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[物語・いわれ][物語・四方山話][高木瀬校区]は6件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 高木瀬校区
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蜷打の戦
永和3年(天授3年)(1377)南朝方の忠臣菊池武朝は鋭意肥後の統治に努め、筑後をも従えて肥前に来たり、北朝方の探題、今川了俊を攻めた。了俊はこれを聞いて2月金立山の南麓千布、蜷打に陣して待機した。 九州治乱記巻之四には、「永和3年(1377)丁己二月了俊入道蜷打千布に陣を取り、云々」とある。 蜷打の古戦場については、金立地区の大野泰司氏が昭和31年に金立町の郷土史資料を編纂されているが、その中に、九州治乱記、大日本史、事蹟通幸、菊池武朝申状、葉室親善の申状等を引用しておられる。 それによると菊池武朝は一挙に今川氏を討滅ぼさんものと将士を励まして戦ったけれども、了俊には大内氏の応援もあり、遂に菊池氏の敗戦となった。今川了俊はこの戦勝を契機として勢力をばん回したという。さて蜷打の地名は、金立・春日・久保泉の小字名、田字名には発見されない。ところで高木瀬・兵庫両町にまたがり上渕、下渕、東渕、西渕という地区がある。あるいは蜷打の打が渕と転化したものでないかと思われる。又逆に渕が打と転化したとも考えられる。金立町の千布と、これらの渕地区は、江湖続きであったとも推定できる。平尾川・福島川・市の江川・巨勢川など錯そうし、この附近は昔から遊水地帯で水棲動物、たにしやふなが沢山いたので蜷渕といっていたのがぶちがうちとなり、遂には蜷打と表現されるようになったとも推定される。 千布、念彿橋、徳永川の両側友貞、二又、上渕等に板碑の供養塔が多く見られ、二又には念佛寺という寺もあったという。蜷打の戦で南朝方の植田宮、菊池武義、武安等戦死したとの記録もあり、上渕の彿地蔵にはアラヒトさんとして祀られている神像は衣冠束帯をつけているので、或はこの植田宮を祀ったとも思われる。何れにしても蜷打の戦として、千布、渕一帯に多数の戦死者があったことは想像に難くない。
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土一揆合戦
応仁3年(1469)の夏国府(小城)の地頭職千葉教胤は大村日向守家親を攻めようとして、藤津郡に至り、暴風雨の為軍船が沈没し、不慮の死をとげた。千葉家の嫡流が断絶しようとしたので、同じ氏の右京大夫胤紹の次男胤朝を後継と定めたが、その時の千葉家の執権に岩部播磨守常楽と中村弾正少弼胤明の2人があったが、2人は遂に勢力争いをするようになり、主胤朝は中村のざん言を容れ、岩部を追放することになった。岩部は太宰府の少貳政資にこうて援軍を頼んだ。政資のあっ旋で一時小康を保っていたが、岩部は府中(春日尼寺)に居て、佐賀北郷の土民をぶ育するのに力を注いでいた。 文明元年(1469)9月9日千葉介胤朝は岩部を討つために、仁戸田近江守を大将として府中に差向けた。 然し岩部の恩顧をこうむっていた土民共は、かねての恩に報いるはこの時とばかり郷民、山伏、百姓共、10000余人集り来って、2、3回鬨の声をあげるや、山川そのために震動する程であったという。この勢いに警き仁戸田は思いがけない敵の大勢と思い込んで國府に逃げ帰った。 然しながら、中村は様々のかん計をめぐらして、岩部に加担した土民共をなづけて岩部を府中から追出すことに成功した。岩部は手下の者を連れて一時高木村に居を構えた。岩部は胤朝の舎弟で出家の身となっている妙法院というのをにわかに還俗させて、千葉次郎胤将と名のらせて再び太宰少貳の加勢をこい主家に仇を執しようとした。政資は家人の朝日丹後守、窪甲斐守、武藤左近、江上肥前守等の将兵を差向けて岩部に加勢した。中村はこれを聞いて、一死を覚悟し、11月14日軍兵を引き連れて岩部の陣する高木村に押寄せた。土地の百姓などは正法寺の鐘を打ち鳴らし、雲霞の如くに集り来たり、遂に中村を真ん中に押し囲み所々に火を放って散々に戦った。中村は戦利あらずと見て、水上山に退いたが岩部は勝に乗じて追いかけ、山田、大願寺のあたりで中村を討果した。 岩部はなおも大将胤将を擁して国府に押寄せ城下の町、村里を焼払ったが、主に弓を引いた報いか、最後は岩部一族30人太宰府よりの加勢の者400余人ことごとく討たれて、大将胤将は遂に金立の方へ主従僅かの人数となって落ちて行った。国府軍は勝に乗じ、府中を取りかこみ、火をかけたので由緒ある国分寺の大伽藍、大昌寺(聖武天皇の御願、行基菩薩の建立)善光寺、宝積寺、北禅寺など皆兵火にかかって炎上したという。この乱を土一揆合戦という。
