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[旧佐賀市][ その他]は93件登録されています。
旧佐賀市 その他
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旧火葬場跡
町内には終戦後しばらく使用されていた火葬場跡が現在も3か所存在している。いつ頃できたかは定かでないが明治初年頃ではないかといわれている。 第1の場所は、西与賀公民館より北方約300mの所で本庄江湖沿いの堤防の下にある。作りは切石を積み重ねた駒形をした簡素な構造である。内部をのぞいて見ると棺を置くために長さ1m50cm程の切石を並列し、その下に鉄棒(ロストル)数本を並べ下に空気の流通を良くするために穴を開けている。燃料は主に火持ちの良いからすみを使用していた。ここを利用した部落は相応、今津、厘外の一部であった。 第2の場所は丸目橋より南へ約200mの本庄江湖沿いにあり周囲の堤防にははぜの木が植栽され集落を遠ざけるような場所である。全体の型や、内部構造は相応と全く同じである。利用した部落は丸目と戊申搦である。 第3の場所は東与賀町を境とする元相応にある。農業倉庫より南方を見れば一見風変りな建物が目につく、これが火葬場である。屋根はトンガリ帽子のようで材料はすべて赤煉瓦を使っており異風的な感じさえ与える。 これらの火葬場は現在全く使用されておらず昔日の姿を今に残している。
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ノコギリ型家並み
長瀬町の道しるべに南をさして「いさはやとかいば」と刻まれている。 国道207号線(旧国道34号線)を越えて本庄町をそれて南西に進むと、海路を利用して諫早へ渡る渡海場の厘外津で、この途中本庄町(本庄元町)と厘外津に八戸町と同じノコギリ型の町並みの連なりを見ることができる。
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水盤(すいばん)
参拝者のために神社や寺院に備えられている。水盤の起源については明らかでないが、鎌倉時代の遺品が最古のものであるといわれている。最初に社寺に備えられ、後に茶亭に取り入れられてから、民家の庭園や手洗鉢として広く分布するに至っている。 水盤には手洗水、漱水、御水鉢など各種の用語が使用されていて、形式もまた変化に富んでいる。
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鼓の胴の松飾り
鼓の胴の松飾りは、藩政時代から作られている伝統の松飾りである。このしめ飾りは米俵を基本としており、その飾り方は蓮池流などといって自慢されており、平成元年よりずっと蓮池公民館と芙蓉中学校の正門に掲げられている。 「佐賀藩主鍋島勝茂公は島原の乱において、勝利のきっかけを作ったが、逆にそのことが軍令違反とみなされ、閉門を命じられた。1638年のことである。年末を迎えた江戸・鍋島屋敷ではひっそりと新年を迎えようとしていたが、12月28日に処分が解かれた。不意の開門で正月の準備がなく、納屋にあった米俵などを用いてにわかに松飾りを作った。その形が鼓の形に似ていたので鼓の松飾りといいこれを吉例とした。」
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子どもの遊び
