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[旧佐賀市][日新校区]は75件登録されています。
旧佐賀市 日新校区
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山口亮一
山口亮一 略年譜 明治13年(1880)8月10日佐賀市赤松町において旧鍋島藩士中野到明の二男として出生、長兄礼四郎、長姉磯千代、に次ぐ第3子の辰年生まれとあって、辰三と命名。 明治19年6歳、医師山口亮橘の養子となり亮一と改名する。 明治36年23歳、佐賀市勧興小学校より佐賀中学を経て、東京早稲田中学校卒業、黒田清輝主宰の東京溜池白馬会洋画研究所に入所。 明治39年26歳、東京美術学校西洋画科入学。 明治43年30歳、第4回文展初入選(わら家)同年山口スガ(16歳)と結婚。 明治44年31歳、東京美術大学校首席卒業、帰郷して一生佐賀に住み製作と後進の指導にあたる。 大正2年33歳、第7回文展入選(薔薇と虞美人草)久米桂一郎、岡田三郎助、北島浅一、御厨純一などと佐賀美術協会を創設する。 大正3年34歳、第8回文展入選(花三種)。佐賀美術協会展覧会第一回展を県会議事堂にて開催。 大正4年35歳、第9回文展入選(白い芍薬) 大正7年38歳、第12回文展入選(鉄砲 合) 大正9年40歳、第2回帝展入選(燈下の静物)宮内省買上げを賜る。 大正10年41歳、佐賀県師範学校に奉職、昭和18年退職まで23年間美術教諭を務める。 大正11年42歳、第4回帝展入選(鳥と子供)佐賀美術協会展覧会第一回を県会議事堂にて開催。 大正15年46歳、第7回帝展入選(縁の庭)モデルはスガ夫人 昭和11年56歳、帝展の無鑑査になる(菊花)。 昭和13年58歳、日展無鑑査出品(白い薔薇) 昭和14年59歳、日展無鑑査出品(爛漫) 昭和16年61歳、日展無鑑査出品(山路) 昭和21年66歳、佐賀美術工芸研究所を開設し、陶磁器美術指導。 昭和24年69歳、佐賀県文化功労者として県教育委員会より表彰を受ける。 昭和32年77歳、佐賀新聞文化賞を受ける。喜寿展を佐賀商工会館にて開く。 昭和33年78歳、喜寿画業展を県文化館ホールにて開催。 昭和34年79歳、東京日比谷画廊にて個展を開く、社会教育功労者として表彰される。 昭和37年82歳、佐賀県知事より文化功労者として表彰される。 昭和41年86歳、勲四等に叙せられ、瑞宝章を受ける。 昭和42年87歳、10月30日永眠。11月4日佐賀市与賀町の浄土寺において佐賀美術協会葬。
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田代通英(孫三郎)
田代通英(通称・孫三郎)は、幕末の佐賀藩士である。弘化二年(1845)の『総着到』によると、佐賀城下鷹師小路居住、石高は十九石八斗であり、少録の下級武士であったようである。生年は明らかではないが、『早引』によれば、安政三年から五年(1856~58)の頃に「五十六歳」であったと記載されており、逆算すると寛政十二年(1800)頃の生まれであると考えられる。安政五年(1858)に、当時流行したコレラにより死去している。 田代通英の業績として最も有名なのは、嘉永三年(1850)の、日本初の大反射炉である築地反射炉築造時の会計事務としての参画である。この反射炉は試行錯誤の末、嘉永五年(1852)に一基が完成し、この功により田代は所謂「御鋳立方の七賢人」に数えられている。その後、安政四年(1857)には、時の老中安部正弘の要請により、杉谷雍助と共に伊豆韮山反射炉築造に派遣されるなど、幕末の科学技術発展に貢献している。
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泰長院文書(一〇五通)十二巻
