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[指定文化財][国登録有形文化財][国登録有形文化財]は10件登録されています。
指定文化財 国登録有形文化財 国登録有形文化財
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旧百﨑家住宅主屋
登録有形文化財
旧百﨑家住宅は、佐賀市の中央部、佐賀城南堀端から東西に延びる水ヶ江横小路の南側に北面して建つ。敷地の西側と南側は佐賀平野特有のクリークに面し、「佐賀城廻之絵図」(元文5年・1740)・「佐賀御城下絵図」(文化11年・1814)によると藩政期には佐賀藩の御典医を務めた石井家が居住する武家屋敷地であったことがわかる。所有者は、石井家から続く家系で代々医者を務めており、主屋では以前診察も行われていたという、また祖先の石井如自は、佐賀近世文壇の先駆的作家と称される俳人として有名で、明治期の百﨑欽一も医者として医院を経営する傍ら俳人として活躍した人物である。 屋敷は、明治前期の建築と考えられる寄棟造茅葺の主屋とその南西側に昭和6年に増築された二階建ての離れが附属する構成をとる。茅葺屋根は棟を三方に鉤の手状に折り曲げた複雑な外観を持ち、四方に桟瓦葺の下屋を廻らして全体的に立ちの低い造りとする。主屋の座敷は南側にある庭園に向けて開放的な造りで、内部造作は簡明ながら質が高い。 旧百﨑家住宅は、佐賀城下において来歴の判明する武家屋敷地に建ち、御典医と俳人の流れを有する所有者によって代々受け継がれてきたもので、茅葺の主屋は複雑な屋根形状からなる地方的特色と質の高い武家屋敷の様相を有し、佐賀城下における往時の景観を今に伝えるものとして価値を有している。
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大隈重信記念館 一棟
登録有形文化財
大隈重信記念館は、佐賀城北東の旧武家地にある会所小路に面する大隈重信旧宅(国史跡)の敷地東側に北面して建つ。同記念館は、大隈侯生誕125年を記念し、昭和39年に佐賀出身の早稲田大学卒業生を中心とした建設委員会が発足して計画されたもので、同大名誉教授である今井兼次が設計を行い、地元の松尾建設が施工を請負って昭和41年(1966)11月に竣工したものである。竣工の翌年には建設委員会より佐賀市が寄贈を受けて開館し、現在まで同市による管理・運営が行われてきたもので、今年(※2017年)10月で開館50周年を迎える。 同記念館は鉄筋コンクリート造の二階建で、建物の内外が複雑かつやわらかな曲面で構成されており、全体的にどっしりと安定した佇まいは県木である楠の根幹と大隈侯の「からだ」を表現したものである。内部は東西の柱をアーチで結ぶなど同侯の理念である東西文明の融合と調和を表し、トップライトやステンドグラスの色光で彩られる室内空間もまた同侯の精神や風格、香気を表現したものとされ、建物自体が同侯の人間像・人間愛を体現した芸術作品としての特色を有している。 設計者である今井兼次は、後期表現派を代表する建築家としてモダニズムから距離を置き、アントニオ・ガウディやルドルフ・シュタイナーなどの建築家をいち早く評価して紹介するとともに、早稲田大学図書館(大正14年(1925))や日本二十六聖人殉教記念館(昭和37年(1962))などの優れた作品を残しており、同記念館の設計にあたっては、シュタイナーの「建築の人間化」という建築思想に影響を受け、ゲーテアヌム(スイス・バーゼル)を参考にしたものである。 大隈重信記念館は、大隈侯の生誕125周年を記念して建設された。建物自体が同侯を顕彰する記念碑的性格を有し、早稲田大学出身の建築家、今井兼次による建築理念をコンクリートによるやわらかな曲面で表現したもので、地元職人の施工技術の高さが窺えるなど、生家である茅葺の旧宅とともに日本の近代化に貢献した大隈侯の足跡に触れることのできる建物として価値を有するものである。
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与賀神社本殿・幣殿・拝殿
登録有形文化財
