検索結果 RESULT
[自然][河川・水路][鍋島校区]は3件登録されています。
自然 河川・水路 鍋島校区
-
嘉瀬川
脊振山地に源を発し、佐賀平野を南流して有明海に注ぐ。115㎞。古湯、熊川の温泉地の渓谷を経て、川上峡の渓谷は風光明媚を誇り、佐賀、唐津、前原を結ぶ交通路となり、川上神社は扇頂に位置し、古代肥前の政治、文化の中心がここに立地していた。 近世の初期成富兵庫の築いた石井樋から分流した多布施川の水は、佐賀城下の日常用水や農業用灌漑水に用いられた。 なお嘉瀬川の本支流の河川が舟運による人や荷物の運搬に利用され、支流の多布施川、巨勢川、佐賀江、八田江、本庄江などには川舟が往復し、多布施川では川上までの川舟が用いられ、川遊びも行われていた。しかし水害も多く、治水については、成富兵庫による石井樋の築造のほか洪水に際して遊水池を設ける野越工法、今日では北山ダムによる流水調節などがなされている。
-
多布施川
古くは嘉瀬川の本流であったと考えられている。江戸時代初期成富兵庫は、石井樋という制水口を築造して現在の嘉瀬川に放流し、水量をコントロールして城下の内堀や周辺の飲料水、更には流域の灌漑用水を確保した。 多布施川では川運によって川上から城下まで人や物資の運送が行われていた。佐賀市内を流れる松原川もかつては清流で蛍もとび交っていた。 なお幕末に佐賀藩独力で製作した築地、多布施反射炉は多布施川流域に立地し、この水力を用いて水車の力で砲身をくりぬいていた。嘉永6年(1853)6月アメリカ提督ペリー来航に驚いた幕府は、8月品川砲台の備砲100門を佐賀に注文してきた。佐賀では新たに多布施反射炉を築造した。これを同年10月来佐見学した幕府勘定奉行川路聖謨は大規模な設備に驚き、彼の長崎日記に「いやはや大造なる仕かけなり。反射炉というはタタラを用いずして、一度にクズ銕をふきて、鋳物ながら銕を銅の如く柔らかにするを以て、大銃をつくるなり。ここにて水車を以て大銃の穴を明け、或いは大銃を切り、或いは仕かけにて一万貫目を有るものを、僅か三人にてあげおろしを自由にするなり。」(「長崎日記」安政元年一月二十二日)と、その時既に早くも一大兵器工場として火を噴いていた佐賀の偉容に驚いている。
-
鍋島大水害(28水)
嘉瀬川はいつもおとなしくて、恵み豊かな流れであるが、昔から怒ると荒れ狂う本性を現わす暴れ川といわれてきた。 昭和28年6月24日から連日土砂降りの豪雨が降り続き、佐賀測候所始まって以来の月間雨量を記録したと新聞は報じた。水害が起こる数日前から田圃は浸水し、大人の膝あたりまで水嵩が増していた。各地区との間の田圃の畦道や農道も堀も一面湖と化し、ただ見えるのは堀端の大きな柳の木や高い樹木だけであった。田植時期なのに自分の田圃が何処にあるのか見定めのつかない状態であった。 連日の豪雨で岸川地区の堤防は随所に漏水箇所があり、消防団・青年団・地元や周辺地区の人が中心に徹夜の応急補強作業を行ったがそのかいもなく、午前8時40分に堤防が決壊し、一瞬にして鍋島全村を濁流が襲いかかった。蛎久地区の東を迂回した濁流は角目・新村を襲い、西に向った濁流は津留の真中を突き抜けて鍋島小学校をめがけて波頭を高く押し寄せてきた。藪や柳はなぎ倒され、作業小屋は流され、わら小積みが小舟のように傾き流され、出荷前の菜類や麦の俵が濁流に浚われて、想像をしたこともない地獄絵図を見るような情景であった。最後まで堤防の上で蛎久区長として監視を続けていた石丸久光氏は奔流に飲まれ殉職された。 直ちに水害対策本部を設け、水勢が渦巻く中250mに及ぶ決壊の復旧作用は難航を極めたが、必死の作業で仮せきとめに成功した。(7月15日午後2時30分 締切日出動人員7,111名)