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[旧佐賀市][ 行事]は122件登録されています。
旧佐賀市 行事
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高太郎の年中行事
【1月2日】新年祈願祭とお祓い式(三社宮に奉納旗揚げ) 本庄宮宮司さんにより9:30~。公民館にてお神酒披露。 【1月15日】大般若祭り(5ヶ寺住職さんにより) お供餅1重(5升)。教本で一人ひとり身体を祓いしてもらう。村の川に5か所お守り札を立てる(竹3m位に挟んで)。お供え餅を小切にしたものとお札、全戸へ配る。後、公民館にてお神酒びらきをする。 【3月春分の日】高太郎地区物故者慰霊祭(お寺にて) 1年間の新亡者、無縁仏の慰霊祭。住職さんのお経とご詠歌を奉詠する。 【4月8日】花祭り(お寺にて) 住職さんのお経とご詠歌奉詠する。お釈迦さんへ甘茶をかけ祝う。 【5月3日】川神さん、村施餓鬼会。戦没者慰霊祭。 川神さん(お供物とご馳走を舟にのせ川へ流す)。公民館にてお酒披露と手料理(40~50名)。 【7月25日】高太郎祗園祭(18:00~21:00) 三社宮、さやん神、大日さん。参拝の方にお菓子一人100円程度を3か所でやる。(おなます) 【9月7日】八朔祭り(宮司さんによる五穀豊穣) 三社宮にて。後、公民館にて手料理、宴会。 【9月15日】高太郎地区敬老会(75歳以上、60名位) 紅白餅とお弁当で祝う。講演を頼む。 【11月23日】金毘羅祭り(住職さんにて) 公民館にて宴会。 【12月30日】〆縄作り、飾り 三役と宮総代さんで。 【4月から10月の第2日曜日】農村公園清掃 村全戸で。
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厘外西の年中行事
【1月】 「記念碑祭」 平山栄十翁(昔当町区の庄屋)が町内苦境の時、諸事にわたり貢献され、また町区に土地を寄贈され町内発展に寄与された。その功績を称え、翁の記念碑が建立されている長勝寺において毎年行う。 「大般若会」 六百巻から抜粋された般若心経によって、家内安全および無病息災を祈祷し、全員がお祓いを受ける。 【7月】 「村籠り」 各自弁当持参で集まり、五穀豊穣、無病息災を祈願し、お神酒をいただく。 【11月】 「天神祭」 菅原道真を祀った祠にしめ縄をまき、お供え、お神酒をそなえてお参りし、学問の神様にあやかる祭。 【12月】 「しめ縄奉納」 八竜神社にしめ縄を奉納し、新年を迎える準備をする。
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町内氏神社三社と寺による四万六千日
(8月) 観世音菩薩、地蔵菩薩の縁日で、この日お参りすると四万六千日の間お参りしたのと同じ功徳があるという。7月10日の東京浅草寺の縁日、6月24日の愛宕祭りが全国的に有名である。 当町区では毎年8月上旬に催される。上水道が普及されていない往時には、生活用水を本庄江の川水にたよっていた。四万六千日が訪れるときが有明海の潮が「からま」といって1年中で一番水がきれいで、その時は先を争って水汲みに精を出し水甕(みずがめ)に貯めおきする。 祭りは、各々氏子が前日神社を清掃し、当日参拝に来る氏子に配る菓子を準備する。当日は、朝6時から7時の間、近在近郷の子どもを中心とした参拝者がお参りに訪れ、菓子をもらって次の神社へと急ぐ。
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相応下の年中行事
【7月20日〜25日頃】 「施餓鬼」 毎年夏祭りの夜4〜5名の和尚を呼び、公民館に地区のお地蔵様3体を設置し施餓鬼が行われる。 元来、漁師が多かったので海の事故、その他の水死者または疫病で亡くなった人を供養するために始まったとの事、町区内の1年以内の新仏様も供養されます。 (位牌を会場に持ち込む。町区民が多数お参りする。) 【8月上旬(8月10日)】 「四万六千日」 お宮やお地蔵様に縁台を出し、袋菓子を多数準備する。 子ども達が朝早くからお賽銭、お米をあげてお参りする。すると地区の婦人達から袋菓子を貰う。 当日お参りすると四万六千日お参りをしたのと同じ効用があると言われている。子ども達へ信仰の大切さを教える。何箇所もお参りするので袋一杯お菓子を貰い、子ども達は楽しみにしている。
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蓮池祇園
