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[産業][漁業][諸富町]は16件登録されています。
産業 漁業 諸富町
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蝦ゲンシキ網
大正期の漁業 構成 網地、四本綿糸、一寸四分目、三百掛、長、八尺七寸五分のものを縦目に用ひ、之れを一把とす。 縮結、肩を二丈に、裾を三丈二尺五寸とす。 浮子(あば)、桐、長五寸二分、巾八分、厚一寸四分 沈子(びし)、陶製円筒形、長二寸、中央径六分五厘、両端四分、重六匁のものを四寸距に付す。 沈子綱、麻糸太径八厘のもの二本 棚糸、ユラと称す綿糸五厘、径長三寸のものを沈子二個に一本を付し中央迄折返して網を括り付け棚を作る。 漁法 肩巾六尺の漁船に、二人乗込み、網五、六十把を携へて出漁し、網の各把を縫合し、潮流の変り目に於て、網の一端に浮標及び浮標綱を付して投入し、潮流を横切りて網を下し、最後に十五斤乃至二十斤の石を付し、これより綱を船にとり(棚をば潮下に向けて)網と共に潮流に従ひ、徘徊し一潮を流し、停潮時に於て之を取上げ、更に次の潮に張り下す。 漁獲物 車蝦、エソ、チン、鱚にして、四、五百円の漁獲あり。 漁期 周年 漁場 筑後川尻より、福岡県三池大牟田、長崎県島原、熊本県三角、長州沖合に至る。海深、夏期は三尺〜三丈、冬期は五尋〜三十五尋、主として砂上に用ひ、時として砂泥地に行ふことあり。 (大正5年(1916)8月発行。県水産試験場『漁村調査報告』より。)
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赤目ゲンシキ網
大正期の漁業 構成 網地、上部は六本綿糸、二寸目二百二十五掛、長二尺五寸、下部は麻二寸目二百二十五掛、長六尺二寸五分 重、百匁のものを用ふ。 縮結、肩を二丈一尺四寸に、裾を三丈四尺八寸とす。 浮子(あば)、桐、長五寸二分、巾八分、厚一寸四分 沈子(びし)、陶製円筒形、長二寸、中央径六分五厘、両端四分、重六匁のものを四寸距に付す。 沈子綱、麻糸太径八厘のもの二本 棚糸、ユラと称す綿糸五厘、径長三寸のものを沈子二個に一本を付し中央迄折返して網を括り付け棚を作る。 漁法 肩巾六尺の漁船に、二人乗込み、網五、六十把を携へて出漁し、網の各把を縫合し、潮流の変り目に於て、網の一端に浮標及び浮標綱を付して投入し、潮流を横切りて網を下し、最後に十五斤乃至二十斤の石を付し、これより綱を船にとり(棚をば潮下に向けて)網と共に潮流に従ひ、徘徊し一潮を流し、停潮時に於て之を取上げ、更に次の潮に張り下す。 漁獲物 鱸、赤目(ヤスミ)、コウナイ(小形のグチ) 漁期・漁場 夏期にして本浦(搦)より下流、竹羽瀬までの間。 (大正5年(1916)8月発行。県水産試験場『漁村調査報告』より。)
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蛸ゲンシキ網
大正期の漁業 構成 網地、四本乃至六本綿糸、一寸四分目、二百五十掛、長二尺五寸のものを上部に一寸目四百掛、長六尺二寸五分のものを下部に付す。 縮結、肩を一丈六尺六寸に、裾を三丈一尺とす。 浮子(あば)、桐、長五寸二分、巾八分、厚一寸四分 沈子(びし)、陶製円筒形、長二寸、中央径六分五厘、両端四分、重六匁のものを四寸距に付す。 沈子綱、麻糸太径八厘のもの二本 棚糸、ユラと称す綿糸五厘、径長三寸のものを沈子二個に一本を付し中央迄折返して網を括り付け棚を作る。 漁法 一艘に三、四十把を使用す。 漁獲物 手長蛸、ハゼ、ヤスミ、鯒(こち)、飯蛸 漁期・漁場 一月より三月まで筑後川尻より、高羽瀬(竹羽瀬)までの間に使用。 (大正5年(1916)8月発行。県水産試験場『漁村調査報告』より。)
