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[旧佐賀市][ その他]は93件登録されています。
旧佐賀市 その他
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寒若寺半鐘(はんしょう)
【品質】銅 【形状】鋳造 【法量】全高51.2cm 鐘高37.2cm 口径外31.0cm 口径内15.2cm 深39.4cm 【銘文等】 {鐘座(つきざ)} 九州肥前國 佐賀郡 本願 神崎 利左衛門 諸行無情 川副庄 上江袋村 同 五兵衛 是生滅法 酒袋山 寒若寺 奉掛 増田 藤次 生滅人爲 半鐘 一口者也伏 同 清右衛門 寂滅爲楽 天長地久 四海太平 同妹 ちか 國土安穏 後生善所 早田 八右衛門 七世父母 爲則生菩提 ○○源五右衛門 享保十九 甲寅 歳 神崎 ○左衛門 (寛文三 癸卯) 心窓観月信士 十二月吉日 爲 菩提 葉林妙紅信女 [註] は後の刻名 はすり消痕跡
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寒若寺鰐口
【品質】銅 【形状】鋳造 【法量】径26.0cm 【銘文等】 (前面陰刻銘) 「謹奉施入鰐口一掛 肥前 佐賀 河副 酒袋村 薬師御宝殿」 「奉○佛力致恭(か)敬(か)誠借(か)近里遠村之衆力鋳銅鰐口」 (後面陰刻銘) 「○○代卒○○座(か)却(か)眼十方檀那太膳(?)」 「 千布左衛門 ○慶長十九甲○(寅か)十一月吉日 願主 津山四兵衛」 江戸時代 慶長十九年(1614)
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慶誾寺戦利品の手水鉢
慶誾寺本堂前にある手水鉢は龍造寺隆信が天正8年(1580)2月13日柳川城攻略(隆信が筑後柳川城主蒲池鎮竝叛くにより、子鎮賢に攻めさせる。)の時戦利品として持ち帰ったもので、後日、母君(当寺の開基慶誾妙意大姉)追善菩提のため当寺に寄進したものである。
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時鐘
明治時代、まだチャイムなどがなかった頃、勧興小学校では「時鐘」で各時限を知らせていた。大興寺(神野三溝)の田中住職によると先代からの口伝でこの「時鐘」は、宝蔵寺からの譲り物であるらしい。何故、この鐘が勧興小学校に譲られたかは詳細な記録がないために不明である。 (註)宝蔵寺は、鍋島蛎久にあったが、現在は廃寺となっている。
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勧興魂
「勧興魂」は、藩校・弘道館から受け継がれたものである。
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アームストロング砲
アームストロング砲は幕末に佐賀藩が保有していた最新の後装施条砲。1855年イギリスで開発され、佐賀藩は長崎のグラバー等を仲介として輸入した。佐賀藩でも製造したといわれているが、実否は明らかでない。戊辰戦争では上野や奥羽の戦いで用いられ、「佐賀の大砲」として威力を示した。
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カノン砲
佐嘉神社正面入口左にある、我が国最初の鋳造鉄製150ポンドカノン砲である。 この大砲は、当時品川砲台に備えられたもののひとつを復元した物。 10代藩主・鍋島直正公は、長崎警備増強の必要性を痛感し、台場の増強と洋式鉄製大砲の製造を行った。 嘉永3年(1850年)、築地に独自の洋式反射炉を築造し、日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功し、長崎台場の防衛用大砲を建造した。
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馬鉄復活
馬鉄が復活した、昭和40年に仮装カーニバルが行われた。 佐賀商工会議所から多くの人が見物している。
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西肥日報