(春)ヨシノコたおし(芦の新芽で)・ヨシブエ・竹笛・竹ヤモ(竹トンボ)・テンチクバリ(春先の堀にどじょうなどをつけて夕方かけ朝あげてうなぎを捕る)・ブイブイまわし(糸を通して廻す)・押し鉄砲(タマはエンの実、リュウのヒゲ)・アモゼー釣り(運動場の微小な穴に草の葉をさして小さな虫を釣る)・竹ヘゴつかみ(割竹5本、掌にのせ、手の甲にのせ、たおし、おこし、つかむ)…。 (夏)夏のあそびは今は夢。江湖で堀で朝から夕方まで真っ黒になって泳ぐ。橋から飛び、干き汐にはしじみとり。なまず、えびの手づかみ、つばの色失っては甲羅干し。 人々も川を大事にし、子どもがケガをするようなものは絶対に捨てなかった。 (秋〜冬)ペチャ(メンコ)・ゴム銃(パチンコ)・ジャンジャカジャンノジャン(軍人あわせ)・陣取り・サゲアシ(竹馬)・トーバタ(凧)・瓦たおし(的もタマも瓦のかけら)・下駄かくし(起きっかねぶっか馬ンくそポロイと歌ってげたをとばす)・馬乗りじゃんけん・コマ・メンチー・ネンボウ(柳の木をとがらせる)・釘ネンボウ…。 (女のあそび)ママゴト・千鳥かけ(あやとり)・セッセノセ(手合わせ)・お手玉・縄とび(一人とび、お客さん、大波小波、まわし)・ゴムとび・キンパタ(丸、二つ丸、丸・丸。タマを入れて行きもどり)・指陣取り(手の平コンパス)・波陣取り(波もようにハジキすすめ)・おはじき陣取り(線をのばす)・ベンジャラボンジャラ(握った手をまん中に集めて、ソコヒキャポイ)・後ろの人あて・通リャンセ・開いた開いた・ジャンケン歩き(グーで勝てば20歩、パーで勝てば10歩…)・ヨシノコ人形・ユビ組みあそび(殿さんの道ドロボーの道)・オマイ立ち立ち(手をうしろに組み、子どもをのせ、「おまい立ち立ち、乗り手は強し、乗ってトーれてけがどませんかん、いいえそんなことござんせん、チの出たばっかい」…。 数々の遊び、文字ではあらわしにくい。
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たんどん(握りたどん)
たんどんはコークスの粉と、潟泥(川岸にたまった軟らかい泥)を混ぜて成形する。一般家庭では直径20cmばかりの鉄の輪に材料を入れてひらたいたたき棒で叩いて固め、2・3日天日に干して乾かす。このたんどんは風呂やいづみベッチィ(七輪の大きいもの・改良かまど)の燃料とした。 このたんどんの普及は、蓮池には城原川沿いに数軒の瓦工場があって、コークスの粉が容易に手に入ったことによる。 蓮池町内には数軒のたんどん屋があり、主に女性の内職として握られていたが、これは握りたんどんといって石炭の粉を材料に手で握って作られていた。これは火力があり、火持ちがよかった。
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男山・女山
男山の登り口に、「嘉永己酉臣大野平教一撰書 嘉永二年(1849)」と僅かに読みとれる折れた門柱らしきものがあるが、これはかっての天賜園の石門のものである。頂上には大正15年1月15日県知事斉藤行三書による「王世子李垠殿下御展望所」の碑が今も建っている。男山の西北方に、それよりも低く、樹木数も少く、いかにも女性的につつましく控えている女山の姿は、昔の女性の心がけを思わせるものがあり、この一対の山は夫婦のあり方を無言に教えているようである。
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蓮池公園
寛永16年(1639)に蓮池藩が開かれて以来、歴代の居城であった蓮池城(世人俗に「御館(おやかた)」と称す)は、明治維新により廃せられた。当時の蓮池藩知事鍋島直紀は、明治4年11月、蓮池県が伊万里県に統合されるに先立ち、9月に蒲田津から船便で東京麻布の私邸に移った。明治10年、火災によって旧館の過半が焼失したので、村民一同、その跡に池を作り、山を築いて松杉桜等の植樹を行って、これを蓮池公園(芙蓉公園と称した時期もある)と名付け、園内に蓮池社を造営して歴代藩主の霊を祀り、もってその遺徳をたたえた。 さきに8代藩主直與は、幕府若年寄、寺社奉行に推挙されたが、鍋島本藩の阻止に遭い、帰って退隠し、かつての庭園を拡張して天賜園を作り風月を友とした。天賜園は、現蓮池公民館(公民館の建物には、今も天賜園と銘のある屋根瓦がある)の東、北方一帯に広がり、江湖の流を巧みに取り入れ春は梅と楊柳が美しく、夏は青葦によしきり、五位鷺の声を聞き、秋は穂葦の中に櫨の紅葉が映える名園であったと伝えられているが、今は浄国寺に伝わる『天賜園絵図』によってそのたたずまいを偲ぶに過ぎない。 