重要文化財
泰長院は、天文5年(1536)龍造寺大和守胤久によって建立された曹洞宗の寺院。もと今の佐賀城内にあったものを、慶長年間(1596~1614)佐賀城構築の際、現在の地に移された。現在は、臨済宗の南禅寺派に属している。 泰長院に保存されている文書は、全部で105通あり、これを大小12軸の巻子に仕立てられている。これを大別すると次のとおりである。 1、龍造寺氏から当院の住僧にあてた書状。隆信(2通)政家(2通)高房(5通)村田安良(2通) 2、鍋島氏から当院三世住職是琢和尚にあてた書状。直茂(10通)勝茂(18通) 3、肥前国内諸家その他からの書状。江上氏、神代氏、元佶和尚(各1通) 4、文禄慶長年代朝鮮役のとき、敵国諸部将から鍋島直茂にあてた書状その他(62通) 5、是琢の日記(朝鮮在陣中のもの1巻) 上の内、1,2,3の肥前国内関係のものは、おおむね私信といってよく、寒暑の見舞、物品贈答の添状謝状、また茶事の招状などである。この私文書によって、是琢(ぜたく)が直茂、勝茂父子といかに親密で、かつ信任されていたことが知り得られる。 一方、4に属する朝鮮軍部将の書簡は、ほとんど講和についての内容をもっており、直茂が戦闘部隊の指揮官の外、外交についての重要なものであることを特記しなければならない。 この寺に、これだけの重要文書が遺されているのは、泰長院の住職是琢が直茂に従い渡朝し、外交担当の要人として渉外に関与していたからである。また、5の是琢日記も貴重な文献である。
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初代肥前国忠吉の墓地
史跡
肥前刀の刀工の祖である初代肥前国忠吉の墓が真宗本願寺派の真覚寺にある。 初代忠吉は元亀3年(1572)高木瀬村長瀬に生まれ、橋本新左衛門と称した。慶長元年(1596)上京して埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り、刀工としての技を磨き、慶長3年(1598)に帰国して佐賀城下(現在の佐賀市長瀬町)に居を移し、佐賀藩の抱刀工となった。元和10年(1624)に再度上京して武蔵大掾(むさしのだいじょう)を受領し、後に名を忠広と改めている。 日本の刀剣史上、肥前新刀の占める比重はきわめて大きく、このことは桃山時代末期の刀匠である初代肥前忠吉の功績がいかに大きいものかを裏書しており、初代肥前国忠吉は本県の刀剣史上きわめて価値が高い人物である。
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築地反射炉跡
史跡
佐賀藩は、江戸時代初期から、福岡藩とともに、外国船に対する長崎警備を担当していた。嘉永3年(1850)頃、佐賀藩は長崎港外(外目(そとめ))の防御の重要性を幕府に建議し、外目の島々の内、佐賀藩領であった伊王島(いおうじま)と神ノ島(かみのしま)に砲台(台場)を増築することで、長崎警備の強化を行うこととした。そこに据え付ける大砲が必要となり、鉄製大砲の鋳造をするために反射炉を築造することとなった。 嘉永3年6月に「大銃製造方(だいじゅうせいぞうかた)」を設置し、築地(ついじ)の一辺に反射炉築造を始め、11月に完成をした。この初号炉で鉄の鋳造を数回試みて、翌4年(1851)4月に行った5回目の操業で、初めて鋳造に成功した。その後、2番目の炉は同年10月に完成し、3・4番目の炉も嘉永5年(1852)4月に築造が完了し、大砲の砲身をくり抜く錐鑚台(すいさんだい)やそれを動かす水車なども随時製作した。 同年6月の操業を藩主鍋島直正が見学した際には反射炉4炉を同時に稼働させ、36ポンド砲の鋳造を行っている。 築地反射炉跡は、現在、日新小学校敷地、民家等になっていて、反射炉が築造されたころの面影はない。現在までの調査では大量の鉄滓が出土したほか、木炭(燃料)や耐火煉瓦のように反射炉操業に関連する遺物と、磁器碗や下駄、火鉢類のような生活雑品が出土している。 日本で最初に反射炉で鉄製大砲を鋳造した意義は大きく、日本の近代化産業の象徴ともいうべきものである。 (写真:鍋島報效会提供)
