検索結果 RESULT
[民俗・芸能][行事][東与賀町]は45件登録されています。
民俗・芸能 行事 東与賀町
-
伊勢講
氏神社の境内や路傍に、「天照皇太神宮」「太神宮」の神号を彫った石碑が各所で見られる。これは伊勢信仰にもとづき造立されたもので近世における隆盛さをしのばせるものである。 伊勢信仰が庶民の間に普及したのは近世初頭と言われ「一生に一度は伊勢参りをしたい」という熱望を生みだした。 個人での参宮は費用の負担が大きいので、伊勢講を組織し講金を積立て、これを路銀に交替で参宮するという代参講という形で発達してきた。 下飯盛の太神宮碑は「寛永十五戊寅十始 寛文九己酉六月成就」の銘がある。これは寛永15年(1638)より寛文9年(1669)までの31年間で講員全員が参宮をすませた記念に造立したものである。作出西入口の太神宮碑も寛保3年(1743)から天保4年(1833)の90年の長期間をかけて成就したものと思われる。 近年における伊勢講中の寄進によるものに下飯盛八幡宮の狛犬(明治29年)と作出龍王神社の手洗石がある。 講は毎月あるいは正月・5月・9月の11日に行われるところが多い。作出では2月11日に佐賀市伊勢町の伊勢神社に参拝した。 農業神としての信仰も厚く今町西、搦東では氏神社として崇拝され、田の神さんと呼ばれている。
-
ホンゲンギョ
鬼火焚きともいう。1月6日より氏神社の境内や田にホンゲンギョ小屋をつくり、男の子たちは餅や菓子を持ちよって籠り7日の早朝に火をつける。小屋は竹と藁を組みあわせてつくり、通称ブップの木の葉をかけ燃えるとき音がよくでるようにした。 歳徳さんに供えた餅を7か所の火で焼き、恵方で納めて家内一同で食べて災難除けとする。また、焼け残りの竹の先を三角に曲げて門口にたてて魔除けとした。 中村・今町・作出・中割などでは、ニワナカホンゲンギョといって、夜、庭中に炉をつくり炭や焚火で餅を焼き楽しんだ。
-
タタキナ
1月7日の朝にハギナ・セリなどの野草や野菜七種を歳徳さんの前で、包丁と飯杓子を持って「やいかたなしのといかたばっかい」とはやしながら叩いた。すずめの鳴く前にしなければと早起きして行い神仏に供え吸物にして食べた。
-
七福神
1月7日の夜、七福神に扮して家々を訪れ祝言を唱えてまわる行事で中飯盛では子ども達によって行われていた。 「七福神の入船」といって座敷に上がり簡単な所作をしながらそれぞれ次のように唱えた。 布袋:「鬼は外、福は内」 毘沙門天:「毘沙門天の悪魔払い」 福禄寿:「ごもっとも、ごもっとも」 弁財天:「それもそうでござんすわいの」 恵比須:「くだらいた くだらいた 何に乗ってくだらいた。舟に乗ってくだらいた。舟は何舟 したんこくたん からしし三舟 ともにゃ大黒さん表にゃ恵比須さん 恵比須三郎さいもん殿は 金の釣竿五色の糸で びっくりしゃっくりしたのをあげてみたらば 大きな鯛を釣りあげた釣りあげた」 大黒天:「こなたの座敷にどでんどっさいとお祝い申す」 餅や賽銭をもらって世話人の家で、ぜんざいや雑煮をした。船津上町では節分に行っていたという。(寿老人の脱け及び詞章の順序は詳らかでないが聞き取りのままとする。)
-
荒神さんの餅びらき
1月9日にヘッチイさんに供えた荒神餅を食べた。この餅を未婚者が食べると縁遠くなるという。中飯盛では、子ども達がヘッチィさんのヘグロを顔につけて荒神さん角力をした。
-
十一日茶講
1月11日をお祝い茶講の始まりとした。小路毎に女性が集まって、なまぐさ物を用いて行った。また、この日にツーの餅を食べる所もある。
-
大般若
1月の10日前後に神社や公民館など地区の集会場において、除災招福を祈願して「大般若」(大般若波羅密多経)の転読が行われる。 近隣の寺院の僧数名が大般若経600巻の経典を分けて右から左に、左から右に翻転しながら読む。男まかないでキラズ・コンニャクなどの精進料理が作られ、転読のあと、小宴が開かれる。
-
門松くずし(小正月)
1月14日を正月の終わりとし、正月飾りをとりはずした。
-
