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[建造物][地蔵・銅像・石塔][若楠校区]は8件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 若楠校区
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新村の辻堂と供養塔
「牛島天満宮由緒記」によると、寛政3年(1791)提出された書類に、澤広山潮音寺の掛支配所として、高木新村、『辻堂』の記録があると、高木瀬町史には記載されている。 また、寛政9年(1797)三溝村・大興寺より出された書類には、高木新村「地蔵庵」の記録があることが、高木瀬町史にある。(355~6頁) 約1坪のお堂は、今も手入れされ、堂内には ○當庵開基徳雲院殿大年際雄大居士 享保12歳次丁末(1727) ○當庵開山月苓皎老大和尚 享保4己玄天(1719) と記された位牌が祀られている。(高木瀬町史・359頁) 「地蔵庵」跡は、現在の「きのや駐車場」辺りと推定される。 「辻堂」と「供養塔等の石像物」は、現在も保存されており、付近の住民の方がお参りをされている。 地域住民の永渕によれば、小さい頃、「地蔵庵」は荒れた尼寺と聞いていたが、そこで、秋の23日夜、お祭りがあっていて、父等地区民が参加していた。 現在の辻堂等の石像物は、地蔵庵の関連石像物ではないかと思われる。
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八丁畷 弘法大師堂
八丁畷公民館敷地内には、弘法大師堂がある。 佐賀県警機動隊の近くにあった大師堂が、国道の拡張工事のために現在地に移転させられた。 ここには、馬頭観世音・弘法大師・薬師如来・不動尊の4体が祀られていて、それぞれ施主が刻まれており、大正11年10月に起工、12年5月落成と記されている。 弘法大師像には大正8年9月吉日と記されていて、発起人・今村忠六、野方チカ、中島イマ、世話人・中島亀吉、副島政市、中島浅市、森田栄八の名がある。 馬頭観世音には佐賀市城内・武田カタ、不動尊には佐賀市城内・武田為助とある。薬師如来には堀尾世(與)一、辻シゲ、村塚チエノ、木原セツ、藤瀬作市、副島クイ、垣内シマの名が見える。 大師堂の移転と共に新築された八丁畷公民館は、昭和48年頃に完成している。
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城井樋大師堂
ご本尊は、昭和45年3月本堂を改築された際に、むさ苦しい屋内に置いておくのは忍びないと、地区住人で熱心な信者であった、古賀五郎夫妻が自己資金で屋外の台座に安置(移)された。 本堂には、お大師さんの掛け軸が掛けてあり、普段は入り口の引き戸は施錠が掛けてある。 本堂前の西方に、幅2m位の見事な巨大な1枚の自然石の上に、外の3体の石像物と共に東向き(道路側を向いて)に整然と並んで安置されている。 大師像は、向かって左(南方)から2番目に安置してあり、台座の自然石の裏面(西側)には、「昭和45年3月建立 玉石垣寄附者 古賀五郎 妻 フサエ」と記されている。 また、ご本尊の前に、身の丈1.3m位ある見事な1対の石燈籠が設置されていて、この石燈籠には、「献灯 昭和63年6月20日 古賀五郎・フサエ」と記されている。 お堂近くにお住まいの古賀氏は、この大師堂に纏わる話を、母から聞かれていて、自分が嫁入りした戦後間もない頃までは、大師堂に春秋の彼岸頃には大勢のお参り、巡礼者があり、地区民あげてお接待に当たっていた。また、年間を通じて、花を手向け、月に1回は、本堂と周辺の清掃を行い、それは大切にしていたが、今はそうした風習も廃れてしまった。 母からは「このお大師さんは、おじいさんが新村からいのうて持ってこられた」「お大師さんには、大抵守ってもらったから大切にせんといかん」と言われていたとのこと。
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若宮弘法大師堂
