戦国領主の八戸氏

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戦国領主の八戸氏

■所在地佐賀市(新栄校区)
■登録ID1877

古い歴史書によれば八戸氏は祖先高木氏の流れである於保氏より出で、佐賀郡八戸村の村名を取って八戸氏と称した。
 龍造寺家兼の娘婿であった胤宗(八戸右エ門太夫)の孫八戸下野守宗睗の頃隆盛を極め八戸、新庄、津留、諸隈、益田、木角、成導寺等佐賀市西部を支配していた。妻は龍造寺隆信の姉ながら、山手の方の神代氏と同盟関係にあり、常に龍造寺軍と争っていたため、弘治3年(1557)元旦、龍造寺軍に攻められ八戸城は破却された。
 城主宗睗は神代氏に逃れ、大友宗麟との戦い(今山の戦い)で大友側につき敗れた。この時、傷をおいこの傷のため杠山で落命し、清流寺に葬られたと伝えられている。
 宗睗の息子八戸助兵衛宗春は、隆信公の母慶聞尼の命乞いにより助けられたが八戸姓を許されず山本に姓を変えさせられ、後に鍋島家の家臣中野家から養子を迎え(山本神右エ門)その子が山本常朝(葉隠の口述者)とされている。
 よって山本常朝や八戸一族の墓、神代家の子孫の墓等が八戸氏の菩提寺龍雲寺に見られる。また八戸家の墓が天福院でも見られる。  

出典:田中浩彦