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[物語・いわれ][物語・四方山話][循誘校区]は6件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 循誘校区
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佐賀市制成立後の佐賀市役所庁舎
明治21年(1888)4月17日国では市制.町村制の法律を作りこれを公布し、翌年の明治22年4月1日から実施されることになった。 これまで佐賀市の各町は、中の小路にあった佐賀郡役所の管轄下にあった。そこで町にするか、市にするかで幾多の激しい論争が展開されたが結局、明治23年3月18日官報で市制施行が決定した。佐賀市史第3巻によれば、佐賀県では明治22年3月27日の告示で、佐賀市役所を松原町に設置することにし、一時は新馬場の佐賀米穀取引所の2階を借り受け事務所にした。市会の方は北堀端協和館を議員控所に、旧県会議事堂を仮議場として使用することにした。と記載されている。佐賀市と同様、明治22年4月1日市制を施行したのは久留米市、門司市、熊本市などがある。その後佐賀市役所の事務所は、明治22年6月には市庁舎を旧県庁及び起業社の一部へ移転した。また本来の市役所の事務は7月1日から旧県庁舎で開始された。この旧県庁舎の場所は元市役所の東側(昔建設省佐賀国道工事事務所)である。佐賀市役所の庁舎として使用する『開庁式』は少し後になって11月3日に佐賀県知事や市議会議長の祝詞が述べられたがいずれも市制施行を地方自治の発展と捉え、国運の隆盛の基礎であるとしていた。市庁舎の建物は大変狭いので、市会の決議を経て、北堀端の協和館を県から買収し、明治27年7月31日移転した。この協和館はかつて佐賀県は難治の県として有名で、県と県民との間には円満を欠くことがあったので、その融和を図りこれを解消しようとし、公会堂式の建物が必要として明治18、9年頃に建設されたもので、当時この建物内の倶楽部ではコックを雇い洋食を提供したり、球突き台を置いたりしていたといわれている。この歴史的建造物として現在は、赤松小学校北の元測候所跡の石垣の上に移転保存されている。大正2年、佐賀高等小学校を元市役所のところに建設するため、北堀端の勧興小学校(元市役所別館付近)に、また大正9年には又々協和館に移り、大正10年再び佐賀高等小学校に戻った。このように30余年の間約10ヶ所移転していたので、昭和4年4月、市制施行以来40年にして初めて堂々たる新庁舎が落成し市民共々祝った。ところが昭和7年6月1日午前3時火災が発生し建物は全部焼失してしまった。焼失後市公会堂に仮庁舎を移したが、講演会等の行事に支障を生じたので7月に協和館に移転し、火災より1年9月後の昭和9年2月10日再築の新庁舎に移転した。今は県有地となり『佐賀市役所庁舎跡』記念碑が残されている。昭和51年佐賀国民体育大会開催の前年昭和50年5月、現在の佐賀市栄町1番1号の地に新築移転し現在に至っている。
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『野中烏犀圓』第8代、パリー万国博覧会に出席す
慶應3年3月(1867)パリーで開催された万国博覧会に、徳川将軍家代表徳川昭徳の他薩摩藩および佐賀藩より参加した。佐賀藩の事務管長は、精煉方の主任・佐野常民であったが、商取引に自信がなかった常民は、親交のあった佐賀市材木町の豪商、野中元右衛門を販売担当の使節に加えた。元右衛門は、腹心の貿易商、深川長右衛門にも参加を求め、佐野は、精煉方の遠山文一郎を随行させた。通訳には、幕府の遣米使節の経験を持つ藩の英学塾『長崎致遠館』の教導、小出千之助を選んだ。野中元右衛門は、烏犀圓本舗、第6代源兵衛の養子の長男として生まれ、第8代となった人である。号を古水といったが、そのころ特に体が弱くなっていた。常民から渡仏の話があったとき、家族達は心配して何度か辞退させようとした。その時、『君命を受けたからには、死んでも本望だ。 フランスは、仏国というから死んだら極楽浄土も近いだろう』と笑い飛ばしていた。彼は、長崎貿易にも着手し、嬉野茶のアメリカ輸出を画策するなどして、家業は栄えて巨富を積んだが、藩主の恩顧を忘れず藩財政の窮乏を救ったことも度々で、ついに士籍に列せられ、また、古水と号し、歌人古川松根に師事した。さて、国際舞台への夢を抱き長崎から出航し、五十数日を経てパリに到着しその後間もなく急病に襲われたため、その夕急逝した。時に55歳、パリの東の方ペール・ラシェーズの墓地に眠った。佐賀藩は、英艦フェートン号事件により、長崎警備の重要性から大砲の鋳造、軍艦の購入など防備の充実に苦心した。膨大な藩財政のため、藩産品の輸出に力を入れるため、上海パリに人材を派遣したのである。 チヨンマゲ姿で、博覧会に応対した佐賀のコーナーには珍話が多く、人気を呼んだ。 ☆ 有田焼の酒徳利の評判がよいのも不思議だった。数日して、客が持ってきたのを見ると、金具を付けてランプの台にしていた。 ☆ 和紙の強さに驚いて、ブラウスにしようというパリ娘もいた。 ☆ 幅の広いコンブを壁の代わりに買って帰った。 ☆ きれいなフランス婦人が『雪駄』のすべすべした皮が気に入ったらしく、自分の頬を軽く叩いていた『それは履き物です』といったのに、婦人は、片方だけ持って帰ろうとした。婦人は、『日本の履物を知るには、一つあったらよい』と言われてがっかりした。
