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[旧佐賀市][ 行事]は122件登録されています。
旧佐賀市 行事
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荒神さんとおすみ
昔の農家にはカマヤがあって、大ガマさん、中ガマさん、小ガマさんが並んでいた。大ガマさんは、年末の餅つきの時、味噌醤油の大豆、麦を煮る時、農耕馬の大麦を煮る時等に使われ、中ガマさんと小ガマさんは必要に応じてそれぞれに用いられた。 カマヤは、荒神様が鎮座される所として、真ん中の荒神柱に榊や柴等を供えた神棚を設け、神々のお札が安置されていた。正月には小豆を一ぱいつけた荒神さん餅(ナマコ餅)、蜜柑、干柿等が供えられた。また年何回かは、荒神盲さんといわれた盲僧が、墨染の衣に頭陀袋を下げて、大ガマさんの前に莚をしいて、手さぐりしながら御幣を切って、神事を行い読経し、家内安全を祈願し、終われば家族の心尽くしの歓待を受け、盲僧が経験した各地の面白い話を聞かせたものである。 小学校の遠足や、どこかに遠出する時は、大人達に「おすみさん(煤のこと)を頂いたか」と言われて慌ててもどり、大ガマさんの前に行って、焚き口上についている煤を人差し指につけ、額にすりつけて飛びだしたものである。 今は家が改築されたり、改造されたりして昔のカマヤのある家はないようだ。プロパンガスに変わった現在、大ガマさんの前で、藁や大きな木片をどんどん燃やしながら、灰の中にさつまいもを投げこみ、焼けるのを待ちながら尻をまくって、暖をとった少年時代が懐かしくてならない。
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ゴミホイ (泥土揚げ)
この行事は、川干の頃行われた。 堀の泥土揚げは、灌漑用水路であり、生活用水路でもある堀の清浄を保ち、浅くなるのを防ぎ、水田の肥料を得る大切な仕事であった。方法は堀を適当に区切り、両側にミチギ(足場)を組み渡し、その上に4、5人ずつ向かって乗り、少しいびつになったゴミ桶につけた親綱と子綱を引き、呼吸を合わせて桶を操作し、泥土を汲みあげる。堀の中では2人くらいが腰までつかり、カスイで泥水をかき集めて汲みあげ易くする。すべてが、呼吸を合わせ、反動を利用しての操作であった。 子供達は、田圃にあげられた泥の中の魚を泥んこになって手でつかまえたり、竹竿の先に貝杓子等をつけたものでとったものである。魚をとって意気揚々とうちに帰ると、泥によごれた衣服が洗っても落ちないとよく叱られた。
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伊勢神宮参詣
伊勢神宮は皇室の祖神として祀られ、一般の者は近寄れなかった。江戸時代になり、一般の参詣(さんけい)が出来るようになるや、一生に一度は伊勢神宮に参詣するものという事が全国的に広まり、各地域で伊勢講(お伊勢参りの積立金)が始まり、毎年何名かが交代で参るようになった。 農閑期になると村中の者がその年の講元の家に集まり、参詣する者を地区の社で道中の安穏を祈念して皆で見送った。参詣に旅立った家に居る時と同様に膳をすえ(蔭膳)で無事の帰りを待った。 帰る日には村人は揃って出向えた。そして参詣者は出向えの皆様に御礼をいって、御土産を配るのが慣例になっていて、その夜は、道中の話やらで賑やかな酒盛で夜を明していた。
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英彦山(ひこさん)詣
英彦山は福岡県と大分県の境にあって国定公園に指定されている標高1,200mの山で、古くから山伏の修験道場として知られていた。 山嶽宗教が華やかな頃は、3,800余の坊堂が建てられ、多くの僧兵を擁して勢力を振っていたが、明治に入り神仏の分離に合い、その勢も衰えたが、大正時代になっても、その山嶽宗教はそのまま残り、九州一円に檀家を持って年に1度、檀家坊から檀家の祈祷に参り、よく家にも宿をとられて親達がもてなしていた。そして檀家でも話合って3、4人で連立って参詣(さんけい)に行き檀家坊に宿を取り接待を受けて帰って来ていたが、何時の頃からかそれもなくなり、今では観光での参詣になってしまった。
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金立神社参り
