安置スト、然ルニ過グル文政年度風災ノタメ尊躰堂宇、倶ニ吹キ倒シ、再興スルモノナシ、尊躰四支(肢)共ニ脱落シ僅、面胴ノミ胴傍ニ棄存シテ五十四星霜ヲ経過ス茲ニ信者清藏ト外壱名協力シ重(修)ヲ加ヱ仮ニ安置ス、堂宇再建ハ後ノ信徒ヲ待 明治十四年辛巳三月 安座日 現世安穏 発起人 坂井清藏 現住鶴瑞誌 貞富伊兵衛 後世善処 村中信男女中
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寳持院跡西川内観音堂と観音像
西川内公民館児童遊園地に接して観音堂があり、千手観音像が安置されている。これは、廃寺となった寳持院の一部と考えられる。今まで地域の有志で維持・管理と祭祀が続けられてきている。平成7年(1995)、公民館と併せて観音堂も改築され、千手観音像の修復も行われた。観音像の詳細は、誰もが知らずにただ崇拝だけは途絶えることなく続けられてきた。これの修復の機に観音像の底部に墨書が判明、像の詳細を知ることが出来た。 像高40cm弱の小ぶりの千手観音坐像である。材質・造りなどの価値判断は出来なかったが、墨書から貴重な歴史資料、文化財として高く評価できるものである。 「観音像底部の墨書」(原文) 肥前小城郡西郷醫王山三岳寺 住持義完叟謹奉拝刻 為悉皆成佛者也 正徳二壬辰年十二月吉祥日 願主村田隠岐殿御内方 作者=小城市小城町池上の三岳寺、5世住職義完 [注]三岳寺:徳川家康に信任が厚かった学僧・閑室元佶が開山。 義完(寛):三岳寺5世、僧名・慶信、仏師名・栄信、三岳寺所蔵の県重要文化財の千手観音菩薩坐像、閑室元佶像は和尚の作。 願文=完全に佛になること、佛の世界に入ることを願い先祖の菩提を弔う。 時期=正徳2年(1712)12月、父・村田政辰が宝永8年(1711)2月20日に卒し、一周忌を済まし、三周忌前と考えられる。 [注]正徳2年の頃は、『葉隠』の口述者・山本常朝と筆録者・田代陣基が語り合った時期。2代藩主・鍋島光茂の側室・霊寿院が亡夫追善の法華経一千部を読誦、結経の碑「大乗妙典一千部」塔の建立と同時期。 願主=久保田村田家の政辰、同室の養子・村田隠岐守政盛{寛文11年(1671)〜享保18年(1732)}の室(夫人) [注]村田政辰:実は鍋島直弘(初代藩主・鍋島勝茂の四男、白石鍋島家)の二男、村田氏久の養子、氏久の娘婿。 村田政盛:実は鍋島光茂(2代藩主)の五男、村田政辰の養子、政辰の娘婿、母は霊寿院か。
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本庄神社刻像弁財天
神殿裏側に、文政13年(1830)刻銘があり、琵琶を抱いた像を彫った弁財天の石祠がある。 弁財天は、河沼の水辺に祀られ水の神として信仰された。しかし、土地を沃する五穀豊穣の神格は、わが国古来の食物の神である宇賀神と同神となり、また、市杵島姫命と習合して崇敬されていた。福徳神として江戸時代には七福神の一員となって信仰され、音楽や弁財を司る神として妙音天とも称され、琵琶を抱いた尊像も造られて花街の女性の信仰も集めていた。さらに、神体を蛇神につくり、巳待ちの本尊として崇められ各分野の人々によって信仰されているのが弁財天である。 古代から信仰の対象になっている脊振山、金立山、天山などの神山には、弁財天が奉祀されているが、おそらく農業用水の供給源としての水神信仰がこれらの神山には古くから存在していて、この水神信仰が水神としての弁財天と結びついていったものであろうと考えられている。
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本庄神社閑叟公の地蔵さん
社殿の西側に舟形光背を負い、蓮華座上の半肉彫像の地蔵菩薩が方柱石上に安置されている。 この地蔵さんに昔話がある。 10代藩主鍋島直正公が、幼少の頃、父君について本荘の宮へ祈願に来ていた時に境内の池の側の地蔵さんの頭にのり、飛込んで水遊びをしたそうで、晩年この地蔵さんにお詫びに祭田4反歩を寄進して丁重に祀られたという。以来閑叟公の地蔵さんと呼ばれている。