与賀神社は、欽明天皇25年(564)に勅願造立(ちょくがんぞうりゅう)され、建暦2年(1212)北条義時が社殿を再興したと伝わる。 登録される建造物は、本殿・幣殿・拝殿を一直線に接続した複合社殿であり、残存する本殿と拝殿の棟札によると、佐賀藩6代藩主鍋島宗教(享保3年(1718)~安永9年(1780))を大願主とし、酒井新五左衛門孝耀(生没年不明)を総大工として建築された。その後、屋根を銅板葺に改造している。 本殿は、石積基壇上に建つ大型の五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で、その内部に正面3間側面1間切妻造祭壇付きの内殿と、さらに内殿内部の極彩色の一間社流見世棚造(いっけんしゃながれみせだなづくり)の宮殿3棟を配置する。内外の随所を獅子や鷹などの瑞獣(ずいじゅう)や雲龍などを主題とした精巧な彫刻で華やかに飾り、見所の多い建造物である。 幣殿は桁行2間、切妻造、銅板葺で、石積基壇上の切石礎石上に建ち、本殿及び拝殿と一体に造られる。室内の本殿側には、装飾豊かな本蟇股(ほんかえるまた)を置き、華やかな室内となっている。元は本殿側を高くする段差があったが、現在はこれを無くし、平坦な床としている。 拝殿は、桁行3間、梁行3間、入母屋造、軒唐破風(のきからはふ)付、銅板葺で、元の切石積をコンクリート洗出しで固めた基壇上に建つ。背面を除く三方に擬宝珠柱(ぎぼしばしら)付き切目縁を付け、柱上には拳鼻付き平三斗(ひらみつと)を置く。室内は、出三斗(でみつと)で支える格天井(ごうてんじょう)や、正面と背面中央間の虹梁(こうりょう)を浮彫付きとするなど、装飾豊かである。床を新建材張りに改造した他、昭和37年(1962)に、拝殿右奥に祭器庫を増築している。 与賀神社本殿・幣殿・拝殿は、残存する棟札により建築来歴が明らかで、かつ、その後の改造も少なく、また、建造物内外の随所を彫刻で華やかに装飾しており、地域の歴史的景観に寄与するものとして重要な建造物である。
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野中烏犀圓
登録有形文化財
野中家は、「野中烏犀圓(のなかうさいえん)」の製造販売を家業とする老舗で、初代源兵衛氏が寛政3年(1791)の創業であり、寛政8年(1796)には、生薬「烏犀圓」の製造販売が藩から許されている。 この時に烏犀圓建物が建築されたと伝えられている。冷善楼と呼ばれる座敷と店が古く、それ以外の部分は昭和初期の増築である。座敷に掛けられている「冷善楼名記」には、文政3年の奥書があるので、文政3年(1820)以前に建てられたことを裏付けている。 広く街路に面する漆喰壁、正面中央の大破風、看板を吊るす屋形が江戸期の商家の風情を伝え、長崎街道の歴史的景観形成に寄与している。
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徴古館
登録有形文化財
徴古館は、県内では初期の本格的な鉄筋コンクリートの2階建て洋風建築物で、昭和2年(1927)に竣工しました。場所は、佐賀城の北堀端、藩校弘道館跡地にあたります。徴古館一帯は、大正2年(1913)に鍋島直正と古川松根の銅像が建立されて「銅像園」と呼ばれ、また園内北西には佐賀図書館が建てられ、文教振興の象徴として大切にされてきました。 徴古館外観の特徴である正面ファサードは、ギリシャ復古主義の列柱様式をとり、車寄せの列柱は、2本1組のふき寄せで、わずかにエンタシス(胴張り)を持っています。 徴古館は、鍋島家の意志に基づき、同家所蔵資料を中心に展示公開する博物館として建てられたもので、佐賀における最初の博物館施設として先駆的な役割を担った建物でもあります。昭和15年(1940)以降、その運営は鍋島家により設立された財団法人鍋島報效会に移されました。その後、昭和20年(1945)の佐賀連隊区司令部による接収などを経て、昭和30年(1955)から佐賀県に建物と資料を貸与して佐賀県文化館として再開しましたが、昭和45年(1970)には展示公開を休止しました。 平成9年(1997)、徴古館は国の登録有形文化財に登録され、以後、郷土を代表する歴史博物館として市民に親しまれています。令和3年(2021)には、地域を象徴する貴重な建造物として、「22世紀に残す佐賀県遺産」に認定されました。 (写真:公益財団法人鍋島報效会提供)
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戸上電機製作所本館
登録有形文化財
【建築年代等】 大正14年、昭和13年・同30年代増築、令和5年改修 JR佐賀駅東方の市街地に位置する、配電部品製造業の本社屋。木造3階建で南正面の玄関から上へ、4本の付柱(つけばしら)が増築の3階を越えて伸びる。1・2階は矩形窓(くけいまど)、3階はアーチ窓を開ける。外壁は磁器タイル貼。佐賀の電器産業の発展を伝える象徴的な事務所建築。
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願正寺 本堂、貴賓室、大広間、大玄関、鐘楼、山門 計6件