もぐら打ち(小正月)
田畑を荒らすもぐらの害を防ぎ農作物の豊産を予祝する行事で1月14日の夕刻に男児が行う。竹竿の先に藁づとを束ねた、もぐら打ち棒で各家の庭先を詞章を唱えながら打ち餅や金銭を貰ってまわる。 餅を貰うときは「おかちんなよごんでも太かとからくんさい」と言った。もぐら打ちが終わると、もぐら打ち棒は折って柿などの成木にかけ、貰った餅はぜんざいにしたり金銭にかえた。 絶えて久しかったが、昭和57年に、「ふるさと運動」の一つとして搦こどもクラブにより復活した。昔からの詞章とともに新作も歌われた。 ♪なれなれ柿の木 千なれ 万なれ 億万なぁれ 人のちぎっときゃ 堀(ほい)の真中(まんなきゃ)なぁれ おいがちぎっときゃ 座敷の真中なぁれ 十四日のもぐら打ち ♪いちの木 にの木 さんの木ゃ 桜 しはまた柳 柳の下を おんぼひょどり したきり雀 十四日のもぐら打ち ♪十三 七つ 七つの年から 油きゃやい やぁらいて 犬(いん)から追われて ひゃしん(林)なきゃ かぁごんだ 十四日のもぐら打ち ♪ことしゃ みょうな年 電気のほぉやが つうぼんだ それを開こうでぇちゃ 医者の粉薬(こぐすり)のんで はいこんやい はいこんやい 十四日のもぐら打ち ♪したん こくたん 枯木たん 枯木の枝から落ちたたん それもちょっとの じょうたんたん 十四日のもぐら打ち ♪ちょーよんどん ちょーよんどん 包丁かしやい 餅くいやい 餅はよんごうでも 太かとから くいござい 十四日のもぐら打ち ♪ことしゃ犬年 もぐら打ちが始まった 大将が三人 手下が三十人 歌どまうちゃえじ 今のはやりのテレビマンガうとた 十四日のもぐら打ち
-
もぐら打ちの歌
♪ちょーよんどん ちょーよんどん やーみゃ(山)行くけん こーんかん なーた(鉈)も 包丁も持ーたんた 持ーたんこんな 借ーそうだん かーいなた(借り鉈) いーやいや 茶ーつけ飯は 十三びゃあー(杯) 十四日のもぐら打ち(中村・中飯盛・住吉) ♪なれなれ柿の木 ならずの柿をば なれとぞ祝うた 千なれ万なれ億万なれ つう落ちすんな あだ花咲くな 人のちぎっときゃ 堀の真中なあれ おどんがちぎっときゃ 畠の真中なあれ 十四日のもぐら打ち(上古賀・中飯盛・住吉) ♪ちょーよんどん ちょーよんどん 夜さりゃさりゃ 嫁ごとってくるっけん ちゅう出すか 餅出すか ちゅうも餅も出そうだん 十四日のもぐら打ち(住吉) ♪高うなれば鳥がちぎる 低うなれば子どもがちぎる 忠平さんの袖のごと ぶらぶらなあれ(住吉) 【戌亥隅での詞章】 ♪いにーい隅ゃ ぜんかめ(銭瓶)七つ かめ(瓶)七つ そいが上(脇)に葦植えて ひとよし 我よし しょけん(世間)よし 十四日のもぐら打ち(中村・住吉) 【適齢期の若者のいる家での詞章】 ♪○○○○(名前を入れる)さん ○○○○さん 今年ゃ 嫁ごもって はいこんや はいこんや(中村)
-
お日待
1月14日の夜よりシュッソ(当番)の家で、ヨゴレ餅とお天道さん(太陽)に供える餅を搗き灯明と共に床の間に飾り飲食談笑して夜を過ごす。翌15日の早朝に入口に汲んだ清浄な水で手を洗い日の出を拝んで解散し昼にシュッソの家に再び集まって祭りをする。刺身・吸物・煮〆・なます・煮付など七種(ななくさ)の御馳走で芸者を呼び三味線太鼓入りで賑わった。正・5・9月に行われる。
-
御正忌さん
真宗地域では、親鸞上人の命日にちなんで1月9日より16日まで行われる。この期間はなまぐさ物をしまい鍋や釜の底を磨きあげ精進料理で過ごす。15日の夜は大逮夜(おおたいや)といって、寺に籠り夜通しして念仏の信心について語り合い16日で御満座となる。
-
百手
弓祭ともいい、無病息災と豊作を祈願して行う。立野では1月18日に、葦(よし)で編んだ的を3個つくり紙に鬼と書いてはりつけ、一人が2本ずつの矢を射った。終われば吸物・煮〆・なます・胡麻醤油・酢あえなどで会食をした。搦では1月25日に行われ青年会への入会の日でもあった。
-
時だご
