天満宮御神力

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■所在地佐賀市高木瀬町大字長瀬(長瀬天満宮)
■登録ID1830

大永年中(1521~1527)のことであるが、社内左の老松の脇に樗(おうち)の大木があり、根元は三丈程で末の方は三本の股がある。此の股の下の中程に洞があって、この内に龍の様なものが住んでいて、時々外に出るので、村人も恐れてお詣りする人もなくなった。
そこで惣之市(神主ヵ)の役目をしているのが宮に参詣し、悪龍退散の祈念をしたところ、神の御受納があり、三日の内に不思議にも天地一度に震動し、雷が三本の股の中に落ちかかった。

この三本の枝が三方に飛んで、一本は高木村大路に、一本は当村の東天神ノ木という所に、又一本は西長瀬村に落ちた。この枝で太鼓の胴を作ったのがあるが、おおかた一抱之半程もあるのである。これで右の悪龍も影も形もなくなったが、雷が落ちかかった跡は老松の木の片側をかきほがしているし、又五重の塔の宝珠をつかみ割って、今もその跡がある。

又、神力の広大なることについては、
永禄8年(1565)、豊後の大友宗麟はデウィス宗を広めるため、大友吉広を当国に指しつかわし、北山より侵入して、東・西・南・佐嘉郡の寺社・民家を悉く焼払ったけれども、当社と新庄村の勝楽寺だけは残され、河上大明神の神殿も焼き払われた。河上で佐嘉軍と一戦を交え、佐嘉勢300余名戦死、その後も方々の寺社、家屋を焼打にした。 
                
さてそのとき当所北長瀬の内の南道曲(ぐるり)にて合戦があり、佐嘉勢は城内大手門に退却した。この時城中においても、和戦の論議二つに分れ、宗麟へ降参すべしという者もあったけれども、鍋島直茂公断固これに反対し、城中心を一つにし、賊徒いかに大勢なりといえども、これを踏みつぶせ、深謀勇戦したならば、勝利は期して待たれようと御命令あり。この命令を堺駿河守並びに橋本右京助両人が城中に近侍していて、ともに承りたりという。

その合戦のとき、当社を大友吉広の本陣と定め、佐嘉城を攻めとらんと、その兵勢雲霞の如くであった。ある時先陣を多布施口に派遣した。一方鍋島方では大手口の固めには飛騨守直茂公、白山口の固めには納富常陸守が当った。両陣が未だ一戦を交えないとき、吉広、当社の御神体を紅梅の木の下に取出し、自分自身が神殿に入ろうとして一足踏み入れんとするとき、忽(たちま)ちアット仰天打ち倒れたのを、拝殿に居た近侍の者抱き起したるところ、吉広が云ふには、
神殿に入るのはけがらわし、神のすみかを汚したる故これを誅罰する、
と自ら神移りして御神託と云いながら、そのまま又打臥してしまった。

それで一同拝殿に退いたけれども、吉広は尚人事不省となったがために、近侍の者もこれはてっきり御神罰である。速に社頭から立去ろう。さりながら、陣払とて軍をまとめて立去るときは、何物も焼払うのが軍の掟である。但し、この度は吉広の命を相助け下さるならば、陣払は致しますまいと、誓ったところ、吉広俄に眼をあけ、陣払するならせよ、好きなようにせい、と御神答のままに答えて、又もとのように人事不省におちいった。その外近侍外様の数人も、身ぶるい、立ちすくみするような天罰を被ったので、近辺の藤之太輔の森に引き退いたが、後吉広は終に神埼において死んで終った。

大将吉広はこのように神罰によって相果てたので、多布施口、白山口まで進んでいた敵勢も神埼をさして退却した。
吉広が未だ死なない以前に、寿命安穏のため神埼から当社へ鎧一両、鑓一本寄進しようとして佐賀まで使者を遣したるところ、この使者が古き鎧、鑓に取替え奉納したという。ところがこの使者も佐賀にて死んだという。吉広が社内をあらしたる神罰不思議なる次第を第一に見届たのは神代家家来、古川佐渡、堺新左(※右)衛門である。右両人の者は偶然の事情によって、よくよくこれを見届けた事である。

大友八郎晴英(※親貞)それより3年目に、伯父のかたき取りとて、今山に来襲したが、却って首を成松遠江守(信勝)に取られた。右吉広はこの八郎の為には母方の伯父であったが、その哀れなる最後も天神の御神罰の末であると伝えられている。

右の様ないわれを勝茂公聞し召され、元和5年(1619)社殿御修造の棟割書がある。又再造奉祝文には「大檀那鍋島信濃守藤原朝臣勝茂 惣奉行鍋島主馬焏藤原茂照 小森角右衛門 大工岡本三右衛門」此の外社役が書き記してある。

※写真は長瀬天満宮

出典:高木瀬町史P154〜157

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