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[民俗・芸能][祭り][三瀬村]は8件登録されています。
民俗・芸能 祭り 三瀬村
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厄神祭(やくじんまつり)
旧暦1月15日に行なわれるが、新暦では2月のうちにはいる。 医学の発達していなかった古い時代には、疱瘡や風邪その他もろもろの流行病は、人知では防ぐことのできない病気で、人々の生命をおびやかすものとして非常に恐れられた。このような悪疫の原因は、悪病をはやらせる力をもつ神のしわざであると信じ、その神を疫神あるいは疫病神とよんだ。この疫病神が分散活動して村々を襲い、悪疫をはやらせるとして、その活動を鎮めるために特定の場所に疫神を鎮座させて、毎年祭りを行なうようになった。疫神は花の散るとともに分散して活動をはじめるという思想から、毎年花の散る前に疫神祭が行なわれた。 村内では中鶴に厄神をまつってある。祠の扉の表面には「厄神」と刻まれ、扉の内側には寛文癸丑13年(1673)の字がかすかにのこっている。 一般には疫神と厄神を同義語としてとりあつかっているようであるが、祭りの内容からみて、ここの厄神は疫病神とは違うようである。社殿もなく石祠だけ建てられていて、扉の中をのぞけば蓮台に座して合掌した仏体を刻んである。祭りは神式で行なうが、御神体は仏の姿である。したがって祭神は悪疫をはやらせる疫病神ではなく、そのような災厄をもたらす鬼を退治してくれる神様として祀られているようである。 毎年旧暦1月15日に神官を招いて祭りを執行する。祭主は地区内の各茶講内が交代で受持ち、祭田の耕作から祭の準備その他一切の世話をする。祭費は祭田の収益でまかなう。めずらしい祭りであるので詳細に述べてみよう。 祭具は榊(お祓い用,玉串用)・しめ縄2本・的引縄3本・弓矢・大的・藁製の小的・槍などで、前日までに祭主の茶講内で準備する。 しめ縄は祠の前とまわりに張るためのものである。大的は鬼退治用のもので直径2m以上の大きなものである。骨組は真竹を割って作った長い竹ひごを、特殊な編み方で円形に組みあげたもので、各戸から集めた新聞紙やハトロン紙をその両面から幾重にも貼り合わせて大的に仕上げる。表面に的輪を描き中央に鬼の面をとりつける。 鬼の面は槍で突けばすぐ落ちるようにとりつけなければならない。 裏面の中央には鬼の字を書いておく。昔は鬼面はなく、鬼の字を紙に書いて表面の中央に貼ったが、鬼面をとりつけるようになってから、鬼という字を裏面に書くようになったという。 的輪や鬼の字をかくための黒汁は鍋釜についた黒い煤でつくり、筆は藁の穂先で作ったものを使うことになっている。 大的をとりつける支柱と枠は、厄神の祠の前方3、40m離れた段々田畑の上に、前日までに立てておく。立てようとすれば折れ曲る大的を、的引縄でつりあげて簡単にとりつけられるように工夫してある。 弓は常緑樹で作り、弦には麻ひもを張る。矢は篠竹で作り、紙の羽根を神官が器用にとりつけてくれる。弓と矢の大きさは弓道に使用される弓矢と同じくらいに作る。 槍は2mくらいのものであるが、材料は必ずダラの木を使用することになっている。 お祓い用の榊と玉串は神官が作ってくれる。 お供えは、魚・野菜・御神酒・しとぎ(生米を水に漬けて搗きくだいたもの・しとぎにそえる大豆、輸切大根、塩・ごぼうぬた(短冊牛蒡のみそあえで、とうがらしをきかしてある)・めざし、などで茶講内の婦人が総出で作ってくれる。 祭りの当日は祭場に婦人が参列してはいけない。お祓いと祝詞の儀がすむと、的引きがはじまる。 