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天満宮御神力
大永年中(1521~1527)のことであるが、社内左の老松の脇に樗(おうち)の大木があり、根元は三丈程で末の方は三本の股がある。此の股の下の中程に洞があって、この内に龍の様なものが住んでいて、時々外に出るので、村人も恐れてお詣りする人もなくなった。 そこで惣之市(神主ヵ)の役目をしているのが宮に参詣し、悪龍退散の祈念をしたところ、神の御受納があり、三日の内に不思議にも天地一度に震動し、雷が三本の股の中に落ちかかった。 この三本の枝が三方に飛んで、一本は高木村大路に、一本は当村の東天神ノ木という所に、又一本は西長瀬村に落ちた。この枝で太鼓の胴を作ったのがあるが、おおかた一抱之半程もあるのである。これで右の悪龍も影も形もなくなったが、雷が落ちかかった跡は老松の木の片側をかきほがしているし、又五重の塔の宝珠をつかみ割って、今もその跡がある。 又、神力の広大なることについては、 永禄8年(1565)、豊後の大友宗麟はデウィス宗を広めるため、大友吉広を当国に指しつかわし、北山より侵入して、東・西・南・佐嘉郡の寺社・民家を悉く焼払ったけれども、当社と新庄村の勝楽寺だけは残され、河上大明神の神殿も焼き払われた。河上で佐嘉軍と一戦を交え、佐嘉勢300余名戦死、その後も方々の寺社、家屋を焼打にした。 さてそのとき当所北長瀬の内の南道曲(ぐるり)にて合戦があり、佐嘉勢は城内大手門に退却した。この時城中においても、和戦の論議二つに分れ、宗麟へ降参すべしという者もあったけれども、鍋島直茂公断固これに反対し、城中心を一つにし、賊徒いかに大勢なりといえども、これを踏みつぶせ、深謀勇戦したならば、勝利は期して待たれようと御命令あり。この命令を堺駿河守並びに橋本右京助両人が城中に近侍していて、ともに承りたりという。 その合戦のとき、当社を大友吉広の本陣と定め、佐嘉城を攻めとらんと、その兵勢雲霞の如くであった。ある時先陣を多布施口に派遣した。一方鍋島方では大手口の固めには飛騨守直茂公、白山口の固めには納富常陸守が当った。両陣が未だ一戦を交えないとき、吉広、当社の御神体を紅梅の木の下に取出し、自分自身が神殿に入ろうとして一足踏み入れんとするとき、忽(たちま)ちアット仰天打ち倒れたのを、拝殿に居た近侍の者抱き起したるところ、吉広が云ふには、 神殿に入るのはけがらわし、神のすみかを汚したる故これを誅罰する、 と自ら神移りして御神託と云いながら、そのまま又打臥してしまった。 それで一同拝殿に退いたけれども、吉広は尚人事不省となったがために、近侍の者もこれはてっきり御神罰である。速に社頭から立去ろう。さりながら、陣払とて軍をまとめて立去るときは、何物も焼払うのが軍の掟である。但し、この度は吉広の命を相助け下さるならば、陣払は致しますまいと、誓ったところ、吉広俄に眼をあけ、陣払するならせよ、好きなようにせい、と御神答のままに答えて、又もとのように人事不省におちいった。その外近侍外様の数人も、身ぶるい、立ちすくみするような天罰を被ったので、近辺の藤之太輔の森に引き退いたが、後吉広は終に神埼において死んで終った。 大将吉広はこのように神罰によって相果てたので、多布施口、白山口まで進んでいた敵勢も神埼をさして退却した。 吉広が未だ死なない以前に、寿命安穏のため神埼から当社へ鎧一両、鑓一本寄進しようとして佐賀まで使者を遣したるところ、この使者が古き鎧、鑓に取替え奉納したという。ところがこの使者も佐賀にて死んだという。吉広が社内をあらしたる神罰不思議なる次第を第一に見届たのは神代家家来、古川佐渡、堺新左(※右)衛門である。右両人の者は偶然の事情によって、よくよくこれを見届けた事である。 大友八郎晴英(※親貞)それより3年目に、伯父のかたき取りとて、今山に来襲したが、却って首を成松遠江守(信勝)に取られた。右吉広はこの八郎の為には母方の伯父であったが、その哀れなる最後も天神の御神罰の末であると伝えられている。 右の様ないわれを勝茂公聞し召され、元和5年(1619)社殿御修造の棟割書がある。又再造奉祝文には「大檀那鍋島信濃守藤原朝臣勝茂 惣奉行鍋島主馬焏藤原茂照 小森角右衛門 大工岡本三右衛門」此の外社役が書き記してある。 ※写真は長瀬天満宮
