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[指定文化財][佐賀市][史跡]は19件登録されています。
指定文化財 佐賀市 史跡
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牛嶋口跡
史跡
江戸時代の佐賀城下には主に六箇所の入口(牛嶋口、八戸口、今宿町口、唐人町口、多布施町口、天祐寺町口)があり、木戸や番所を設けて通行人を監視していた。そのなかで、城下東に位置する牛嶋口は、牛嶋構口や慶長町口とも呼ばれ、城下の大手口として格式の高い入口のひとつとされていた。 平成28年度の発掘調査で、絵図と合致する橋の土台が発見されたことで、番所の位置も特定でき、「牛嶋口」の位置が明確になった。さらに、橋土台に築かれた石垣は、「輪取り」や「シノギ角」など、城の石垣構築に通じる技術集団の係わりが推測されるもので、対外的に見せることも意識した造りであること、橋桁を支える「枕土台」を検出したことで、絵図や文献資料から、長さ20m、幅6m規模の太鼓橋であったと考えられること、街道は砂と粘土を何層にも突き固めて整地され、人や荷車などが通るため以外に、別の意図があったことが想像される強固な地行が行われていることなど、この場所に対する佐賀藩の強い意識がうかがわれる痕跡が明らかになった。 明治時代以降、主要道路に架かる橋の多くは近代的な橋に架け替えられ、古い時代の痕跡は失われてきた。そのような中、牛嶋口の遺構が残されたのは、場所をかえて新たな橋が架けられ、その後も大きな開発の手が加えられなかったことが要因である。 牛嶋口跡は、佐賀城下の入口を示す遺構が良好な状態で残り、今では失われた橋と街道遺構の構造が一体的に判る貴重な資料として全国的に見ても数少ない例である。さらに佐賀城下を形成するにあたり、歴史的、地理的に重要な場所である。 関連情報(※URLをコピーしてご利用ください) https://www.city.saga.lg.jp/main/50105.html
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燈堂
史跡
戦国時代の勇将、龍造寺隆信(1529〜1584年)は、豊後の大友氏に内通した家臣に追われ、筑後柳川に近い一木村に身をひそめていた。天文22年(1553年)ひそかに水ケ江城奪還を企てていた隆信は、鹿江兼明らの船に乗り、犬井道地先の燈堂に上陸した。当時この辺一体は葦の生い茂った海岸で、航路の安全を祈る灯(燈=あかし)をつける堂があったことからアカシドウと呼ばれている。 上陸後、破竹の勢いで周辺の諸将を降した隆信は、遂に五国(肥前・筑前・筑後と肥後・豊前の一部)二島(壱岐・対馬)の大守となり、九州では薩摩の島津、豊後の大友と並ぶ戦国大名となった。 隆信の座像は、当初昭和28年4月南川副町制施行を記念して、地元の有志によって建立されたが、その後損傷が激しくなったため、平成10年9月に改築されたものである。
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此荷大明神
史跡
西川副小学校から南西方向に約500メートル、田畑が広がるなかに、ひっそりと立つ小さな祠がある。「此荷大明神(このにだいみょうじん)」と刻まれたこの祠には、戦国時代の勇将、龍造寺隆信にまつわる次のような言い伝えがある。 筑後一木村(今の福岡県大川市一木)に身をおいていた隆信が天文22年(1553年)再起を期して、海路から犬井道の燈堂に上陸したあと鹿江の威徳寺に入り、軍備を整えたとき、この地に軍荷を置いたというものである。 かつては、この祠を囲んで楠や松の大木と雑木が生い茂った森があり、地元の人から「コーノイさん」と呼ばれ親しまれていた。 昭和55年圃場整備事業で樹木は全部切り倒され、今では一基の祠を残すだけとなった。
