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[大和町][指定文化財 佐賀県 考古資料]は6件登録されています。
大和町 指定文化財 佐賀県 考古資料
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十三塚遺跡出土鏡 方格規矩鳥文鏡 1面 夔鳳鏡 1面 附 鉄製刀子 1点
重要文化財
昭和46年(1971)、旧佐賀郡大和町大宇川上で行われた工事で、2体の人骨を埋葬した箱式石棺墓一基が発見された。この箱式石棺墓には、方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)一面と夔鳳鏡(きほうきょう)片一面、鉄製刀子(てつせいとうす)一点が副葬されていた。 方格規矩鳥文鏡は、径15.4㎝の中型鏡である。内区の中心にやや大きめの半球鈕.があり、その周囲を18個の珠文が巡る。その外側には、櫛歯文帯があり、二重の突線で区画された方格の内側には4つの小乳が対角線上に配置されている。方格の各辺中央には、「T」字状文様が見られる。方格の一辺上には、「T」を挟んで乳が2ケ所ずつ計8つの乳が配置される。この乳と方格の間に胴上半部を表現した鳥文が各辺2対、計8つ鋳出される。さらにその外側には、珠文を施した鋸歯文帯、櫛歯文帯と続く。外区は平縁で、波長の長い複波文帯と外向鋸歯文帯が巡る。 夔鳳鏡は、縁と内区の一部が残る鏡片である。復元径は約11.0㎝。平縁で、内区との境には凹線が巡り、その内側には連弧文帯が施される。内区の雲状夔鳳文は、やや不鮮明である。鏡の破面は研磨されてないが、鏡背の角は丸く破鏡として用いられた可能性がある。製作時期は、中国における紀年銘鏡及び共伴する紀年銘出土品から後漢時代中期~後期とみられる。 佐賀平野における古墳時代の同棺複数埋葬例から古墳時代前期から中期前半頃と推定される。古墳時代前半期の埋葬施設に2面の鏡を副葬する例は、佐賀平野では唯一であり、方格規矩鳥文鏡と夔鳳鏡の組合せは国内においても希少である。本遺跡から出土した青銅鏡は、希少価値の高い鏡の組み合わせだけでなく、古墳時代前半期における佐賀平野の首長層の動向を知る上で重要である。
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一本木遺跡出土湖州鏡 一面 (附)鑷子一点,土師器杯一点,土師器皿一点
重要文化財
一本木遺跡は、佐賀市大和町東南部の大字尼寺に位置し、弥生時代から鎌倉時代にかけての集落及び墓地が確認された。鎌倉時代の土壙墓から湖州鏡と鑷子、土師器杯、土師器皿などが出土した。 湖州鏡の形態は猪目形の素文鏡で、長径10.5センチメートル、短径9.1センチメートル、厚さ0.4センチメートルである。下部に「湖州石家煉」の銘が陽鋳されているが、この文字は類例と比べて方向が異なっているのが特徴である。青銅製であるが、鏡面は白銀色を呈し、水銀を塗布している可能性が指摘されている。鏡の年代は中国の南宋代、共伴土器の年代は13世紀前半代である。 鑷子は、鉄製で先端を欠損する。残存長7.0センチメートル。 土師器杯は、口径14.5センチメートル、器高3.2センチメートル、底径9.0センチメートル。 土師器皿は、口径8.7センチメートル、器高1.4センチメートル、底径6.8センチメートル、底部は共に回転糸きりで板状圧痕が残る。 これらの遺物は同時に出土した土師器から13世紀前半代のものと考えられ、鎌倉時代の墓制を知る上で貴重な遺物である。
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本村籠遺跡出土遺物 一括 (附)甕棺二基(五個)
重要文化財
本村籠(ほんそんごもり)遺跡は嘉瀬川西岸にあたる佐賀市大和町大字池ノ上の低段丘上に位置する。 遺物として、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)、青銅鉇(やりがんな)および碧玉管玉18個、青銅斧などが出土した。時期はそれぞれ弥生時代中期初、および前期末である。 多鈕細文鏡は面径10.5センチメートル。鏡背の上方に偏って2個の板状鈕をもち、縁は蒲鉾(かまぼこ)状縁である。鏡背の文様は大きくは内、外区に分かれ、共に精緻な細線で埋めつくされている。 青銅製鉇は幅2.1センチメートル、長さ3.4センチメートル。使用による研ぎ減りで長さを減じ、鋒は一方に偏った山形を呈す。 碧玉製管玉は18個あり、長さは4ミリメートルから7ミリメートル、径約3ミリメートルと小形である。 青銅製斧は刃部残欠、残存状態は長方形板状を呈し、幅4.2センチメートル、長さ2.6センチメートルまで残存する。この種の青銅斧としては我国唯一の出土例である。 これらの青銅器はいずれも、我国における出土例がきわめて少ない、特色ある朝鮮系青銅器であり、弥生時代前期末に始まる我国の初期青銅器文化が朝鮮半島文化のつよい影響によるものであることを如実に示す資料として貴重である。