登録有形文化財
構造、形式、建築年代、登録基準 次のとおり 本 堂:木造平屋建、瓦葺、建築面積805 ㎡【登録基準(二)】 元禄15(1702)年/明和2(1765)年改修 貴賓室:木造平屋建、瓦葺、建築面積109 ㎡/18 世紀前期【登録基準(二)】 大広間:木造平屋建、瓦葺、建築面積288 ㎡/昭和9(1934)年【登録基準(一)】 大玄関:木造二階建、瓦葺、建築面積180 ㎡/昭和9(1934)年【登録基準(一)】 鐘 楼:木造平屋建、瓦葺、建築面積14 ㎡/明和5(1768)年【登録基準(一)】 山 門:木造、瓦葺、間口4.6m/大正前期【登録基準(二)】 佐賀城跡北に位置する佐賀の中心的浄土真宗寺院。境内中央に西寄りに本堂を建て、東側の中庭を囲うように貴賓室、大広間及び大玄関を配す。本堂の南東に鐘楼を建て、境内南辺に山門を開く。本堂は正面九間、奥行八間半、入母屋造本瓦葺で九州有数の規模と古さを持つ。貴賓室は、切妻造桟瓦葺で簡素ながら上質な藩主御成間と伝わる書院。大広間は、南北に長大な平面を持ち小屋組にキングポストトラスを用い大空間を実現。大玄関は、切妻造桟瓦葺で無柱の大空間が特徴。鐘楼は、入母屋造本瓦葺で佐賀城下の時鐘として用いられたと伝わる。山門は、四脚門で透彫ぼりや鈁金具など随所に浄土真宗寺院らしい華やかな装飾を見せる。 ※写真は本堂、山門、鐘楼
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旧枝梅酒造店舗兼主屋
登録有形文化財
建設年代等:次のとおり 木造二階建、瓦葺、建築面積200 ㎡ 江戸末期/平成30 年改修 旧長崎街道に南面する造り酒屋の町家。二階建ての寄棟造桟瓦葺の平入で背後に棟を延ばし、全体にコの字の屋根とする。正面は一階に下屋を付し、二階は軒まで塗込める。内部は東側を土間、西側を二列五室の部屋とする。佐賀特有のくど造の様相を伝え、建ちが低く全体に古式を残す。
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庄野家住宅金蔵(旧佐賀城本丸御蔵) 庄野家住宅隠居所
登録有形文化財
【建設年代等】 金 蔵:土蔵造二階建、瓦葺、建築面積28 ㎡ 江戸末期/明治前期・昭和45年(1970)移築 隠居所:木造平屋建、瓦葺、建築面積60㎡ 昭和前期/昭和45年(1970)移築 金蔵は、佐賀城南西、国道に南面した敷地東に建つ佐賀城の蔵を移築した土蔵。 土蔵造二階建南北棟の本瓦葺で、一階北面に下屋を付し西面北寄りに庇付の出入口を設ける。外周部は腰高の竪板張とし上部は漆喰塗で軒裏は曲線状の揚塗とする。佐賀城の遺構として貴重。 隠居所は、水路に囲まれた敷地の北、金蔵の東に建つ。入母屋造桟瓦葺、四周に庇を廻らす。東に床棚付の座敷八畳と次の間六畳を東西に並べ、南北に縁を付しガラス戸を建て込む。部屋縁境の額入障子や欄間、付書院障子に用いた精緻な組子が目を引く近代和風の書院。 (隠居所写真:佐賀県提供)
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旧松野家住宅(野口家住宅) 主屋、小屋、門柱及び石垣、取水池 計4件
登録有形文化財
【主屋】 建築年代:明治42年頃 佐賀市街地北方の山間集落に位置する旧家の主屋。木造二階建桟瓦葺で、入母屋造の屋根を直交し、全体に矩折れの平面とする。東に広い土間、西に二列三室を配し、上手正面に主座敷を突出する。式台や拭漆塗仕上とした仏間など、随所に家格を示す設えを備える。 【小屋】 建築年代:明治前期 主屋の東、敷地北東隅に西面して建ち、座敷と物置からなる建物。木造つし二階建桟瓦葺。二階外壁は妻壁を大壁とする。物置には農機具や薪等を納めた。座敷は床、天袋、平書院を備え、縁を廻らす。青年組の宿にも利用するなど当地域の習俗を示す上でも貴重。 【門柱及び石垣】 建築年代:大正前期 敷地南東隅に門柱一対を立て、左右に石垣を延ばし、敷地南半を取り囲む。いずれも同質の花崗岩を使用し、石柱は角を江戸切仕上、頂部を角錐形とする。石垣は全体を反上げて積上げ、出隅部を鎬積とし、敷地形状に合わせて天端を揃えるなど高い技術を用いる。 【取水池】 年代:大正前期(昭和40年頃改修) 敷地東辺石堀北端に設けた取水池。石垣沿いの水路から取水する。石垣と同様の花崗岩を用いた石垣を北に開いたコの字形に積上げ池を囲む。池はほぼ正方形で、中央にコンクリート製の橋を渡す。石垣との取合や端部の納まりなどに、石材加工技術の高さを示す。 ※写真は主屋、門柱及び石垣、取水池