祇園は毎年7月22、23の両日に行われる。 八坂神社(祇園社)の祭神は素盞鳴尊である。祇園祭は大字蓮池が氏子で、その中、神埼町・城原町・魚町・本町の4町が、年々順番に分担する。以前は紺屋町も参加していた。分担の種別は「お供」「神輿」「獅子」「山鉾」である。神輿は22日の午後7時煙火の合図で社殿を出て78町を隔てた下の宮(城原町と魚町)に御幸し翌23日の午後8時再び煙火の合図で下の宮を出て還幸するのである。「お供」は40人近くの男が何れも菅笠麻裃を着け、高張提灯や、花籠付の紅白旗や赤天狗、青天狗、神劍、矛等を捧げて神輿の前後に従う。「神輿」は裃を着てかつぎ、「楽方」 は楽を奏しながら従う。 獅子舞は神輿の先駆ともいうべきもので行列中の花形である。この番に當った町では若者を獅子、笛、太鼓等に分け毎年7月の朔日頃から稽古を始める。赤獅子・青獅子が節面白く囃立てながら神輿の道筋を練り行くのである。その使い方や囃方は昔から蓮池独特で、その舞方は各町違っている。神埼町は「ひざり」で囃方も「チールリ、タールリ」、城原町は「ゆすり」で囃方も「ヒョーロヤドンドン」で外2町とも同じであり、本町は「内より」魚町は「外から」である。 山鉾は昭和46年以来中止されているが、素盞鳴尊に因みある叢雲の劍を牽くというもので、出雲の三瓶山における大蛇退治を形取って造られ、屋根の正面に三つ叉の鉾を付けたものであるが近来は全く余興としての踊舞台にされている。この番に當った町内の娘達は2か月以前から踊の稽古を始める。当日は「チヨーッサンヨ」の掛声も勇ましく山鉾を曳出す。 お祭の前夜は衣裳揃と称して獅子舞と山鉾との総仕上である。 祇園が近づくと蓮池の町は、小ぎれいな感じになってこのにぎわいを迎える。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。
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ももて
出雲神社の「ももて」は、文永年間、出雲国造の弟北島康孝がこの社を建立した当時から伝わるという。 毎年2月11日あるいはその前後の日曜日、「百手」と呼ばれる行事を、蒲田津東分が6組(榎下組・番所組・渡端組・昭和組・馬場組・新町組)に分れて、毎年一組が実施する。 海の幸・山の幸、神酒の献饌をし、儀式がある。 この日直径1間位の大的の中心に「鬼」という字を書いたもの2個を組合せて拝殿の南方に立て、北方の神殿から弓に矢をつがえて、最初に神官、次に当番組の世帯主が交代に、鬼の字を目標に弓矢で射て、五穀豊穣・家内安全を祈念する。 後で、この的を子ども達が取り合い、相手かまわずかぶせようとするのを、「ハタハタカブセ」という。鬼の字の墨汁で、かぶせられると顔がよごれることがある。
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ゴミホリ
3月も末、堀のゴミ上げはサラエと泥土利用のための村仕事である。ガタをすくい上げるには「遠隔操作」の桶が使われる。桶は口が斜め型で、口と底から両側へ綱がクモ型に付けられる。5、6間ほどの間隔で渡した道木に構えた両側の人数の綱に操られて、桶が舞ってはガップと泥土をくわえ、せり上がっては吐く。「ダンポチコイコイ」の調子。呼吸が合わぬと、桶は宙返りして泥ハネが飛び散る。
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ひゃあらんさん
子ども達が小学校までは自転車で弁当を持って、むらじゅうで川副町南里の八幡神社の方へお参りに行っていましたが、現在ではそれもなくなっている。
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老松神社のおこもい
施主さんは、酒の肴を1品ずつ持ち寄り車座になって酌み交わし、他の家族は重箱に詰めたご馳走をそれぞれ開き、お宮のお堂で食べた。食べ終えた子ども達は境内で遊びに夢中だった。
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生活改善運動
兵庫町の公民館での結婚式。料理の品数も決っていて公民館の調理室で親類や近所の人の手伝いを受けて進められていた。 公民館長から祝辞もあり。
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お供日
12月1日 「フナんこぐい(フナの昆布巻き)」、大根葉、大根、里いも、れんこんなど味噌ダレで二晩ぐらいかけて大鍋で炊く。 親類などとの交流も年中行事の一つだった。
