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[指定文化財][佐賀市][日新校区]は10件登録されています。
指定文化財 佐賀市 日新校区
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初代肥前国忠吉の墓地
史跡
肥前刀の刀工の祖である初代肥前国忠吉の墓が真宗本願寺派の真覚寺にある。 初代忠吉は元亀3年(1572)高木瀬村長瀬に生まれ、橋本新左衛門と称した。慶長元年(1596)上京して埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り、刀工としての技を磨き、慶長3年(1598)に帰国して佐賀城下(現在の佐賀市長瀬町)に居を移し、佐賀藩の抱刀工となった。元和10年(1624)に再度上京して武蔵大掾(むさしのだいじょう)を受領し、後に名を忠広と改めている。 日本の刀剣史上、肥前新刀の占める比重はきわめて大きく、このことは桃山時代末期の刀匠である初代肥前忠吉の功績がいかに大きいものかを裏書しており、初代肥前国忠吉は本県の刀剣史上きわめて価値が高い人物である。
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築地反射炉跡
史跡
佐賀藩は、江戸時代初期から、福岡藩とともに、外国船に対する長崎警備を担当していた。嘉永3年(1850)頃、佐賀藩は長崎港外(外目(そとめ))の防御の重要性を幕府に建議し、外目の島々の内、佐賀藩領であった伊王島(いおうじま)と神ノ島(かみのしま)に砲台(台場)を増築することで、長崎警備の強化を行うこととした。そこに据え付ける大砲が必要となり、鉄製大砲の鋳造をするために反射炉を築造することとなった。 嘉永3年6月に「大銃製造方(だいじゅうせいぞうかた)」を設置し、築地(ついじ)の一辺に反射炉築造を始め、11月に完成をした。この初号炉で鉄の鋳造を数回試みて、翌4年(1851)4月に行った5回目の操業で、初めて鋳造に成功した。その後、2番目の炉は同年10月に完成し、3・4番目の炉も嘉永5年(1852)4月に築造が完了し、大砲の砲身をくり抜く錐鑚台(すいさんだい)やそれを動かす水車なども随時製作した。 同年6月の操業を藩主鍋島直正が見学した際には反射炉4炉を同時に稼働させ、36ポンド砲の鋳造を行っている。 築地反射炉跡は、現在、日新小学校敷地、民家等になっていて、反射炉が築造されたころの面影はない。現在までの調査では大量の鉄滓が出土したほか、木炭(燃料)や耐火煉瓦のように反射炉操業に関連する遺物と、磁器碗や下駄、火鉢類のような生活雑品が出土している。 日本で最初に反射炉で鉄製大砲を鋳造した意義は大きく、日本の近代化産業の象徴ともいうべきものである。 (写真:鍋島報效会提供)
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旧城下町の道標 一基
重要有形民俗文化財
江戸時代には、街道又は脇街道などの主要幹線道路が整備され、街道には一里塚あるいは道標などが設けられて、陸上交通は著しく発達した。 この道標は、長崎街道に設けられた道標の一つで、佐賀城下の長瀬町から長崎街道をそれて、南の諌早渡海場へ通ずるその分岐点に建てられていた。 安山岩製の方柱の上端は、しのぎがあって山形に削られていて、地表からの現高は約122センチメートル、幅は21センチメートルで、方柱の二面に方向が刻まれている。 方柱の上端に一指をのばした手を刻んで方向を表示し、その下に行先の地名が刻まれている。手はまわりを彫りくぼめて浮彫りにし、文字は平仮名を用いて陰刻している。 一面には、「ながさき道、こくらみち」と、2行に、他の1面には、「いさはやとかいばへ」と1行に刻まれている。 この道標が設けられた年次は明らかでないが、その様式からみて江戸時代の中期以降にくだるものであろうと推定される。 江戸時代の街道は、そのほとんどが改変され、一里塚や道標もほとんど姿を消してしまった今日、原位置近くに現存しているこの道標は、往時の交通資料として注目すべき価値を有するものがある。
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ガラス工芸技術(宙吹き等)
重要無形文化財