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旧城下町の道標 一基
重要有形民俗文化財
江戸時代には、街道又は脇街道などの主要幹線道路が整備され、街道には一里塚あるいは道標などが設けられて、陸上交通は著しく発達した。 この道標は、長崎街道に設けられた道標の一つで、佐賀城下の長瀬町から長崎街道をそれて、南の諌早渡海場へ通ずるその分岐点に建てられていた。 安山岩製の方柱の上端は、しのぎがあって山形に削られていて、地表からの現高は約122センチメートル、幅は21センチメートルで、方柱の二面に方向が刻まれている。 方柱の上端に一指をのばした手を刻んで方向を表示し、その下に行先の地名が刻まれている。手はまわりを彫りくぼめて浮彫りにし、文字は平仮名を用いて陰刻している。 一面には、「ながさき道、こくらみち」と、2行に、他の1面には、「いさはやとかいばへ」と1行に刻まれている。 この道標が設けられた年次は明らかでないが、その様式からみて江戸時代の中期以降にくだるものであろうと推定される。 江戸時代の街道は、そのほとんどが改変され、一里塚や道標もほとんど姿を消してしまった今日、原位置近くに現存しているこの道標は、往時の交通資料として注目すべき価値を有するものがある。
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ガラス工芸技術(宙吹き等)
重要無形文化財
佐賀藩は、近代的軍備の研究の必要性から、嘉永5年(1852)、佐野常民を中心に、蘭学者などを結集して、佐賀城下多布施川流域の多布施に精煉方(理化学研究工場)を設置した。ここでは、鉄砲関係の火薬製造をはじめ、ガラスなど理化学中心の研究、実験製造が行われた。明治期になり、鍋島家の管理となったが、明治16年(!883)に精煉社として民間経営に移行し、同27年(1894)に佐賀精煉合資会社に組織替えされ、理化学用材から日用雑器のガラス製品を製造した。 佐賀精煉合資会社に従事し技術を保持する副島源一郎が本庄町(現末広)に分離独立し、ガラス製造工場を開設し、明治36年(1903)に現在地の道祖元町に工場移転、同地において昔ながらの技法をもって生産が続けられている。 オランダ、ポルトガルの文献から学び取った技術とともに、型を用いずに息の吹きこみで整形する宙吹き技法は、日本独特のジャッパン吹きの技法として貴重なものである。
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木原隆忠の墓誌
重要文化財
木原隆忠(文政11年~明治12年、1821~1879)は、佐賀城下に生まれ、藩校弘道館に入学。そして江戸昌平黌に学び、後、弘道館教諭を務め、戊辰の役では参謀として江戸に入り、そして会津戦争に参画した。佐賀の役ではその善後策に尽くし、後には家塾を開いて子弟教育にあたるなど数々の功績を残している。 その徳を慕って、同志117名が建立した「木原先生之墓」が法蔵院(廃寺、伊勢町)跡の墓地にある。この墓から砂岩で加工された墓誌が出土し、現在法蔵院の本寺の大覚寺に保存されている。 墓誌は、死者を哀悼追慕して、金属板や塼、石などに姓名、経歴、没年、法名などを記して墓内に埋納する副葬品である。 この墓誌は、市内では多久安輝の墓誌についで2例目のものである。 この木原隆忠の墓誌は、肥前の近世墓誌の系譜をそのまま受け継いだ簡潔なものの一つであり、墓末~明治維新期を研究する上で、貴重な歴史資料である。