明治19年、当時の佐賀新聞に対抗するべく武富時敏が「肥筑日報」を創刊した。 その後、「西肥日報」へと変遷し武富時敏自身が主筆として鋭い筆を奮った。 武富時敏氏談として国の剰余金について国防費や減税について詳しい論説を述べている。 ちなみにこの現存する「西肥日報」は、勧興公民館館長宅から偶然に見つかったものである。「西肥日報」の本社は、佐賀市中ノ小路の県庁通りに面する交差点にあり、しょう洒な洋館の建物であった。 昭和40年頃まで現存したがその後解体され、現在はデパートの物産館が建っている。
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萬金丹
元禄時代に武富家四代目祐白が「萬金丹」という丸薬販売の薬店を城下の白山町にて開業した。 その後、天明3年(1783)に藩外からの売薬の移入が禁止されたので佐賀藩領全域に販路を広げた。 さらに享和2年(1802)、店を継いだ武富坦堂は、大村藩の財政再建を援助し、大村藩内でも販売許可を得ることができた。
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楠公旅館
昭和30年代まで「楠公旅館」として営業されていた。 今でも、表札だけは「楠公通り」とされている。
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格子戸の家
長崎街道筋には、昔懐かしい格子戸の家がある。
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土蔵の家
十間堀川・鈴蘭橋のたもとに土蔵造りの家があり、何とも言えない趣きがある。
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北部バイパス(国道34号線)
国道34号線の交通緩和のため北部バイパスが計画され、昭和46年12月に兵庫町より三日月町間が、昭和49年4月に牛津までが全面開通した。 また、西部環状線が計画され、昭和51年完成した。昭和46年7月に都市計画の線引き(市街化区域と市街化調整区域の線引き)がなされ、そのために新村地区(開成2〜6丁目)は急速に発展した。
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西部環状線(国道208号)
昭和51年7月に西部環状線として北部バイパスまで開通し、平面交差で交っていたが、翌、昭和52年12月佐賀医科大学開校の為、市道医大道路として拡幅、開通となり、北部バイパスと立体交差する事に成った。それに先駆けて西部環状線以東及び北部バイパス以南が市街化区域の指定となり急速な発展をとげた。
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青年会場
青年クラブや青年宿とも言ったが、現在の八戸溝公民分館の前身で、現在地の八戸溝公民館の場所に大正末期から昭和の初期にかけて、当時としてはモダンな黒レンガ造りで建築されたと聞いている。鍋島町史によれば、明治40年頃より各町区にあった青年会場で、小学校の教員を招いて夜学が行われた。小学校教育の補習をこころみ、公民教育、農業教育、体育が主眼であった。 そして、大正6年には正式な鍋島農業補習学校(後の実業青年学校)として発足し、昭和23年に閉校した。現在の70歳以上の男性は、寝具を持ち寄り昼間の疲れも忘れて、一夜を語り合うのが楽しみな集会所であったといわれている。
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鍋島駅
鍋島町における経済活動も次第に盛んになった段階で、地元はもとより近郷の市町村においても駅の設置を希望する声が高まったので、当時の鍋島村長中島猪六氏が中心となり、当町出身の在京有力者や三好勝一県議の協力を得て運動が進められる中、肥前山口から諫早に至る長崎本線敷設工事の状況視察に来佐した、時の鉄道大臣小川平吉氏に陳情したことが決め手となって、昭和5年2月から工事が始められた。 盛り土には機関庫の石炭ガラを利用し、労力は地元江頭の人があたり、人夫賃は1日・1円80銭であった。工事が農繁期と重なったために若干の軋轢もあったが、障碍を乗り越えて工事は完成し、同年7月7日から鍋島駅として一般運輸の営業が開始された。喜んだ村民は、江里の「浮立」をはじめ、各地区から「踊り」や「にわか」を繰り出して、7月10日に盛大な祝賀行事を行い祝福した。駅の開設によって地元民の受けた恩典は計り知れないものがあり、昭和28年の大水害の折は、駅の倉庫が牛馬の避難場所となり、水死を免れたようなこともあった。