蓮池公園には、この天賜園にあった帰田の詩碑、敏謙神社、天満宮、春日社、宗像社、稲荷社が移されているが、その発想の基礎は天賜園にあると思われる。蓮池公園は、鍋島子爵家から国へ寄贈され、蓮池村から蓮池町へ、そして昭和30年の佐賀市合併によって現在は佐賀市営公園となって、グラウンド、子ども遊園地も整備され、染井吉野を始めとする桜も多く、市民の憩いの場となっている。 西名の人、野中十蔵は直與の命により柔術を学び、その技において名声の高かった士であるが、また計画立案に優れていて、與衆館の新築、羽州出兵の記念碑、蓮池社前の石橋、踊舞台等、すべて彼の関与したものであり、公園の改良についての彼の力は多大であったと伝えられている。
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産業市
戦後、蓮池振興の一環として、農業機械市、産業市が開かれる様になり、近在からの人出が見られた。商栄会も桜まつりを行っているが、昭和48年には、桜まつり少年剣道、スケッチ大会を行い、久しぶりの人出で賑った。
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師走講
蒲田津の江湖ばたは下関や五島方面からの海産物、魚肥、木炭などの船で賑わった。師走には、新旧の正月を控え、塩魚の船がおし合い、塩だらけのブリ、タイ、カナヤマなど大きな取引きが行われ、遠くは福岡県甘木あたりからも商人が来た。「師走講」であろうか。歳末おろし大売出しである。 後で問屋の番頭さん達は、竹の篭に紙をはった「手行李」に帳面や矢立を入れて大風呂敷で背負い、集金旅行をした。
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先得亭
先得亭は、明治25年建造。江湖に面した絶好の場所にあったが、戦後損傷甚だしく取壊された。先得亭、與衆館は、一般の求めに応じて「雪月花の雅金並に冠婚挙式の場に供す」と伝えられている。
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與衆館
與衆館は、明治26年建造。正面に明治26年三洲長莢書の「與衆館」の額がある。先得亭、與衆館は、一般の求めに応じて「雪月花の雅金並に冠婚挙式の場に供す」と伝えられている。また、かつて小作米を納入した後の農民に対し、慰労の酒肴をもてなす場所として、與衆館が使用された。館内大広間に「天賜園」の額がある。
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久保薬局看板
のこぎり型家並みの中で目につくのが、久保薬局の「牛黄清心圓」の看板です。藩政時代における売薬の調製販売には、佐賀藩の厳しい規制が加えられ、諸国を歩く越中の薬売商人も、佐賀藩だけは避けて通ったといいます。そのため、藩内では巨財を成す薬屋が多くありました。 久保薬局の「牛黄清心圓」は強壮薬で、佐賀藩の秘伝薬でした。一般に売られるようになったのは明治になってからで、その時に掲げた看板が今も残っています。
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佐賀藩の製砲及び反射炉
多布施河畔の大砲鋳造所(多布施反射炉跡)は、多布施川の屈曲部を利用したもので、なるべく多くの水をせき止めて工場内に引き、水車を回して鉄製大砲の中刳りを施したものである。「花の岸川マチャ水車がまわる、まわる水車の音の良さ」という俗語から、後には水を原動力として用いたともいわれる。
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のこぎり型家並み
