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[物語・いわれ][地名・とおり名][循誘校区]は3件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 循誘校区
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馬責馬場(うませんばば)
片田江七小路の1つで、最も北に位置する小路で、その西端には馬の調練場である馬場(勢屯:せいだまり)があったことから、この名がついたものと考えられる。
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貫通道路ツアー
旧佐賀市内の道路は右に左に曲折し見通しが悪くなる。敵の進入を防ぐための城下町特有のつくりである。大正から昭和初期、馬車や自転車が登場。さらに自動車が往来するようになると、不便この上もない状態となった。 産業の振興や軍事的意味合いをこめて、道路整備が叫ばれて20年近く、昭和6年12月市内を東西に貫通する道路「貫通道路」の整備が着工した。 整備の内容は、「構口橋を神埼国道並みに少し斜めに架換え、牛島町南裏を一直線に西へ椎小路を出て片田江の風呂屋の角飲食店の処を突き抜け、裏門通りの南豊亭玄関を通過し・・・」と思い切ったルートの選択であった。 工事はまず構口-材木町間700m(幅員15m)でスタートし、年度ごとに西から東へと交互に進められ、全長4000mが昭和11年、5年の歳月と総工費87万円を投じて完成した。 名物のイチョウ並木は、近代道路の美観をそろえるためと10年度の事業で植えられた。このイチョウは材木町の植木業者 末次与八氏が久留米から1本1円で仕入れて植えたという。 幅員15m〜18mは当時としてはとてつもなく広く「そんなに広い道路を造ってどうするのか。一日何台車が通るというんだ。」と市民から反対の声があったという。そのため「貫通道路ツーツラツー」と子守歌に歌われるほどだった。 しかし昭和30年代後半から、貫通道路の交通渋滞が目立ち始めた。貫通道路ツーツラツーははるか昔のことになってしまった。
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新馬場通り
佐賀藩祖鍋島直茂を祀る松原神社は安永元年(1772)に創建されました。文化14年(1817)の松原神社の拡張に際して、鳥居に通じる通りを参道として開いたと考えられるこの参道は新馬場通りと名づけられ、昭和の中頃まで大変賑わっていました。新馬場通りには、大正時代には松本屋、荒木屋等たくさんの旅館が立ち並んでいました(「指定旅館書付」大正8年(1919)、鬼丸北川家資料、佐賀県立図書館所蔵)が、なかでも嘉永6年(1853)創業で漆喰壁の土蔵造りと表玄関に威風のある松川屋は、多くの著名人などが宿泊した老舗旅館でした。 この旅館には明治32年(1899)に森鴎外が宿泊しています。鴎外は『小倉日記』の7月3日の記録に「朝小倉を発す。(中略)午(ひる)に近づきて佐賀に至る。新馬場松川屋に投宿し、午餐す。午後市役所に至り、壮丁を検するを見る、此地河水を飲む。夜熱く戸を閉さずして眠る。」と記し、松川屋での宿泊のほか、当時の佐賀の様子も伝えています(『鴎外全集』第21巻)。昭和32年(1957)には、映画「張り込み」の関係者が宿泊しました。平成22年(2010)に松川屋旅館は営業を止めており、現在はさまざまな活用が行われています。 また、新馬場通りの入口、県道30号を挟んだ向かい側に明治21年(1888)に営業を始めた佐賀米穀取引所がありました。現在建物は残っていませんが、当時のものとされるレンガの塀が残っています。新馬場通りには今も井徳屋等の旅館が軒を並べ、大正時代にできた西洋風建築の松尾写真館があり、これらの建物は往時の町並みの景色を残しています。