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大野代官所跡
史跡
大野は国道232号線に沿って神水川流域左岸に位置し、江戸時代は山内(さんない)郷に属していた。佐賀藩領であったが、元和3年(1617)に鍋島元茂(もとしげ)が小城支藩の初代藩主となった際に、佐賀藩より分知され小城藩領となった。 代官所設置の時期は明らかでないが、小城藩では天保9年(1838)に遠隔地である山代郷と山内郷に目代を置いた。目代の職務は代官以下の監督、軽罪の裁断、刑罰の執行、治安の維持、納税に関する事務などであった。安政6年(1859)年3月には小城藩士富岡敬明(とみおかけいめい)が2代目の目代として大野に赴任している。また、江戸後期の大野が記載された地図が二葉あるが、そのうち『小城山内』図には代官所が記載されておらず、『小城郡山内郷大野村見取絵図』には代官所として冠木門(かぶきもん)と建物が描かれていることから、設置は江戸後期であろうと考えられている。 この地は、福岡藩や唐津藩に通じる交通の要所にあり、また国内情勢が不安定になってきたことにより設置された可能性が考えられる。 当時の様子を伝えるものは石垣と石段のみで、石垣で囲まれた3段の敷地内にどのような建物が建っていたかは明らかでない。石垣は、石材を斜めに落とし配置する「谷落とし積み」を意識した積み方で築かれており、石垣の勾配は、上部の石材になるほど徐々に急になっている。また隅角部(すみかどぶ)は、長方形の石材を長い面と短い面を交互に積み上げる「算木積(さんぎつ)み」を意識して積んである。これらの技法は全国的にも通常は城郭にしか見ることができず、一般的に用いられるものではない。佐嘉藩の土木技術の高さを示すだけでなく、佐賀県を代表する土木遺産のひとつであり、土木史の研究においても貴重な遺跡である。残存状況も極めて良好で、県内に残る数少ない江戸時代の遺跡として、重要かつ貴重なものであり、卓越した石垣構築技法を持つ技術集団が存在していたことを確証させる貴重な事例になる。 石段は6段あり、幅約6メートル、高低差は約2メートルを測り、代官所の正門に続く石段とみられる。 その後維新をむかえ、明治五年には上瀧空蝉が初代戸長として就任し、明治十七年藤瀬に役場が設置されるまで代官所は戸長役場として機能していた。その後明治二十五年頃に南側一段目に建っていた瓦葺白壁塗の土蔵が解体移築され、同四十一年頃には馬繋場の北側に築かれていた高3メートル幅7メートル程の石垣塀と、最上部の2メートルの石垣が取り払われたと伝えられている。
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華蔵庵跡
史跡
寛文9年(1669)、佐賀藩2代藩主鍋島光茂による円蔵院住職村了和尚の処刑に抗議して高伝寺11世湛然和尚は筑前へ出国しようとした。光茂は国内に留まるように願い、松瀬の地に隠居寺として一宇を建立し、寺地7反余(70アール)、山林4町5反(4.5ヘクタール)を附して10石を扶持し、華蔵庵と名づけて高伝寺の末寺とした。湛然和尚は晩年をこの庵で過ごした。 「葉隠」を口述した山本常朝は、華蔵庵で延宝7年(1679)4月3日に、湛燃和尚から血脈を受けた。湛然はここに足掛け12年住み、延宝8年(1680)11月10日に没した。
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肥前国分寺跡
史跡