長瀬町の道しるべから西へ向かうと、八戸町である。現在も昔の街道の面影をよく残している。 長崎街道は東側の長瀬町・多布施新宿や西側の古宿とはやや向きを変えて斜めに走る。そのため、新宿では宅地と街道が直角に交わらず、いわゆるノコギリ型の地割が形成され、特徴ある町並み景観が展開している。後になってそのくぼみは、敵が攻めて来たときに隠れて不意を突いて攻撃をするためだとか、荷車を置くためのものだとか言われている。 家々の屋根は二重屋根が多いのも特徴である。一重屋根ですむのにわざわざ二重屋根にしているのも珍しく、中には大きな白壁の土蔵づくりの家が何軒か目につく。
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喜楽座
喜楽座は辻の堂の旧料亭万才附近にあって、喜楽舎と呼ばれていた。明治5年頃に現在の地(与賀町)へ移り喜楽座となった。芝居、浪花節、漫才等が公演された。敷地は600坪、収容人員700人の、当時としては大きな劇場であった。 この頃から西の白山と呼ばれ、庶民の娯楽の場となっていた。その昔、この附近は野墓があり、さみしい所であった。そこへ武士の楽しみでもある馬場が出き、与賀馬場と言われていた。喜楽座が出来て、人が多く行き交うようになり、護国神社の近くにあった日の出館とともに与賀町の発展に寄与した。 昭和40年ころまで、永い間続いたが、時代の流れには逆らえず、映画からテレビへと移り、庶民の娯楽の殿堂も姿を消し、今は建物の3分の1が残っているが、中は会社の倉庫となっている。天井の高い合掌作りの太い柱が往時の郷愁を呼び起こしてくれる。
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牛島神社の金刀比羅神
金刀比羅神は海上での交通安全、大漁満足の神として、漁師・水上関係者ら船舶関係者が特に信仰を寄せる神様である。この神は梵語(古代インドの文語)のクンピーラから出たといわれ、インドの聖なる河に棲むワニを、神格化したといわれ、水の神、海の神として信仰された。 日本に渡来して讃岐の国(香川県)琴平に祀られ、『金刀比羅』権現の本宮となって、全国の金刀比羅信仰の中心になっている。正式には『象頭山金比羅大権現』というのが正しい呼び方である。明治になって神仏混淆を禁ぜられてから、金刀比羅宮(ことひらぐう)と呼ばれるようになった。現在は、大物主命(おおものぬしのみこと)を祭神として、崇徳天皇を相殿として祀ってある。もともと農神であり水神であったため、農民の間にも信仰され、特に雨乞いの神として霊験があったといわれる。それが室町時代以降になり商業が盛んになるにつれて、海上交通、海運業が盛んになり、瀬戸内海交通の守護神のように崇められ、かつての農神、水神としての影が薄くなった。 瀬戸内海の海上交通は、現在想像する以上に盛んで政治、軍事、経済に大きな役割を演じていた。平常は鏡のように穏やかでも、一度荒天ともなれば波浪が高く突風が起きたり、たくさんの島々で潮流が複雑となり大変危険で、また海賊が出て航海の難儀は、おのずから危険をさけ守護してくれる神を信仰することになった。海上で遭難したとき、金比羅大権現の名を口に唱え、毛髪を切ったり、持物を海中に投ずれば難をまぬがれるという。また、暗夜に船の行く先がわからなくなったとき、この神を念ずると、きっと、ひとかたまりの火がぼーっと現れ、それを目あてに漕いで行けば、無事着岸できるといわれていた。金刀比羅宮が今日伊勢に劣らない程全国民の信仰を集め、一年間お参りする人は、400万にも及んでいるといわれるように繁盛したのは、江戸時代になってからで、慶安2年2月(1649)に幕府の朱印地となって、330石の地を給せられ、宝暦10年5月(1760)には勅願所と定められたりした。また、ここには四国第一の芝居小屋『金丸座』が常設されて、大坂や江戸の千両役者も出演し、西国の大名なども参勤交代の途中にここに立ち寄って芝居見物をしたともいわれ、3月、6月、10月の顔見世興業がとくに人気があった。佐賀市金立町の金刀比羅神社は、四国の金刀比羅宮分神で今から1300年程前に勧請されて、龍造寺、鍋島家の勅願神社として海上安全のほか農業殖産、医薬祖、福徳円満縁結びの神として祈願立願で庶民も合わせて心の支えとしてきた。牛島神社にも金刀比羅神が祀ってある。