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佐賀鍋島郵便局
鍋島駅が開設された翌年の昭和6年4月1日、鍋島駅前通りの北突き当たりに駅と向かい合って、為替・貯金・郵便・保険・年金を取り扱う局長以下3名の無集配特定郵便局として鍋島郵便局が開局され、初代局長には中島熊太郎氏が就任した。 昭和16年3月11日には電報(配達を含む)電話の終日取り扱いを行うなど業務を拡張し、定員は4名(他に請負の配達員1名)に増加した。時世の推移に伴い、昭和42年4月30日には電報配達業務を廃止して定員を元にもどした。昭和53年12月25日局舎を全面改築して床面積を80㎡にふやし、同日付で局名を佐賀鍋島郵便局に改められた。昭和32年11月15日からは、父の後を継いで中島久雄氏が局長に就任し、業績は向上、発展の一途を辿っている。
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八戸溝の力石
石に対する信仰の1つで、神の依代(よしろ)となっている石を持ち上げて豊凶を占うのであったが、後では娯楽化して男の子が力試しをして少年期からさし上げて、力量を試しあった。また、米1俵を肩に担いで乗せることが、若い衆として認められる資格であった。八戸溝の力石は、薄茶色の卵型で、鳥居の側に置いてあり、少年や青年たちは競って挑戦していたが、持ち上げる人は村中に数人しかいなかった。その力石は、昭和30年代までは存在していたが、その後川岸の護岸として埋められた。
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荒神さん
昔の農家の家造りは、玄関から台所(くど、へっつい)までは、庭中(田の土で固めてある)があり、玄関の戸は重たいよろい戸であった。庭中の中央辺りに「荒神柱」が建ててあり、神棚を設け、お供えものをして荒神さんを信仰していた。八戸溝のほとんどの農家には終戦後あたりまでは見られたが、現在は改築されその面影を見ることはない。 また、鍋島町内のある町区では、くど(へっつい、かまど)の形の餅を備え、正月9日に女性だけが頂く町区もあった。あくまで、台所は女性の働く場所で、男性は立ち入りしないのが良いとの風習があったためだろう。
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高麗人塚
金立町大門の入口附近、観音寺塘の北側の田圃の西北隅にあり。 元は直径56mの円墳であったが附近を耕やす人々が何時の間か削り取って現在は小さな円形の土盛となっている兎に角この円形の墳の前方に2基の石碑(墓石?)が南面して立っている。2基とも自然石の一面を加工して建てられたもので、1基には「逆修朝鮮国工政大王之孫金公之立石」と刻し右側に「寛永六天巳己道清禅定門」左側に「妻女同国金氏妙清禅定尼八月日」とあり。 他の1基には「暁月浄雲禅門 位」と刻し両側に分字して「寛永五年戊辰九初五日」とあり。 惟うに前者は夫婦者で後者は独身者であったろう。 地区では高麗塚と言い伝えるのみで記録等残らず、只寛永初年の死である所から按ずると2基に葬むる人々は文禄の役に出陣した鍋島直茂公高麗より連れ来れる陶工の一部であること間違いなかろう。又鍋島直茂公は領内の城の附近で焼かしたという記録から見るも一部の陶工は此地に窯を設けて陶器を焼いたものを推定される。 附近にある窯跡らしいものがあり更に金刀比羅山の西部にある小高い山を朝鮮岳と呼ぶ山は昔高麗人の陶工はこの山の陶土を焼いていたと古老の間に言い伝えられている。
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道祖神との習合
<道祖神> 悪疫などをふせぐために各地の村境に造立された道祖神は、交通安全の意味を加えるとともに、人の一生を旅にたとえて、妊娠、出産、幼児守護、良縁、和合、性病の神として性格をももつようになった。男女の生殖をとおして、生産神、田の神、山の神的性格をもつなど、その発展変化は複雑である。信仰自体は古くからあったが、石造道祖神は江戸時代のものがほとんどである。 長野・群馬方面には、男女の神が肩をならべたり抱擁した双体道祖神が集中して分布している。安曇野一帯(長野、穂高町)は、さまざまなポーズの双体道祖神が分布し、あきさせない。塞神もほぼ同じ意味をもっていたものであろう。 