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小繰網(風呂敷網)
大正期の漁業 構成 網地、綿糸六本合、一寸四分目三百掛、長十三尋のものを縦目に用ひ一把とす。 縮結、肩を四尋とす。 浮子、桐長五寸二分、巾一寸六分、厚二寸八分のものを二十二牧を付す。 浮子網、二分径綿糸二本 沈子、陶製円筒形、重十五、六匁のものを一尺に一個 沈子綱、七分径の藁綱二本 漁法 網船二艘、手船二艘を要し、各四人宛乗込み、前記の網十七反を接ぎ合して出漁し、ハダラ網と同様の方法に於いて、魚を取旋き網船二艘相舫ひ、肩裾を同時に引揚げ魚を捕獲す。 漁獲物 鱸、赤目、ナヨシ(鯔の成魚)、鱇(あんこう) 漁期・漁場 五月より九月の間、水深三尋乃至七尋の泥砂底に使用す。 (大正5年(1916)8月発行。県水産試験場『漁村調査報告』より。)
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口底ゲンシキ網
大正期の漁業 構成 網地、上方は六本綿糸、一寸八分目二百二十五掛、長二尺五寸、下部は麻糸六本綿糸太一寸八分目二百二十五掛、長六尺二寸五分 縮結、肩を一丈九尺に、裾を三尺二寸五分となす。 漁獲物 赤目、口底、コウナリ(小形のグチ)、グチ (大正5年(1916)8月発行。県水産試験場『漁村調査報告』より。)
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諸富町漁業のはじめ
古い記録では、宝暦3年(1753)、諫早湾の漁場をめぐり、諫早領と佐賀領との間で漁民の紛争があって、佐賀藩の有明海漁民は連署の訴状を津方役所に提出したが、その中に浮盃新津、西寺井津、堤津の諸富町内の地名が記されている。 寛政年間の『幕使佐賀巡見録』によると、「猟師(漁師)は居り候やという質問に、ここより少し隔てた浮盃と申す所と、早津江と申す所に少し居りますと申すと、運上(租税)はと尋ねられ、ありませんと答えたが、重ねて尋ねられたので、左様答えると、結構なものだと仰せられた」と記してある。 また為重の庄屋は、光徳寺(西寺井)で聞かれた折、早津江と浮盃に約30艘いると答え、帆別銀として3艘につき銀4匁5分を納めていると答えている。 浮盃と隣接している東寺井新名から、漁網のイワ(おもり、土垂)が庭・畠から多数出土しているが、中には手作りの、幼稚なものもある。 ここらあたりは少し深く掘ると、かき(牡蠣)、ハイガイ、アサリなどの貝殻が出る、もとは海であった地区である。 寛政4年(1792)作成の佐賀藩の絵図を見ると、浮盃本津の南面に展開する新地搦田があり、ナカボイ(現大五川)があり、搦部落が現在と違わず一筋の道路に面して家々が描かれていて、浮盃新津と記入してある。 伊勢大神宮も記入されて、ちょうど、現在の搦地区の位置に当る。近隣の町村の古老たちは搦のことを「浮盃搦」あるいは「浮盃の搦」と称えるところから、浮盃新津即ち搦であるといえる。 妙光寺(為重)の過去帳から見ると、搦という名の地区の漁業は100年そこそこの歳月と思われるが、同地異名の浮盃新津という名の漁業地区は、前掲の宝暦3年には既に漁業が操業されていたことになり、少なくとも、230年以上の漁業の歴史をもっていることになる。 さらに、搦地区の背後地で漁業が行なわれていたと考えると、諸富町の漁業の始まりは、なお古い歴史があると見ていいだろう。
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有明海の漁業