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佐賀の南蛮寺(キリスト教会)
慶長年間の城下絵図の中に、材木町の北方、長徳寺と堀をへだてて、柳町の東部一帯に東西47間、南北43間の広大な面積に南蛮寺が記載されてはいるが、今はその面影を偲ぶ何物も見当たらない。慶長11年(1606)にドミニコ会のアロンソ・デ・メーナ神父が佐賀の領地内で教会を建てる許可を、佐賀の大名勝茂に申し出た。このとき、領内に教会を建てることを許したが、その前にガッコウと呼ばれる有名な僧と相談しなければならないと言った。 このガッコウと呼ばれた人物は、当時徳川家康の顧問で、鍋島家へも大きな影響力を持っていた小城の円光寺生まれの元佶和尚であった。この僧の協力で教会を設立することができたが、この元佶和尚の寛大な態度にデ・メーナ神父も非常に驚くとともに感謝したといわれている。当時仏教とキリスト教の対立が激しい時代だけにこのような形で教会設立の許可がなされた例は、佐賀以外に日本のどこにもなかったことであるといわれた。 デ・メーナ神父は早速慶長12年(1607)に鹿島の浜町に教会と修道院を建てた。また翌年鹿島に別の教会を建設した。柳町には、慶長13年(1608)に建てられた。 またドミニコ会の神父たちが浜町に教会を建てた頃、イエズス会の神父たちは嬉野町の不動山に教会を建設した。このほか白石町の須古にも建てられた。ところで佐賀の大名は、キリシタンに対し、好意はもっていたが、徳川家康が慶長17年(1612)に、第1回のキリシタン禁教令を出し、つづいて慶長19年(1614)に出されたものは、今までにない厳しいものであったし、その後秀忠、また特に家光はますます徹底的に力を入れた。 幕府の度重ねての禁教の命に従い、佐賀で教会の神父を追放したのは、慶長18年(1613)10月であったので佐賀での布教活動は、僅かに5年間であった。 佐賀の南蛮寺教会の姿を今に見ることはできないが、神戸市立美術館所蔵で、狩野永徳の弟宗秀の筆になる扇型の洛中洛外図に書かれているものを見て想像するしかないのである。
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佐賀商業会議所の創立
明治29年(1896)4月、大隈重信は母堂法要のため30年ぶりに帰郷した。そのとき、北堀端の大坪氏宅で歓迎会が開催されたが、その席で、大隈重信は『佐賀と実業』と題して演説を行ったが、これに刺激されて、佐賀商業会議所設立の気運が起こった。 佐賀商業会議所設立には、そのころの佐賀市長永田暉明が中心的に動き、佐賀百六銀行頭取中野致明以下24人が発起人に、会議所創立委員に深川、田上、中野、西村、原口の5人が推挙され、創立委員は、たびたび会議を開き、明治29年8月30日に設立認可申請書を提出し、同年9月29日付で佐賀県庁を経て認可され、全国で43番目、九州で5番目の会議所になった。 明治30年(1897)3月27日の議員総会で、初代会頭に原口良輔が、副会頭に西村萬次郎が選ばれた。 明治37年3月には、民間のたばこ生産が禁止されても、県の生産者が困らないように、官営たばこ製造所を佐賀市に誘致する請願運動を決議し、これが誘致に成功したり、佐賀市に漆器伝習所を佐賀市の援助を受けて設置するなどの活動をした。 商業会議所設立後、明治32年には県の特産物である織物・たばこ・素麺の業者組合設立を各業者に呼びかけたりした。明治39年3月から4月まで佐賀市で開かれた九州沖縄八県連合共進会でも、物産展示、販売などを積極的に行った。 昭和3年1月、商工会議所法の実施により従来の商業会議所を、商工会議所と称するようになった。 商業会議所の事務所は、当初佐賀市役所の片隅に設け、明治38年12月、松原町の原剛一家屋に移転し、大正13年3月佐賀百六銀行跡に、大正15年11月、旧古賀銀行馬責馬場支店跡へ、その後旧古賀銀行本店跡を購入し、これを改装して昭和9年(1934)6月、ここにはじめて独立の事務所を所有することになった。 昭和29年(1954)12月に、県庁北に佐賀商工会館が建設されると、そこへ移り今日に至っている。