民間信仰は、歴とした宗教ではなく、またその指導の立場にある人も宗教家でない場合が十の内八、九以上に上るのであるから、誤解や無智から種々の混乱の起こるのは当然であるし、時には第三者から見て解釈に苦しむこともまれではない。そこにまた、この方の研究対策の面白味もあるのだが、根が御利益と交歓を目当てにするものであるから、解決は思いのほか簡単な場合が多いようにも思われる。 さて庚申塔が他の神仏と習合する例の中で最も多いのは、道祖神であろう。これは庚申の申と、道祖神は猿田彦だなどという俗説に由来するものかとも思われる。 その手近な例は、東京都文京区小石川の牛天神の境内にも見られる。これは高さ134㎝、幅44.5㎝を算する棹石に、道祖神と3字を彫り、その下に三猿を浮彫りにしたものであるが、笠石まで入れた全体では212㎝ばかりとなる。猿の下に、陰刻ではあるが牝牡の雛と1羽の雛とのあるところが面白い。年号の刻んでないのは惜しいが、塔の左右両面に、寄進についた者の姓名が、十幾つか刻んであるが、そのいずれも婦人である。姓名ははなはだ浅い彫刻なので、よほど丹念に調べて見なければ判明しないのも残念である。 この塔は、明治か大正時代にここに建立されたものらしく、『江戸名所図会』(12)にある牛天神の絵には、この位置に揚弓が措いてあるから、昔からのものでないに相違ない。 牛天神の社殿は戦災で焼失し、その後再建された模様であるが、塔は全く無難で、依然雑草の中に立っている。ただ時に応じての変化は、笠の上の擬宝珠が、あることもあり、ないこともある。
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徳永のあめ(あめがた)
現在、徳永あめの製造販売をされている店が2店舗あり、滋養、強壮、産前産後などの体に優しい食品として多くの人に喜ばれている。 病気見舞いの品として、また、妊産婦さんが食べると母乳の出がよくなると言われる、素朴な健康食品である。 そのほか、最近は少なくなった佐賀の郷土料理である「鮒の昆布巻き」には、徳永あめ(あめがた)が使われ、おいしさを引き立てる役割を担っている。
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らんとう山
宗寿菴跡の後ろの小高い台地を「らんとう山」というのが龍造寺の残党(龍造寺より言えば忠臣) と、鍋島藩士との間に乱闘が展開され、其の屍を其の麓に葬った所が所謂猫塚であろうと思われ「らんとう」は乱闘の場から出た名称らしい。
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平尾天満宮の絵馬(天井絵)
平尾天満宮は、享保年間に建立されたといわれているが、平成2年に火災にあったが、平成4年に再建された。拝殿の天井絵馬は、平成19年に完成しており、140枚から成っていて、菅原道真公の一生が物語風に描かれている。また、中央の4枚は奉納相撲を象徴して相撲の型が描かれている。絵の具も脱色しないように配慮され、岩絵の具が使用されている。 作者は、佐賀大学文化教育学部の中国からの留学生である。
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川上軌道・佐賀電気軌道
川上軌道が出来たのは、大正元年11月である。ルートは、国鉄佐賀駅(神野)を起点として、国道263号線を北上し、川上の官人橋を終点とする約8㎞余りの軽便鉄道であった。煙突の高い小型の蒸気機関車が普通1両の客車を牽引していた。春秋の日峯さんなどのお祭りのときには、2両、3両の客車を連結することもあった。 乗務員は、運転手、カマ焚き、車掌の3人で定員は30名程度で、スピードは自転車並みであった。停留所は、起点の神野から、三溝、営所前(兵舎前)、館橋、上高木、三本松、福田、尼寺、惣座、都渡城であった。 しかし、大正末期頃から一般の交通機関への要望が高まり、昭和4年佐賀電気軌道(株)の誕生とともに電車が走るようになったが、これも昭和12年バスに代わった。 蒸気機関車や電車が走っていた頃、沿線の悪童達は鉛の玉などをレールの上に並べてペシャンコにして遊んだり、小石を並べて悪戯をしていたそうである。 因みに、現在の館橋バス停付近の橋の下には、当時電車が走っていた名残ともいえるレールが2本埋っており、往時を知ることが出来る唯一の遺物がある。
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佐賀導水事業