金立山にあるお宮で祭神は保食神(うけもちのかみ)、徐福神等が祀られている。有明海の干拓が進み、農作の神として尊敬され、鍋島家の雨乞い祈願も行なわれたため、雨の神様として、佐賀の農家では、田植が終るとほとんどの村が、地区毎に参詣(さんけい)をして境内でおこもり(酒盛)をして1日楽しく過した。一種の農村のレクレーション行事でもあった。灌漑が機械化して来たり、戦後の神離れ傾向で今では、集団参拝は廃れてしまった。
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綾部神社参り
綾部神社は中原町原古賀にあり、祭神は、応神天皇、神功皇后、住吉大神、武内宿禰、風神(級長津彦神、級長戸部神)で風の神様として有名である。水田の仕事の合間をみて九州一円よりの参詣(さんけい)者があり、7月15日の夏祭りを旗上げ祭りと名付け、境内にある大公孫樹(御神木)に真竹の先に麻の旗をくくりつけて上げ、その旗の巻き具合で、その年の稲の出来ばえや、大風が吹くか、吹かないかを占うようになっている。10月の旗下しまでひっきりなしの団体参詣があって門前には接待茶屋があって賑合を見せている。今は昔程の賑合はないが、金立山さん拝りは少なくなったがここはまだ参詣客も多く、綾部餅が有名である。 地区でも全農家が揃ってお参りしお守り札を載き帰って神棚に祀るようになっている。 今ではこの綾部さん参りがただ一つの農村のレクレーション行事になっている。
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風浪神社参り
12月の末には大川市にある風浪神社に、地区中で参っていた。佐賀線がなかった頃は、諸富の渡し舟で渡り、神社の境内では、佐嘉神社の祭礼のように露天店がならび、見せ物小屋が建って賑やかに客を呼んでいた。帰りには風邪引の薬になるといって串に差した吊し柿を買って来るのが習わしになっていた。これも昔の懐しい思い出の一つであった。
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御日待
師走の15日におひさまに感謝する、御日待の行事があっていたが、ほとんど中止されて、今では何地区かで行われているのみである。
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ほんげんぎょう
呼び名はどんと・どんとやき・さぎちょう、九州では鬼火焚きなど、いろいろな名前がある。火の気の行と言い、天台密教の法華行(ほっけぎょう)からの説もあるが定かでない。 正月7日に門松やしめ縄等を持ち寄り、村のはずれ等で焼いていた火祭り行事で、この火で焼いた餅を食べると1年間幸せであるといわれており、以前は各地区で実施していた。 しかし、昭和53年からは北川副小学校PTAや農政協議会が主催し実施をした。 その後、各種団体が積極的に参加し、平成元年からは1月7日に近い日曜日の早朝に、北川副町の1大イベントの1つとして、森羅万象火の神をお迎えする伝統行事として守り継承している。 この行事は北川副校区各種団体14団体が一致協力して、北川副小学校グラウンドで実施している正月行事である。 なお、前日は櫓組のため孟宗竹(300本)の切り出しやもぐらうち用の棒つくり、カッポ酒用盃作りなど、ほぼ1日かかって準備をする。
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もぐらうち
正月14日、地区中の子どもが集り、モグラ打ちをするのも、楽しみの一つだった。高等科の生徒の先導で、竹竿の先に藁を細縄でしばったモグラ打ちを持って、1軒1軒門先をたたき、歌を唄いながら廻って、餅や小銭(5銭、10銭)をもらった。終るともらった餅や銭を分けてもらい嬉しかった。 「もぐら打ちの唄」 ♪ナレナレ柿の木 ナラズの柿をばナレとぞ言って 千ナレ、万ナレ、億万ナーレ 俺がチギッときゃ 畑の真中にナーレ 人のチギッときゃ 堀の真中きゃナーレ 十四日のモグラ打ち
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今宿(あけぼの橋)の精霊流し