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多久安輝の墓誌
重要文化財
多久安輝の墓誌は、県内では多久市の「川浪自安先生墓誌」に次ぐ2例目のものである。形状は縦7センチメートル、横35センチメートル、高さ16センチメートルで重箱状を呈し、石質は安山岩系である。 墓誌には、多久安輝の父は多久美作守で、五男。母を本藩主勝茂の二女とし、城内水ヶ江で生をうけ高木村にて数え69歳で没したことなどが記されている。安輝については多久家系譜にもその名が見え、生誕{正保2年(1645)9月29日}、没年月日{正徳3年(1713)5月14日}も一致するが、その人物に関しては詳しい資料がなく、今回の発見がその手がかりになると考える。また、慕誌の埋納は儒学隆盛を背景にして古代の風習を再度取り入れたもので、佐賀藩における儒学研究を行う上で重要な資料といえる。
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木彫毘沙門天立像
重要文化財
本行寺は、日蓮宗身延山(みのぶさん)派に属する寺院で、毘沙門天立像は、本堂の中に併設した毘沙門堂(殿)に安置してある。 毘沙門天は、天部に属し、護法神の一つで、常に道を守って説法を聞くことから多聞天とも呼ばれる。顔の表情は、仏法を守護するきびしさと、人問の煩悩(ぼんのう)を叱咤(しった)するような、へいげいした力強さがあり、その内面には万民の幸福を守る慈悲心が宿されている。 本像は、頭部から脚部まで110センチメートル、仏頭22センチメートル、肩から腰部より脚部まで65センチメートル、台座から槍上まで147センチメートルである。 けやき材を素材とした寄木造りで、彫こんは、自由奔放にして稚拙さがあり、ほとんど損傷がなく原形が保たれている。玉眼はなく、木彫りのままであるが、作調、様式からみて平安時代の作かと推定される。両手の槍、剣と台座は部分的に後作補修のあとがあるが、佐賀市内の寺院堂宇にある天部尊像の中では、他に類のない貴重な木彫であり、本県内の仏像彫刻の中でも特長のある作調である。
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蒲池鎮並公外一行之霊碑
天文20年(1551)、龍造寺隆信は土橋栄益等より佐嘉の城を追われ肥前国から追放された時に柳川城主蒲池鑑盛より筑後国一木村に保護された経緯がある。後に、隆信は鑑盛の嫡男鎮並に娘を嫁がせ、鎮並は大友を離れて隆信と誼を結ぶ等、良好な関係にあった。 天正6年(1578)の日向耳川の戦いで大友が島津に敗北すると、義父龍造寺隆信の筑後国進攻に蒲池鎮並は全面的に協力した。鎮並との不仲であった蒲地鎮広と隆信との間に和議が成立すると、柳川の領有化を志向する隆信と対立するようになり、ついに野心を挟む姿勢をとった。 天正8年(1580)、龍造寺隆信は龍造寺政家に総勢1万3千の軍を率いさせ出陣、蒲池鎮並討伐のため柳川に向かわせた。抗戦する鎮並の陣も籠城300余日に及ぶも和を乞うてきた。鎮並は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦を結んだ。 天正9年(1581)、蒲池鎮並は密かに島津に通じた。鎮並は同国の西牟田鎮豊へ使者を送り、島津の老臣伊集院忠棟よりの状を見せ、島津へ一味あるべき勧めた。しかし西牟田はこれに同意せず、家人向井左京亮を伊集院よりの書札を携えて龍造寺に向かわせた。須古城に居た龍造寺隆信は鎮並が島津の影響下に入ることを恐れ、鎮並を討つべしと謀殺を画策した。5月20日頃、龍造寺は田原伊勢守・秀島源兵衛を使者として柳川へ送り、「昨年冬の和平以後、いまだ禮を受けず。近日佐嘉へ来られたい。然るに須古の新館にて猿楽を興行すべし、其許よりも猿楽の役者共を召し連れて来られたし」と述べた。