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[旧佐賀市][ 行事]は122件登録されています。
旧佐賀市 行事
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大般若経会
(正月11日) 僧侶が大般若経600巻を読誦(どくじゅ)し、世話役が神酒や供物を用意する。転読が終われば村境に護札を立てて回り、村中の安全を祈願しました。
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土龍打ち
子ども等が集まり1月14日の晩には小竹の先に藁を束ねたものを持ち、各家を廻り、「なーれなーれ梅の木、ならずの梅をば、なれぞと祝うて千なれ、万なれ、朝なれ、人のチギッ時キャー堀の上ナーレ、おいがチギットキャー畑の岸ナーレ、十四日のモグラウチ」と唱えて、餅を貰って歩きました。
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ホンゲンギョー{左義長(サギッチョ)、ドンドヤキ}
1月7日の早朝に青竹と藁で作った小屋を焼く行事。この時正月の松飾り、〆飾り、古いお札など前年のものをこの火で燃やしました。また、この火で餅を焼いて食べて、無病息災を祈願しました。
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節供(せっく)
(3月3日ひな祭) この日はフツ餅をつき、女児の無事な発育を願いました。また親類を招いて「節供ブンミャア(振舞)」が盛んでした。
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お経参り
(川干の頃) 真言宗御室派実相院は寛治年間(1087〜1093)に創建したものであります。4月10日から20日まで催される如法経会は、「お経まいり」と言われ、宗派を越えて参詣人があります。
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端午の節供(句)
(5月5日) 男の節供(句)で、初めて男児が生まれると、嫁の里や親類から贈られた幟や鯉の吹流しを立てます。幟の下方に三角形の綿入れや猿の綿人形を吊り下げました。
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供日
(春・秋) オクンチは氏神様秋の大祭が特に盛大に催されます。氏神への収穫の感謝をこめ氏子たちは各家でクンチ料理には赤飯(オコワ)、フナのコブ巻き、煮しめ等で親類、友人を接待しました。
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日峯さん参り
(春・秋) 日峯社(松原神社)は鍋島直茂公が祭神であります。直茂公はかつて龍造寺氏の一部将でしたが隆信の戦死後、肥前の領主となり、領主の地位を嫡子勝茂にゆずり、多布施館に隠居しましたが元和4年(1618)81歳で逝去しました。(法名は日峯宗智大居士) 春秋の日峯さん祭には、住民達が老若こぞってお参りをしていました。
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英彦山詣り
正里の北の鬱蒼たる樹木のなかに社がある。三隅権現と呼ばれて、彦山権現が祀られています。 正里区では昔から住民代表が3月頃の農閑期に福岡県の英彦山詣りをしていました。また毎年12月15日には赤飯を蒸し、住民総出で村祭りをしていました。 昔の代参の者は、徒歩で田代、甘木、小石原をへて、英彦山に登る。3泊4日の日程も農民にとっては楽しい旅で、御札の他、飯杓子、英彦山ガラガラ、藁草履などの土産を持って各戸に配りました。
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三夜待
(23日) 廿三夜講は毎月二十三夜に行っていました。三夜とは二十三夜の略称で、本尊は勢至菩薩であります。
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六夜待
(26日) 本尊は愛染明王で二十三夜待ほど盛んではありませんでした。
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ひな祭り灯籠流し
佐賀城下おひな祭りのイベントで、松原神社周辺で「お雛様燈籠流し」が行われた。 暗い中、幻想的な景色である。
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鬼火たき
元日の正月儀礼を「大正月」というのに対し、農漁村に古くから伝わるのが14日の「小正月」である。 その「入り」にあたって催されるものに1月7日、(14日)の「ほんげんぎょう」(又は、鬼火たき)があります。家ごとに飾られた門松、注連縄(しめなわ)は、正月に降臨した年神(としがみ)の依代(よりしろ)とされており、大正月が明ける7日にこれを燃やすことが神送りである。 また、同時に小正月入りの神迎えとみる民俗学説がある。 最後は、みんなで美味しくお餅を焼いて食べる。