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堀干し
現在は堀干しがありませんが、昔は2日間かけて行われていました。 堀干しで獲れた大きなフナは「かけ合い」とか「昆布巻き」にして、小さなフナは焼いてかまどの上に1年中干してありました。 それを豆腐や色々な野菜を煮る時出して食べていた様です。小さい魚は煎って醤油をかけて酒の肴にしていた様です。 現在では堀が少なくなって来てこんな光景は見られなくなって来ました。
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ホンゲンギョウ
1月7日暁には、「ホンゲンギョウ」という行事が行なわれ、藁や青竹を集め、家の庭先で燃やし、青竹を爆発させて魔払いとした。現在続けている家もある。
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もぐら打ち
1月14日は松の内の終わりで注連飾り、門松などを取りのけ平常に復した。早朝には、子ども達は、もぐら打ちをしてまわった。手ごろの青竹の端にわらを束ね、小繩で巻き、それを持って数名ずつ組をつくり、家々に行って、「なれなれ柿の木、ならずの柿、ならずの柿はなれというた。千なれ、万なれ、億万なーれ。……。」と歌いながら、果樹の根元などを打ちまわり、報酬に餅をもらっていっしょに焼いて食べた。今はほとんど廃れている。
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涅槃会
2月15日は釈迦入滅の日で、全国的行事で、寺々では釈迦涅槃の画像を掲げて供養する。佐賀では「香ばし」といって米を煎り、粉にし、砂糖を入れたものを、各戸仏壇に供えた。
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泥土あげ
「ごみあげ」といって、3月の彼岸前後に、堀の水を干して、中の泥土を田にあげ、広げて、堀をさらえた。田に広げた泥土は、乾かして砕き水田の重要な肥料とした。この仕事は農家にとって重要な行事で、部落の人皆で行なったが、最近化学肥料が出まわり、行なわれなくなった。
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さなぶり
6月末から7月初め頃、田植えが終わると、近所の人々は集まって酒を飲みかわし、お互いの労をいたわりあった。
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金立山参り
7月初め、田植えが済むと、農家の人達は、うちそろって金立山参りをし、水不足がないように祈った。
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綾部神社参り
8月末ごろになると、農家の人たちは、綾部さん参りといって、風の神といわれる綾部神社に参り台風の被害の少ないように祈った。
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ももて
この地区では2月に行われ、悪魔払いや年占行事とされています。当日は神主を呼んで八幡社で神事をして、竹で編んだ輪に紙を張り、鬼と書いて的にする。手製の弓と矢で順に的を射る。的射りが終わると“つうわたし”をして神酒を戴き直会をする。
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英彦山神宮参り
毎年夏以降に、英彦山神宮に地区の代表者がお参りし、豊作祈願や災難よけの目的で、祈願をしている。神宮で祈願されたお守りを全戸に配布をしている。 お参りが始まった時期は不明で、昭和30年代頃までは宿泊しながら参拝していた。参道入口の青銅の鳥居は、佐賀藩主鍋島勝茂公の寄進であり、佐賀藩との関係が強い神宮であることから参拝していたのではないかと思われる。
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御日待ち
毎年10月から11月にかけて行っており、稲の収穫が済んだ後、豊作に感謝するための地域の祭りである。始まった時期はわからないが、日の出時にお日様(太陽)に対して感謝をこめて手を合わせてお参りしていたし、以前は、餅をついて感謝の意を表した時期もあった。現在は、各家の代表が夜と朝一堂に会し、順番を決めて感謝の宴などを行って、お日様に感謝して収穫が出来ることを地域の行事の一つとして行っている。