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佐賀米穀取引所
明治4年(1871)5月、政府はこれまでの米納制度を廃して、金納制度を実施すると、米穀の換金が急がれ、そのため米穀相場を建てる米穀市場の必要性が起こってきた。 佐賀でも明治6年に、正米市場の設立が認可され、二つの米穀市場が業務を行ったが、明治8年に両方の市場とも姿を消した。明治17年9月にも米商会所設立について討議されたこともあったが具体化するに至らなかった。明治20年(1887)8月3日『佐賀取引所設立願』が認可され、これが後年設立された佐賀米穀取引所の母体となった。直ちに設立総会を開き、馬責馬場の鍋島家所有地を借り受け、事務所、立会場を新築することになり、予定どおり明治21年(1888)9月1日に業務が開始された。 明治26年(1893)3月、改正取引所法が公布されると、会員組織の取引所を解散し旧取引所を母体に、改めて明治27年(1894)11月に、資本金3万円の株式会社佐賀米穀取引所を設立した。最盛期の大正9年には売買総高1500余石、仲買人も設立時11人が限定人員の35人に達し、利益配当も年15割に及んだということである。 取引所の立会方法は東京大阪の各取引と同じ競り売買で行われ、売買受渡し倉庫として、下今宿、厘外津、諸富、早津江、寺井、小城、牛津、鹿島、神埼、大川、柳川、久留米、博多、長崎等の倉庫が指定された。また、一説によれば、取引所の米穀物売買受渡銀行に、柳町にあった三省銀行が指定され、この思惑投機者への貸し出しが焦げついて、明治26年に同銀行は休業したといわれている。ところが、明治43年当時の同所理事長牟田萬次郎は、伊万里市生まれで鹿島の牟田家を継ぎ、22歳で県会議員に、また鹿島銀行の創立、『西海日報』の新聞発行、九州鉄道の創設、広滝水力電気株式会社の設立や牛津の肥前板紙、祐徳軌道、佐賀軌道の開通、佐賀綿ネル会社等々に尽力した佐賀実業界の大物であった。また、明治43年には福沢財閥の福沢桃介や、電気の鬼と言われた松永安左衛門等の協力を得て九州電気株式会社を創立しようと奔走し、九分どおり話がまとまり、将来は中央財界に乗り出す構想であったと言われていた。佐賀米穀取引所は、昭和14年取引所法が改められ、全国取引所が日本米穀会社に統合され、米価が一定値段に統制されたため、同年佐賀米穀取引所は解散するに至った。
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佐賀市塵芥焼却炉
佐賀市は塵芥を処理できる量が少なく、一部を土地埋め立てに利用していたが、大変非衛生的であったので、昭和11年3月市議会に建設予算が提案された。審議する中で、延期説が出るなどしたので、調査委員会を設け半年にわたる研究を進め、昭和13年8月焼却炉を建設することになった。焼却炉は、岩本式にして4火床8炉として、昭和13年9月17日、火入れ式を行った。昭和28年にこの施設を改造拡大する計画であったが付近住民の反対で実現できなかった。然し、これまでの焼却炉が次第に老朽化し、十分能力を発揮できなかったので、昭和34年に焼却炉の内部大改造を行い、これまで一日処理能力約20tを30tに引き上げた。その後、高度経済成長とともに生活水準が向上し、家庭から排出するゴミの量も年々増大し、併せて産業廃棄物もまた増加していった。この間、昭和28年には、循誘小学校、兵庫小学校の敷地の埋め立てを行い循誘小学校の敷地1,600㎡は、昭和31年埋め立てによって造成された。また、牛島天満宮裏の低地も埋め立てられた。この他昭和46年には、高木瀬町の市有池沼(蓮堀)を埋め立てて城北中学校グラウンド、佐賀県陸運事務所用地等を造成その他毎年、高木瀬、金立、久保泉、兵庫等の埋め立て可能な場所は、次々に埋め立てが行われた。