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ほんげんぎょう
1月14日勧興校区の「ほんげんぎょう」がある。 場所は、毎年恒例の勧興公民館広場。 各地域を廻った子ども達が「もぐら打ち」を持って集まる。
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勧興まちの駅
「勧興まちの駅」が2005年12月10日(土)開催された。 今回は、昨年に引き続き「第二回・男たちのカレー味自慢大会」。
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鬼火祭(ホンゲンギョウ)
1月7日朝早く餅を焼いて食べる。昔、清涼殿で青竹をたき餅を焼いた。これは全国的な行事となり、鬼火たき、鬼(悪魔)退治の意味がある。ホンゲンギョウは鬼火焚きとかドンドン焼きとかさまざまな名前で呼ばれている厄払いの行事で、各地で行われていた様で、どの地方の行事も趣旨は同じようである。 旧新村地区(開成2〜6丁目)では昔からホンゲンギョウと言って1月7日の早朝に当時は隣家との距離もあり早朝なので人の通りも無いので家の前の道路で実施していた。 前日に竹と笹や稲わらでホンゲンギョーを作り1月7日の早朝に、パチパチと勢いよく燃やして、前年のお守り・お札や門松等一緒に燃やして厄払いを行った後、7日正月の七草粥や昔はラッキーセブン等と言う言葉はなかったが、何故か7の縁起を担ぎ、厄払いの行事が行われ、各家々で箕の上に祀った年徳さんの餅や各家に供えた餅を7軒のホンゲンギョーで焼き7草かゆ等作って無病息災を祈り厄払いをしていた。
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三夜待
毎月の23日を中心に開かれる地区の親睦会のことである。普通三夜待の神は女神だから男がまつり、六夜待は男神だから女がまつるといわれる。三夜待の石碑の前に酒肴をささげ、おさがりを戴いて四方山話に花を咲かせた。旧新村に限らず、三夜さんや三夜待ち等と言って、佐賀地方の風習行事で、何処でも行われていた。 先ず、年齢、職業等比較的環境の似かよった人々で仲間を作り、月に1回程度輪番制で、当番の家に集まり、会食後、夜遅くまで語り合って楽しんでいた。又、三夜待仲間と言って、旅行や色々の行事及び憂い事、お祝い、病気等全ての喜怒哀楽を共にする仲間として三夜待が有った。 現在は周囲は団地化され、職業も境遇も違う人々で、自然と昔ながらの三夜待グループも解散になり、数グループが残っている程度で、現在は形を変えた仲間作りとして、職業年齢などに関係なく、気の会う人たちで三夜待の名前で会食等を行っている。
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水の神祭り
江頭地区では、5月に各戸まちまちだが堀辺の洗い場(たなじ)にお供えをして、特にかわそう(河童)にとられないように祈る。 家によっては、竹の子を料理の中に加える。それは、河童がこの家の人はこんなに硬いものを食っているのかと恐れて近づかないようにという思いをこめている。現在は行われていない。
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淀姫神社へお礼参り(八朔お籠り)
江頭地区では、淀姫神社へ御礼参り(別名 水神楽詣)をし、御神楽を奉納、御神酒開きをすることが毎年の慣例になっている。 これは、淀姫神社の御神徳により農業用水に対するお礼と秋のみのりを得た喜びを感謝する行事である。 この時、神扉を開き、金の御幣を拝する。この特典があるのは、元亀元年(1570)8月、大友軍が佐賀に攻め寄せてきたとき、鍋島の軍勢が夜襲を敢行する事になり勝楽寺に陣揃いをした。このとき、江頭の百姓が当寺に馳せつけて竹を伐り、竹槍を作り、奮って従軍した。いよいよ夜襲となり大勝利を得た。(今川の合戦)このとき、鍋島直茂公から江頭の土民に対し何か望みがあるなら遣わそうというありがたい御下命があった。すると、淀姫神社の金の御幣を拝したい旨をおこたえ申し上げた。それからは、この特典がつづいたという。
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追悼会
追悼会は、毎年10月1日に江頭地区の行事として、1年間に他界した人を宗派に関係なく長寿庵(禅寺)で行われていたが、現在は江頭公民分館で長寿庵の住職を召いて、行われている。
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村御祈祷