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惣座遺跡出土遺物 一括 (附)弥生土器 一点
重要文化財
惣座遺跡は脊振山系から流下する嘉瀬川が形成する扇状地の扇頂近くに所在し、佐賀市大和町久池井字惣座に位置する。遺跡は縄文時代から平安時代にまたがる複合遺跡である。 出土遺物は、仿製鏡、銅剣・矛の石製鋳型、石錘などがあり、特に土壙墓の1基から銀製指輪および大量のガラス製小玉が一括出土した。 石製鋳型は上下端が割れた破片で、残存長5.2センチメートル・残存幅4.2センチメートル。表裏両面に銅剣型、また側面に銅矛型、計3本分の型が彫り込まれており、石材の再利用が窺える。これから鋳造された製品は剣、矛とも細形形式である。とくに矛は袋部に3条の節帯をもっており、従来、朝鮮半島からの舶載品と考えられていたタイプであるが、我国における青銅器生産の開始が弥生前期前半まで遡ることを明らかにした点で、意義は大きい。 銀製指輪は土壙墓の中央よりやや北側(頭位側)の床面上で、3個重なって発見された。いずれも径2センチメートル前後で、針金状の薄板を曲げて作り、素材はきわめて純度の高い銀を用いている。 ガラス製小玉は総数6,810個ときわめて多量であり、一連にすると9メートルをこえる見事なブルーの連珠となる。
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西山田二本松遺跡二号住居跡出土銅釦 一点
重要文化財
西山田二本松遺跡は佐賀市大和町大字川上字西山田二本松に所在する。弥生から鎌倉時代にかけての集落跡で、中心となるのは弥生時代後期の住居跡群である。発掘調査で弥生時代中期末~後期後半の2号住居跡から出土したものである。 銅釦(どうこう)は何らかの器物に装着してボタン状の飾りに使用された朝鮮系青銅器である。本品の場合、直径5.1センチメートル、高さ0.85センチメートル、全体の形状は直径3.6センチメートルの半球座に幅0.7~0.8センチメートルの周縁が付き、断面状鉢状を呈している。半球座の項部は径1.0センチメートルの少し凹みのある平坦面となり、緩やかに周縁へ降りる。半球座の裏は空洞で、その中心に孔径0.2センチメートルの小さな鈕が付く。半球座、周縁の表裏面ともに素文である。 遺存状況は周縁が薄いために数ヶ所で小さな欠損がみられ、部分的に表面も別離しているが、全体に比較的良好である。色調は表裏面ともに漆黒色で、半球座裏側の鈕の周囲には赤色顔料が残存している。 銅釦の発見例は他に、佐賀県小城市布施ヶ里遺跡の3点と、熊本県および京都府で各1点と、全国で4遺跡6点しか知られていない。 本例はそのうちの1点であり、朝鮮半島からの青銅器文化の影響を如実に示すとともに、住居跡出土の供伴土器によって銅釦の流入の時期が明らかにできる点で、学術的に価値が高い。
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銅戈 一口
重要文化財
嘉瀬川が佐賀平野部へ下る一帯は広大な扇状地が形成されており、そこには弥生時代の大規模な遺跡が多数分布している。 この銅戈(どうか)も、その遺跡のひとつ「尼寺(にいじ)一本松遺跡」において、大正8年(1919)に個人が自宅の庭園を拡張中に偶然発見されたものである。当時の状況をみると、地表下約60センチメートルのところに、切先を北に向け水平な状態で置かれていたという。 大きな欠損はなく、ほぼ完形であるが、全体的に刃こぼれが著しい。 全長39.3センチメートル、最大幅は約7.5センチメートルで切先の先端部がかなりの広がりをもつとともに、偏平化が著しい。 また、樋(ひ)と脊(むね)は身全体の約2分の1強の長さにもなる。樋には両面とも綾杉文様が比較的明瞭に陽鋳されており、その基部には台形の孔をもつ。胡(こ)はあまり延びず短い。茎(なかご)は小さくて薄く、その両面に五重の弧文を鋳出している。全体の仕上げの研磨は、あまり入念ではない。緑色に銹化しており、銅質はあまり良くない。重量405グラム。 銅戈の形式としては中広形に属し、弥生時代後期の製作と推定される。祭器として埋納されたものであり、当時の祭祀のあり方とその意味を知るうえで重要な資料である。