佐賀藩は、近代的軍備の研究の必要性から、嘉永5年(1852)、佐野常民を中心に、蘭学者などを結集して、佐賀城下多布施川流域の多布施に精煉方(理化学研究工場)を設置した。ここでは、鉄砲関係の火薬製造をはじめ、ガラスなど理化学中心の研究、実験製造が行われた。明治期になり、鍋島家の管理となったが、明治16年(!883)に精煉社として民間経営に移行し、同27年(1894)に佐賀精煉合資会社に組織替えされ、理化学用材から日用雑器のガラス製品を製造した。 佐賀精煉合資会社に従事し技術を保持する副島源一郎が本庄町(現末広)に分離独立し、ガラス製造工場を開設し、明治36年(1903)に現在地の道祖元町に工場移転、同地において昔ながらの技法をもって生産が続けられている。 オランダ、ポルトガルの文献から学び取った技術とともに、型を用いずに息の吹きこみで整形する宙吹き技法は、日本独特のジャッパン吹きの技法として貴重なものである。
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木原隆忠の墓誌
重要文化財
木原隆忠(文政11年~明治12年、1821~1879)は、佐賀城下に生まれ、藩校弘道館に入学。そして江戸昌平黌に学び、後、弘道館教諭を務め、戊辰の役では参謀として江戸に入り、そして会津戦争に参画した。佐賀の役ではその善後策に尽くし、後には家塾を開いて子弟教育にあたるなど数々の功績を残している。 その徳を慕って、同志117名が建立した「木原先生之墓」が法蔵院(廃寺、伊勢町)跡の墓地にある。この墓から砂岩で加工された墓誌が出土し、現在法蔵院の本寺の大覚寺に保存されている。 墓誌は、死者を哀悼追慕して、金属板や塼、石などに姓名、経歴、没年、法名などを記して墓内に埋納する副葬品である。 この墓誌は、市内では多久安輝の墓誌についで2例目のものである。 この木原隆忠の墓誌は、肥前の近世墓誌の系譜をそのまま受け継いだ簡潔なものの一つであり、墓末~明治維新期を研究する上で、貴重な歴史資料である。
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多久安輝の墓誌
重要文化財
多久安輝の墓誌は、県内では多久市の「川浪自安先生墓誌」に次ぐ2例目のものである。形状は縦7センチメートル、横35センチメートル、高さ16センチメートルで重箱状を呈し、石質は安山岩系である。 墓誌には、多久安輝の父は多久美作守で、五男。母を本藩主勝茂の二女とし、城内水ヶ江で生をうけ高木村にて数え69歳で没したことなどが記されている。安輝については多久家系譜にもその名が見え、生誕{正保2年(1645)9月29日}、没年月日{正徳3年(1713)5月14日}も一致するが、その人物に関しては詳しい資料がなく、今回の発見がその手がかりになると考える。また、慕誌の埋納は儒学隆盛を背景にして古代の風習を再度取り入れたもので、佐賀藩における儒学研究を行う上で重要な資料といえる。
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木彫毘沙門天立像
重要文化財
本行寺は、日蓮宗身延山(みのぶさん)派に属する寺院で、毘沙門天立像は、本堂の中に併設した毘沙門堂(殿)に安置してある。 毘沙門天は、天部に属し、護法神の一つで、常に道を守って説法を聞くことから多聞天とも呼ばれる。顔の表情は、仏法を守護するきびしさと、人問の煩悩(ぼんのう)を叱咤(しった)するような、へいげいした力強さがあり、その内面には万民の幸福を守る慈悲心が宿されている。 本像は、頭部から脚部まで110センチメートル、仏頭22センチメートル、肩から腰部より脚部まで65センチメートル、台座から槍上まで147センチメートルである。 けやき材を素材とした寄木造りで、彫こんは、自由奔放にして稚拙さがあり、ほとんど損傷がなく原形が保たれている。玉眼はなく、木彫りのままであるが、作調、様式からみて平安時代の作かと推定される。両手の槍、剣と台座は部分的に後作補修のあとがあるが、佐賀市内の寺院堂宇にある天部尊像の中では、他に類のない貴重な木彫であり、本県内の仏像彫刻の中でも特長のある作調である。
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鐘楼 一棟
重要文化財