この次第に対し、鎮並は病気と称して返答しなかった。田原は心賢きものであり、鎮並の母と伯父の蒲池鎮久へと働きかけ、隆信父子は何も別心はないと起請文を以って申し出た。母と鎮久はこれを信用し、鎮並もようやく田原・秀島と対面、承引した。 隔して5月25日、鎮並は伯父左馬大夫を始めとして、親類家人等200余騎、楽役を含め300余で柳川の城を出立した。これを聞いた家臣大木統光は肥前に赴くこと留まるよう諫言するも、蒲池鎮並は「早斯様に出立ちした上、今引き返すことは見苦しき。その上、天運全からば、縦令剣戟刀杖の中たりとも恐るるに足らむや」と馬を早めて寺井江を渡り、夕方には村中城へ着いた。そして龍造寺久家(政家)と対面、昨年冬の和平の禮を述べ、その夜は饗膳となり、鍋島信生(直茂)も同席した。終夜の酒宴が終わると鎮並等は、城北にある本行寺に宿を取り、翌26日は逗留した。須古城の龍造寺隆信は、土肥出雲神信安をして鎮並に酒肴を贈った。鎮並は悦び隆信に禮謝、その酒肴で出雲守を饗した。また、鎮並は出雲守を前に猿楽を踊って見せ、出雲守は明日の運命を思い落涙したという。 そして27日未明、本行寺を出立、須古城を目指し与賀の馬場を通ったとき、龍造寺の伏兵である小河信貫・徳島長房・水町彌太右衛門・秀島源兵衛・石井の一族らが、四方より一斉に鬨を上げて襲い掛かった。蒲池鎮並は歯噛みして伯父左馬大夫へ「口惜しき次第かな、我が柳川にて懸念致した通りであった。これも天運やも知れぬが、偏に御辺の勧めに依りて計略にはまったのであるぞ」と憤激した。左馬大夫はこれに何も答えず、謀られた怒りに血が上り、「我らに二心在らざる事、只今見給うべし」と言い捨て、与賀大明神の鳥居の前まで馬を駆け、「汚き龍造寺が仕業かな。おのれ、七生が間は恨み続けてくれる」と叫んだ。そして矢を二筋三筋放つと家の上に駆け登って散々に矢を射掛け、屋根の上から飛び降り烈火の如く戦い、堤左馬允と渡り合うも遂に討ち取られた。龍造寺勢は多大な被害を出しながらも173人を討ち取った。鎮並は一族家臣が討ち死にする隙に、小家に立ち入って沐浴した後、腹掻き切って息絶えた。この戦いの様子は今でも「川は血で真っ赤に染まり、骸は堀を埋めた」と語り継がれている。(参考:北肥戦誌) 写真は「蒲池鎮並公外一行之霊碑」(日蓮宗本行寺境内) 蒲池鎮並公外一行の霊を鎮めるために建立された。
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鐘楼 一棟
重要文化財
浄土真宗真覚寺は、永禄年間(1558~1569)に創建され、鐘楼は元禄12年(1699)に建立されたものである。 桁行(けたゆき)2.81メートル、梁間2.55メートルで平面は正方形に近く、軒の高さは3.04メートルで、用材はすべて欅(けやき)材である。 屋根は本瓦葺、照り屋根で切妻造り、棰は二重角棰で化粧裏板張り、妻は破風打ち、懸魚(げぎょ)は腐朽して外れているので様式は不明である。柱は方柱で江戸風な細い面がとってあって、わずかに内転びに立てられていて、頭貫(かしらぬき)、腰貫、地貫によって軸部が固められている。柱下の礎石は30センチメートル角、厚さ6センチメートルの平石で基壇は高さ60センチメートルの乱石積み、床は粘土たたき仕上げである。 妻の大瓶(たいへい)束及び斗(ます)に四方に木鼻がつけられていて、大瓶束の下の方は獅子面の彫刻で飾られている。蟇股(かえるまた)は桁方向のものは、くり抜き墓股で、妻側は梵鐘の重みを考慮して板蟇股(平安後期以前)が使われている。梵鐘受けの虹梁と妻の虹梁は共に二段眉がとってあって桃山調、また頭貫の上に台輪が梁えられていて、これ等の木鼻が賑やかである。 屋根の重厚さに対し、吹き放しの四本柱の架構は簡明すぎる感じがするが、上中下三段の貫で絞め固められた柱は、やや内側に倒れて踏ん張っていて、力強さを表現している。 この鐘楼は県内の寺院建築の中でも、その価値は高く評価される。