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寒若寺と薬師如来
【宗派】曹洞宗 【山号】酒袋山 【本尊】薬師如来 寺伝では、奈良時代の高僧・行基が開山で聖武天皇の命による国家安穏の勅願所であった。奈良時代、九州各地に流行病や災害が絶えなかったので、行基は、楠1本から7躯の薬師如来像を刻み、川副七か寺に安置し、祈念した。川副庄一木七佛薬師如来である。 この内の一佛が寒若寺の本尊となっている。薬師如来を中心に、左右に日光、月光の脇侍菩薩と十二神将が配してあり、今も病苦を治すためになる薬師として川副七仏薬師参りが続いている。 参詣は、元木から初め、木の末で詣で納めとなる。参詣順番堂場は、1番:徳富・東光寺、2番:寺井・長福寺(※)、3番:崎ヶ江・法源寺、4番:米納津・東光寺、5番:南里・正定寺、6番:新郷・本願寺、7番:袋・寒若寺(本庄町袋)となっていた。 ※安龍寺のこと。『佐賀県近世史料第十編第一巻』「真言宗由緒」p254に、「当寺之儀ハ、以前ハ長福寺と相唱」とあり。
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慶誾寺銅造地蔵菩薩立像
本体は一鋳造り、台座に差し込んで鉄釘2か所で留める。台座は前後合せ型。本体右袖の下方に型持の銅釘を2か所確認できる。体内に薄く中型土(なかごつち)が残り、像表側は灰色、芯側は肌色を呈す。頭部内の中型土(なかごつち)は一部除去されている。錫杖柱は右手を通し、台座の穴に差し込む。錫杖頭は銅板切抜、錫杖柱は鉄製。頭光は肩に鋲3点で留める。頭光は界線を二重に陰刻し、左右と頂に計三つの宝珠を毛彫で陰刻する。台座敷き茄子部には亀甲文を、正面には鼎文を陽鋳で表現する。 像高49.0cm 頭頂〜顎11.2cm 面幅8.2cm 面奥15.5cm 肩張15.5cm 肘張16.5cm 裾張17.0cm 胸厚8.0cm 腹厚8.5cm 頭光径24.5cm 台座高11.7cm 陰刻銘(像背面部) 「鹿子村慶誾寺廿三代大翁良朝 一棹證源庵主 為 両親菩提 瑞琳浄光信女 享和元年(1801)九月吉日」 陰刻銘(台座背面部) 「谷口弥右ヱ門作」
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平島守護仏
平島町区・聖衆院の一角に薬師如来の仏様がある。 創建の年代は明らかではないが、口伝によると200年程さかのぼるようである。 当時、このあたりがまだ神野村だった頃、地元の人達が薬師堂を建立したのが始まり。眼病と疫病の難から地域を守ってくれると春秋の祭典が行われた。
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日子神社の薬師如来・阿弥陀如来・十一面千手観音
日子神社の薬師如来・阿弥陀如来・十一面千手観音が日子神社の南隣に安置されたのは、昭和53年3月のことである。その後、昭和61年3月に銅板ぶきの屋根に改築され、北隣りの日子神と同じ屋根の下に祀られている。 八戸溝町内を初め、町区外にも熱心な信仰者がおられ、善男善女の参拝者が絶えない。 また、薬師如来は、万病を治し、人の寿命を延ばし医薬をつかさどる仏様と言われている。
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吹上観音像
金立山登山口より笹や木の葉に埋れた細い山道を曲りくねりながらたどって行く。道とは名のみでわずか歩行者の踏みならした小径があるだけで急な坂道を約30分ほど、距離で約2㎞あまりで到着する。 金立神社御縁起記によれば元禄以前此の所に瀑水がかかっていてその下に観音大師の像が安置してあり肥前の国三十三観音所の一つとして参詣者が非常に多かったと記してある。ところが元禄の頃、或日疫雷、暴雨が起こり山川震動して崖は崩れ堂は倒れて忽ち大士を失い、此処はただ魁らい巨石が巍然として立ったすがたに人々は皆驚異の眼を見はった。 そしてその後はこの崖石を崇拝し吹上観音と号するようになった。