3人の若者が大的のふち3カ所にとりつけた的引縄をとって、大的が地につかないように空に浮かせて段々田畑を駆け登り、的枠にとりつける。 とりつけが終わると神官の従者(祭主)が弓と3本の矢をとって先導し、神官はダラの木の槍を持ってつづく。大的の前まで進みでてから、鬼のようすを回毎にうかがいながら、右回り3回、左回りに3回まわって、従者(祭主)が大的をめがけて左・右・中央の三カ所に矢を射込むと、すかさず神官が槍で鬼を突き落して最後のとどめをさす。 これが終わると祭場にもどり、玉串奉典の儀に移る。参詣者の礼拝が済んだ後、儀式をとじる。このあと全員御神酒としとぎをいただき直会の宴に移る。 以上のように、ここの厄神祭りは、疫病神を送り出したり、祠に封じ込んだりする行事ではなく、災厄をもたらす鬼神を退治したのち、玉串を捧げて厄よけを祈る形式をとっている。しかも、祭神は痩せこけた疫病神の姿ではなく仏の姿であるところをみると、中鶴厄神は疫病神ではなく、厄よけの神仏として祀られたもので、地区民の信仰も厚く、その年の災厄を除いていただくために、年毎にこの厄神祭りが営まれてきたのであろう。 古老の話によれば、昔から日本三厄神の一つであるといい、権威ある神として地区の人々に畏敬され、この神に無礼をはたらくと神罰を被むると伝えられた。事実、石祠のそばにある木を売ってくれと強く相談したばかりに、神罰を受けて変死した人もあったとのことである。 この祭りには、井手野、柳瀬両地区からも代表者が参拝し、御神酒を神前に供える慣行になっている。
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川の神祭り
地区によっては春と秋の彼岸にカワンカミマツリを行なう。 土師地区の例では、川端に4本の竹を立ててシメナワ(注連縄)を張り、川の神を迎える祭壇をつくってお祭りをする。 お供えとして、オミキ(御神酒)・シトギ(生米を水に漬けて搗いたもの)・ゴックサン(モチ米御飯で円錐形ににぎったオニギリ)・ナマス(酢のもの)・ニッケ(魚菜を煮た料理)などを、ヒョウゴザラ(藁で作った食器)にのせて供える。 祭礼の儀式がすむと、地区中がその年の祭り宿に集まって直会の宴をひらく。地区の主婦たちが心をこめてつくった沢山の御馳走を前に、賑やかに酒を汲みかわす。いわゆる神人共食のつどいである。 春の祭りには、今年中用水が過不足しないように祈り、秋の祭りは願いが叶った御礼のまつりである。川の神様は春の彼岸においでになって、農作をお護りになり、秋の彼岸にお帰りになると信じられていた。
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城まつり
新暦5月7日に宿地区住民の主催で、勝玉大明神の城まつりが行なわれる。勝玉大明神は戦国時代の名将、三瀬城主神代勝利を祀った神社である。この祭りのことを「ジョウ」と言って、古くから山内全域から参詣者が集まり、全村的に最も盛大な行事となっていた。 この地区の城山には、天文・永禄年間、神代勝利の居城があった。肥前国誌には三瀬城のことを次のように記してある。 「三瀬城は川上の北に在りて、北は北筑に界す。天文、永禄の間に神代大和守勝利の居城なり、如今城墟寂寞、山頂の廣袤凡そ三段歩ばかり、四方に高さ一間余の土手を巡らし、喬木鬱々として生い茂れり。 昔は堅固なる城楼高く天にそびえしならんも、何時しか其の形を滅して見るべきものなし。中央に一小石祠あり。其の扉を開けば勝玉大明神の金銘燦として輝くを見る。蓋し神代氏の霊を祭れる所なり。其の前に一本の大樹鬱蒼として天を凌げり。 土人之をヲモノ木と称す。勝利手植の樹と言い伝う。四方を望めば、東は金立山(金山のまちがい)、西は灰原山、北は三瀬峠、南は天山脊振の山脈起伏し、実に天然の陵地にして、所謂一夫之を守れば万夫も略し難き地なり。