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末代念仏授手印
重要文化財
略して「授手印」ともいう。浄土宗の開祖法然上人(源空)相伝の念仏往生の正義を明記し、手印をもってこれを記したものである。法然上人の死後、その教義について、徒弟の間に異なった多くの解釈が行われたので、これを統一するため、高弟の一人弁長(又弁阿、聖光房鎮西上人)が法然の教義を選述し自ら手印を押したので、これを授手印というのである。 弁長の書いたものを、更に書写したのが8巻であったと伝えられるが、現存するものは次の5巻である。 肥後 往生院所蔵 聖護本 佐賀 大覚寺所蔵 唯称本 博多 善導寺所蔵 円阿本 筑後 善導寺所蔵 極楽寺本 京都 清浄院所蔵 善弁本(断簡 この中に大覚寺所蔵のものもあるわけで、唯称本というのは、唯称という人によって伝えられた意味である。一説には唯称が書写したともいう。巻尾に朱の両掌が押されている。なお、貞和(北朝)2年(1346)6月全寂、文政3年(1820)4月豊怐の後記がある。 伝来は明らかではないが、大覚寺開山が持ってきたのではないかとも考えられるが、ともかく浄土宗にとっては貴重な存在であることは、大正15年(1926)9月1日宗宝に指定されていることでも明らかである。 授手印を遺した弁長は、筑前遠賀郡香月の生まれ。承安5年(1175)14歳で仏門に入り、36歳の時法然上人に侍して浄土門の秘奥を伝承。師の死後安貞2年(1228)10月、九州に下り肥後白川往生院に住して、この記述をなしとげた。入寂は暦仁元年(1238)3月29日。ときに77歳。 大覚寺の創建は慶長11年(1606)。開山天誉上人は、もと肥前の多久長信が大旦那となって現在の境地を喜捨し、神野の極楽寺を移した形で建てられた。寺号は勅によって大覚寺と改め今日に至っている。
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伊勢神社の石造肥前鳥居及び肥前狛犬像 一対
重要文化財
石造肥前鳥居の特徴は、笠木・島木・貫・柱が通常、2~3本の継材で形成されており、笠木と島木が一体化して木鼻は流線形になっている。さらに、柱の上端の笠木・島木を支える部分には、台輪が必ずつけられており、楔は使われていない。 慶長12年(1607)の造立銘があるこの鳥居は、笠木・貫・柱いずれも3本継ぎで、肥前鳥居の特徴をよく現わしており、造立年代の古いもののひとつとして価値が高い。 石造肥前狛犬は、一般に小形で、姿態は静的であり、また、その彫法は簡潔で素朴なものである。前面と側面を浅く彫り、全体は、丸彫り的に彫整され、前肢をそろえ、前肢の関節を節形に区切をつけて、表現している。後肢は屈して前に伸ばし前肢に接する。 背は半円形、顎は角ばって張り出し、口は顎いっぱいに浅く陰刻している。側面、背面は、極度に簡素化され、毛髪等も数条の線と頭部の項目尻尾、前肢、後肢を浮彫的に表現しているのみである。 在銘のものは少ないが、寛文7年(1667)の造立銘があるこの狛犬は、市内でも最も古い作として注目すべき価値を有する。
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旧枝梅酒造店舗兼主屋
登録有形文化財
建設年代等:次のとおり 木造二階建、瓦葺、建築面積200 ㎡ 江戸末期/平成30 年改修 旧長崎街道に南面する造り酒屋の町家。二階建ての寄棟造桟瓦葺の平入で背後に棟を延ばし、全体にコの字の屋根とする。正面は一階に下屋を付し、二階は軒まで塗込める。内部は東側を土間、西側を二列五室の部屋とする。佐賀特有のくど造の様相を伝え、建ちが低く全体に古式を残す。