佐賀市では、『1日8時間で60t、24時間操業で180t焼却することができる江口式連続燃焼型ゴミ焼却炉』の近代的ゴミ焼却場を建設するため、佐賀市高木瀬町に用地を買収し、昭和41年3月に愈々近代的ゴミ焼却場建設に着手し、昭和43年3月に総工事費約16億円をもって工事が竣工した。当初は順調に行ったが、いろいろな原因でゴミ焼却施設の稼働が十分でなかったので、『都市ゴミ破砕固形処理施設の設置や、この施設に連動する『ゴミ高速堆肥化施設(コンポストプラント)』の購入などに苦心した。現在は、嘉瀬町に埋立地を確保し、かつ、焼却施設を54年度から川崎反転ストーカ式ゴミ焼却施設の建設が進められ、55年度に完成し、今日まで運転されている。昭和41年3月に、高木瀬町にゴミ焼却場が新築し移転されたので、田代南のゴミ焼却場は、歴史の幕を閉じることになり、今日、地域の公園として整備されている。
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願正寺鐘楼、時の鐘
当寺の鐘楼は、鍋島3代藩主綱茂の代となった元禄8年(1695)から同9年の間に建立された。 この鐘は佐賀城下に時間を知らせる鐘として、元禄9年8月から用いられた。 時報は、明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までで、鐘楼役、香番役の2名が昼夜勤務をしていたようである。 鐘楼香番所は、鐘楼の石段を登った内部に設けられ、六畳敷きの部屋を住居として、そこに”時計香ためし”やその他の時を計る諸道具が備えてあったようである。この詰所で時間を計り、時が来れば、ここから更に階段を上って、四方吹き抜けの楼上で鐘をついていたと思われる。 藩からは毎年10石の鐘つき料を下付されていた。 この時の鐘は安政元年(1854)5月にはひびが入って、役目を終え、あとは白山の八幡社で撞くように命じられている。それまで約160年間、途中で鐘楼の修復再建の時期を含め、城下に時を告げる役目を続けたことになる。現在の鐘は戦後の昭和24年に鋳造したもので、毎夕5時に夕べの鐘を鳴らし、人々に親しまれている。
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椋鳥(シガ)とり場
柴野地区の東方、原口宅の前方から墓地にかけての一帯を、椋鳥とり場という。その東にある堀の向こうは犬童地区である。明治の初年頃までは幾十町歩にわたって犬童竹の林であった。犬童丸というかわいい小児を失った父親が悲しみのあまり、1本の小竹(にがま竹)を墓前に植えたのが、年のたつにつれ繁殖して犬童林という広い竹林となった。 ここに幾千とも知れぬシガが群集していたので、同地方の領主であった鍋島山城守(後に河内)が、時おり、うさ晴らしに家来を引きつれてシガ狩りを催された。 その捕獲の方法は、要所要所に待ち構えていた狩人たちが、ころを見計らって、鷹の羽を先端につけた竿をヒュッ、ヒュッと振りまわすと、空のシガの群はその羽音に驚いてすっすっと地面に下ってくるところを網師が上手に引っ掛ける。一網打尽とはこのことだろう。幾千幾百のシガは、哀れにも網の中でかしましい声をあげる。 得意満面の殿は家来と水ヶ江のお茶屋に帰りを急ぎ、その都度、山城守は柴野の光円寺や塘宅で休息された。シガとり場の南方を調練場と言い伝える。山城守が領内の武士を集めて、時折調練を行なっていた所だという。
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テンボ
ネバルの東方の濠の中に、テンボという島状の狭い土地がある。大昔この辺は海で船が通っていた。テンボは当時船の帆柱が残っていた所という。伝説によると渕地方は海中の渕であったそうで、高木瀬方面の瀬は海中の瀬であったという。
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旧長崎街道の大曲、小曲