英雄の地をトする巧なる哉…云々」 勝利は資性英邁、膽勇人にすぐれ、諸将は威服し、領民はその徳を慕ったといわれるので、後世の住民はその威徳を追憶し、郷民の誇り高き先賢として、また、村の守り神として、勝利公の霊を勝玉大明神と崇めて神社に祀り、城趾には祠をたてて文武両道の神と仰ぎ、子々孫々の繁栄を祈念したのであろう。 個人的な負担も意に介せず、古くから年々盛大な祭りを営んできたのである。 祭りの日が近づくと、各家庭はそれぞれ、その準備で忙しい。地区では前日の5月6日に、地区民を公役として召集し、勝玉神社の清掃と城道作りを行ない、作業が終わると持参の酒肴を城跡の石のコクラ(石祠)に供え、各人それぞれに祈りをこめて参拝し、御神酒をいただいてかえる。 各家庭では、来客用の御馳走つくりが大変である。来客の数も祭りが終わるまで予測するすべはない。祭りの当日は、招かれた客も、招かれざる客も、何ら区別することなく接待するのである。 山内各地から集まった参詣客は、各家々に気儘に立寄って酒食の饗応をうける。雑餉持参の必要もなく、飲み放題、食い放題で、全くの無礼講である。なかには酔漢の喧嘩まではじまることがしばしばであった。 また、宿地区には2軒の本式な旅人宿が古くからあったが、当日は何れも村内外からのお客で満員になり、三味線の音とともに大変なさわぎであった。 いまから5、60年前頃までは、宿地区の中心を通る路傍(旧道)100mの位の間には、小間物屋・玩具屋・食べ物屋・ノゾキ店(レンズを通して絵物語りを語って見せる店)など、雑多の出店が延々とたちならび、なかなかの盛況であった。 また、その間、祭りの余儀として「引き馬」の競技が行なわれた。これに参加するために近所近在から、自慢の悍馬が続々と到着した。馬の背に重荷を負わせて引きまわし、力くらべをするのである。当時最強の馬は米6俵を背につけて歩いたという。 現在では往時の面影はなく、5月7日も静かな祭りと化し、酔客もまばらである。時勢の推移とは言いながら、往時をしのべば寂寥の感を禁じ得ない。
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ベンジャーサン祭り
弁才天祭りで、5月12日・13日に、井手野柳瀬部落で行なわれる。この日は脊振山の弁才天祭りも行なわれる。 弁才天は弁舌の才を助け知恵の福を与える神、あるいは、詩歌・音楽をつかさどる女神といわれている。梵語の漢訳で美音天・妙音天・大弁功徳天・弁天などともいい、インドで古くから川・弁説・学問の神として信仰され、仏教では、その無限の弁才によって仏法をときひろめ、人間に幸福と子孫をもたらしてくれる神とされている。 俗に弁財天と書かれるのは、この神が財宝をもたらすと解釈されたからだといわれる。農耕の民としては、やはり川の神様として、田植え時の水が豊富であるようにお祭りしたものと考えられる。形像には八臂(八本の腕)で弓・杵(しょ)などの法器を持ったものと、二臂で琵琶をひくものとがある。七福神の一つになったのは江戸時代からといわれる。 井手野・柳瀬地区の弁才天祭りは、部落中心の祭りで、全村的には脊振弁才天に詣でる人が多い。
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地蔵祭り