肥前国分寺跡は佐賀市大和町大字尼寺字真島(通称、国分)にある奈良時代の寺院跡である。佐賀市街北方約5キロメートルの脊振山麓の嘉瀬川で形成された扇状地の東端に位置する。 肥前国分寺の造立年代は不詳だが、聖武天皇による国分寺・国分尼寺造立の詔は、天平13年(741)に出されており、そのころに造られたと思われる。 寺域は2町(1辺約216メートル)四方で、西辺で西門と外溝、西南隅の築地痕跡、東辺で築地と外溝、南辺では外溝が確認されている。 伽藍配置は中央に金堂、北側に講堂、東南方に塔を配置したものと考えられており、おそらく中門に取り付く回廊がこれらの建物を取り囲んでいたと推定される。金堂跡と推定される建物基礎跡は、南北39.4メートル、東西20.8メートルに復元できる。その上に4間×9間(13.2メートル×33.3メートル)の建物が復元想定される。講堂は僧侶たちが修学する場でその詳細は不明であるが、礎石等の散乱の状態や、整地上の状況から金堂の北側に位置していたと推定される。塔跡と推定される基壇跡は、南北24.9メートル、東西25.4メートルのほぼ正方形に近い掘り込み地業基壇(基礎づくり)である。塔については、金堂の東南約40メートルのところで、講堂、金堂との位置関係から七重塔と考えられている。 また寺域の東側では瓦窯4基が発見されており、出土軒瓦はすべて鴻臚館系のものである。創建瓦は複弁蓮華文軒丸瓦と均正唐草文軒平瓦で、ほかに鬼瓦、道具瓦も出土している。
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乱斗山古墳群
史跡
金立山麓の金立川流域に、古墳時代の6世紀後半~7世紀前半に築造された黒土原古墳群、金立社中宮付近古墳及び乱斗山古墳群がある。これらの群集墳のほとんどは横穴式石室を内部主体とする小円墳である。他地域にも、これに類するものが存在していたが、一部を残してほとんどが消滅している。 このような状況のなか、殊に乱斗山古墳群は、壊されずにその特徴を留め、良好な状態で遺存している。現在確認できる円墳は4基である。 その特徴は、 ・巨大な石材を使用して石室を構成した巨石墳。 ・石室の巨大さに比べて封土は小さく群集墳をなす。 ・石室は、単室もののほか奥室と前室の2室を有する副室墳。 ・内部主体が整備され、外郭の封土より内部の石室構成に重点が置かれている。 などである。
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導善寺前方後古墳
史跡
導善寺前方後円墳は池上集落の中ほどにあり、全長60メートル、一段の前方部を西側にとり、幅20メートル、長さ23メートル、高さ1メートルを側り、後円部は2段で径38メートル、高さ4メートルを測る。築造年代は、5世紀前半と推定される。前方後円墳の発生については不明な点が多いが中央政権の成立と大きくかかわることなどから大和における古代史の謎をとく大きな鍵の一つと思われる。また前方後円墳という珍しい墓型を将来のため保存、活用することは大きな意味をなすものと思われる。
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高麗人の墓碑・逆修碑
史跡
『葉隠聞書』第三に「有田皿山は、直茂公高麗国より御帰朝の時(慶長3年-1598)宝になるべくと候て、焼物上手頭六、七人召し連れられ候。金立山に召置かれ焼物仕上り候。其の後、伊万里の内、藤河内山に罷り移り焼物仕上り候、それより日本人見習い伊万里有田山方々に罷り成り候由」とある。 この聞書の金立山は、現在の佐賀市金立町の大門で、この内容を裏付ける史跡として、2基の石碑が建立されている。 高麗帰化人の墓碑で、「逆修、朝鮮国工政大王之孫金公之」、右側に「道清禅定門寛永六年已巳八月日」左側に「妻女同国金氏妙清禅定尼八月日」とあり、他の一基には「暁月禅定門寛永五年戊辰九月初五日」とある。 この墓碑は、16世紀末李氏朝鮮国の陶工団によって、陶磁が焼かれていたことをうかがわせていると共に肥前磁器の源流を究明する上から貴重な墓碑である。
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初代肥前国忠吉の墓地
史跡