精霊流しは、8月13日から始まって15日に及ぶ盆祭り最後の15日の夕刻から夜にかけて行われる。家に迎えた故人の霊を供養した後にふたたび霊を送る行事が、精霊流しである。『精霊』は舟に乗って来世に還る。というわけで初盆を迎えた家では、精霊舟をつくり精霊を送る習慣がある。佐賀では昔からこの行事は、今宿と八戸の高橋で行われてきた。長崎の精霊流しは話しによれば爆竹、花火に費用をかけるそうで、精霊流しはたいへんな賑わいといわれている。当日今宿では数軒の夜店も出て人出も多く交通が混雑するので、交通整理をしたり火災予防のため消防団員や消防車も待機して、町ぐるみでこの行事が夜遅くまでつづいている。まず、僧侶の読経と地元の婦人による御詠歌の中、申込順に場内放送により精霊舟が次々と遺族の人達により流される。船の名前も『西方丸』や『浄土丸』とかつけられて盆の供え物を精霊さんの土産として舟に入れ、舟には大小の提灯や打ち上げ花火が飾らている。精霊舟の大きいのは3メートル以上もあったりする。このとき川の中では、胴長をつけた地元町区の人々が舟や花火に火をつけ、下流に流すのを手助けする。花火が大音響とともに空に打ち上げられる。また、個人で小さな箱や舟で流す人もあって、多くの夜店と人出で、あけぼの橋周辺は夜遅くまで混雑している状況である。この今宿は佐賀城下唯一の河港として栄えたもので、この佐賀江川は、東は蓮池町から筑後川に注いで有明海に通じている。昔はこの川を利用して多くの物資が千石舟で運搬され、今宿にはたくさんの店や倉庫が立ち並んで大いに賑わっていた。陸に鉄道ができるまで、この川が交通運輸の役割を果たしていたのである。また旅人の中には長崎街道通行規定を守らず、こっそりこの町を通過するものが増えたので、佐賀藩では、橋口に木戸を設け、番人をおいて取り締まった。『佐賀名物打ち切りノンキー、玉ノンキー』は、佐賀人にとって最もなつかしい飴菓子であった。昔はこの飴をノミで切ったので、ノミキリからノンキーの名が起こったと云われ、江戸時代佐賀の今宿で作られたのが始まりと云われている。 今宿の精霊流しは、諸般の事情により、平成21年から中止になっている。
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水神楽(川上参り)
昔から鍋島では各地区とも淀姫神社へお礼参りをして、御神楽を奉納し御神酒開きをする等、現在まで毎年の慣例になっているが、これは淀姫社の御神徳により灌漑水に不足なく、秋の実りの喜びを報告し感謝の意を捧ぐる為の年中行事である。
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お粥ためし
お粥試しというのは綾部神社の「旗上げ」と共に佐賀地方農民の注目の年中行事である。毎年1月1日の四方拝の式典に、蛎久天満宮の神前にお供えした白米の一定量を2月11日建国の記念式に、神官によって修祓をなした後に大きな釜に入れて炊き、焚きあげてから鉢に盛り、これを唐ひつに納め奉殿の神側に安置し、3月25日例大祭の早朝再び神官の手に依って参籠所に持ち出し、一般参詣人に公開されるのである。 そして鉢に盛ったお弼の面にあらわれるカビの色合い、水気の工合等によって其年の米の豊凶を占うものである。特に農家はこれによって、その後の対策を講じる必要があるので、みな真剣である。尚鉢盛の粥には東西南北を更に中間線を画し、中心を佐賀城として放射線的に分画してある。
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ホンゲンギョウ
1月7日朝早く餅を焼いて食べる。昔清涼殿で青竹をたき餅を焼いた。これは全国的な行事となり、鬼火たき、鬼(悪魔)退治の意味がある。ホンゲンギョウは鬼火焚きとかドンドン焼きとか色々の名前で呼ばれ、厄払いの行事で各地で行われていたようだが、どの地方の行事も趣旨は同じのようである。
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荒神餅
正月9日の朝は荒神さんに供えた餅を焼いて食べる。この餅はカマド(へっつい)を摸して作った餅で、これは男性に忌まれ専ら女性用の餅であった。つまり男は台所くさくなってはいけないということであろう。
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もぐら打ち
正月14日に行う男児の行事、田畑を荒らすモグラの害を除き果樹豊産を祈るものである。雌竹を切って先端にわらずとをくくりつけて地区ごとに庭先に円陣を作り、次の歌に合わせて地面を叩くのである。 なれなれ柿の木。ならずの木をばなれぞというた。千なれ万なれ。億万なぁれ。つる落ちすんな。空花さくな。人の子のちぎっときゃ。堀の岸なぁれ。うちの子のちぎっときぁ。畑のまん中なぁれ。去年よりぁ今年ぁ。所見がようして。太うして長うして。ぶちぶらっとなぁれ。十四日のもぐら打ち。