佐賀導水事業で特に重要な役割を果たすのは、洪水調整の役割を果たすことであり、高木瀬町平尾や小里地区の地権者も含まれていた。 巨勢川調整池は、金立町友貞220万㎥の調整池を設置して、嘉瀬川に毎秒30㎥を、また、巨勢川には毎秒70㎥を強制排水する施設である。 ・ 事業計画の推進は、昭和40年後期から地元説明が始まった。 ・ 昭和49年に、国、県、市と共同で「沖田地区営農改善排水対策協議会」が、設立された。 ・ その後、付近の地下水位調査、一筆調査など一連の事業や調査に地元の了解が得られ、平成元年から用地買収交渉が始まった。 ・ この工事は、建設省(当時)の直轄工事として進められた。 ※ 旧佐賀市は、洪水が発生しやすい地形であり、平均標高がほぼ3mで北に脊振の山並み、南に有明海を抱いている。 北の脊振山系は、ほとんど花崗岩系で保水力が乏しく、雨水はすばやく旧佐賀市内方向に流れ出す。また、南の有明海は、干満の差が日本一でほぼ6mもあり世界でも5指に入る高潮の海だから、満潮時には海水が旧佐賀市内の方に逆流する。だから、旧佐賀市内を流れる主要河川には防潮水門を設置し、北方面から流入する排水を導水事業で、嘉瀬川に30㎥、巨勢川に70㎥を北の方でカットするための事業である。
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郵便局の移り変わり
(戦前・陸軍練兵場等の軍事施設が存在していた当時の郵便局) 兵営前郵便局・・・明治41年11月1日~明治43年3月15日の間。 高木瀬郵便局・・・明治43年3月16日、その場所で郵便局名だけが改称さる。 (戦後の郵便局) 高木瀬郵便局・・・昭和40年代後半頃に、佐賀市高木瀬東2丁目 (現在の職員宿舎)に局舎移転。 佐賀北郵便局・・・昭和52年9月1日、現在地・佐賀市高木瀬東2丁目に移転して、郵便局名を改称し、普通局として業務を開始され現在に至っている。
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新栄子ども樽太鼓
新栄子ども樽太鼓は、昭和63年(1988)2月に発足しました。子どもたちが、穏やかにすくすくと育っていくことと、ふれあいのある町づくりのために、校区内の小学1〜6年生を中心に結成され、毎年市の行事だけでなく、県外の行事にも佐賀市を代表して演奏を披露してきました。 公民館をはじめ、地域の人々の理解と協力によって、校区の特色ある芸能として活躍しています。
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神野公園
旧藩主鍋島直正(閑叟)公の別邸で弘化3年(1846)に造成された。一般には「神野のお茶屋」と呼ばれていたが、大正12年(1923)3月に鍋島家から佐賀市に寄付され、公園として市民に開放され市が管理することになった。公園には、多布施川の清流を引いて池を造り、小山を築いて四季の植物を配した日本庭園と睡蓮池や展望台を備えた洋式庭園があり、動物園、こども遊園地、野外音楽堂、野生のトンボを観察できる「とんぼ池」なども設置されている。また、園内には幕末から明治初期にかけ活躍した江藤新平の銅像、宮地嘉六文学碑、中島哀浪歌碑などがある。 公園内には約1,000本の桜があり、そばの多布施川沿いの約3,000本の桜とともに、4月初旬には多くの花見客でにぎわう。小城公園(小城市)、旭ヶ岡公園(鹿島市)とならんで県内三大桜名所と言われている。 昭和34年(1959)1月、都市公園として計画決定され、公園面積は5.4haである。公園の西隣には、昭和45年(1970)に開園した交通公園がある。 【思い出】 正面から入った所にある二棟の建物が当時の別荘で、園内には多布施川の清流を引いた池があり、築山は老松古梅その他の樹木が雅趣を添えていた。 市は公園として拡張し、終戦前には、今の睡蓮の池の辺りに運動場が造られ、市内小学校の連合運動会も開かれた。戦後、更に拡張整備され、動物舎、小鳥舎、そして子供遊園地などが造られ、江藤新平像、宮地嘉六句碑、中島哀浪歌碑も建立され、築山西側の田圃に西神野の農家の人々によって、当時としては珍しい苺園が作られ、一般に公開されたこともあったが、今は交通公園となり、面目を一新した。市の内外の小学校一年生の春の遠足は、たいていここに来ることが多く、市民の憩いの場所として親しまれている。(『神野小学校百周年記念誌』による)