肥前刀の刀工の祖である初代肥前国忠吉の墓が真宗本願寺派の真覚寺にある。 初代忠吉は元亀3年(1572)高木瀬村長瀬に生まれ、橋本新左衛門と称した。慶長元年(1596)上京して埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り、刀工としての技を磨き、慶長3年(1598)に帰国して佐賀城下(現在の佐賀市長瀬町)に居を移し、佐賀藩の抱刀工となった。元和10年(1624)に再度上京して武蔵大掾(むさしのだいじょう)を受領し、後に名を忠広と改めている。 日本の刀剣史上、肥前新刀の占める比重はきわめて大きく、このことは桃山時代末期の刀匠である初代肥前忠吉の功績がいかに大きいものかを裏書しており、初代肥前国忠吉は本県の刀剣史上きわめて価値が高い人物である。
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鍋島家発祥の地 御館の森
史跡
鍋島家発祥の地「御館の森」は、鍋島家の祖、長岡経秀が山城(やましろ)の国長岡から肥前に下向し鍋島の地に居を構えていたところと伝えられている。 経秀の子、経直を伴って肥前に下向して鍋島の地に居館を構え、鍋島氏を名乗るようになった。ただ、その邸地がどこにあったかを知り得る文献的史料はない。地域の人たちが保存してきた御館の森は、近世を通じて佐賀の藩主であった鍋島家の発祥の地として歴史的価値がきわめて高い。
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金立神社上宮
史跡
金立神社は、平安時代の貞観2年(860)に従五位下を授けられたことが正史に見える由緒の古い金立神を奉祀する神社であって、鎌倉時代には社領10町歩を保有し、江戸時代には雨乞いに霊験のある神として、佐賀藩主をはじめ広く人びとに崇敬されていた神社である。 祭神は、保食神(うけもちのかみ)・罔象売女命(みずほめのみこと)・秦の徐福の3神である。 「湧出御宝石」と称される巨石や巨木などの自然物を神の依代(よりしろ)として崇敬した神社形態が整う以前の古い祭祀の名残りをとどめる県内では例の少ない信仰史上極めて価値の高い祭祀遺跡である。 また、一間社流造りの神殿や入母屋造りの拝殿は、その造立年代は新しいにしても県内では類例のない大規模の石殿として、石材工芸史上注目すべき価値を有している。
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万部塔と六地蔵
史跡
万部島は、かつて、佐賀城の東堀と多布施川に囲まれた文字通りの島であった。城内から舟で、あるいは裏御門を通り向陽軒(東屋敷)から陸伝いに参詣するようになっていた。 万部島には数種類の石造物が建立されている。 万部塔は、佐賀藩の代々の藩主又は、嫡男が自ら願主となって「国家安泰・万民安楽」を祈願しての法華経一万部読誦の結願石塔11基が整然と並び建っている。その形式はすべて同じで、台石、蓮華台、棹石(上部三角)の四部分から構成され、高さはもちろん、問隔礎石の大きさに至るまで、まったく同じ形状寸法である。 現在は塔群のみであるが、かつては万部堂仁王門など付設してあったと伝えられている。 万部執行は、近世に入って各藩で行われていたが、佐賀では鍋島以前、龍造寺山城守家兼(剛忠)が、永正2年(1505)3月、天亨和尚(剛忠の弟で水上山万寿寺の僧)を導師として野田石見が奉行となって執行したのが最初である。 鍋島氏になってから初代藩主勝茂が、かつて脊振千坊の流れをくむ金乗院(天台宗、吉野ヶ里町目達原)の玄純僧正に「国家安全と万民安楽の道」をたずねた折、僧正は「法華経一万部の読誦による功徳は限りないものがある」と即答したことによってはじめられたと伝えられている。名代の藩主又は嫡男が1基あて建立しているが、藩主自ら願主となっての祈梼法要は領民との融和を図るのに大きな役割を果たしたと思われる。 また、龍造寺家兼(剛忠)ゆかりと伝えられる六地蔵2基が現存している。 南側の六地蔵は、高さ1メートル60センチ内外で竿石の中央に「天文弐暦十一月廿八日」とあり、「願主権大僧都弁仁 大工亦七郎」と刻まれている。通例の形式の石製六地蔵である。