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[物語・いわれ][地名・とおり名][北川副校区]は10件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 北川副校区
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北川副の形成
筑紫次郎と呼ばれ、九州一の暴れ川の異名を持つ筑後川は、九重・阿蘇の両火山に、その源を発している。 延長123kmに及ぶ筑後川は、流域の山地を浸食して、大量の土砂を運んで、有明海にそそぐ。 5.7mという日本一の干満の差を持つ有明海の潮流作用と相まって、沿岸に土砂・遊泥が堆積され、数千年の長い歳月を経て筑紫平野が形成されてきた。 干潟の成長量は、河口に近い川副地区で年間7cm、東与賀地区で4.5cm、白石平野で1.5〜2cmにも及ぶ。 この成長量から逆算すると、縄文文化の中期(5,000年前)頃は、神埼町横武、高木瀬町東高木、金立町下九郎、鍋島町森田、三日月町四条の線が、海岸線に当たるとされている。 弥生文化時代の初め、約2,300年前から自然陸地化の開墾が始められたようで、鎌倉時代になって、土地の所有権が認められるようになった。 特に、元軍が来襲した弘安の役(1281)の後は、その論功行賞による領地の配分や食糧確保に迫られ、いよいよ人工による開拓が進められた。 鍋島直正公伝によると、天明3年(1783)行政整理によって、六府方の組織ができ、その中に佐嘉湾海(有明海)の干拓を行う搦(からみ)方が設けられ、干拓が行われるようになった。 約2,000年前の居住圏の南限は、旧国道34号線の牛津〜佐賀〜詫田の線になっている。 西暦1300年頃は、おおむね海抜3mの川副町米納津・南里・本庄町上飯盛の線となっており、1600年(戦国時代の末期)頃は、海抜2.3〜2.4mの犬井道・小々森・広江の線までが、南限となっているものと思われる。 ちなみに、江上町にある標柱は3.6mであるが、文献によれば、大治5年(1130)に、川副荘園からとれた米が献上されていることから、それより前に、北川副町の集落が形成されたと考えられる。
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光法村(郷制以降)
(角町村、阿高村、新村を含めて呼ぶこともある。) 寺井津に至る街道に面して、幕府の巡見使の巡回路であった。寛政元年(1789)の巡見録には、石高682石余、人口290人、家数50軒余と記されている。
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山津村(郷制以降)
(増田村、深町村、犬尾村を含んでいる。) 小字の山津村は、長安寺を中心とする集落で、明治7年の佐賀戦争の激戦地であり、新川改修から用排水の重要な地であり、明治になって、大字光法に編入された。犬尾村の寛政元年(1789)の巡見録には、石高777石余、人数340人と記されている。龍造寺と小田両家の激戦地であり、佐賀戦争の戦場ともなった。かなり大規模の農業が営まれていた。村の中心に光教寺がある。明治になって、大字光法に編入された。またここには村長もされた村医の今井正太氏がおられた。
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増田村(郷制以降)
(宿を含む。) 石高257石余、人口120人、家数20軒余とあり、地成(反当たり年貢米)9斗2升、佐賀本藩の直轄領であるが、佐賀郡代・川副代官の支配を受けていた。明治になって、光法村に編入された。
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江上村(郷制以降)
村別概況によると、江上の地名の由来は、神埼郡城原城主江上家種が、福満寺の近くに居住していたためといわれ、館という地名も残っている。 本藩領に属し、石高682石、人数290人、家数50軒余で、伝教大師の開基と言われる福満寺の領内として栄えた。村役場や産業組合事業所が設けられた村の中心である。
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江上町(郷制以降)
蓮池往還の宿場町で、寺井津街道との合流点で、早くから栄えた宿場町であった。巡見録によると、人口250人、家数50軒であった。 川副郷の上納米を収める米倉が6か所にあり、その一つが江上町にあったと記されている。大正時代まで、佐賀江沿いにあった、深川という地主の小作米倉庫が、それではないかと考えられる。 また龍造寺と小田両家の争いの場であり、佐賀戦争の戦場ともなった。旧家には銃弾の跡や、銃弾で穴のあいた水がめが残っていた。また庄屋を務め、村長も務めた旧地主の轟木家がある。
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木原村(郷制以降)
木原、古賀、武藤、安住などの集落がある。 木原は、蓮池城主小田氏と龍造寺氏のたびたびの戦いの古戦場としての記録があり、化猫騒動の時、化猫を退治した千布本右衛門の屋敷もある。日枝神社、阿弥陀寺、宗専寺がある。武藤には、十八羅漢の石仏がある岩松軒(がんしょうけん)禅寺がある。また村長をした中島弥太郎宅がある。
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枝吉村(郷制以降)
江上町と同じく、街道に沿った郷宿村で、佐賀の城内に近く、佐賀江の港今宿を控えて番所が設けられていた。天正12年(1584)、筑後出身の豪族田尻鑑種は、巨勢郷を中心に、200町歩の知行地を得た。そのうちの枝吉分として、徳田5町6反8畝、徳屋敷1反9畝、作田2反2畝を領している。後に鍋島に編入される。 明治になって、木原村に編入された。大正時代、今の枝吉団地のところに1周400mの草競馬場があって賑わっていた。また、この村に県立病院眼科部長をつとめられた高島眼科医院があり、打血の薬が有名である。
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新郷村(郷制以降)
八田江の東部低平地の水田に囲まれた村で、八田村、下武、今村などを含めて、総称されることもある。永仁2年(1294)頃、すでに新合名が記されており、川上社の地蔵菩薩の供用米を、新合名で奉納している。 これは、元享元年(1321)藤原能泰の田地避状写しに、「河上宮地蔵菩薩田料、河副庄新郷、右地用米毎年二十一田代に奉引田二町」とあることで、確認できる。これは、当時土地開発が急速に進められる過程において、神社・仏閣に土地寄進が行われていたものと考えられる。
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八田宿(郷制以降)
城下から犬井道・早津江方へ行く街道に面する八田に沿った街道である。八坂神社、粟嶋神社がある。臨済宗南禅寺派の大応寺は、地蔵菩薩がご本尊で、歴代藩主の尊崇を受けていた。また、八大竜王が祀られているのは、高潮の災害があったことを物語る。 新郷の本願寺は、慶長7年(1602)に、藩士の吉田太郎衛門が建立したといわれ、川副七薬師の一つ、楠材の薬師如来を本尊とする。 八田宿は、八田江の海運の港があって、番所跡、荷揚げ場の跡が残っている。 阿高村も光法村に編入されるが、早くから地名が出ており(正保絵図)、弘照院がある。 角町も、明治になって、光法村に編入されるが、阿高・山津に接した佐賀藩の直轄領であって、村内に大国主命を祀る西宮社がある。 佐賀市重要有形民俗文化財に指定された、石造エビス坐像がある。