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人物 人物 新栄校区
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戦国領主の八戸氏
古い歴史書によれば八戸氏は祖先高木氏の流れである於保氏より出で、佐賀郡八戸村の村名を取って八戸氏と称した。 龍造寺家兼の娘婿であった胤宗(八戸右エ門太夫)の孫八戸下野守宗睗の頃隆盛を極め八戸、新庄、津留、諸隈、益田、木角、成導寺等佐賀市西部を支配していた。妻は龍造寺隆信の姉ながら、山手の方の神代氏と同盟関係にあり、常に龍造寺軍と争っていたため、弘治3年(1557)元旦、龍造寺軍に攻められ八戸城は破却された。 城主宗睗は神代氏に逃れ、大友宗麟との戦い(今山の戦い)で大友側につき敗れた。この時、傷をおいこの傷のため杠山で落命し、清流寺に葬られたと伝えられている。 宗睗の息子八戸助兵衛宗春は、隆信公の母慶聞尼の命乞いにより助けられたが八戸姓を許されず山本に姓を変えさせられ、後に鍋島家の家臣中野家から養子を迎え(山本神右エ門)その子が山本常朝(葉隠の口述者)とされている。 よって山本常朝や八戸一族の墓、神代家の子孫の墓等が八戸氏の菩提寺龍雲寺に見られる。また八戸家の墓が天福院でも見られる。
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西久保弘道
文久3年(1863)5月、鍋島村(現在の鍋島町大字八戸坂井)に生まれる。 明治28年(1895)東京法科大学を出て内務省に入り、愛知県事務官、石川県警部長、山梨、静岡、茨城、滋賀各県の内務部長を経て福島県知事となり、次いで土木局長、北海道長官、警視総監等を歴任された。その後、貴族院議員に勅選され、大正15年(1926)には東京市長に就任し、昭和2年(1927)に辞任された。 また、剣道は無刀流の範士で、武徳会副会長として大いに武道を振興された。愛郷の念に富み、常に後進の指導に当たられた。 長崎本線の鍋島駅の新設は、氏の尽力の結果と言われている。
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森広次
明治24年八戸生。37年青藍校卒業後通信教授国民中学校に入学し、農業の傍ら新知識の修得に努力し、農業特に酪農の開発と振興に献身した。其の間、村農会総代及評議員、村会議員、農協監事、大井手土地改良区総代、村畜産組合評議員、郡市酪農組合監事、市中央酪農監事、県経済連牛乳工場運営委員、県酪農組合連合会副会長などを歴任し、ために鍋島村長、佐賀市長、県知事、郡市畜産組合長、大井手土地改良区理事長などから表彰状を受け多年の村治、産業特に酪農に対す功績をたたえられた。昭和12年当時物資不足にて特に母乳不足のため空腹に泣く乳児が多く、ために鍋島村の乳児死亡率が佐賀郡下で1−2位の高率にあることを知り、その対策として乳牛飼育の必要性を痛感し、東与賀村から9頭の乳牛を導入した。その鋭い感覚と人道的で新鮮な着想とには深く敬服するものであり、彼の鍋島酪農の先駆者としての功績は甚大である。