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[自然][河川・水路][嘉瀬校区]は6件登録されています。
自然 河川・水路 嘉瀬校区
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干拓堤防
嘉瀬新町の干拓堤防は、後傾斜工法のオランダ式堤防である。堤防事業は、用水確保、洪水調節、陸地造成など多目的である。有明海では、大潮の時には水かさが5~6mに達している。
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嘉瀬川水路の変遷
奈良時代、国毎に作成された最古の地誌の一つ「肥前風土記」によれば佐嘉川の上流に荒ぶる神あり。通行人の半分を殺した。当時、土地の支配者佐賀県主(あがたぬし)「大荒田」が、まだ朝廷に服従してなかった「土蜘蛛」の「大山田女」と「狭山田女」の二人の女性に占わせた。そこで二人は、下田の土で馬と人を造り、荒ぶる神を祀ったら静まった。そこで二人の女性は崇められ感謝されて「賢女(さかしめ)」と呼ばれたという。サカシメが佐賀の地名の由来となったとも言われている。この風土記の中の佐嘉川は現在の嘉瀬川であり、荒ぶる神は嘉瀬川の氾濫である。川は氾濫を繰り返しながら流れを西方に変えていった。 奈良時代は、川上から巨勢川、佐賀江川から諸富で筑後川に合流していた。当時、諸富は有明海に臨む重要な河口港であった。その北徳富の大津は、肥前国司所在の大和町久池井への玄関口になっていた。 鎌倉時代になると水路は、多布施川・八田江から有明海に注ぎ、中世末から戦国時代になると、多布施川・本庄江となり、さらに現在の嘉瀬川となった。 江戸時代初期の寛永年間に成富兵庫茂安の石井樋造成で、石井樋より上流を川上川、下流を嘉瀬川とよび、初めて佐嘉川が嘉瀬川となり現在の流路に定着したと言われている。 そして、嘉瀬村も現在の村落として形成されたのである。 佐嘉川(嘉瀬川)の洪水や水路の変遷がもたらす土砂流と、有明海の干満の差6mにも及ぶ潮の流れが運ぶ潟土によって形成された平野が農作地帯として開発されるが、平野の形成に重要な役割をなすものに澪(みお)と呼ばれる小水路があった。 潮の干満に伴って、潮の流路ができる。堀ともクリークとも呼ばれる。この澪が潅漑用水路として重要な役割を持っていたのである。嘉瀬村は特に「澪」の多い地域として豊富な米作地帯となった。
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「嘉瀬川の古い流れ」
嘉瀬川は、縄文中期(約5千年前)頃、脊振山地の麓に沿って支流をもちながら、東の方に流れ筑後川に注いでいた。水量豊かで舟楫の便があったらしい。 奈良時代(710~793)頃、市ノ江・巨勢江湖・佐賀江の線が、嘉瀬川の本流である。この佐賀江は、巨勢江湖をはじめ、中地江その他の細流を集め東西に流れ、東は筑後川(大堂川) に注ぎ、西は新川などの支流をつくる。 平安時代・鎌倉時代(794~1085、1192~1333)頃、嘉瀬川は、なお西漸して、八田江湖の線に移り、戦国時代(1491~1603)頃、本庄江湖より更に西に移る。 近世初頭(1604~1867)頃、現嘉瀬川河道に納まったものと想像される。 江戸時代(1603~1867)初頭、成富兵庫の治水利水事業の推進によって河道も安定した。 成富兵庫茂安は、元和年間(1615~1624)から寛永年間(1624~1644)にかけて石井樋を設けた。
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「昔の嘉瀬川」
県農林部技師 崎田善七の著 昔の嘉瀬川より 昭和30年1月発行 史実によれば、平安朝頃(800年頃)までの佐賀平野は、有明の海だった。堤防もなく井堰もない全く原始的な性格そのまゝで、洪水毎に乱流していた。てっきり「水神さまの祟りである」と怖れおののいた。 鍋島村岸川部落の川べりに八竜神社を建立した。380年前、天正の始めに建てられた。戦国時代の末期に当り徳川がほぼ天下を平定した頃です。
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「変った嘉瀬川の堤防」
江戸時代から昭和の末期まであった、嘉瀬川堤防の竹林は、濃い緑の帯をなしていた。 その竹林の中に、一本の小道があった。この小道を歩いて、ふる里を離れていたが、いま帰郷したと、心に、沁みたものだ。 秋も深まれば、竹林の帯の中に、はぜの木の一群があったが、真紅に染った色は、一段と色鮮かだった。ところどころにある椋の木は、黒い小粒の実を一杯つけて、子供たちを待っていた。口一杯ほほ張り、一粒ずつ実を空に吹き飛ばす、しぐさと感触は忘れられない。椋の木の上から望めた、稲小積の列や、屋敷の大根干しの列など、今は、無い景色。竹林も、はぜの木も、椋の木も姿を消した今の裸の堤防だが、河川敷の川幅は広くなり、バルーンの行事中は、にぎやかである。昔の嘉瀬川堤防の椋の木の友達が、お志賀さんの境内に一本あります。秋には、実のり一杯にし、皆さんを待っております。
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有明海の港
13、4世紀の船舶「刳船」は6〜8人の櫓の漕ぎ手で、有明海に潅ぐ嘉瀬川を利用し、年貢や物資の集散地であったのが嘉瀬津であったと推察される。 嘉瀬津には「津の代官、平吉弥次郎」着任している。今の嘉瀬津公民館。中国との交流もあっていたのだろう「宋銭」を祖母から貰っている。 その頃の九州の3大津 博多津・・博多、坊津・・鹿児島、嘉瀬津・・有明海 13、4世紀頃の嘉瀬津の船着場を昨年やっと、ここらしい所をさがしだす。 土井の古賀で側に「ひやあらんさん」を祀ってあった。勿論写真に収めている。場所は十五部落の西の方。