地域の山崎氏によれば、昔は、春・秋の彼岸の時期は、多くの巡礼者が参拝されていて、母たちは、地区民上げて煮豆等を作り、お接待に当たっていた。現在は、このような地区上げての取り組みは行われていない。 また、お堂は平成13年、若宮公民館が新築されたのと同時期に、自治会で新築されている。 中央の大師像は、高さが1m余りあり、正面に「二世安楽」右側面に「天保6年9月、古賀太右衛門 同人女房」の誌があり、製作時期は江戸時代末期と判断できる。 堂内の石像物の左側奥に、長さ50cmくらいの古い木板片があり、同木板に「弘法大師堂 大正12年4月吉日 改築」と墨書があり、現在は相当薄くなり、読み難いがどうにか判読できる状態である。
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八丁畷お地蔵さん
国立病院のすぐ東側市道の一隅に、小さなお地蔵さんがある。 それには「三界萬霊塔、東高木新村男女中」とあり、かすかに「安永7戊3月吉日」と読み取れる。建立は1778年で、徳川10代将軍・家治の時代で、この頃すでに東高木新村と呼ばれていたことになる。 日の出1丁目の坂本氏の話によれば、「明治22年生まれの父は、私が子どもの頃この地藏さんは、昔、流行病気のあったときに出来たものだ」と言われていたそうである。
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三界萬霊の石塔
この石塔は、西氏方の北西角・市道(三叉路交差点)との境界線上に、道路側を向いて建立されている。 西氏の説明によれば、「私が、嫁に来たときには、既にこの石像はこの位置にあり、父母が熱心に祀られていた。昔から、道路側を向いて立てられており、曽祖父の時代(恐らく明治時代以降と思われる)は、石塔の前の道路上に、筵を敷いて近所の子ども達を招いて、煮豆等を振る舞っていた。道幅も狭く、三叉路の交差点でもあったことから、馬車が通る時、よくこの石塔に馬や、馬車が引っ掛けて、数100m南方まで引きずられて行かれる事もよくあった。しかし、この神様は、又もとの位置に戻られ、何の祟りやお咎めもなく、優しい神様だ」と夫が話していた。 今も、月に1回は、この神様に、酒と塩を供えて祀っている。 石塔は、2つに分けて2体として立てられているが、本来は、これを一段に重ねて立てるのが本当の姿であるが、重くて重ねきらないこととや重ねて立てると危険性もあることから2つに分けて立てられている。
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馬頭観音像
多布施川の植木橋より南方約50mで左岸歩道上にこの「馬頭観音」がある。 歩道上であるが、車道と歩道の中間に位置し、南北には樹齢100年を超すような椋木(むくのき)があり、その北側の椋木の南根元に他の樹木に囲まれて設置されている。 観音像の前には、高さ1.3mもある堂々とした石灯籠が2基設置されている。 城井樋地区に長く居住されている古賀氏の話では、戦後間もない頃まで、この付近に居住されていた古賀さんが、この地で主に祀られていたようで、古賀さんは、夏の祇園祭のときに、城井樋地区の子どもたち多数を招き、煮豆等を振る舞っておられ、地域に定着した神様として祀られていた。 また、昔、この多布施川で子どもたちが泳いでいて、具合が悪くなると「馬頭観音さんのたたりばい」と言われていたこともあるらしい。 また、馬頭観音像の前にある石灯籠の高さは1.3mで、それには「献灯 昭和63年6月20日 古賀五郎・フサエ」と記されている。
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二十三夜塔(おさんやさん)
若宮1丁目の中央部、新村川の小橋の側に、自然石の「二十三夜塔」が建っていて、高さは約3m余りあろうと思われる堂々とした塔である。 塔石の上部に仏像が彫られ、その下に『二十三夜』と大書されている。 塔石を載せる台座の石、左側面に建設された年月「明治20年丁玄(1887)7月」「高木新村の建設者10人の名前」が記載されている。 また、台座の石、右側面に「大正10年改築・青年会」と記され、青年会の手による改築記録も残されている。 当地区の東島氏の説明によれば、「父たちは、よく「三夜待」を家庭持ち回りで行い、酒を飲み交わしていた。また、母たちは、月に1回位、この塔の前に筵を敷いて煮豆等を茶菓子にして、「お日(ひ)まち」と称した「おちゃご」をして、女性たちの地域交流の場・骨休めの場となっていた。