有明海は海面積が狭い割りに、筑後川、嘉瀬川、六角川、塩田川などの注入している河川が多いので、栄養塩類に富み、魚貝類の天然飼料が豊富なため、稚魚の育成に適している。 ここには、また、外洋性の魚類であるサワラ、ヒラ、グチなどが、生殖のために廻遊するし、餌を求めて、長期間、滞留するハモ、サヨリ、マボラ、ススキ、クロダイ、ヒラメなどが多い。 定住的な沿岸性魚類はハゼ類、アカグチ、メナダ(ヤスミ)などが非常に多い。 搦の古老の話では、「昔は有明海に恐シカゴト、魚ノオッタ」と聞いていたという。 また、有明海は干満の差が著しく、5.5m〜6mで日本一である。干潮時には広大な干潟(地先)が出現し、ここに各種の魚貝類が棲息し、ガタリュウ(干潟漁撈)が営まれている町村が多い。 有明海における沖合漁業は、最深部でも二十数メートルの沖合で行なわれ、水温は気温に左右されやすいので、魚群も気温によって移動する。それに早い潮流を利用して定置網や流し網漁撈などが小規模に営まれている。
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諸富町の漁業
有明海における干拓陸化のために、沿岸漁村は3〜4kmの奥にあり、大半が農業を兼ね、更にその背後に純農家を控えた集落を形成しているのが普通である。 しかし、諸富町は筑後川の河口にある地域で、地先(干潟)をもたず、沖合漁業に徹し、アミリュウ(網漁撈)が古くから行なわれて、盛んであった。1か月の間には一潮に十日間出漁し、次の潮にさらに十日間出漁するという操業の型で、兼業は考えられない。勿論、耕地もなくて農業に従事できない。 それだけに、網漁業に賭けるものがあり、中でもゲンシキ網漁の歴史は古く、技術的にも秀れているのは、県外・県内の町村でも、既に認めるところである。 明治21年の統計に、寺井津(搦)161戸の漁戸があり、大正5年の水産試験場報告でも搦地区180戸の中で、160戸(89%)が漁業に従事し、部落ぐるみの漁浦である。この傾向は、今日もあまり変りがない。 旧佐賀郡15の漁村の中で、漁戸の最も多いのが寺井津(搦地区)である。(『佐賀市史』) 古い歌に、次のようなものがある。 ♪カラミ荒籠の崎ぁ 船が百艘着きぁ 帆柱も百本 止まる鴉も百羽っぱ(吉田よね氏提供)
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ゲンシキ(玄式・源式)網漁
諸富町のゲンシキ網漁が、いつごろ始まったか明らかでないが、古くから盛んであった。 明治20年ごろ、既に熊本県に出漁していたが、その関係で熊本県にゲンシキ網漁を教えて、感謝されたが、熊本県でも盛んになり、次第に佐賀県からの入漁を敬遠するようになった。 ある年、入漁許可の更新が不許可になった。それまでは佐賀県から100隻が入漁していたので、熊本県に交渉してもらい、やっと、60隻が許可になった。 それは、入漁していた宇土郡のゲンシキ網漁の漁民が莚旗を押し立てて、熊本県庁に押しかけ、佐賀県よりの入漁を猛烈に反対したという、いきさつがあったからである。 また、長崎県にゲンシキ網漁に適する漁場があったので出漁して、長崎県の漁民に教えたが、だんだん、長崎県側にゲンシキ網漁の船が多くなり、佐賀県の出漁を排斥したので県に交渉して、入漁を認めてもらったことがあった。(『有明海の漁撈習俗』の中の諸富町古老の話) 長崎県や熊本県など他県へ、ゲンシキ網漁を教えに行った人たちやゲンシキ網まで作ってやった人たちが今なお生存している。 ゲンシキ網漁は流し網漁撈の代表的なもので、とくに「搦ゲンシキ」の名で知られ、漁休みの搦地区の道路の傍には、網干しの竹柱が林立し、網の修理、渋打ちなどの整備が行なわれ、道も狭いほどであった。 この網は潮流と直角に下ろし、底には重り、上には桐材のアバ(浮かし)をつけ、両端には目じるしの樽をつけ、潮流のまま流す。 網の長さは300mにも及び、丈は3m余り、もとは麻糸であったが木綿糸となりナイロン糸となった。網は海底ちかくを流れていく。 時期をみて船から網をたぐり寄せ、魚を揚げ、これをくり返す。網の目は魚によって、荒目(太目)はグチなど、中目はスエビ(くるまえび)で、スエビの成長により替える。