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長瀬天満宮の苗琳坊
当社座主は苗琳坊、開山は堺主斗頭二男康一法師の孫である。初の天台宗の僧となり、苗琳坊を建立しその座主となり数代は清僧で相勤めていたが、後になって妻帯僧となって三代程続いていたが、神前の勤めを、疎そかにした故に、神罰を被り、寺地の在家となったが慶長元年(1596)に苗琳坊も絶えて終った。元は天台宗であったが近代は真言宗となっていた。 この由緒記のことについては、専門家でないとよく判らないと思うが、往時神仏混淆の時代があり、神社は多く寺院の支配を受けていてこれを抱え宮といっていた。冒頭の祭神の如きも、天照皇太神が大日不動、天満天神が地蔵文殊、福午大明神は弁財天毘沙門となっている。従ってこの天満宮も苗琳坊の下に所属し、坊の住職が神主を兼ねていたと思われる。苗琳坊廃絶の後は、西長瀬の法常寺が長瀬天満宮と若宮神社を抱え宮としていたという記録もある。 最末尾の宮司坊以下の記述は何とも判断し難い。宮司坊というのは苗琳坊と同じように末社関係の坊であったかも知れない。今は社役を離れているが筋目正しい続き柄であるから何れ時節到来の節は、社役に就かぬばならないということであろうかと想像される。 尚右の永禄年中の戦については鎮西要略及肥陽軍記に次の様な記述がある。 鎮西要略云。 永禄年中豊後軍放火神埼郡押寄龍造寺戸次鑑連吉弘鑑種会於神代長良而龍府之北陣塚原與水上臼杵鑑速龍府之東陣干姉村神代長良先駆到三溝鑑連陣高木社鑑理屯長瀬社継之 肥陽軍記云。 永禄12年大友勢佐嘉城を囲み攻め城北は長瀬三溝まで取詰めたり。4月6日城中より百武志摩守の手の者三溝長瀬へ突出で一戦に及びけれども利あらず帰城す。
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歩兵第55連隊跡地と昭和天皇のご巡幸
歩兵第五十五連隊跡地については次のとおりである。 第五十五連隊の兵舎には終戦の年の10月6日から進駐軍が駐屯していたが、撤収後、佐賀県では戦後外地よりの引揚者、戦災者で住宅に困った人の住宅対策として旧兵舎を改造して充てられた。協楽園と命名し、昭和22年5月7日から人々を収容した。 協楽園に関しては、時勢が安定してくるにつれ、他へ転出したり、村営住宅や市営住宅が建設されてきて、入居者は徐々に減少し、廃止された。協楽園小学校は、昭和38年に高木瀬小学校に統合され、高木瀬中学校は城北中学校として高木瀬西3丁目の現在地に移転した。協楽園の跡地には佐賀県総合体育館や佐賀市文化会館が建設され現在に至っている。 なお、協楽園があった頃、全国をご巡幸中の昭和天皇が昭和24年5月22日・23日にご来県され、協楽園と市立若葉保育所をご訪問されている。その折、昭和天皇がお手植えされた赤松の記念樹は、残念なことに平成20年枯死したそうである。
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龍堀の話
浄蔭寺は元鍋島家の館であった。徳川初期には城を新しく造ることは禁止されていたので、館を寺とし、周囲に堀を巡らし、実は城郭としての役目を果たした。南北に大きな堀があり、また、東西にも堀を造ってあたかも龍が横にはっている形をしていたので、龍堀と言われていた。また、龍堀の伝説として次のようなことが伝えられていた。 昔この地に大きな龍巻が起こった。堀の水が空に吸い上げられて堀の水はからからになったが、その後には龍神の落と子の可愛らしい蛇が1匹残っていた。寺では龍神を慰むるため弁財天を祀った。この弁才天は宗像弁才天といい貞享2年(1685)の銘がある。この伝説は、羽立政雄氏が祖母から伝え聞かれた話という。 このような龍堀も、今や全て埋め立てられて、浄蔭寺南一帯はおおむね住宅地となり、龍堀の跡を想像することが出来ない。