旧新村では、毎年5月に御祈祷といって一家の戸主(世帯主)が権現社の神前に集り、神主さんを呼んで、村民の無病息災・五穀豊穣を祈念した。その祈りを込めたお札を村の四方の入口に立て、外部より病魔や災難が村内に進入しないように願った。 その後自治会長宅に集まり、お神酒開きがあり、村勘定(現在の総会)が行われていた。 昭和50年頃より自治会がマンモス化して昔の様には、対応できなくなったので、役員の代参に変わり、昔の村勘定の行事は自治会の総会にかわり、現在は自治会が分割独立したので、五自治会(開成2〜6丁目自治会)の三役と有志の方で祈願祭が行われ、総会は独立した単位自治会で別々に行われている。
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堀干しやごみ揚げ
現在の堀はコンクリート護岸が施され、昔の面影は殆どなくなったが、昔は両岸には柳の木や芦が生い茂り、堀の幅も広く、深くて流れは清く、鯉や鮒、鯰などが沢山棲んでいて、夏は魚釣りドウケやウケ等の漁具を使っての魚取りは村民の楽しみだった。 堀は所々に堰きで区切られ、色々と堀の名前が付けられて居て、管理は両岸の水田の持ち主で管理と決められていた。 秋の供日が近づけば堀の持ち主が気の会った人を集めて堀干しが始められる。(堀を干した上で魚を捕る事) 堀干しは下流から順々に始められ、堀の水は何時も流れて居るので、上流から始めると吐水が下流に流れ魚が驚いて逃げ出すので、堀干しは必ず下流から始められる。 水車を何台も据え付けて水を汲出して堀を干上げて魚を取り、皆で分けて持ち帰り、昆布巻きや焼鮒子を作り、供日のお客のもてなしに利用された。 又、春には人手を集めてごみ揚げ(堀の中のがた土)が実施され、昔は科学肥料も少なかったので水田の肥料にされ、又、堀は綺麗に清掃され、堀の底の日当たりの良い所にぬくめ(魚の居場所)等をつくり魚が棲み易い様に工夫して魚の繁殖に努めていた。
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荒神さん相撲
八戸溝では、毎年12月9日の夜は小学生から高等科の生徒までが「荒神さん相撲」といって、村中を回って相撲をとっていた。先人によれば、「荒神さんは、力が強くて相撲が好きであったから、小さい頃から相撲をとって各家を回っていた」と口癖のように言われていた。その言葉から推測すると、明治時代から昭和30年代までは続いていたようである。「相撲ば取らせてくれんかんた」と言って、夜の7時頃から10時頃まで寒い中を回って、各家では危なくないように「いまなき(むしろ)」を敷き、取り終わったらご祝儀にお金をもらって皆で分け合っていたそうである。
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百手
鎌倉時代から行われていると言われているが定かでない。 「厄よけ」が目的の地域の行事で、毎年1月25日前後に行われており、鬼の絵に向かって竹で作った弓を歩射で射るのが特徴であり、鬼を打ち払うということで厄から逃れるといわれる、伝統行事である。
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ほんげんぎょう (鬼火たき・伝統行事)
○各地区の実施状況 (下高木地区のほんげんぎょう) 昔から地域の正月の伝統行事として、毎年1月7日の早朝に行われてきた。 場所は、戦前から昭和30年頃までは蓮堀の岸で、その後地区の中央付近の農地(水田)を借りて行われてきた。 前日から子ども達が主体となって、田んぼの中央部に生竹と稲わらを使って、小さな小屋を作り、そこに前日から泊り込む。その夜、子ども達は夜通しで語り、遊んで楽しい一時を過した。 翌朝(1月7日)は、この小屋を燃やし、その残り火で持参した餅を焼いて食べて1年の息災を祈った。 (若宮(旧新村)地区のほんげんぎょう) 昔から地域の正月の伝統行事として、毎年1月7日の早朝に行われてきた。 場所は、子ども達の各自の自宅の表広場等で行われていた。 子ども達が主体となり、子ども達が居住する各自の家の入り口等の安全な場所で、子ども達が前日から準備した生竹、正月飾りの門松やしめ縄等を一緒に燃やして、生竹が燃えて破裂する音を合図に「鬼は外、福は内」と大きな声で叫び、1年の息災を祈った。 そして、生竹等が燃え終わったころ、各人の自宅の餅を持って近くの家を巡り、残り火にあぶって廻った。7軒以上廻ると縁起が良いとか言って廻ったものである。 (八丁畷地区のほんげんぎょう) 昔から地域の正月の伝統行事として、毎年1月7日の早朝に行われてきた。 場所は、若宮(旧新村地区)と同様、子ども達の各自の自宅の表広場等で行われてきた。 内容も大体若宮(旧新村地区)と同様で行われてきたが、以前からの居住者が7戸と少なく、子どもの数も段々と少なくなり、昭和40年代初頭頃から中断している。 ○現在の若楠校区で統合した校区内全員参加の「ほんげんぎょう」 「ほんげんぎょう」は昔から伝わる正月の伝統行事であり、各地区(下高木・八丁畷・新村・城井樋)で行われてきたが、下高木地区を除き少子高齢化等の影響で行事の実施が困難になったため、昭和40年代初頭ころを最後に中断していた。 そこで、平成16年から、それまで綿々と行われてきた下高木地区の「ほんげんぎょう」を手本に、若楠校区で統合し、「青少協」、「子どもクラブ」等の地域団体を挙げた取組みとして実施するようになった。 前日から生竹、葦、わら等で小屋を作り、翌朝点火して燃え上がる炎に、各自家から持ってきた正月飾りの門松、しめ縄、古いお札等も一緒に燃やし、1年の無病息災を祈るものである。 今後子どもたちが受け継いでいく伝統行事として取組まれている。 時期は、毎年1月として、必ずしも1月7日とは限らない。 場所は、若楠小学校のグラウンドで行う。 実施方法は、現在まで続いてきた下高木地区の内容で実施する。