地蔵様は仏教にいう菩薩の1つで、わが国では観音様とならんで民間に根強く信仰されている。仏教では、釈迦の涅槃の後弥勒の登場までの、無仏の世界を救ったと説かれている。六道(天上・人間・修羅・地獄・餓鬼・畜生)のいずれにも現われるということから六地蔵の考えもうまれた。とりわけ地獄では亡者にかわって苦しみを受けてくれるという。この世とあの世との境にあって、冥途におもむく者を救ってくれるという面がひろく受け入れられた。 地蔵が人々の苦しみを救ってくれるという信仰は、地蔵に現世の利益を求める風潮をうみだした。とげぬき地蔵・夜泣き地蔵・延命地蔵など、祈願の内容に応じた名を持つ地蔵が非常に多い。 三瀬村でもあちこちに六地蔵その他をまつってあるが、山中部落の脚気地蔵が最も有名である。脚気という病気は、医学の発達しない時代には、原因のはっきりしない難病で、死にいたるものが多かったので、祈願に詣でる人も絶えなかったといわれている。今でも毎月24日が霊験あらたかな日として、県内外から詣でる人もあるという。 ここの地蔵祭りは毎年7月24日、山中部落の主催で行なわれる。この日は「そうめん流し」などの余儀もあり、村内外からの参詣者も多い。
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薬師祭り
本村で薬師如来を祀ってあるところは、土師のお薬師さんや谷・中園地区の薬師堂である。 薬師如来は万病を癒してくれる仏として、広く信仰されている。仏教では、薬師如来は東方の浄瑠璃世界の教主で、病苦を除いて人々を救うことを願い、12の誓いをたてたと説かれている。そのような薬師信仰は我が国にも早くから伝えられた。 ことにこの仏を念ずることによって重病人でも生きのびるというので、奈良時代には貴人の病気平癒の祈願のために、薬師の造寺造仏が行なわれ、薬師経の転読や薬師悔過の法会が営まれた。薬師信仰は民間にもひろがり、全盲の女が薬師仏に開眼を祈ったところ、その願いがかなえられたと伝えられ、今なお民間では目の病気の治癒を祈る風習が多く、各地の薬師堂にはそれにちなんだ絵馬が奉納されている。 谷・中園地区では8月8日に、サナボリをかねて薬師堂の祭事が行なわれる。祭りの夜は薬師堂で田舎芝居や映画などをみせて参詣者を接待する。各家庭ではサナボリの行事をかねて御馳走をつくり神仏に供えて来客とともに神人共食の宴をひらく。現在ではこの祭りもすたれたようである。
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くんち
古くは旧暦9月9日の祭りであった。九州地方ではおくんち祭りが盛んで、9日でない祭りまでおくんちと呼んでいる土地が多い。 9月の9日・19日・29日を3くんちといい、ナスビを食べる慣習が広いといわれる。中国では9月9日を陽の日の重なるめでたい日として重陽といった。 1桁の奇数のうちで1番多い数である九が重なるという意味で「菊の節句」と呼んで、菊酒を飲むならわしもあった。 また、くんちは「供日」と書き、稲作の豊作に報謝し、神に新穀を供える日の意味もあった。古く土俗的な考え方として、山の神が田に下り、また田の神が山に帰る日として祭るところも多かった。春祭りが田の神が下ったことに対する豊作の祈願祭で、秋祭りは田の神が山に帰る報謝祭の意味が込められている。 三瀬のくんち(供日)は秋祭の1つと考えられており、新暦10月15日に地区の氏神を祀った神社で祭事を行なうところが多い。 この日は招かれた神職(宮司)が、祝詞とお祓の儀のあとで、清めの舞として三番叟(さんばそう)を舞ったり、弓矢で的を射たりする。 神前には、御神酒・シトギ・米・魚菜などを供える。シトギというのは、米を水につけ、なまのまま搗き固めたもので、火を用いなかった古い時代の食べ物である。生の大根を薄く切ってそえ、直会のはじめに御神酒とともにいただく。調味料を加えてないので、食べるのに困るほどうまくないが、大昔の食べ物はこうであったろうと、昔をしのびながらいただく。このあと各茶講内から持ち寄った酒肴で直会(神人共食)の宴があり、儀式を終わる。 くんちは農村の子供たちにとっては、最も楽しい日で、神社の境内に出店がでることもあり、村芝居などもあった。
