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[物語・いわれ][物語・四方山話][東与賀町]は3件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 東与賀町
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婦人会活動
上町の公民館は若宮さんの社殿に続いて、床の間あり広縁付きの明るい建物である。これは本村出身故木下文次(陸軍中将)の隠居部屋(佐賀市愛敬島)を譲り受けたものである。この公民館と社殿を活用して、村の諸行事や婦人会・青年団の活動がなされたのである。特に婦人会は東与賀村でも戦前・戦中・戦後を通じて屈指の模範支部であった。故山口コト会長を中心に会員一同は相協力して、共同菜園作業・托鉢・遺家族慰問の外、農繁期における共同炊事や託児所に懸命の努力を続けた。しかも山口会長は幼児や農村民のために自宅を開放して、庭中や小屋を提供し炊事や保全と集会や遊戯の場としたという。その遺蹟は今も残されている。これらの婦人会活動の記録は、日誌として珍しくも数冊も現存している。
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焼夷弾による爆撃
中村村落での一番の悲劇は、昭和20年8月5日午後8時頃アメリカ空軍より受けた焼夷弾攻撃である。被害を受けた家屋と人名は次の通りで、ほとんど全焼であった。 富吉政一・石丸六次・山口平八・高松秀次・山口金吾・石川虎六・古川明 この時B29の約十数機の編隊は、中村の西南方面より飛来し来り、東与賀小学校の方向へ去ったので多分学校を軍需工場と見て、襲いかかったのであろう。ボタンの押し方が多少早かったためか、風速や高度のためで何等罪もない中村の民家に焼夷弾が落下したのである。焼夷弾の型は六角型で長さ約40cm、下方に数本の木綿の布がつけられ、さかさまに落ちない工夫がしてあった。この空襲の数日後に村人が不発弾を1か所に集めて無断立ち入りを禁じていたが、8月8日のこと当時15歳の少年が石畳の上で叩いたため破裂して即死し、その側で遊んでいた少年2名も片眼を失明したのである。今にして思えば本当に残念で気の毒なできごとであった。
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本土井と野狐
大野地先の本土井付近から白島(しらとう)や隣町の佐賀市西与賀最南端は、昔から草原と笹薮に覆われた海岸堤防に囲まれていたために、野狐の生息地ともなった。古老の話では明治初年から2、30年の頃にかけて最も多く群をなしていたらしく、終戦(昭和20年)後も大野神社の裏道辺りまで1匹2匹と仲間をつくり痩せ細った姿を見せることもあったとのこと。この狐群は人間に危害を与えるよりも、民家に飼っている鶏を取るために出て来るのである。夜になって鶏舎に安眠している鶏や雛を捕えその血液や卵を仔狐に飲ませて、元気づけるそうである。 これらの狐群は一度甘い味を占めると、毎晩のように出て来て、その被害は相当に大きくなる。そのために狐捕りのばなを掛けるが怜悧な動物で仲々掛からない。仕方がないので夜中けたたましい鶏の鳴き声に、村人はこれ来たとばかりに蚊帳から飛び起きて、鶏を口に喰わえている狐を追いかけるのである。驚いた狐は獲物だけは決して離さず、足早に逃げて一向に追いつけない。しかし狐は200mばかり走ると必ず後方を振り返って、人を警戒するという習性がある。その振り向いて立ち止まっている時間を見計らって、人は追い着くまでに迫るがその瞬間に走り出して、追っても追うっても追い着けないとのこと。これも古老たちの述懐する笑話である。よく農村の昔語りに「狐のごぜん迎え」とか、「木綿織りの機の音をさせる」等の流言もあるが、果たして真実はどうであろうか疑問である。