多布施川

多布施川

■所在地佐賀市
■登録ID2672

 古くは嘉瀬川の本流であったと考えられている。江戸時代初期成富兵庫は、石井樋という制水口を築造して現在の嘉瀬川に放流し、水量をコントロールして城下の内堀や周辺の飲料水、更には流域の灌漑用水を確保した。
多布施川では川運によって川上から城下まで人や物資の運送が行われていた。佐賀市内を流れる松原川もかつては清流で蛍もとび交っていた。
 なお幕末に佐賀藩独力で製作した築地、多布施反射炉は多布施川流域に立地し、この水力を用いて水車の力で砲身をくりぬいていた。嘉永6年(1853)6月アメリカ提督ペリー来航に驚いた幕府は、8月品川砲台の備砲100門を佐賀に注文してきた。佐賀では新たに多布施反射炉を築造した。これを同年10月来佐見学した幕府勘定奉行川路聖謨は大規模な設備に驚き、彼の長崎日記に「いやはや大造なる仕かけなり。反射炉というはタタラを用いずして、一度にクズ銕をふきて、鋳物ながら銕を銅の如く柔らかにするを以て、大銃をつくるなり。ここにて水車を以て大銃の穴を明け、或いは大銃を切り、或いは仕かけにて一万貫目を有るものを、僅か三人にてあげおろしを自由にするなり。」(「長崎日記」安政元年一月二十二日)と、その時既に早くも一大兵器工場として火を噴いていた佐賀の偉容に驚いている。

出典:鍋島町史p.148