蜷打の戦

蜷打の戦

■所在地佐賀市高木瀬町
■登録ID1828

 永和3年(天授3年)(1377)南朝方の忠臣菊池武朝は鋭意肥後の統治に努め、筑後をも従えて肥前に来たり、北朝方の探題、今川了俊を攻めた。了俊はこれを聞いて2月金立山の南麓千布、蜷打に陣して待機した。
 九州治乱記巻之四には、「永和3年(1377)丁己二月了俊入道蜷打千布に陣を取り、云々」とある。
蜷打の古戦場については、金立地区の大野泰司氏が昭和31年に金立町の郷土史資料を編纂されているが、その中に、九州治乱記、大日本史、事蹟通幸、菊池武朝申状、葉室親善の申状等を引用しておられる。
 それによると菊池武朝は一挙に今川氏を討滅ぼさんものと将士を励まして戦ったけれども、了俊には大内氏の応援もあり、遂に菊池氏の敗戦となった。今川了俊はこの戦勝を契機として勢力をばん回したという。さて蜷打の地名は、金立・春日・久保泉の小字名、田字名には発見されない。ところで高木瀬・兵庫両町にまたがり上渕、下渕、東渕、西渕という地区がある。あるいは蜷打の打が渕と転化したものでないかと思われる。又逆に渕が打と転化したとも考えられる。金立町の千布と、これらの渕地区は、江湖続きであったとも推定できる。平尾川・福島川・市の江川・巨勢川など錯そうし、この附近は昔から遊水地帯で水棲動物、たにしやふなが沢山いたので蜷渕といっていたのがぶちがうちとなり、遂には蜷打と表現されるようになったとも推定される。
 千布、念彿橋、徳永川の両側友貞、二又、上渕等に板碑の供養塔が多く見られ、二又には念佛寺という寺もあったという。蜷打の戦で南朝方の植田宮、菊池武義、武安等戦死したとの記録もあり、上渕の彿地蔵にはアラヒトさんとして祀られている神像は衣冠束帯をつけているので、或はこの植田宮を祀ったとも思われる。何れにしても蜷打の戦として、千布、渕一帯に多数の戦死者があったことは想像に難くない。

出典:高木瀬町史P69〜70