細目がマエビ(しばえび)用である。 漁期はスエビが4月〜10月で、マエビが10月〜3月までであった。 因みにエビは昼間は下にもぐり、夜に出てくる。また、曇った日と潮流の濁った時は昼も出るが、エビが昼間網に入ると夜は入らぬ、網の上を泳いでいってしまう。 この網を流すには、岩礁や沈没船など海底の状態を知りつくして、流さぬと網をひっかけて大損害を受ける。ここから流したら、どう流れるかという勘が働かないといけない。古老たちは有明海の海底の状態を知りつくして、年老いても覚えていて、図に描けるという。 漁の上手な人は岩礁や沈没船のあるところに、魚類が多くあつまるので、障害物にすれすれに流したり、危険なところは古網を使って魚獲量をあげた。
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くるまえび養殖
有明海のくるまえび(スエビ)は特に美味で、東京などから買付けが行なわれていた。 大木磯吉氏は県内で、いち早く、これが養殖(厳密には蓄養)を思い立ち昭和5年、大浦の海に2,500坪、熊本県天草郡登立町に、3,500坪と2,000坪の養殖場を設けて操業した。 ここでは、くるまえびの小さいのを8月に入手して、養殖場で育て12月〜3月までの期間に、ノコクズ詰めにして出荷した。 出荷は鉄道、後、航空貨物によった。また、養殖法も進歩して、孵化えびを養殖するようになった。 新しい事業に取り組んでの困難と苦労も、想像されるが、成し遂げ、後、達司氏が継いだが、海苔養殖の発展に伴って困難となり、昭和54年に、50年に亘るくるまえび養殖事業を閉じた。
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はじ(竹はじ、竹羽瀬、高羽瀬)漁
干潮のときも、干潟の出ない沖合に、竹はじを潮流の方向に、漏斗状に立て、そのオロ(口)のところに網をとりつける恒久的な定置網である。 双方に広がる竹はじの長さ2〜300メートルで、竹は一束、2〜4本結びの長いものの1,000束ぐらいを、間隔平均60cmに立てる。網をつける付近は、とくに隙間がないようにする。 網の口幅は3.6mほど、奥行は8m余りで先端は後の杭にくくりつけてある。 潮流は1日に2回干満を繰り返すので、潮を見て魚を捕りにいく。網が上下2段にとりつけてあって、下をハジアミといい、上をテイアミと呼ばれる。網の口には舌がついていて、獲物は杭に結んである網の先端の紐を解いて取り出す。 夜の海に獲物を捕りに行くとき、夜光虫が眩しいばかりに輝いて、とても美しかったといわれる。 下網にはイカゴ、エビ、サヨリなどの小型のものが、上の網は目が大きく大型の魚が入る。 この立ち並んだハジ竹の中に入り込んだ魚類は、竹の近くへ来ると、早い潮流にあたって唸りをたてているから、音に驚き、中央の方へ移るため、竹の隙間から、外へ逃げることは余りない。 搦では「竹ハジにオロを三つ作るな」という言葉がある。網を取り付けるところをオロというが、三つ付けるような隙間はつくるなという。それは念入りに立てないと、潮流の激しい時には竹ハジに隙間ができ易いからである。 竹ハジは資材に多くの資本が必要で、利益があがらないと損だから、諸富町でも権利を貸したり、また始めたりしたものである。 明治25年ごろ竹ハジが不振で、柳川の人に貸して、利益をあげているのを見てまた始めた。 明治30年代に権利が漁業組合に移り、入札するようになった。明治の終りに福岡県山門郡の人に権利を貸したが、昭和10年頃とり戻し、組合員の競争入札でやるようになった。 大正年間に佐賀、長崎、福岡、熊本の4県の水産関係の技師が、ハジ網にアユゴが入りアユの繁殖上に害があるから、ハジ網の禁止を決議して通達してきた。 町ではハジ関係者に呼びかけ、その取り消しを陳情し、その通達を撤回させた。 戦時中、ハジ網は絶えた。終戦後、4名が始めたが、いまは絶えている。 それは、資材の大竹が、筑後川を筏流しで下ってきて比較的、安く入手出来たが、夜明ダムが設けられて、それも出来なくなったし、魚獲高も少なく、流し網におされて減少し、海苔養殖普及、隆盛と共に消えていった。