浄土真宗真覚寺は、永禄年間(1558~1569)に創建され、鐘楼は元禄12年(1699)に建立されたものである。 桁行(けたゆき)2.81メートル、梁間2.55メートルで平面は正方形に近く、軒の高さは3.04メートルで、用材はすべて欅(けやき)材である。 屋根は本瓦葺、照り屋根で切妻造り、棰は二重角棰で化粧裏板張り、妻は破風打ち、懸魚(げぎょ)は腐朽して外れているので様式は不明である。柱は方柱で江戸風な細い面がとってあって、わずかに内転びに立てられていて、頭貫(かしらぬき)、腰貫、地貫によって軸部が固められている。柱下の礎石は30センチメートル角、厚さ6センチメートルの平石で基壇は高さ60センチメートルの乱石積み、床は粘土たたき仕上げである。 妻の大瓶(たいへい)束及び斗(ます)に四方に木鼻がつけられていて、大瓶束の下の方は獅子面の彫刻で飾られている。蟇股(かえるまた)は桁方向のものは、くり抜き墓股で、妻側は梵鐘の重みを考慮して板蟇股(平安後期以前)が使われている。梵鐘受けの虹梁と妻の虹梁は共に二段眉がとってあって桃山調、また頭貫の上に台輪が梁えられていて、これ等の木鼻が賑やかである。 屋根の重厚さに対し、吹き放しの四本柱の架構は簡明すぎる感じがするが、上中下三段の貫で絞め固められた柱は、やや内側に倒れて踏ん張っていて、力強さを表現している。 この鐘楼は県内の寺院建築の中でも、その価値は高く評価される。
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末代念仏授手印
重要文化財
略して「授手印」ともいう。浄土宗の開祖法然上人(源空)相伝の念仏往生の正義を明記し、手印をもってこれを記したものである。法然上人の死後、その教義について、徒弟の間に異なった多くの解釈が行われたので、これを統一するため、高弟の一人弁長(又弁阿、聖光房鎮西上人)が法然の教義を選述し自ら手印を押したので、これを授手印というのである。 弁長の書いたものを、更に書写したのが8巻であったと伝えられるが、現存するものは次の5巻である。 肥後 往生院所蔵 聖護本 佐賀 大覚寺所蔵 唯称本 博多 善導寺所蔵 円阿本 筑後 善導寺所蔵 極楽寺本 京都 清浄院所蔵 善弁本(断簡 この中に大覚寺所蔵のものもあるわけで、唯称本というのは、唯称という人によって伝えられた意味である。一説には唯称が書写したともいう。巻尾に朱の両掌が押されている。なお、貞和(北朝)2年(1346)6月全寂、文政3年(1820)4月豊怐の後記がある。 伝来は明らかではないが、大覚寺開山が持ってきたのではないかとも考えられるが、ともかく浄土宗にとっては貴重な存在であることは、大正15年(1926)9月1日宗宝に指定されていることでも明らかである。 授手印を遺した弁長は、筑前遠賀郡香月の生まれ。承安5年(1175)14歳で仏門に入り、36歳の時法然上人に侍して浄土門の秘奥を伝承。師の死後安貞2年(1228)10月、九州に下り肥後白川往生院に住して、この記述をなしとげた。入寂は暦仁元年(1238)3月29日。ときに77歳。 大覚寺の創建は慶長11年(1606)。開山天誉上人は、もと肥前の多久長信が大旦那となって現在の境地を喜捨し、神野の極楽寺を移した形で建てられた。寺号は勅によって大覚寺と改め今日に至っている。
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伊勢神社の石造肥前鳥居及び肥前狛犬像 一対
重要文化財
石造肥前鳥居の特徴は、笠木・島木・貫・柱が通常、2~3本の継材で形成されており、笠木と島木が一体化して木鼻は流線形になっている。さらに、柱の上端の笠木・島木を支える部分には、台輪が必ずつけられており、楔は使われていない。 慶長12年(1607)の造立銘があるこの鳥居は、笠木・貫・柱いずれも3本継ぎで、肥前鳥居の特徴をよく現わしており、造立年代の古いもののひとつとして価値が高い。 石造肥前狛犬は、一般に小形で、姿態は静的であり、また、その彫法は簡潔で素朴なものである。前面と側面を浅く彫り、全体は、丸彫り的に彫整され、前肢をそろえ、前肢の関節を節形に区切をつけて、表現している。後肢は屈して前に伸ばし前肢に接する。 背は半円形、顎は角ばって張り出し、口は顎いっぱいに浅く陰刻している。側面、背面は、極度に簡素化され、毛髪等も数条の線と頭部の項目尻尾、前肢、後肢を浮彫的に表現しているのみである。 在銘のものは少ないが、寛文7年(1667)の造立銘があるこの狛犬は、市内でも最も古い作として注目すべき価値を有する。