開山桂巌禅師

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開山桂巌禅師

■所在地佐賀市神野東三丁目10-3 大興寺(三溝)
■年代近世
■登録ID1926

 開山和尚桂巌禅師(1627(寛永4年)〜1710(宝永7年3.6))、信州は松本の出身で、祖先には足利尊氏の弟直義の幕下、淵辺伊賀守があり、また太田道灌が遠縁に当たるという家柄の出。12歳で出家して丹波の桐江庵、その時の師僧の示寂の後、熊野の山中や河内金剛山麓に見桃亭と号する禅室を結び、12年という歳月の後、鍋島丹後守光茂(佐嘉本藩二代)に請われ、佐嘉領内の臨済宗東福寺派の春日山高城寺に入寺。寛文7年(1667)42才の10月に、小倉広寿山福聚寺の即非禅師(1616〜1671)に参禅、同11年5月に神埼の宝珠寺開山となる翠峰和尚と共に入室、印可を付される。同年11月、隠元禅師80祝寿に登檗し、禅師により、桂巌の号を賜る。
 即非禅師は、隠元禅師、二代木庵禅師とともに書の大家として黄檗三筆と謳われる。佐賀には、曹洞宗高伝寺の山門額、龍泰寺の寺号額などに有る。
 さらに桂巌禅師は、時の肥前鹿島藩主鍋島和泉守直朝に請われ、能古見の福源寺の住持となり、延宝5年(1677)8月1日鹿島藩祖直朝(本藩初代勝茂の五男)、直条によって再興された普明寺の開山として請われ上堂、6年後の天和3年5月1日祝国開堂(大小の方丈、斎堂、鐘楼など整備)。その後、桂巌禅師は貞享2年には普明寺を退き、同じく鹿島の医徳寺に移り、元禄7年(1694)には金立の円珠寺に移る。その後も鍋島市兵衛による須古の阿弥陀寺復興にも関わり、卓龐寺としての開山に請われたのが宝永4年、3年後同7年の3月6日に円珠寺方丈にて84の生涯に寂を示された。その他にも諌早では性空寺、痴雲寺、普明寺下の法泉庵、多久福檗寺等の開山となり、佐賀県内にて広く最初期の黄檗の教化を流布し、法を継いだ弟子の数は21名と、当時第3世代の黄檗の和僧としては傑出した大徳、高僧であることは云うまでもない。
 桂巌禅師の墓所は、鹿島の普明寺、佐賀の大興寺、多久の福聚寺、佐賀金立の円珠寺にある。

出典:大興寺からの解説

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