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本庄むかしむかしの年中行事
正月松の内には懸け薦を釣り、門松に似せる(これは使用後に巻き俵として使用した)。 2日には屋敷田に鍬入れと称し、譲葉(杠:交譲木…トウダイグサ科の常緑喬木。秋に旧葉は暗緑色となり新葉が生長して旧葉が落ち譲るのでこの名がある)を立てる。 6日の朝には寺子屋の子弟は、始筆に吉書と称し「嘉辰令月歓無極万歳、千秋楽末央長生殿裏春秋富不老門前日月遅」等の筆を試み歳徳神(その年の徳神でこの神のある方を明の方または恵方といい万事吉とする)へ供えた。 7日の朝は、数日前より建てた2間4面位の藁小屋を暁天に焼き、歳徳神へ供えた。吉書を青笹付の竿頭に結んで炎上させ子ども達の楽しみであった。この日は「叩き菜」と称し、7種の蔬菜を叩いて汁となし、また歳徳神へ供えた餅を7か所(ホンゲンギョウ)焼き、同夜は、七福神の装いで豆をまいた(今は節分で行っている)。 11日には、天照大神宮へ参詣し、大福帳を求め、十一日祝と称して、祝宴をなした。 14日の晩には、子ども等が集り「土龍打」といって小竹の先に藁を束ねたもの(焼鮒挿の如きもの)を持ち、各家を廻り「なーれなーれ梅の木、ならずの梅をばなれとぞ祝うて、千なれ、万なれ、朝なれ、人のチギッ時キャー堀の上ナーレ。おいがチギットキャ畑の岸ナーレ。十四日の土龍打ち」と唱えて餅をもらって歩いた。 20日には、二十日正月と称し、忌明のものや歳なみの悪い者は本日をもって更に越年の式を挙げる風習があった。 2月の初午の日には少女等糸柳の枝に大麦やカンナ草及び髪を少しばかり紙に包み、水引にて結び「この川や、この川や、広さ深さは知らねども、流るる先まで延べや黒髪、黒髪」と歌い、流れ川の橋頭より流した。 3月3日は桃節句として雛飾りをなし蓬の餅を供え、白桃の枝を挿して生け、少女の将来を祝ってやった。 4月8日には、各寺院にて華堂をこしらえ、下には盥(たらい)の中に釈迦の像を置き、甘茶を注ぎ、各家においてはその甘茶を受けて頂き、また蚊帳に注ぎ、家の周囲にまいて悪霊を防ぐ祈りをなした。 4月19日・20日は、高傳寺の釈迦堂祭で代官所より多くの役人が出張して、華美な風習を矯正する目的をもって、絹の着物はもちろん、日傘や絹物交りの羽織まで取上げて節倹法を実行させた。当月は川神祭と称えて藁にて円座及び食器を拵え、御供をあげ鯰(なまず)・鮒などを画いた幟を立て流していた。 なお当月は挿秧(水田に早苗を植えること)の始めに田の神祭りといって握り飯に、芦の葉及び蔦葛の葉を覆い農神に捧げた。 5月5日には紙幟(木綿織りは贅沢であると禁止されている)を立て、男子の成人を祝った。 当月の末から6月の初め頃、晩稲の挿秧を終え「早苗堀」といって手造の餅、饂飩(うどん)等で夏毛取り上げより晩苗植付までの慰労の宴を開いた。6月は各神社において、祇園会を子ども達は千燈籠といって些少の銭を貰い、菓子果物等を買い食う風習があった。 7月の盆祭りは別に変りはないが、新喪の家では7月中数間の竿頭に紅の燈籠を掲げた。 8月15日夜は芋明月と称し、男子13歳の者の運試しをなした。当夜の晴曇雨に一生の吉凶を占った。 9月15日夜は、豆明月と称し、女子15歳の者に晴曇雨により一生の運試をなし、また明月に対し薬袋を縫う恒例があった。 10月15日には千本松の直茂公御胞衣塚畔において鍋島家より、4間に10間の仮家をこしらえ村中の男女老若を集め、赤飯の馳走をなす恒例があったが、維新後に廃止となり、地元主催となり祭事を営み鍋島家を賓客に招いた。 11月は子ども等が集まり、産土神社へ〆飾りをなし、薪を焚き通夜をなし、〆飾の材料にて正月の「ホンゲンギョウ」を作った。また11月は与賀神社、本庄神社へ締元といって大名行列を真似て盛大な神事をなしていたが明治4年(1871)12月本庄神社は郷社になり、末次等は与賀神社より分離して、本庄神社となり、11月28日をもって祭日と定め、氏子が各区順番に浮立、角力、手踊等を奉納し盛んになった。 12月には御本丸三の丸その他の松飾用として大〆縄勝り藁等を本庄本村より納付した。
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豆祗園
村々に祀る石祠や地蔵などを清めて大人達へ参拝を勧め、煮豆と引替えに賽銭を貰い、菓子や金を分配しあう子ども達の催しである。