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灌仏会
4月8日。釈尊誕生日。 甘茶とり、花祭りと言って、各寺院ですみれ、たんぽぽ、菜の花、れんげ草など春の草花で飾った「華堂」を作り、その前に大きなたらいを置いて甘茶を入れ、その中に釈尊像をたて、参拝者はお賽銭をあげ、甘茶を釈尊像にかけて礼拝し、甘茶をもらって帰る。家族全部はこれを戴いて病魔よりのがれる様に祈った。
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さなぼり (早苗祭)
7月上旬頃田の神が田植えの終了を見届けて、帰り上がる日であるといわれている。農家では一番つらい田植えが終わり、無事すんだというお祝で、各家庭でご馳走を作り、慰労するものである。この日は米の粉であんこ入り饅頭を作り近隣にも配る。また農家の新嫁はこの日から里帰りする。
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おくんち (供日)
おくんちとは村の鎮守の秋祭りで、豊年に対する感謝祭といえよう。神社では早朝御神幸の式を行い神輿を一時下の宮に安置し、午後上の宮に御遷幸の式を行い、神輿を神殿に奉遷するのであるが、参詣人は神輿の下をくぐって一家繁栄、家内安全を祈る。おくんちには「鮒のこぶまき」を御馳走するのが通例である。
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歳末、家児揃
一年も押しつまり、12月25日になると歳末の行事がある。それは一年間無事生きつづけたことを先祖に感謝して、親類一同集まり会食する。この頃には、正月準備に神棚、家の中の大掃除、すす払いをすまし、大晦日の晩は、「家児そろい」と言って、一家揃って膳につく。相応のご馳走をして、菊がらをたいて、その煙で貧乏神を追いだし、俵箸のけずりくずをたいて、繰り合いの向上を祈り、来年また幸運にめぐり会う様に運そばをたべ、百八煩悩をつきならす除夜の鐘をきいて寝につく。
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三夜待
毎月の23日を中心に開かれる町区の親睦会のことである。普通三夜待の神は女神様だから男がまつり、六夜待は男神だから女がまつるといわれる。三夜待の石碑の前に酒肴をささげ、おさがりを戴いて四方山話に花を咲かせた。三夜さんや三夜待等と言って、佐賀地方の風習行事で、何処の村でも行われていた。 年齢・職業等比較的環境のにかよった人々で仲間を作り、月に1回程度輪番制で当番の家に集まり、会食後夜遅くまで語り合って楽しんでいた。また、三夜待仲間といって、旅行や色々な行事、憂い事、お祝い、病気等で全ての喜怒哀楽を友にする仲間として三夜待があった。 現在周囲は団地化され、職業も境遇も違う人々で、自然と昔式の三夜待グループも解散になり、数グループが残っている程度で、現在は形を変えた仲間作りとして、職業年齢など関係なく気の合う人たちで三夜待の名前で食堂での会食等で会費制の仲間作りがされている。
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六夜待
主婦たちが毎月26日夜、順番に集まった親睦会のことである。一説には26日は石川五右衛門が生まれた日で、この日懐妊しない様に主婦が集まり、徹夜して話にふけり夜があけてから帰宅したともいう。
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彼岸遍路さん
春、秋の彼岸には「彼岸おこもり」と言って、地区のお宮の堂などに集まり、先祖をしのび感謝するもので、主として主婦が出席する。この彼岸中にお遍路の一隊が巡ってくる。遍路とは元来弘法大師の修行の遺跡、四国八十八ヵ所の霊場を祈願のため巡る人たちのことである。佐賀では四国めぐりは困難であるから、佐賀八十八ヵ所を設けてこれで代行している。
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鍬入れの式