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大祭り
大祭りを全国的には「霜月まつり」といい、陰暦11月に行なう収穫祭である。宮中の行事としての神嘗祭や、村の鎮守でやった秋祭りも、みな同じ意味をもち、日本の祭りとして重要な祭事とされた。 村内には地区の氏神が9社あるが、祭りの日数や様式は各社によって多少異っている。 古くは収穫が終ってから、約1か月の物忌の期間を経て収穫祭をしていた。この祭りの日取りが地区によって異なるのは、土地による農事の遅速とも関係があった。 北九州全般では11月の初の丑の日に、この日のために田に残した稲株を主人自ら刈り取って家に持ち帰り、臼を祭壇として、その稲束を飾り、餅、神酒、大根などを供えて祭る。丑の日に行うので「おうしさま」などと呼んでいるが、稲を神の依代(よりしろ)と考える田の神祭りである。 三瀬村では丑の日に田の神が帰る日として、この行事を行っているところは多い。 昔は旧暦11月15日を中心に、その年の収穫を祝い神々や祖先霊に感謝する祭事として行なわれたが、いまは新暦12月15日を中心に行なうところが多い。 祭りのやり方について共通した例をあげると、地区は幾つかの「ちゃごううち」に分かれ、祭主を「ちゃごううち」廻しで受持つ。各「ちゃごううち」では、祭り宿を各家年毎に輪番に受持ち、費用は祭田の共同耕作の収益でまかなう。祭りは数日間続けられる。その間は「ちゃごううち」の家族全員が、祭り宿に集まって会食をする。 今では1日か2日で終わるところが多い。 祭主を受持つ「ちゃごううち」は、祭田の耕作、神社の掃除、祭具の準備と祭壇つくり、神饌(お供え)、神職の接待、幣饌料(玉串料)その他、祭事のすべてを担当する。 神饌としては、米・魚・野菜・御神酒のほかにシトギ(粢)を必ず供える。シトギというのは前にも述べたように、火食以前の極く原始的な食べ物である。どの地区の祭りでもこれだけは例外なく供える。 お祓と祝詞の儀式がすむと、直会がはじまり、御神酒とシトギをいただく。祝の謡曲(うたい)を長老のうたい出しに合わせて三番うたい、祭主当番の「ちゃごううち」から持参した酒肴で直会の宴をひらく。 神社での祭典が終わると、氏子は各「ちゃごううち」にひきあげる。各「ちゃごううち」の祭り宿では、餅をついたり(祭典前)、御馳走をつくって、賑やかにお祝いをする。 祭りの終わりの日には、「ツウワタシ」といって、祭り宿の譲り渡しをやる。昔はツウワタシ用の酒どくりと盃があったといわれるが、今では大きな茶碗かどんぶりに酒をつぎ、今年の宿主がこれを飲みほしてから次の年の宿主へ渡す。次の宿主はこれに酒を受けて飲みほし、宿主受諾の証として、みんなに確認してもらう。そばで見ているものは、その様子がおかしいので、手を拍って大笑いする。 ツウワタシの由来は知る人が少なく、継ぎ渡しの意味であろうとか、通(神通力)渡しの意であろうとか、あるいは年間のツウ(おできのつうや柿のつうなど、古くなったものがついたのをこの地域ではツウという。)を落して新しくする意ではないかなど、様々に考えられていたが、中鶴杠保氏が古老(氏の祖父)から伝承された話によれば、むかし、ツウガニといって蟹に毛のある大きな蟹がいたが、その蟹の甲をツウといい、このツウを盃にして酒を汲んで渡すことをツウワタシと呼んだとのことで、祭り宿を譲るときにこれを用いる風習があったというのである。 今でも蟹の甲に酒をついで飲むのをツウ酒というので、これがほんとうの由来であろう。 この大祭りは、戦前までは村びとや子どもらにとっては、ふるさとの最も楽しい行事であった。