構口から道崎まで現在は一直線の道路になっているが、長崎街道当時は各所に曲りくねりを設けてあった。構口より牛島宿までの所を大曲、小曲といったが現在は狭い農道となっている。 構口橋より川にそって南下し、更に曲りくねりしながら東進し牛島宿、高尾宿を通り、藤棚を経て東進し、郡境付近で大きく曲っていた。古老の話によると敵軍兵の襲来がわかりやすいことと敵兵に対する襲撃がしやすいためであったとのことである。
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真崎式灌漑ポンプ
真崎照郷により大正10年頃に佐賀県最初の機械灌漑施設を開発。スタート時は5馬力のディーゼルエンジンで実施したが失敗、その後石油発動機、ガス発動機と改良を加え揚水施設を完成させた。 大正12年5月から電気揚水に改造され佐賀平野に広く普及した。 しかし、昭和20年の終戦後は鉄が不足し、そこで考案されたものが心臓部の動力部と下部の給水駆動部を鋳物で製造し、中間部をセメントと石綿を混ぜ合わせたもので製造し、苦境を乗り切った。 駆動軸は傘歯車で製造されており、騒音が激しく原動部のモーターとの噛み合わせも時々トラブルが発生したそうである。そのためにギア方式からVベルト方式へ農業生産者のほうで改善され、現在も修理田生産組合で大事に使用されている。購入されたのは、昭和27年頃とのことである。
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堀と生活
巨勢地方では網の目のように堀が発達していた。これらは「堀」または「クリーク」と呼ばれ、巨勢地方の米作りには不可欠なものであった。これにより米作地帯を形成していた。それだけでなく、戦前までは住民の日常生活に重要な役割を果たしていた。 水田の灌漑や雨がふると排水の役目をはたし、お茶の水、炊事の水、風呂の水、米とぎ、洗濯その他の水、すべて堀の水を使っていた。子ども達は濁った水でも、夏はこの堀の水で泳いだ。また、海に遠いこの地区では、堀の淡水魚の世話になった。 堀から鮒釣りをしたり、投げ針やうけをつかい、「うなぎ」「なまず」「鮒」を獲り、春のごみ揚げや秋の堀り干しで多くの魚類を獲り、昆布巻、焼き鮒にして保存食にした。また、秋になると菱ちぎりをして「おやつ」にもした。このように、この地方の人は堀に親しみ、堀とともに生きてきた。
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寄宮
明治44年ごろ巨勢町内の神々約25をここに合祀し寄宮された。主なものをあげると、天満宮、英彦山権現、天照皇大神、天満宮、稲荷社があって町民の信仰の様子が伺える。 佐賀では藩主が英彦山権現を深く信仰していたので県内では英彦山参拝が盛んとなり、「英彦山講」が組織されて代参も行われるようになった。このような信仰によって英彦山講衆による英彦山塔が各地に建てられた。
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高傳寺盛姫のこより地蔵
高傳寺庫裏2階の床の間に紙(こより)の地蔵さんが安置されている。この作者は11代将軍徳川家斉の28番の子盛姫で、佐賀10代藩主鍋島直正公(閑叟)に嫁して、文蕭夫人と呼ばれた。 「こより」は文蕭夫人が、つれづれに写経した何十万本の「こより」でこしらえたのである。像高は台座を含めて、約70cm程である。 一説には、父将軍家斉が天保12年(1841)に没した後、父の追善供養のため「こより地蔵」がつくられたものと言われている。
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観音寺鰐口
本堂入口に掲げてある鰐口の銘文は次の通りである。 左側〜天保九年(1838)三月吉日 右側〜肥前國佐嘉郡本庄村灰塚村 施主人 大内籏 観音寺 江戸詰 男女 杉野 嘉兵衛 江口 丈右衛門 下村 又四良