その後山麓の住人、小川藤原俊方が元禄6癸酉(1693)石工に命じて石面に正観音の石像を刻んだとある。御縁起記によれば造立年代は江戸時代中期である。山道沿いの高さ7mの花崗岩の岩壁の表面に花頭窓ようの輪郭をつけて彫りしずめ蓮花座に安座する。像高約80㎝、輪郭の高さ約1mで、全体的に風化はほとんどみられず当初の彫像様式を今にとどめている。今もその周辺は数基の石塔が存在し、霊山らしい神域をいやおうなしにかもしだしている。 いずれにせよこの磨崖仏は市内で最もすぐれた作として仏教史研究上きわめて歴史的な価値を有している。
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お辰観音像
東千布観音周地に建つ小さな観音堂に等身大のお辰観音が祀られている。玄蔵の娘お辰は徐福と恋仲となったが、徐福が一族の長であり毎日多忙であることから時々機会を作って恋を語り思いをとげる外途がなく逢う瀬が少なくなりお辰は遂に所謂恋わずらいとなり、果ては明日を知れぬ重態になってしまった。お辰は「自分は思うこと叶ずして死出の旅路をたどることとなるが、私の死後私を祀ってくれるものがあれば参拝する諸人の願を叶えてやる念願をもっている。」と言い遺したので、其の後近郷の人々の間で話し合いお辰を形どる観音像を作り祀ったのが、今の観音像と伝えられている。功徳として結婚祈願をよく成就すると言われている。50年毎に行われる所謂「金立神社のお下り」のときは、必ずお辰観音が出迎え一夜を共にする行事が今でも行われる。 昭和58年2月にお辰観音堂が修理された時に次のように記載された棟札が発見された。 上棟南無大悲観世音菩薩 現三十三身而祓苦與楽除災集福 国家泰平村中安穏五穀成就 奉勧請 吉田氏 こノ時 延享二年 閏十二月吉日良辰 建立自主 吉田五兵衛尉 大工 石丸軍平尉正長 小工 若二 昭和五庚午一月吉日良辰 建替 大工 小寺初次
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有益さん
安山岩製の像高約1m50cmの袈裟を着た僧形の仏を丸彫りし、二段になった台石の上に安置してあり、見るからに豊満な大きい石仏である。衣文の彫りは浅く、胸前に指を組んだ、福々しい顔、肉つき豊かな体躯、表情に雅趣があってほのぼのとした温かさを感じさせる石仏である。 背面に預修善根仙叔明鶴今泉有益禅庵主寿位、慶長20年(1615)2月吉祥日の刻銘があり、江戸初期の作である。(中村 勲)、と載せられている。 有益さん有益さんと親まれた石の仏さんが、元々どんな人であったか、父母寺の住職であったのか、この辺のお医者さんであったのか、何れにしても多くの人々を救い、余程の善根を施した人であったために、その人を追慕するあまりに建てられたものであろう。或は子孫の人が先祖の供養のために建てたのか一切が不明であるが、前記江口氏の説によれば築山の墓守をしていた人ともいわれる。あるいは多々良、三浦両家の腹中の家臣であり、主を弔うために出家した随臣であったかも知れない。 ともかくこの人も相当の人物にちがいなかったろうと思う。 又有益さんの前には六地蔵一基が建っている。 これには 正面に 宝永八年(1711)辛卯 仲春八日 願主 徳本甚兵衛尉義休 裏面には 奉漸讀大乗妙典千部 東面には 奉建立石地蔵菩薩六尊 と刻んである。 当この築山墓地に登る石段は、大正15年(1926)多々良譲二氏が建設されたものであり、外に三浦一族で昭和15年4月4日大東亜戦で中支方面で戦死された陸軍大佐三浦増穂氏の墓もある。(嗣子は佐賀商業高校教諭 三浦光弘氏)増穂氏夫人は歌人中島哀浪氏の妹である。 当寺には、高さ約45cm直径約30cmの青銅製の寺鐘がある。
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御霊屋前の羅漢さん