東新庄や岸川・他の地区では、地区の行事としてでなく、個人として1月2日、戸主が自家の苗代に鍬入れの儀式を行っている。 それは2日の早朝、松、ツリシバを1本ずつ持って苗代田に行き、鍬で3度土を掘り起こして、それらを土にさし恵方を拝し帰る。 この儀式は今は殆ど行われていない。
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水天宮祭
東新庄の水天宮の年中行事として春祭は3月15月、秋祭は9月15日、近所の世帯主が回り番の当番の家に行き、酒をくみ交し、赤飯を炊いて祝う。
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萬部塔の供養
萬部祈願石塔二基 所在地 木角 蓮成寺境内 一基 奉漸読大乗経王一萬餘部 宝永五戍子天四月四日 願主 松尾山白慧上人 門弟 弟謹中 法主 本蒲寺中興通正院日達聖修立 二基 妙法蓮華経二萬餘部日恵 寛保二歳壬戌二月時正日起立 願主 光勝寺三十一世 日宣聖人 法主 部許護國松尾山二十七世讀誦主 萬部堂再建 安政五年とあり 蓮成寺は、百数年前火災で本堂は焼失したと伝えられているが、祈願塔については何の手がかりもなく不明である。 佐賀市水ヶ江1丁目万部島の祈願石塔群の2基とは前後して建立されている。 ○木角地区の人は、毎年4月(第2日曜日)萬部塔の供養を行い、餅と酒を供えて法要を行い、地区民を災害から守り1年間無事で暮らす事ができるようにと神酒をいただき、餅を分けてもらい、各家庭でいただく。 毎年、区の行事として昔から行われているが、建立当時から行われておれば何百年と続いている事になる。
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祗園
一般に祗園といえば祗園会の略で、京都八坂神社祭礼のことであるが、今では村の鎮守の夏祭りのことを「ぎおん」と呼んでいる。元来この祭りは水神信仰からきたものと言われている。神社の境内では仮舞台を設けて、芝居や舞踊をして参道には出店がたち並び、子どもたちにとっては最高の楽しみであった。 ○津留地区では、薬師如来祗園(7月12日)弁財天祗園(7月17日)地蔵さん祗園(7月24日) ○角目地区のお地蔵さん祗園(7月24日)は子どもが祭り、天満宮さん祗園は青年団が祭る。 ○増田地区では、天満宮の祗園祭があり、婦人会役員たちが世話をする。 ○東新庄地区では、宝暦6年に建立された地蔵さんの祭りを夏にしているが、男子の祗園祭である。
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淀姫神社へお礼参り(八朔お籠り)
昔から鍋島の各地区とも淀姫神社へお参り(別名、水神楽詣)をし、御神楽を奉納、御神酒開きをすることが毎年の慣例になっている。これは、淀姫神社の御神徳により、農業用水に対する御礼と秋のみのりを得た喜びを感謝する行事である。 この時、東新庄、江里地区では、神扉を開き、金の御幣を排する。この特典があるのは、元亀元年8月、大友軍が佐賀に攻め寄せてきた時、鍋島の軍勢が夜襲を敢行する事になり、勝楽寺に陣揃いをした。この時、東新庄、江里の百姓が当寺に馳せつけ、竹を伐り、竹槍を作り、奮って従軍した。いよいよ夜襲となり、大勝利を得た。このとき、直茂公から東新庄、江里の土民に対し「何か望みがあるなら遣わそう」、というありがたい御下命があった。すると、淀姫神社の金の御幣を拝したい旨をお答え申し上げた。それからは、この特典がつづいたという。 ○津留では、昭和53年までは全員参拝していたが、今では三役の方が代表で参拝し、帰参後、公民館で全員がいただき座を設ける。 ○増田は早朝から淀姫神社に参拝し、その御神酒をいただく。 ○岸川も同様で代表が参拝している。
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お稲荷さん祭
○蛎久地区では、各組1戸より主婦が1人ずつ出席して当番の家に行き、お稲荷さんに魚、揚げ竹輪をお供えして、1年の無事と五穀豊穣の感謝をする。 ○植木地区も同じく11月の第1日曜に、神主の祝詞があり五穀の実りをお願いする。
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八天神社参り
○江里地区では毎月3名、焼山の八天神社に火災免れのため参拝する。 ○東新庄地区では、希望者が藤津郡五町田町にある八天宮に代参し、2月、5月、11月の第3、申の日に当番の家で餅をつき酒を汲み交し安全を祈る。