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もぐら打ち
(1)下高木地区に伝承されている「もぐら打ち」 ○昔から、地域の正月の伝統行事として受け継がれ行われてきた「もぐら打ち」は、昭和40年 代初頭頃から少子高齢化等の影響で一時中断していたが、昭和54年、若楠小学校が開校された 翌年から再開され、子ども会役員、父兄同伴で実施されているその伝統行事も「下高木子ども 会」の正月行事として定着し、継続されている。 ○時期:毎年、1月14日(現在は、14日前後の土曜か日曜日) ○内容:子どもを主体として、10名前後の班を編成し、地区内の各戸を廻って、玄関前等の広場 で竹棒の先端に藁を巻きつけた棒を持ち、音楽に合わせて歌を唄い、気合を入れながら地面を 叩き、邪気払いをして、地域の人から喜ばれている。 そのお礼として、各戸からお餅やお菓子・お祝儀等を頂くのも楽しみだ。 頂いたお餅やお祝儀等は「もぐらうち」終了後の食事会等に使われている。 ○もぐら打ちの歌(歌詞) 十四日の もぐら打ち なれなれ 柿の木 千なれ 万なれ 億万ばっかい なれ つう落ち すんな あだばな 咲くな 今年は去年よいか 太して 長して ぶら ぶらっと なれ うちん子の ちぎっときゃ 畑の 真ん中に なれ よそん子の ちぎっときゃ 堀の 真ん中に なれ なれ なれ 柿の木 十四日の もぐら打ち ●その他 ①「もぐら打ち」の棒造り等は、下高木地区の高齢者の方々にご指導を頂いている。 ② 現在の「下高木子ども会」への加入者は、約80人である。 (2)今は途絶えた「八丁畷地区」等の「もぐら打ち」 ●昭和40年代初頭頃まで、正月の1月14日、八丁畷地区でも行われていたが、旧来の在住者が7 戸と少ない上に少子高齢化等の影響で、その後途絶えている。 ●調子付けの歌詞・・・大体、下高木地区と同じであった。
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お日待ち
八戸では、この行事を毎年1月23日と12月23日の夜から青年行事の一つとして行ってきた。昭和15年生まれの青年までかかわり合って昭和30年代後半まで行われていたが、青年会員の減少により自滅してしまったのは残念である。 1月の「お日待ち」は、農作物に対して「天照り」(太陽)が程よく照り輝き豊作するよう祈りをこめる。12月は、豊作に感謝を捧げるお礼の祭りであった。 その日、餅をつき氏神様にお供えした後、お神酒をいただき、お供え餅でぜんざいを食べ、その夜は青年会場に合宿し、農作や、よも山話をしながら寝につき日の出を待つ。午前5時起床。約1㎞の所にある大坪という泳ぎ場まで素足で霜や氷をついて走り、フンドシで寒中水泳(みそぎ)をし、身を清め氏神様、まわりの神様に祈りを捧げ、感謝をこめる行事であった。 佐賀平野の農家の行事で、稲刈りが済み収穫の感謝を込めて、農作物に一番大事な、お天道さん(太陽)に感謝するお祭りで、農家は農作業を行う上で、雨が降り続けば「雨ばっかり降って」と言い、また反対に日照りが続けば、「雨は何時降っちゃろうかー、天道さん(太陽)の恨めしかー」等と言って、天気に対し一年中不平、我侭な事ばかり言っているので今日一日は、てんとうさん(太陽)を休ませて感謝をするお祭りです。
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お念仏
深町では、彼岸から彼岸まで天神社で鉦をたたいて毎日安全無病息災祈願が隣から隣に順番制で行われていた。
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春分の日・秋分の日
八戸では、戦死者の墓に毎年春分の日と秋分の日、婦人会で手わけして墓そうじと墓参りをしていた。平成19年頃までは遍路さん接待とかねてやっていた。現在、春分の日には校区内および旧八戸地区で戦死された方々の戦没者慰霊祭を又、秋分の日には旧八戸地区で初盆を終えた物故者への慰霊祭を三ヶ寺持回りで実施している。
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お篭り(水祭り)
与止日女神社参り(八朔参り)のあった夕方に各家庭で沢山の料理を作り各家庭で三々五々権現社に集まり会食が行われ、夜遅くまで語り合い隣近所の親睦会が行われていた。 戦争が烈しくなり食料も不自由になり参加者が減少し自然と廃止になった。 現在は、毎年9月の第2日曜日に地区の代表数人が、水の恩恵に感謝するため与止日女神社に参拝後、地域の方々が五龍神社に参拝し、水祭りの行事が行われている。