家の中に悪いものが入り込まないようにダゴを入口にさして防いだ。中飯盛では、旧正月頃に黄粉をまぶしたフツダゴをつくり串にさし、魔物はサマ(狭間)の口からも入り込むといって、おもての入口だけでなくあらゆる入口にさした。搦では1月23日に、半分に切ったダゴを5個ぐらい串ざしにしてさした。このダゴをカラスが食べると流行病気をしないという。
-
初午講
旧暦2月の初午に女の子が米を抜いて集まり初午講・観音講をした。この日、髪の毛が美しくのびるようにと髪流しをした。髪の毛・シダレ柳・カツラ・大麦・小麦・木炭などを白紙に包み水引をかけて流れ川で「この川や この川や 流れる先は知らねども 髪も八尺になれ この川の長さ広さは知らねども、流れる先まで とどけ(のべや)黒髪」と3回唱えて流した。
-
英彦山詣り
英彦山(1.200m)は古くから修験道の拠点として栄え藩政時代より佐賀の崇敬は特に篤かった。旧2月15日の松会(まつえ)行事と秋の豊前坊の祭りにあわせての参拝が多く、各集落では権現講(英彦山講)の代参者を送った。古くは徒歩で田代、甘木、小石原へて英彦山という道程であった。坊で二の膳・夢の餅の歓待をうけ、翌朝、緑川で禊をして上宮に参拝した。代参者を送り出した集落では女達が集まり上宮茶講をした。この時飯杓子を叩いて無事を祈ったという。3泊4日の短い旅であったが仕事に追われた農民にとっては楽しみなレクリエーションで御札、飯杓子、英彦山ガラガラ、藁草履などをみやげに立酒を飲んで帰路についた。集落につくと神社で待っている子ども達にへそくり菓子やみかんを配り、権現講をした。搦では秋の10月15日に英彦山まいりをしていた。現在でも住吉では英彦山まいりが続けられ、各戸の玄関にはみやげの英彦山ガラガラが見られる。
-
英彦山詣り
毎年4月25日を中心に農家の男子4人が組を作り祈願するもので、服装も素朴な着物姿に草鞋がけで、てくてくと歩き続ける真剣な苦行であった。満願をすまして村へ帰り着くと、家族や村落民が産土神社に待ちうけており総出で歓迎をする。参詣者は英彦山からお土産に買って来た「へそぐい菓子」を村のこども達に振る舞ったり、参詣状況の報告をする。夜ともなればその慰労を兼ねて祈願成就祝賀の権現講が催されるのである。この英彦山詣での奇習として、参詣者がはいた草鞋を帰宅した際に抜がしてやり足を洗ってやると妊婦は安産するという奇習がある。往時の母親連中でそれを実行した人も多いとのことである。
-
彼岸
昼夜の時間が同じになる日を中日といい、その前後7日間を彼岸といった。彼岸の入りの日をイリ、中日をチュウニチ、終わりの日をミテといってそれぞれ茶講をする。おはぎや餅をつくり仏壇に供え寺や親戚に配った。 また、観音堂ではお遍路さんのお接待をした。子ども達は、お遍路さんからの戴きものを楽しみにし、なかでもロービキ紙は、それに字を書くと上手になると言われていた。 (秋彼岸も同じ)
-
三月節句
旧3月3日の節句はヒナゼック・モモゼックといい、ふつ餅をつくり酒に桃の花を浮かべて飲んだりした。この日にタニシのオヨゴシを食べると流行病気をしないという。 嫁の里から節句振舞(ぶんみゃあー)に招かれる。鯛などを節句魚として持参した。
-
汐干がり
農耕・生産開始前のひとときに、舟をしたてて海に出かけた。大野では旧3月15日に行い、青年入りの機会でもあった。芸者を呼び三味線・太鼓で賑わい1日を楽しんだ。娯楽的意味あいが濃いが農耕開始に先がけての神ごとの日であったと思われる。
-
ごみくい
3月下旬から4月上旬にかけて用水堀の泥土揚げが行われる。田植え前に堀のしゅんせつと泥土の肥料化を狙って行う公役の一つで辛い作業であった。 堀を干して、若者達がゴミカキという手桶を持って腰まで浸って泥をかきだすと、丸太を組んだ足場の上から双方5、6人でゴミクイ桶を投げ入れて田まで汲みだした。 シミャア祝いでは、ゴミクイ餅を搗き子ども達に配り、獲れたばかりの鮒が御馳走であった。 泥土が乾燥すれば、ブイで担いで田にひろげて肥料とした。
-
ひゃあらんさん