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こぐい (小操い)網漁
まき網で、追い込み網とも呼ばれる。 網船2艘は各々、3丁櫓とオモテ(舳先)に1丁の櫓が装備されている。オモテの櫓は船の向きを急速に変える役目がある。それに、網下ろし、網揚けをするから8人〜10人ほど乗込む。網船は大型の船であったが、あとに至るまで動力化せず、手漕ぎ船であった。 2艘の網船が網の両端を曳いて、半円形に張ったときに、身軽な2艘の手船が網の前方から、魚類を網の方向へ追い込む。この追い込みには、厚板を叩いて、トンコ、トンコと音を立てながら進む。 ちょうど、網をすぼめながら、風呂敷のようにして、巾着網となってしまう。 ススキ、メナダ(ヤスミ)、チン、ヒラ、マナガタなどが獲れた。 網船に揚げたものは、生簀を備えた手船2艘に移し輸送にあたり、また、家への連絡役で、食糧を取りに帰るから、後には動力船になった。しかし、沖へ出るときは手船が2艘で、2艘の網船を曳航した。 総勢16人−20人ほどが4艘に乗込み、出漁した。手船は「通い船」ともいわれた。
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ハダラ(サッパ)ぐい
ハダラぐいもこぐい網漁と全く同じ網漁で、ツギ網ともいわれ、規模が大きくて(網目はこぐい網漁より小さい)行なわれる沖合漁業で、ハダラの魚群を一網打尽に捕獲してしまう。 沖の海には、カグメ(かもめ)が群れていて、ハダラの大群のいることを、知らせてくれたといわれる。漁期は10月〜3月である。
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かし(柏、河岸)網漁
満潮の時、三尋の深さになる場所を選んで、潮流に向って網を張り、竹を20〜25本を直線に立て並べ、網を竹の上下にくくりつける。 網の底は地面につけ、上は3〜40cm間隔でウカシをつける。 網が潮流で流れないように、竹の上下に縄をつけて碇止めしておく。碇は網1反に1か所の割りで付け、潮流にのって遊泳してきた魚は網の目に刺さるサシ網の一種である。 潮の止まる前即ち6時間ごとに揚げて魚をとる。この網は3重網になって、外がわ2枚は大きい目で、中央が細目で袋の役目をする。漁期5月〜11月。ヤスミ(マイオ)網とクチゾコ網とがある。
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あさゲンシキ(川ゲンシキ)網漁
この網は大きな魚を獲るため、破れぬように強い麻糸の網で作り、アソウゲンシキという人もある。 波の少ないところ、犬井道の牡蠣ギイ(篊)の辺りから、筑後川を流す。ススキ、ヤスミなどを捕る。これをやる人は少なく数隻であった。今から5〜60年以前まであった。
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エツ網漁
日本で、筑後川だけにいるカタクチイワシ科のエツをとる。芦の葉に似た伝説の魚で、その稀少価値もあり、筑後川名物として賞味される。 この網はサシ(刺し)網を幕状にして、流れに直角に網を下ろし、両端に浮標をつけて流す。エツは網目にささる。水の澄む小潮の夜は燈火を灯して「夜流し」した。漁期は5月上旬から8月下旬で、規則により知事の許可を受けなければ操業してはならない。 戦前はエツの稚魚を2艘の船で、巾着網の小型の小繰網漁で操業した。 エツを追い込むために、舳先で厚板をトンコ、トンコと叩いていく風景が初秋の筑後川河口の風物詩であったが、今は見られない。