笠石は二重の四角形で両角の部分が角瓦をおもわせるような耳付をみせている。 北側の六地蔵は南側よりも全体が高く、台石から笠石まで2メートル50センチ内外で、礎石を兼ねた下部の支柱と台座を支えている上部の竿石からなっており、その上に台座と蓮華台がある。塔身は、尊像が上下二段に刻まれており、下段は立像の六躰地蔵で、地蔵列の肩上にさらに並列する六軀の彫像があって六角形の笠石がその上にかぶさっている六尊六地蔵塔である。 竿石の中央には、「天文二二年乙未霜月七日 大周壽成建○」と刻まれているが、全体の摩滅が激しく判読しにくい。 (写真:鍋島報效会提供)
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高伝寺墓所
史跡
高伝寺は、天文21年(1552)に開山され、その後、鍋島家の菩提寺となった。 山門及び本堂は明治34年(1901)に改築された。山門に掲げられた扁額「恵日山」の彫刻の書は即非禅師の筆、また、本堂入口直上の彫刻の扁額「高傳禅寺」は、黄檗の僧、独立禅師の筆である。 高伝寺の境内の西側に位置する約45アールの墓地は龍造寺家及び佐賀藩主鍋島家の歴代の墓で塔や多くの石灯籠などが整然と並んでいる。墓域は明るくて広く、独特の雰囲気と調和の美を現わしていて、一種の墓地公園の観を呈している。 墓所は明治4年(1871)に、鍋島直大(なおひろ)が各地に散在していた前領主龍造寺家の墓及び鍋島家の墓をこの墓地に改葬した。東側一帯に龍造寺家の墓塔10基、西側一帯に鍋島家の墓塔16基が並んでいる。 近世の墓塔の変遷や佐賀の近世史を研究する上からも資料的価値が高い。
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龍造寺隆信誕生地
史跡
肥前を代表する戦国大名、龍造寺氏は現佐賀市城内一帯の小津東郷龍造寺村の地頭から、戦国の争乱の中で次第に東肥前地方に勢力を伸ばしてきた。明応の頃(1492〜1501)に、本家の村中龍造寺家と、分家の水ヶ江龍造寺家とに分かれて、群雄に対する防備を固めた。 龍造寺隆信は、享禄2年(1529)2月15日水ヶ江城東館天神屋敷で生まれた。天文5年(1536)7歳のとき宝琳院(ほうりんいん)に入って出家し、円月と号し、また中納言と称した。 天文15年(1546)3月、曾祖父龍造寺家兼(剛忠)が93歳で死去した。家兼の遺志により、中納言は還俗して胤信(たねのぶ)と称し、水ヶ江龍造寺家を継ぎ、翌々年の天文17年に村中龍造寺家も継いで、龍造寺宗家の当主となり、山城守隆信と称した。 肥前・壱岐・対馬・筑後を平定し、肥後北部の諸将を従属させ、西筑前の九郡と豊前の北半を領有し、天正8年(1580)ごろ、五州二島の太守と称され、竜造寺氏の全盛時代を築いた。 誕生碑のかたわらに胎盤を納めた胞衣塚(えなづか)がある。形状は高さ1.10メートルで、1.90メートル四角である。
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鍋島直茂誕生地
史跡
佐賀藩藩祖鍋島直茂(なおしげ)は、天文7年(1538)に清房(きよふさ)の二男として、本庄館で生まれた。母は、龍造寺家純(隆信の祖父)の娘。現在、胞衣塚(えなつか)だけが残っている。初名は彦法師丸、信安、信昌又は信生、天正17年(1589)従五位下に叙し、加賀守となり、直茂と改めた。 戦国武将・龍造寺隆信のもとで武功を重ねた。元亀元年(1570)、豊後の大友義鎮(宗麟)の佐賀攻略に際し、今山(佐賀市大和町)に陣した大友勢を直茂の果敢な働きで、敗退させた。天正12年(1584)、龍造寺隆信が島原の戦いで戦死すると、龍造寺氏の領国の取締りに当たった。慶長12年(1607)、龍造寺政家・高房の死後、多布施に隠居し、家督を嫡子勝茂(佐賀藩初代藩主)に譲った。元和4年(1618)に81歳で没す。法名高伝寺殿日峯宗智大居士。 (写真:鍋島報效会提供)