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正里の構成と行事
正里区は500年以前に干拓新地に入植し、住みついて出来た集落である。 西は本庄江湖のほとり八龍神社、東は八田江湖のほとりに粟島神社(共に海神)を祀っている。この両地を結ぶ八田、袋、末次、正里、八龍、今津の線が当時の海岸線であったと推察される。 南に流れる呑郷の堀底から、泥土揚げの時には有明海の貝殻が砂中に広がっているのがわかる。 天明年間の地図によれば、正法寺外一庵があったが、現在は墓だけが残っている。 正里区の出入り口には、皇大神宮、お地蔵さん、庚申さん、観音さんを祀って、疫病、災害の侵入より守っている。
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正里の行事
月祭:三夜待(23日)、六夜待(26日) 年祭:大般若経会(正月11日)、伊勢祭(12月26日)、権現祭(12月15日)、天神祭(12月25日)、村勘定(1月)、釈迦堂祭(4月19日)、川神さん祭(春耕前)、田の神祭(田植え直前)、節句(3月3日ひな祭)、鯉幟(5月5日)、七夕祭(7月7日)、祇園祭(夏祭)、お盆祭(8月13日〜15日)、供日(春秋の氏神祭)、日峰さん参り(春秋)、金立山参り(正月)、文殊参り(正月)、お経参り(川干の頃)、お不動さん参り(正月縁日)、清水観音さん参り(正月と夏の縁日) 西分の権現祭は福山晴大家に祀ってある熊野三所大権現が祭神である。 寛政11年(1799)勧請したもので、正里西分の鎮守神として夏の祇園祭には、提灯をともし供物をし参詣人に煮豆をくばり、無事息災を祈る行事が今も続いている。 石祠の後の楠は樹齢400年以上と推定されたが、明治25年頃切り倒されて今の楠は2代目である。 西分観音堂に祀られた石仏7体のうち「目の地蔵さん」の謂われは、昔は疾目等の流行目が多かった。 眼病になると「め」という字を半紙に8字書いたものを奉納し、「“八ん目”山さんいけ、しっきゃあ、ほーいやれ。」と3度言って、供物をなし、全快を祈ったものである。 「日晴し(産の忌みがあけること。男子30日目、女子は33日目に宮参りをする)観音さん」は、葬式等の不幸ごとの帰りには、この観音さんに立ち寄り、「日晴し」を祈願し自宅へ帰るという風習があった。また「子安観音さん」としてお母さん達の信仰が厚い。 その他、「北向きの地蔵さん」や「千手観世音菩薩」、「不動明王」、「弘法大師」等が堂内に祀られて崇敬されている。
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文殊さん参り
(正月) 文殊宮は、大和町上都渡城官人橋付近にあります。真言宗御室派文殊院と言います。「もいっさん」と呼ばれ、祭神文殊菩薩は知恵の神様として知られ、受験期には合格祈願の参詣人で賑わいます。
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お不動さん参り
(正月縁日) 臨済宗南禅寺派萬壽寺は、「水上のお不動さん」と呼ばれ信仰されています。(実相院と同じに大和町川上にあります。)
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金立山参り
(正月) 金立神社の祭神は保食神(うけもちのかみ)、罔象売女命(みずはめのみこと)、徐福であります。創建は孝霊天皇の時代(290)と伝えられています。 徐福は秦(中国)の始皇帝から不老不死の薬草を求めて派遣され文化をもたらしたので、神として合祀したと言われます。 金立神社は豊作を祈る神として、藩主鍋島家の雨ごい祈願が行われました。 例祭は11月20日。春祭は3月15日。50年ごとに「お下り」という神幸祭があり、有明海の沖の島参りが行われ、祭りには鉦浮立が奉納されます。
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清水(小城市)観音さん参り
(正月と夏の縁日参り) 清水(小城市)には天台宗清水山見滝寺宝地院があります。由緒書によりますと延暦22年(803)に桓武天皇の勅命で聖命上人が開基しました。国家鎮護の道場であります。寛永4年(1627)に佐賀藩主鍋島勝茂が観世音菩薩を勧請して再興しました。東方に清水の滝があり、滝の傍らにある碑は、藩主鍋島宗教の病気平癒の祈願のため滝に打たれ、凍死した藩士倉永清雄をたたえたものであります。この碑は天明7年(1787)に建立されたものであります。