川神さん祭りともいう。4月下旬から5月にかけて川上の石井樋の川干がすみ、水が流れはじめた頃、子どもの水難防止、水害防止、水への感謝などをこめて行われる。稲藁や小縄で円座や舟をつくり中心に笹竹をたて、川魚(フナ・ナマズ・ドジョウなど)と野菜(ナス・キュウリ・カボチャなど)の絵を描いた半紙と竹筒に入れた神酒をつるす。稲藁でつくった兵庫皿にゴックウさんを盛り、船頭さんといって生きたムツゴロウやワラスボをのせる。ローソクを灯し線香をあげ、子ども達が見守る中を川に流し米を舟に投げ入れて祈願した。 小路の当番の家では戸主や子ども達が集まって会食をした。
-
端午の節句
ノボイゼックといって男児の初子のある家では嫁の里から贈られた幟や鯉のぼりを立てる。ハンヅーガメに生けていたショーブとフツを軒先にさしたり屋根にあげてヘビ除けにした。また、ショーブ湯を沸かして入り災厄を祓い健康を願った。 節句魚としてこの頃近海でよく獲れるヒラという魚を贈ることから、ヒラ節句とも言われている。
-
御誕生日
真宗地域では、5月21日に親鸞上人の誕生日を祝って神社や観音堂で弁当ごもりをする。歌や踊り、青年によるにわかなどが行われ賑わった。
-
田の神さん
田植え前の子(ね)の日に、稲の根がよくつくようにと田の神さん祭りをする。根つきのメノハ(田の神メノハ)を丸い握り飯の上にのせ、お頭つきの魚・おなます・お煮〆などの御膳をつくり、へッチィさん(荒神)に3把の早苗とともに供えて祭りをする。搦ではメカジャーのおつけ(田の神メカジャー)が必ずついた。この日は馬使いさんを招いて祝膳をし親戚や加勢人に握り飯を配った。中村の「ふせにわ振舞」、今町の「マガオロシ」など田植え前の諸行事も農作業の無事を祈り豊作を祈願するものであった。
-
さなぼい
田植え終了の祝いで、田植えを手伝ってくれた人々を招き、赤飯や餅をつくり家族ともども豊作を祈って祝宴を開く。今は田植え作業の慰労の意味合いが濃いが、もとは来臨を乞うた田の神を送る行事であったろう。
-
六月一日
正月7日のホンゲンギョで焼いた歳徳さん餅をこの日まで保存しておき、フクシュウ・青梅・生味噌とともに食べる。流行病気を防ぎ夏まけをしないという。なお、正月餅をヨゴレモチやヌベモチにして食べた。
-
祗園
盛夏を迎えると疫病や害虫、風水害など災厄の発生しやすい季節となる。これらは怨霊や悪霊のしわざと考えられ祓い鎮める祗園の祭りが各地で行われる。祗園は牛頭(ごず)天王を祀る祗園社(八坂神社)の祭りであるが、8月1日を中心に天神さん、八幡さん、お稲荷さん、恵比須さん、三夜さんと氏神社や祠堂の夏祭りを広く祗園祭りと称している。 祗園の世話は青年の役割りで、前日から掃除をしオトチョーを替え提灯をかける準備をする。その年に青年入りをすませた青年が、名入りの提灯と酒1升を添えて奉納した。芝居や踊りもあり、子ども達は新しい祗園浴衣を着て夜店をめぐり、青年は芸者を呼んで賑わった。 今町では7月15日に、豆祗園といい子ども達が各戸より豆やお金を抜いてまわり、煮豆にしたり菓子を買って食べた。農家の戸主は西のお宮(伊勢太神宮)に肴を持ちよりお籠りをする。
-
四万六千日
旧7月10日(新8月10日)は、観世音菩薩の縁日で、この日の参詣だけで四万六千日参詣したのと同じ功徳があるとされた。「豆茶講」ともいい女の子は豆やお金を各家から集めて、煮豆をつくり菓子を買って参拝人の接待をした。 搦西では祗園から四万六千日まで、青年が船で砂をとってきて観音堂に盛砂をした。青年会に入りたての青年が毎夜砂を高めていたという。また、四万六千日とは別に観音の縁日である18日に女の子が、豆観音講をする集落もある。
-
八朔
旧暦8月1日をハッサクといって氏神社でお籠りをして豊作祈願をする。稲の開花期にあたるこの頃は台風襲来の時期でもあるので、綾部神社(三養基郡中原町)や風浪神杜(大川市)へ風止め、大潮除けの祈願に行く。 搦・中割では、青年が早朝から海にでかけムツゴロウやワラスボをとり、八朔餅をつき、三味線や太鼓をいれて賑わった。風除けの祈禱札を田にたてるところもある。