諫早家墓所に安置されている四躰の羅漢さん(※)。正法護持のため請われた修行者で、尊敬を受け供養を受けるにふさわしい聖者の意味があり、その姿を釈迦如来の眷族、弟子として表現されている。 黄檗では慶友尊者(ケイユウソンジャ)と賓頭盧尊者(ヒンズルソンジャ)を加え、十八羅漢として祭られている。石像の十八羅漢像は近隣には例を見ないため、他の十四体の散失は悔やまれる。 ※蘇頻陀尊者(スビンダソンジャ) 迦諾迦跋釐惰闍尊者(カナカバリダジャソンジャ) 賓度羅跋囉惰闍尊者(ヒンドラバラダジャソンジャ) 跋陀羅尊者(バダラソンジャ)
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大日如来像(福満寺)
大日如来は、真言宗にとって大事な佛である。 世間の闇を広く照らし、すべてのものを生かして育て覚りに導くものである。そのために、真言宗に改宗された年代・寛文7年(1667)に建立された石佛である。
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大聖観音菩薩と南無地蔵菩薩(光円寺内)
○ 大聖観音菩薩 (長寿・安産) ○ 南無地蔵菩薩 (昔から歯痛に霊験あらたかであると伝えられている) 天明年間(1781〜1789)の大飢饉の際、多数の餓死者を出し、その供養と子どもたちを飢えから守ろうと地区の人々(光円寺馬場)が、地蔵さんを祀り、毎年願望を込めて祭典を催してきた。 しかし、今はそれも途絶え、地蔵さんも台座を残し、御神体は光円寺内の北東の角、御堂の中に祀られている。
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阿弥陀如来
阿弥陀如来は極楽浄土の思想が普及することによって、最も広く信仰された仏である。鍋島本村観音寺には蓮華座上の等身大立像の阿弥陀如来がある。
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半肉彫石造如意輪観音坐像
久保泉行きバスの勝宿神社で下車し、歩いて約15分北へ向いさらに右に折れ5分で慈音院に着く。ここからさらに山道をたどる急な坂道雑木におおわれた小径を登って行くとおよそ300mで不動滝につく。さらに小径を300m登って行くと目的地の磨崖仏に出る。あたりは巨木、巨石に囲まれた小鳥のさえずりさえ聞こえる別天地である。地上およそ3mの巨石の壁に花頭窓のように輪郭をつけて彫られている如意輪観音は美しく華麗である。像高1m50cmで半肉彫に彫られふくよかで全体として非常にやわらかな感じである。造立年代はさだかでないが、延宝5年(1677)頃一修験僧に依り幾星霜の年月を経て完成したといわれ、山岳信仰を究明する上からきわめてその価値が高い。 如意輪観音の功徳として、如意とは如意宝珠、輪は法輪を転じ、六道の衆生の苦を抜き利益を与えることを本誓とする菩薩として人々の厚い信仰を受けている。
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磨崖仏
磨崖仏とは、大分の臼杵石仏や相知の鵜殿石仏のように、自然の岩壁や硬い土に直接仏像を彫刻したものをいう。 観音滝左手の大きな岩に、高さ1.5mほどの半肉刻の『如意輪観音像』が見える。コンクリート造りの籠り堂があって、一寸見え難いが、首を右に傾け滝の方を御覧の姿で、左膝を立てておられるが右手はよく見えない。滝の上に坐した姿か。 如意輪観音は、右膝を立て三対の手には宝珠・宝輪などを持って居られるのが普通の姿。-奈良・西大寺- 一切衆生の願いをかなえ、苦しみを救って下さるみ仏である。観音様は変化が多く、慈音院の聖観音・千手観音・后良十一面観音・西原二の馬頭観音などがあり、女性の姿をしておられる。 金立山登山口から約3㎞のところにある「吹上観音」も美事であるが、こちらの観音が優しい顔に見える。造立銘がわからないので、いつ頃誰が彫造したかはっきりしないが、慈音院建立の1677年(延宝5)頃か。 余技的彫造でなく実に精巧な立派な作で、よくもこんな山深いところに、美事な彫造をしたことよ。 「ひたすらに救いたまえと祈る身は ふみわけたどる幽谷ここに」