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岩倉具視卿子息たちの佐賀留学逗留
明治政府の中心的人物であった岩倉具視卿は、当時、頭角を現していた副島種臣、大隈重信、大木喬任、江藤新平らを育てた佐賀藩の教育に強い関心を示し、自分の子息らを藩校の弘道館へ留学させたいと、藩主直正に頼んだ。 当時、弘道館はあらあらしい気風がみなぎっており、驚いた直正公は「貴公子を迎えるには恥ずかしい限り」と固く辞退した。 しかし,結局、子息二人は佐賀に下り、願正寺に投宿しました。そして1カ月遅れて養子、分家の子息なども来佐した。 中央から佐賀への留学は、当時、佐賀が優秀な教育の場と目されていた証拠であろう。
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長崎奉行宿泊所、「御茶屋」(願正寺)から「本陣」(呉服町野口恵助宅)へ
徳川幕府は享保2年(1717)、長崎に奉行所を作り、江戸から毎年一人、長崎奉行を派遣し外国船の貿易を監督させた。長崎奉行が佐賀を通過する折、佐賀藩大名は領内の支藩大名もふくめ、宿泊所である「お茶屋」に出向いて、あいさつするのがならわしであった。佐賀ではその宿泊所に願正寺が充てられていた。藩主の休憩所が臨時に充てられていたようで、現在の書院が使用されていたと思われる。また、そのほかの階級の宿泊するところは、本庄、長瀬、呉服に、2、3軒、はたご屋としてあった。 当時、大名などが宿泊するところを、東海道など五街道では[本陣」といい、町人の経営する民営であったが、長崎街道など西日本の地域では大名宿は「御茶屋」といい、藩の経営であった。 寛政末年になると長崎奉行が佐賀城下に宿泊する頻度が増えてきたため、当城下にも本格的に宿泊所の「本陣」を設ける必要が生じてきた。そこで,寛政12年(1800)3月から、呉服町の御用商人・野口恵助が私邸をすべて提供した個所を「本陣」として使用、その後、諸施設を整備し拡張した。今の呉服町錦通りエスティマンションがその跡地で、外塀の角に説明板が付けられている。 本陣ができてからは願正寺、称念寺は脇本陣として使用された。
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検番と芸者くらべ
明治初期、佐賀市内の貸座敷密集地は上芦町と下今宿であった。明治16年(1883)佐賀県が再置されたが、時の県令(知事)鎌田景弼は「県庁の近くに遊郭があるのはけしからん。風紀が乱れ・・・」と言って廃止してしまった。しかしすぐ復活運動が始まり5年後には復活して以前を上回る繁栄ぶりであった。 佐賀市に初めて芸者検番が店開きしたのは明治30年(1897)、この年佐賀自由(佐賀新聞社)新聞に「佐賀市に芸妓検番の無きはもの足らぬ心地すと さる粋さまも言われき。依って今般検番を設け、京阪その他より幾多の芸妓を集めて営業を始め・・・」という広告を対象としたユニークな企画を実施した。「佐賀県下芸者くらべ」というコンテストである。 2月10日の社告で「本社当節左の趣向にて県下芸者くらべ投票を募集す。(中略)県下のあらゆる芸妓について、美中の美、粋中の粋、花中の花を撰り、世の粋士嫖客に紹介するも亦、本社の一粋ならめ。」と告知した。新聞に刷り込まれた投票用紙で投票する仕組み。大別嬪に純金の大指輪1個、未来の大別嬪にも純金の指輪。三味線や踊り、歌などの各部門で一位になった芸者にも象牙の三味線のバチといった豪華な賞品も用意された。明治らしいおおらかさが感じられるエピソードである。
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進駐軍宿舎
昭和20年秋、大戦の敗戦により佐賀市にもアメリカ占領軍が進駐してきた。市内の主な公共施設にはアメリカ兵の衛兵が立ち、MPがパトロールしていた。新道の内庫所も接収され、何らかの施設となったのか、朝夕の星条旗の上げ下ろしには路上のアメリカ兵の直立不動の姿も見られた。 材木町の資産家川原氏宅の洋風の別棟も司令官宿舎として接収された。当時庶民の生活は衣食住にも事欠き、水道は水圧が弱く、共同水道でも地面下まで掘り下げないと水があまり出なかった。また電力も不足し電圧を下げたローソク送電、しかも度々停電した。 ただ、司令官宿舎だけは煌々と灯りがともり、門前の電柱の街灯も輝いていた。期末試験が迫ると近所の旧制中学生たちは、教科書や参考書を手に街灯の下に集まっていた。 司令官の就学前の一人息子アーサー君、やんちゃ坊主らしく近隣の台所までちらかしていた。つかまえて話しかけたが、われわれのつたない英語力では名前や年齢を聞き出すのが精いっぱいであった。 司令官夫人は夏になると、やはり接収されていた佐賀中学(現西高)のプールに行くため、ジープに乗って肌をさらしていた。 接収解除後、川原家では床の間だったか押し入れだったかがトイレに改造されていたとこぼしていたということである。