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[人物][人物][神野校区]は4件登録されています。
人物 人物 神野校区
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吉田善吾
西神野出身。海軍大将。明治28年(1895)3月神野小学校卒業、佐賀中学より海軍兵学校に進み、海軍大将となる。その間連合艦隊司令長官もつとめる。昭和4年(1929年)5月の神野小学校創立50周年記念式典のときは、海軍大佐で戦艦「陸奥」の艦長、卒業生を代表して祝辞を述べた。
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宮地嘉六
小説家。明治17年(1884)6月11日生まれ。神野小学校を中退して仕立屋の見習小僧となりその後、佐世保の海軍造船廠の見習工施盤になり、それから呉、神戸、長崎、東京の大工場を転々とする。その間に文学に興味を持ちだし、堺利彦、幸徳秋水等の著者によって社会主義思想に近づき、呉海軍工廠のストライキで首謀者として投獄されたこともあった。初めは、所謂前期プロレタリヤ文学に属する労働者文学であったが、まもなく自由な立場の作風に移った。貧しかったころは、広告の裏に原稿を書いていたという。 作品に、「煤煙の臭ひ」「或る職工の手記」「旅浪者富蔵」「愛の十字街」などがある。 神野公園には「豆腐屋は近し手軽な自炊かな」の句碑がある(※)。 昭和33年(1958年) 4月10日没。 ※石碑の背面には「宮地嘉六文学碑」とあり、正確には文学碑である。この文学碑は昭和34年4月に建立された(昭和34年4月6日付佐賀新聞)。
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松平晃
歌手。本名福田恒治。高岸(現多布施3丁目)に生まれる。大正13年(1924年)3月神野小学校卒業。佐賀中学に進み、昭和5年(1930年)3月卒業、東京の武蔵野音楽学校に入学、1年後東京音楽学校に入学した。在学中の昭和7年ポリドールで吹き込んだ「忘られぬ花」が大ヒット、翌昭和8年(1933年)3月、音楽学校を中退してコロンビアの専属歌手となる。そして、「サーカスの唄」「急げ幌馬車」「花言葉の唄」などの大ヒットで、コロンビアの看板歌手になり、藤山一郎、東海林太郎、霧島昇等とともに日本の歌謡界をリードした。松竹映画「純情二重奏」にも出演したりした。 晩年に、松平晃歌謡学院を設立、新人歌手の養成につとめたが、昭和36年(1961)3月8日急死、48歳の若さであった。 前記の外のヒット曲に「人妻椿、上海航路、何日君再来、初恋日記、夕陽は落ちて、希望の首途、利根の舟唄、港の雨、泪のタンゴ」などがある。
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開山桂巌禅師
開山和尚桂巌禅師(1627(寛永4年)〜1710(宝永7年3.6))、信州は松本の出身で、祖先には足利尊氏の弟直義の幕下、淵辺伊賀守があり、また太田道灌が遠縁に当たるという家柄の出。12歳で出家して丹波の桐江庵、その時の師僧の示寂の後、熊野の山中や河内金剛山麓に見桃亭と号する禅室を結び、12年という歳月の後、鍋島丹後守光茂(佐嘉本藩二代)に請われ、佐嘉領内の臨済宗東福寺派の春日山高城寺に入寺。寛文7年(1667)42才の10月に、小倉広寿山福聚寺の即非禅師(1616〜1671)に参禅、同11年5月に神埼の宝珠寺開山となる翠峰和尚と共に入室、印可を付される。同年11月、隠元禅師80祝寿に登檗し、禅師により、桂巌の号を賜る。 即非禅師は、隠元禅師、二代木庵禅師とともに書の大家として黄檗三筆と謳われる。佐賀には、曹洞宗高伝寺の山門額、龍泰寺の寺号額などに有る。 さらに桂巌禅師は、時の肥前鹿島藩主鍋島和泉守直朝に請われ、能古見の福源寺の住持となり、延宝5年(1677)8月1日鹿島藩祖直朝(本藩初代勝茂の五男)、直条によって再興された普明寺の開山として請われ上堂、6年後の天和3年5月1日祝国開堂(大小の方丈、斎堂、鐘楼など整備)。その後、桂巌禅師は貞享2年には普明寺を退き、同じく鹿島の医徳寺に移り、元禄7年(1694)には金立の円珠寺に移る。その後も鍋島市兵衛による須古の阿弥陀寺復興にも関わり、卓龐寺としての開山に請われたのが宝永4年、3年後同7年の3月6日に円珠寺方丈にて84の生涯に寂を示された。その他にも諌早では性空寺、痴雲寺、普明寺下の法泉庵、多久福檗寺等の開山となり、佐賀県内にて広く最初期の黄檗の教化を流布し、法を継いだ弟子の数は21名と、当時第3世代の黄檗の和僧としては傑出した大徳、高僧であることは云うまでもない。 桂巌禅師の墓所は、鹿島の普明寺、佐賀の大興寺、多久の福聚寺、佐賀金立の円珠寺にある。