はじ(竹はじ、竹羽瀬、高羽瀬)漁

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はじ(竹はじ、竹羽瀬、高羽瀬)漁

■所在地佐賀市諸富町
■登録ID1571

干潮のときも、干潟の出ない沖合に、竹はじを潮流の方向に、漏斗状に立て、そのオロ(口)のところに網をとりつける恒久的な定置網である。
双方に広がる竹はじの長さ2〜300メートルで、竹は一束、2〜4本結びの長いものの1,000束ぐらいを、間隔平均60cmに立てる。網をつける付近は、とくに隙間がないようにする。
網の口幅は3.6mほど、奥行は8m余りで先端は後の杭にくくりつけてある。
潮流は1日に2回干満を繰り返すので、潮を見て魚を捕りにいく。網が上下2段にとりつけてあって、下をハジアミといい、上をテイアミと呼ばれる。網の口には舌がついていて、獲物は杭に結んである網の先端の紐を解いて取り出す。
夜の海に獲物を捕りに行くとき、夜光虫が眩しいばかりに輝いて、とても美しかったといわれる。
下網にはイカゴ、エビ、サヨリなどの小型のものが、上の網は目が大きく大型の魚が入る。
この立ち並んだハジ竹の中に入り込んだ魚類は、竹の近くへ来ると、早い潮流にあたって唸りをたてているから、音に驚き、中央の方へ移るため、竹の隙間から、外へ逃げることは余りない。
搦では「竹ハジにオロを三つ作るな」という言葉がある。網を取り付けるところをオロというが、三つ付けるような隙間はつくるなという。それは念入りに立てないと、潮流の激しい時には竹ハジに隙間ができ易いからである。
竹ハジは資材に多くの資本が必要で、利益があがらないと損だから、諸富町でも権利を貸したり、また始めたりしたものである。
明治25年ごろ竹ハジが不振で、柳川の人に貸して、利益をあげているのを見てまた始めた。
明治30年代に権利が漁業組合に移り、入札するようになった。明治の終りに福岡県山門郡の人に権利を貸したが、昭和10年頃とり戻し、組合員の競争入札でやるようになった。
大正年間に佐賀、長崎、福岡、熊本の4県の水産関係の技師が、ハジ網にアユゴが入りアユの繁殖上に害があるから、ハジ網の禁止を決議して通達してきた。
町ではハジ関係者に呼びかけ、その取り消しを陳情し、その通達を撤回させた。
戦時中、ハジ網は絶えた。終戦後、4名が始めたが、いまは絶えている。
それは、資材の大竹が、筑後川を筏流しで下ってきて比較的、安く入手出来たが、夜明ダムが設けられて、それも出来なくなったし、魚獲高も少なく、流し網におされて減少し、海苔養殖普及、隆盛と共に消えていった。

出典:諸富町史P.1085