貫通道路ツアー

貫通道路ツアー

■所在地佐賀市
■年代近代
■登録ID2566

 旧佐賀市内の道路は右に左に曲折し見通しが悪くなる。敵の進入を防ぐための城下町特有のつくりである。大正から昭和初期、馬車や自転車が登場。さらに自動車が往来するようになると、不便この上もない状態となった。
 産業の振興や軍事的意味合いをこめて、道路整備が叫ばれて20年近く、昭和6年12月市内を東西に貫通する道路「貫通道路」の整備が着工した。
 整備の内容は、「構口橋を神埼国道並みに少し斜めに架換え、牛島町南裏を一直線に西へ椎小路を出て片田江の風呂屋の角飲食店の処を突き抜け、裏門通りの南豊亭玄関を通過し・・・」と思い切ったルートの選択であった。
 工事はまず構口-材木町間700m(幅員15m)でスタートし、年度ごとに西から東へと交互に進められ、全長4000mが昭和11年、5年の歳月と総工費87万円を投じて完成した。
 名物のイチョウ並木は、近代道路の美観をそろえるためと10年度の事業で植えられた。このイチョウは材木町の植木業者 末次与八氏が久留米から1本1円で仕入れて植えたという。
 幅員15m〜18mは当時としてはとてつもなく広く「そんなに広い道路を造ってどうするのか。一日何台車が通るというんだ。」と市民から反対の声があったという。そのため「貫通道路ツーツラツー」と子守歌に歌われるほどだった。
 しかし昭和30年代後半から、貫通道路の交通渋滞が目立ち始めた。貫通道路ツーツラツーははるか昔のことになってしまった。

出典:佐賀この100年(佐賀新聞社)