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葉隠発祥の地
史跡
現在、山林及び畑地等となっていて、葉隠の口述者山本常朝が隠棲(いんせい)した朝陽軒(ちょうようけん)(のち宗寿庵(そうじゅあん))等の遺構は残っていない。 ただその跡に「大乗妙典一千部」石塔があり、それより東方100メートルほどの所に「常朝先生垂訓碑」が建てられている。 元禄13年(1700)山本常朝は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂死去のため落髪出家してこの朝陽軒(のち宗寿庵)に隠棲した。10年を経て同藩士田代陣基(つらもと)が自已修養のため、ここを訪れ教えを請い、のちの大小隈(だいしょうくま)での口述と合せて7年にわたり、その教訓を中心に筆録したのが葉隠11巻である。 千部経塔は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂の夫人が亡夫追善のために法華経一千部を自読した碑で「大乗妙典一千部、元禄十四年辛巳年始繙之而至正徳二壬辰年五月十六日圓満修」と刻まれている。 「常朝先生垂訓碑」は、昭和10年(1935)10月に建設されたもので、碑面の文字は武富時敏の書で、碑文は西村謙三の撰を中島雅明が書いている。また、碑の背面には、「憂世から何里あろうか山桜」「白雲や只今花に尋ね合ひ」の句が記されている。
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築地反射炉跡
史跡
佐賀藩は、江戸時代初期から、福岡藩とともに、外国船に対する長崎警備を担当していた。嘉永3年(1850)頃、佐賀藩は長崎港外(外目(そとめ))の防御の重要性を幕府に建議し、外目の島々の内、佐賀藩領であった伊王島(いおうじま)と神ノ島(かみのしま)に砲台(台場)を増築することで、長崎警備の強化を行うこととした。そこに据え付ける大砲が必要となり、鉄製大砲の鋳造をするために反射炉を築造することとなった。 嘉永3年6月に「大銃製造方(だいじゅうせいぞうかた)」を設置し、築地(ついじ)の一辺に反射炉築造を始め、11月に完成をした。この初号炉で鉄の鋳造を数回試みて、翌4年(1851)4月に行った5回目の操業で、初めて鋳造に成功した。その後、2番目の炉は同年10月に完成し、3・4番目の炉も嘉永5年(1852)4月に築造が完了し、大砲の砲身をくり抜く錐鑚台(すいさんだい)やそれを動かす水車なども随時製作した。 同年6月の操業を藩主鍋島直正が見学した際には反射炉4炉を同時に稼働させ、36ポンド砲の鋳造を行っている。 築地反射炉跡は、現在、日新小学校敷地、民家等になっていて、反射炉が築造されたころの面影はない。現在までの調査では大量の鉄滓が出土したほか、木炭(燃料)や耐火煉瓦のように反射炉操業に関連する遺物と、磁器碗や下駄、火鉢類のような生活雑品が出土している。 日本で最初に反射炉で鉄製大砲を鋳造した意義は大きく、日本の近代化産業の象徴ともいうべきものである。 (写真:鍋島報效会提供)
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思案橋荷揚げ場跡
史跡
江戸~明治期の物資運搬は、人力運搬や荷車・人力車による車運搬と共に、舟運が重要な手段で、思案橋界隈が物資の取り扱い場として栄えていたことが文献資料等からもわかる。発見された遺構は、そのことを具体的に裏付けるものであり、商業地として栄えた往時の重要な流通手段となっていた舟運に関連する遺構は、佐賀城下の歴史を知る上で貴重なものである。 また、石垣護岸と雁木(がんぎ)が一体となって状態よく残っており、佐賀城下では初めての発見である。石段の据え方などの構築技術を知る上で貴重であると同時に、長崎街道と紺屋川が交差する特徴的な景観を留める場所で、江戸時代から現代にいたる川幅や土地利用の変遷、それによる景観の移り変わりをたどることができる場所である。